お待たせしました。
昨日の韮崎でのお話が終わり、今日、ご質問にお答えします。
望月さんの御質問、
ある部分の解釈は全体との有機的な関連のcontextに寄りますから、部分の解釈だけを独立して競い合うのはナンセンスと私は考えています。作中の〈ことばの仕組み〉はいかなるグランドセオリーを持っているかによって、拘束されます。従って、以下の個々のご質問は全て相互に関って、力学の中にあります。
1、「私」が何者か、冒頭、「私」は己の心境に応じて対象が現れることを受け入れています。捉えられる客体の対象の出来事は主体のフィルターに応じて現れる、この当たり前のことが当人はよく分かっています。眼前の対象世界の出来事は相対的に現れることを承知しています。
紺碧の色は原文では深藍色、これをどう解釈するか、問われるところですね。ルネ・マグリットの絵の如く、昼にして夜という「不思議な場面」と解釈すると、相対主義は透徹した「底抜け」となって、文字通り「不思議な画面」が現れることを可能にします。
夜の「金色の丸い月」だと特別「不思議」ではありませんよね。作品はより優れた作品と読まれ、位置付けられることを求めています。「私」を透徹した相対主義者ともし考えてよければ、末尾の恐ろしいほどの認識のうねりが現れます。
2、「私」のイメージに閏土が消えるのは、「美しい故郷」を喪失し、相対主義の「底抜け」が徹した姿を示していると私は考えています。
3、私達は私達の「鉄の部屋」を想定すると、この話はおとぎ話ではなく、際立った、恐ろしい奇跡の名作に転換する可能性の一つを手に入れると思います。
はい、自身の世界観認識を問うことが必須と考えています。
4、「私」は己の「偶像崇拝」という観念を根こそぎはぎ取ります。とすると、もう相対主義という拠点、「心境」も失い、自己倒壊の極点に立つ。謂わば、それは希望は絶望に相等しい思考自体に留まることが出来なくなっています。自身の生のよりどころ、拠点を完璧に喪失したと考えましょう。謂わば、「底抜け」の完成と考えると、もはや、それまでの「私」の世界観認識のレベルをさらに抉り、残滓すら抉る、それを「極北」と読んでみました。カギは「私」の中にあり、扉は外から開きます。歩く人が多いかどうか。
5、「沈黙」を十全に受け入れるためには、そこに辿り着くには多大な言語、もしくは饒舌を要します。「沈黙」はその果てです。
昨日の韮崎でのお話が終わり、今日、ご質問にお答えします。
望月さんの御質問、
ある部分の解釈は全体との有機的な関連のcontextに寄りますから、部分の解釈だけを独立して競い合うのはナンセンスと私は考えています。作中の〈ことばの仕組み〉はいかなるグランドセオリーを持っているかによって、拘束されます。従って、以下の個々のご質問は全て相互に関って、力学の中にあります。
1、「私」が何者か、冒頭、「私」は己の心境に応じて対象が現れることを受け入れています。捉えられる客体の対象の出来事は主体のフィルターに応じて現れる、この当たり前のことが当人はよく分かっています。眼前の対象世界の出来事は相対的に現れることを承知しています。
紺碧の色は原文では深藍色、これをどう解釈するか、問われるところですね。ルネ・マグリットの絵の如く、昼にして夜という「不思議な場面」と解釈すると、相対主義は透徹した「底抜け」となって、文字通り「不思議な画面」が現れることを可能にします。
夜の「金色の丸い月」だと特別「不思議」ではありませんよね。作品はより優れた作品と読まれ、位置付けられることを求めています。「私」を透徹した相対主義者ともし考えてよければ、末尾の恐ろしいほどの認識のうねりが現れます。
2、「私」のイメージに閏土が消えるのは、「美しい故郷」を喪失し、相対主義の「底抜け」が徹した姿を示していると私は考えています。
3、私達は私達の「鉄の部屋」を想定すると、この話はおとぎ話ではなく、際立った、恐ろしい奇跡の名作に転換する可能性の一つを手に入れると思います。
はい、自身の世界観認識を問うことが必須と考えています。
4、「私」は己の「偶像崇拝」という観念を根こそぎはぎ取ります。とすると、もう相対主義という拠点、「心境」も失い、自己倒壊の極点に立つ。謂わば、それは希望は絶望に相等しい思考自体に留まることが出来なくなっています。自身の生のよりどころ、拠点を完璧に喪失したと考えましょう。謂わば、「底抜け」の完成と考えると、もはや、それまでの「私」の世界観認識のレベルをさらに抉り、残滓すら抉る、それを「極北」と読んでみました。カギは「私」の中にあり、扉は外から開きます。歩く人が多いかどうか。
