〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

周さんからの『羅生門』についての質問(更新しました)

2018-11-01 15:37:14 | 日記
周非さんから『羅生門』に関して質問がコメント欄に寄せられましたので、
こちらで回答します。


『羅生門』に関する質問

 先生が『第三項理論が拓く文学研究/文学教育』(明治図書)に書かれた『羅生門』論にをお読みしました。とても勉強になりました。
 『羅生門』は「認識の闇」を認識の問題として語っているが、それを克服する表現ができなかったんですね。ここが私の中に一番響いたんです。
 更にその理由をもう少し確認させていただきたいと思います。
 それは、〈語り手〉が自ら捉えたものを相対化してはいるが、対象人物の老婆の内なる遠近法が描き切れていないためでしょうか。
 この質問と関係したもう一つの質問があります。
 先生のブログでは、「「カルネアデスの板」のような殺すか、殺されるかの命に係わる決定的な出来事への飛躍に向き合うのでなく、『羅生門』はスタティック、死肉を啄む鴉の世界の延長、死者の髪の毛を抜く行為を問題化し、『范の犯罪』の如き、「カルネアデスの板」との相克は起こりません。」と書かれています。
 『羅生門』においては、もし、老婆の内なる遠近法が描き切ることができたならば、老婆の置かれた状況がスタティックな世界であっても、多次元世界が現れてくるのではないでしょうか。
 教えていただければと思います。よろしくお願い致します。

 

以下は私の回答です。

まず第一の件と第二の件は関係しています。
 認識の闇を克服できなかったのは、「カルネアデスの板」が『羅生門』には語られなかったです。
 まだ周さんには『羅生門』が捉えられていません。これだけでは解りにくいですね。もう少し述べ、更新しておきます。
「作者」を自称するこの〈語り手〉は老婆の遠近法を描き切れなかったわけではサラサラありません。老婆のそれは猿や鶏、鴉、蟇蛙らの類の生き物たちのアナロジーとして語られています。だから、そこには人間の「遠近法」はないのです。老婆のまなざし・「遠近法」を〈語り手〉は猿の親が猿の子の虱をとる行為に重ねています。こうしたことは面皰の吹き出ているこの若者には全く見えないのです。
 「下人」は自分のまなざし・パースペクティブをこの老婆の言葉の表層に当てはめて、自分のあらかじめ持っていた観念をそこになぞって、自身の観念の枠組みに組み込まれているのです。「老婆の内なる遠近法が云々」とは、周さんがこの高等学校の教材の読み方について、もう一度、改めてお考えになる必要があります。もう一度ご質問下さい。
 あとは自分でしっかり考えてみましょう。

 因みに、言っておきます。
 『羅生門』のいわゆる定説と呼ばれている読み方は、「下人が強盗になって解放される物語」という読み方ですよね。この読み方は『羅生門』の〈ことばの仕組み〉、〈仕掛け〉を完璧に読み落とした主人公主義の読み方です。現在の高校の国語科では強盗して主人公が救われる話として読んでいます。こうした読み方をしている日本の高等学校の国語教育が許され、認められるはずはない、百害あって一利なしと私は考えています。
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「舞姫」に関する質問 (渡邉皆仁)
2018-11-01 20:01:07
田中先生

「舞姫」について質問したいです。
先生は、先日の全国大学国語教育学会での講演の際に「舞姫」について、
語り手「太田」の語りの外に、「太田」のまなざしを超えた「エリス」「相沢」「天方」らが存在しており、これを「機能としての語り手」が語っているという旨の話をされていたと思います。

この語り手「太田」の世界の外部に、他者がいて、他者の物語があるという感覚あるいは確信を、先生がどのように得ているのか。
これについて、教えてください。
よろしくお願いします。

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「羅生門」とあの図の相関について (周非)
2018-11-02 08:16:52
先生、ご返事ありがとうございます。「羅生門」の下人と老婆のパースペクティブがそれぞれ書かれていることは分かりました。
私がその質問をしたのは、「日本文学」2018年8月号の先生のご論に書かれた図と合わせて考える時に、なぜ下人と老婆のパースペクティブがそれぞれ書かれているにもかかわらず、「羅生門」には「地下二階」が現れていないか、そこがまだよく分かりません。繰り返し先生のご論を読ませていただきます。
返信する
全国大学のラウンドテーブルについて (山中勇夫)
2018-11-02 22:47:36
田中先生 

先日の全国大学国語教育学会のラウンドテーブル、大変お世話になりました。
若い研究者たちが、新鮮な目で参加していたことが印象的でした。

私自身にも新たな発見と、整理と、疑問がありました。
①まず、難波さんが「プレモダン」という言葉を使って、モダンを相対化させていたこと、得心がいきました。

②「地下二階」について、その現出の仕方が作品によって、異なると思ったので、次のような整理を試みました。

・舞姫……豊太郎の地下一階を語り手が囲みこむために、地下二階を措定。
・海辺のカフカ、遠野物語、1984、うたかたの記……地下二階(不条理)が、目の前に現出する。
・アイロンのある風景……地下二階から客観的現実を囲い込もうとする男が描かれている。

仮にこのように整理するならば、地下二階の現出の仕方は、それぞれに異なることが指摘できます。上記のような整理を施すことで、第三項理論の説明がより分かりやすくなるのではないかと思われました。8月号で田中先生も作品ごとに述べられていると思われます。

