昨日の会にご出席の先生方へ、周さんにお答えする形で、
「私」は閏土に出会って以来、筋向いの評判の美女楊おばさんをも全く眼中にしない生き方をするようになった、関心興味は銀の首飾りの小英雄に絞られる生き方をしていたのです。
ここで言っておきます。〈近代小説〉は物語の内容、ストーリーである語られた出来事を読むだけでは捉えられません。視点人物のまなざしの外部である対象人物のまなざし、パースペクティブを捉えるのです。何故、楊おばさんがあれ程怒っているのか、彼女の人格自体がただ、やけになっているから言いがかりを付けているのではありません。会った直後、彼女は「私」のことを懐かしがっています。これが踏みにじられたのです。「私」は完全にかつての美女のことを憶えていませんから。「空白の十年」とは閏土の出会いから故郷を離れるまでの間、「私」の十代は筋向いの評判の美女のことが眼中にない十代、これを仮に「空白の十年」と呼びました。城壁の外部である海辺の農民の子供、小英雄閏土とは、実は父親そっくりと化す宿命の小英雄でしかなかったのです。「私」の内面が瓦解せざるを得ないのはここに要因があります。
こうした読み方は視点人物のまなざしの枠組みを読むだけでは絶対に捉えられません。
方法論として、最低〈語り―語られる〉相関を捉え、その相関のメタレベルに立つ必要があります。「物語論」=ナラトロジーは最低必要です。一人称小説ですと、〈語り手〉は語られた物語空間に内包されています。物語に実体として登場する生身の語り手として登場しています。だから、これを相対化する〈機能としての語り手〉の位相を必要とするのです。これが欠如すると、視点人物のまなざしの物語りになり、ドラマ・劇が消えます。ここには視点人物と対象人物の間に見えない、すれ違いの劇が隠されているのです。これが残念ながら、現在、国語教育界や中国でも、読まれていません。今回、指導書をざっとですが見て、悲憤慷慨せざるを・・・いや、もっと正直に言うと、予想通りでした。
周さんの「認識ののレベルではなく、存在のレベルで語り出した」という指摘は不適当、手に入れたばかりのマルクス・ガブリエルの「新しい実在論」を、ここに張り付ける言い方になっています。
この小説が「奇跡の名作」たる所以は望月さんのご質問でお応えしています。周さんの「三」の質問はその通りです。パラレルワールド・「不思議な画面」を背景にした閏土は謂わばもう一つのデクノボーである閏土の矛盾の結晶、これが消えることが相対主義の最後の底を浚う秘密の鍵です。
望月さんに言ったことを繰り返します。鉄の部屋の鍵は内側にあり、外からしか開きません。
「私」は閏土に出会って以来、筋向いの評判の美女楊おばさんをも全く眼中にしない生き方をするようになった、関心興味は銀の首飾りの小英雄に絞られる生き方をしていたのです。
ここで言っておきます。〈近代小説〉は物語の内容、ストーリーである語られた出来事を読むだけでは捉えられません。視点人物のまなざしの外部である対象人物のまなざし、パースペクティブを捉えるのです。何故、楊おばさんがあれ程怒っているのか、彼女の人格自体がただ、やけになっているから言いがかりを付けているのではありません。会った直後、彼女は「私」のことを懐かしがっています。これが踏みにじられたのです。「私」は完全にかつての美女のことを憶えていませんから。「空白の十年」とは閏土の出会いから故郷を離れるまでの間、「私」の十代は筋向いの評判の美女のことが眼中にない十代、これを仮に「空白の十年」と呼びました。城壁の外部である海辺の農民の子供、小英雄閏土とは、実は父親そっくりと化す宿命の小英雄でしかなかったのです。「私」の内面が瓦解せざるを得ないのはここに要因があります。
こうした読み方は視点人物のまなざしの枠組みを読むだけでは絶対に捉えられません。