5、「沈黙」を十全に受け入れるためには、そこに辿り着くには多大な言語、もしくは饒舌を要します。「沈黙」はその果てです。
先生の論文を拝読して、質問が二つでました。聞かせていたたきます。
一つ目は、バルトの「読み手自身のあらかじめ持っている観念・イデオロギーを文学作品の文脈を砕いた断片で駆使して開陳する」「文学の記号学」の方法は「還元不可能な複数性」に繋がっていて、「文学研究が文化研究に転向せざるを得ない」ようになってしまう所以であると読み取っておりますが、まだ十分に理解できず、その方法は現実の客観世界が普遍的にあるという「実体論」、「反映論」の方法とはかわらないではないかと、なかなか自分を納得させることができません。
もう一つは、「構造主義の名の下に時間(歴史)論を斥け、空間(構造)論で世界を捉える世界観が流通しました」という言葉の中の「空間論」はどう理解すればよろしいのでしょうか。「反映論」や「実体論」とは何かかかわりがあるでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。
成さんの御質問、二点は一つです。
ポスト構造主義になると、これまでの〈読み〉は一変します。客体の対象の文字は読み手にしか実在しないことが明らかになりました。客観的に実体として文字それ自体がは存在しないことが明らかになったのです。
読み手に「還元不可能な複数性」になって、対象の言語には辿り着かないのです。何故なら、言語は概念と聴覚映像が、文字なら、視覚映像ですが、両者の分離によって、はじめて、言語が機能するからです。この文字・エクリチュールの根源が明らかになって、文学とは何かも、明らかになっていきまい。
分離して機能する、そうであれば、言語の羅列である文章=書かれた文字・エクリチュールを読むと、その文字は客体の対象の視覚映像を媒介にして、概念を捉えることの連続が読書行為の根源であり、読み手は言語それ自体には永遠に客観的に辿り着くということはありません。
文学作品を「読む行為」には原則として正解はないのです。例えば、今、「雨が降っています。」という文章は事実としては正しく読めるのですが、その意味は読む人のその時のその人によって、違ってきます。同じ人でも、その人もその時によって異なります。感じ方、内なる世界の捉え方が微妙に異なります。文学は事実を語るのではなく、事実の意味を語る領域が文学なのです。
客体の対象の文章の存在は文学にとって、客観的実体という存在ではなく、概念と視覚映像の分離してしか存在し得ない機能を問題化せざるを得ません。客観的実体としては存在しているレベルは単に「雨が降っている」事実を受け取っただけです。これに読み手の内面が踏み込むことで、文学になります。そのためには文字の機能まで踏み込む必要があります。踏み込めば、読み手には文字・文章それ自体の存在からそもそも客観的存在ではないことが分かります。読み手はそこに辿り着くことが出来ていないのです。還元できません。物語の構造分析の流通している時代までは、それが見えていませんでした。ポスト構造主義時代でようやくこれが見えてきたのです。
バルトの言い方では読み手は辿り付ける「容認可能な複数性」にありました。ポスト構造主義になると、「還元不可能な複数性」の認識に辿り着いたのです。
機会があり、田中先生の論文を拝読させていただきました。非常に感銘を受けました。
しかし、私の理解が追いつかずに、独力では分かりかねる箇所がございましたので、この場にて質問させていただきます。
「文学の生命」と書かれていたのですが、そこが分かりませんでした。初心者にも分かるように解説していただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
「文学の生命」とは、読み手のいのちが文学作品の力に刺激され、既成概念・既成観念・既成感性の在り方が瓦解・倒壊され、読み手を新たに蘇えさせる、再生させる、そうした力学・働きのことを指しています。言わば、文学作品の力が読み手を拉致し、生きる力を再起動させる力、文学作品にはそうした可能性があり、これを「文学の生命」と呼んでいます。ご質問の主旨に沿ってお答えしているでしょうか。
「還元不可能な複数性」と「容認可能な複数性」というところなのですが、わかるようでいて言語化することができません。
説明の方をお願いしたいです。よろしくお願いいたします。
「八〇年代問題」についても詳しくわかりやすく説明していただきたいです。
それに付随して「エセ相対主義」についても解説をしていただきたいです。
よろしくお願いいたします。