③機能としての語り手について
機能としての語り手は、「語り得ぬものを語る。」
その際、「語らない」ことで「語っている」。
改めて、ここが肝なのではと思われました。
言葉にして語ってしまうと、条理の概念に回収されてしまう。それゆえ「語らない」ことで「語る」。ここをいかに読むか。
そして、我々がその〈読み〉を示す際も、この『「語らない」ことで「語る」』部分を適切にとらえないと、
我々も、「語り」過ぎてしまい、作品の不条理を、条理で回収してしまいかねない危険があるのだと思いました。

『「語らない」ことで「語る」』ところを、いかにして説明するか、自分の読みで、この挑戦をしなければと、
例えば、これまでに取り組んできた「おにたのぼうし」や「白いぼうし」で再挑戦しなければと思いました。

以上、当日のメモを基に、整理の曖昧なものを、あいまいなままに露出しています。
大変恐縮ですが、一度、露出しなければならないと思っていたことです。
もっと勉強したいと思います。
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渡邉君へ、 ()
2018-11-04 09:14:22

 遅くなりました。ごめんなさい。
 鷗外の小倉時代の事、『鶏』に関する短い論文を書いていたので、渡邉君、山中君、周さん、これから、三人の方に順にお返事します。お一人づつ。
 まず、広島大学大学院の渡邉君へ。

 生身の語り手に対してはこれを相対化する〈機能としての語り手〉が必須です。
 我々人間は出来事の中にいます。その出来事は時空間の中にあります。この中で、我々をそうさせている外部を求めて、その外部のまなざしに仮託して、そうしている主体である自分を捉えようと私はしています。
 なぜか。平たく言うと、超越者=神さまから見られているからです。自意識に過ぎないと言ってもいいかもしれません。しかし、この超越者と向き合うことが小説・物語を読むコツと考えています。ここからは永遠に逃げられませんから、しんどいですけどね。
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Unknown (周さん、山中君へ)
2018-11-04 09:28:56
・コメント
周さんの質問は質問ではなく、「地下二階」が何故現れないか、よく考えますということですから、考えて質問ください。芥川もそれがもし十全に分かれば、自殺しなくて済みました。まず、ご自分が具体的作品でよく考えてみましょう。作品論が必要です。

山中君へ
 整理なさったことはさすがですね。見事だと感服します。これから何かご質問があればお願いします。
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返信 (渡邉皆仁)
2018-11-06 08:29:44
田中先生
ご返信ありがとうございます。
「この超越者と向き合うことが小説・物語を読むコツ」ということばについて、読みながら、原文という言葉や、読むことの原理の話が頭に浮かびました。
考えてみます。
返信する
渡邉君へ ()
2018-11-06 10:30:42
はい、「超越者と向き合うこと」と言いましたが、 その「超越者」は永遠に主体であるわたくしたちには捉えられません。そこで捉えられないでいる自分自身を摑まえる・捉えることが肝心、渡邉君にはそれが出来ている、つまり、〈自己倒壊〉を進行させていらっしゃるとお見受けします。『舞姫』のなかの相関の力学の図がお書きになれる所以です。主体のこの〈自己倒壊〉・瓦解なしに主客相関のメカニズムを捉えようとすると、知的に捉え、引き受けることになり、〈知的了解〉に陥ります。私の観るところ、ほとんどの人がこの罠に陥っています。上滑りするのです。
 捉えている客体の対象の領域は常に捉えている主体の領域の、その外部です。超越者とは永遠に捉えられない〈第三項〉のこと、その別称です。

 田中のキーワード、〈わたしのなかの他者〉とは私と世界の関係の必然のカタチであり、この関係が生成されるのは、主体の捉えられない客体の領域である客体そのもの、〈第三項〉が捉えらないが故に、世界はこうなることをしっかり頭に入れておきましよう。
 捉えている自身を超えなければならない、〈自己倒壊〉を必要とする、それを果たすことで、これまでの〈わたしのなかの他者〉の外部に立つ、メタレベルに立つことが出来る、しかし、そこには新たな〈わたしのなかの他者〉が立ち現れる場、こうした永遠の力学を我々は生きる、こうした動的過程にあるには、何よりも、〈近代小説〉の仕組みの罠と格闘することです。もしくは、格闘してきた拙稿を読み込むこと、そして、このようなブログへのコメントを私・田中実ににぶっつけることです。待っています。
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複数の「現実」について (周非)
2019-01-07 09:29:39
田中先生、一つ質問させていただきたいと思います。
「藪の中」は、一つの死体に一つの傷という「現実」に対して、犯人は複数いて、皆それぞれの「現実」があります。
この場合、前者の唯一の「現実」は文化的動物的分類であり、後者の複数の「現実」は世界観上の分類だと理解してよろしいでしょうか。
村上春樹の小説では、複数の現実を語りながら、現実は常に一つであるというのも、前者の複数の現実は世界観上の分類であり、後者の一つの現実とは文化的動物的分類だと理解してよろしいでしょうか。
パラレルワールドというのは、世界観上の分類に属すると理解してよろしいでしょうか。
ご都合のいい時に教えていただければと思います。よろしくお願い致します。
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