方法論として、最低〈語り―語られる〉相関を捉え、その相関のメタレベルに立つ必要があります。「物語論」=ナラトロジーは最低必要です。一人称小説ですと、〈語り手〉は語られた物語空間に内包されています。物語に実体として登場する生身の語り手として登場しています。だから、これを相対化する〈機能としての語り手〉の位相を必要とするのです。これが欠如すると、視点人物のまなざしの物語りになり、ドラマ・劇が消えます。ここには視点人物と対象人物の間に見えない、すれ違いの劇が隠されているのです。これが残念ながら、現在、国語教育界や中国でも、読まれていません。今回、指導書をざっとですが見て、悲憤慷慨せざるを・・・いや、もっと正直に言うと、予想通りでした。
周さんの「認識ののレベルではなく、存在のレベルで語り出した」という指摘は不適当、手に入れたばかりのマルクス・ガブリエルの「新しい実在論」を、ここに張り付ける言い方になっています。
この小説が「奇跡の名作」たる所以は望月さんのご質問でお応えしています。周さんの「三」の質問はその通りです。パラレルワールド・「不思議な画面」を背景にした閏土は謂わばもう一つのデクノボーである閏土の矛盾の結晶、これが消えることが相対主義の最後の底を浚う秘密の鍵です。
望月さんに言ったことを繰り返します。鉄の部屋の鍵は内側にあり、外からしか開きません。
「私」が閏土と「一つ心」でいたいがために、「無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活」をしてきたこと(=革命運動の担い手として過ごしてきたこと)、その間、銀の首飾りをした閏土がずっと「私」の中に鮮やかにいたこと、それゆえの再会の時の衝撃の大きさ…、「故郷」という作品の魅力に陶酔した時間でした。
「私」の語る出来事をメタレベルで捉えることで見えてくる、視点人物と対象人物のすれ違い。
「私」という人物はあまりにも純粋=社会生活上は未成熟=透徹した相対主義者=希望も絶望もアプリオリにあるのではないことを認識している…
読み手がこれらを自身の中に立ち上げ、それと向き合うことが、「読み」の出発点になるのかと思いました。
実は、私は既に田中先生から何度も何度も、「故郷」のお話を聞きましたが、先日の韮崎でのご講義を聞いて、自分が分かっているつもりのことは実は全然分かっていないと再び感じさせられました。
以下は、私が今まで分からなかったことと現段階の理解を書かせていただきます。
①「故郷」の不条理について
「故郷」の語り手は相対主義者ですが、昼にして夜という不条理の情景を頭に浮かび、語りました。
私の前回の質問では、その不条理の情景は語り手の頭に浮かんだイメージですから、その不条理は認識のレベルにとどまっていると考えました。
先日の田中先生のお話を聞いて、今はこのように理解しています。
不条理はもともと認識によるものでず。「故郷」の語り手がパラレルワールドになる情景を二度頭に浮かび、〈語り手を超えるもの〉はその不条理の情景をそのまま認める形に作品がなっています。
最後の情景に閏土が消え、語り手は自ら「相対主義の最後の底を浚い」、相対主義を超えていきます。
このことは希望の論理に繋がり、希望の論理のところで、語り手と〈語り手を超えるもの〉が重なります。
このように理解してよろしいでしょうか。
②〈語り手を超えるもの〉の必要性について
私の今までの理解では、「故郷」の語り手は相対主義の極致に至るような存在だから、更に〈語り手を超えるもの〉によって相対化される意味はそれほどないのではないかと考えました。
田中先生がブログを読めば分かるように、視点人物が捉ええた世界に留まると、〈近代小説〉の客観描写が成立しません。
③「鉄の部屋」が壊れる原理
私の今までに考えでは、「鉄の部屋」が壊れるためには、民衆たち全員が「故郷」の語り手のように、相対主義の極致に至り、更に、相対主義の「最後の底を浚い」、相対主義を超えていく必要があると理解していました。
先日の田中先生のお話しを聞いて、まったくそうではないことが分かりました。
民衆に期待されるのは、ただ願いを持って、「道」を歩くことです。
自分を瓦解させても、最終的に「鉄の部屋」の「扉は外から開きます」。
田中先生、「鉄の部屋」が壊れる原理について、私の言葉がたりませんが、先生からもう一度、何故民衆には自己瓦解を要求しないかを教えていただけますか。
宜しくお願い致します。