土曜日の講座には、中国・台湾の方々も参加されます。そこで、申し上げておきます。
日本の近代文学研究界ではいまだ伝統的、旧来の実体論、私を育ててくれたものでもありますが、三好作品論から決別できずに、現在もその亜流に留まっています。
敬愛する批評家加藤典洋氏もこの実体論の世界観認識から抜けられず、蓮實重彦氏がその著書『小説から遠く離れて』(1989・4)で提唱していた「表層批評」には向かわず、『テクストから遠く離れて』(1994・1)というコースに戻ってしまいました。
これでは村上春樹の小説も出来事の上澄みを掬い上げるに留まります。
本講座で開講以来述べていることは、日本文学協会の機関誌『日本文学』に2013年から6年間連続して8月号に書いた「主体の構築」シリーズを基本文献にしています。
その原理・原則はいわば「シュレディンガ―の猫」です。
客体の対象そのものは未来永劫、永遠に我々人類の主体である〈私〉には捉えられない、主体と客体の相関の二元論では捉えられない、〈第三項〉を必要としている、これに尽きます。
と言って、我々の生の場はリアリズムの働くところにいます。毒キノコを食べては死んでしまいます。生命存続の場はリアリズムが必要です。
新しく参加される方々のために、いや、当初から参加されている方々には一層申し上げておかなければならないことです。〈表層批評から深層批評へ〉、これが本講座で申し上げていることです。
『木野』を読むには、肝心なところ、読者の誰もが理解できにくいなとわたくしから見て思える箇所に関して、先にここでお伝えしておきます。ここが突破できないと村上春樹の文学は相変わらず、捉えられません。こうした細部・ディテールが村上文学には散らばっています。これを全体の文脈・コンテクストと結びつけることが必要です。
その難解な箇所とは、カミタが木野に指示した言葉、伯母への絵葉書を匿名にし、メッセージを書かず、移動しながら、週二回、送り続けること、そしてカミタからもう戻ってきてよいと言われるまで、この旅を続けること、これらのキーセンテンスを本文でご確認ください。
思うことを述べるとそれは常に自己弁護、ミミクリ(擬態)になります。生物はそう生きています。人は自分に都合のいいように言ってしまいます。そうやって毎日を送っているのです。それは「正しくないこと」ではないのですが、「正しい」ことでもありません。生きるためにそう生きている、ミミクリ・擬態を取っているのです。
それでは何が起こるか、村上春樹はこれを問題にしています。もちろん、生きるためにナンデモするとか、何が悪いかと居直ることはそれぞれ勝手です。いろんなことは言えますが、ここでは村上文学を問題にしましょう。
バー「木野」を休業して、旅に出て、自身の中の蛇の両義性(性欲のもたらすものの両義性、講座でお話しします)と格闘し、これを克服すると、営業再開が可能です。猫が戻ってきます。これがカミタの木野に求める要求、指示です。ところが、木野は旅の途中の熊本で、伯母への絵葉書にメッセージと自身の名前を書き、約束を破ってしまいます。
木野は言いたいことを言えないでいることによって、自分が現実との関わりを失い、身体が透明になってしまう危機感、限界・境界状況に陥ります。
思うことを表明できず、自分を空っぽにし、空白・真空にすることは出来ないことを知り、言うべきことを言い、関わることを真に求める境地に達します。やっと、木野は自分を相対化する地平を手に入れるのです。熊本のビジネス・ホテルで心の扉を叩く音を聴き続け、新たな時空に向き合います。末尾、物語は木野が泣くところで終わります。
視点人物木野を語る〈語り手〉を捉え、作品全体の仕組みを振り返りましょう。
自分が「正しくないことをしない」のはもちろん基本です。しかし、「正しくないことをしない」だけでもない、そもそも「正しいことは出来ない」、人類は本来的に根源的に「正しいことは出来ない」のです。その意味で「原罪」から逃れられません。宗教とはかかわりなく、世界そのものは人類には捉えられません。客体の対象の外界、相手の男、あるいは女、世界それ自体は捉えられないのです。〈第三項〉です。
男にとって、女にとって、世界は・・・、土曜日ご一緒しましょう。
日本の近代文学研究界ではいまだ伝統的、旧来の実体論、私を育ててくれたものでもありますが、三好作品論から決別できずに、現在もその亜流に留まっています。
敬愛する批評家加藤典洋氏もこの実体論の世界観認識から抜けられず、蓮實重彦氏がその著書『小説から遠く離れて』(1989・4)で提唱していた「表層批評」には向かわず、『テクストから遠く離れて』(1994・1)というコースに戻ってしまいました。
これでは村上春樹の小説も出来事の上澄みを掬い上げるに留まります。
本講座で開講以来述べていることは、日本文学協会の機関誌『日本文学』に2013年から6年間連続して8月号に書いた「主体の構築」シリーズを基本文献にしています。
その原理・原則はいわば「シュレディンガ―の猫」です。
客体の対象そのものは未来永劫、永遠に我々人類の主体である〈私〉には捉えられない、主体と客体の相関の二元論では捉えられない、〈第三項〉を必要としている、これに尽きます。
と言って、我々の生の場はリアリズムの働くところにいます。毒キノコを食べては死んでしまいます。生命存続の場はリアリズムが必要です。
新しく参加される方々のために、いや、当初から参加されている方々には一層申し上げておかなければならないことです。〈表層批評から深層批評へ〉、これが本講座で申し上げていることです。
『木野』を読むには、肝心なところ、読者の誰もが理解できにくいなとわたくしから見て思える箇所に関して、先にここでお伝えしておきます。ここが突破できないと村上春樹の文学は相変わらず、捉えられません。こうした細部・ディテールが村上文学には散らばっています。これを全体の文脈・コンテクストと結びつけることが必要です。
その難解な箇所とは、カミタが木野に指示した言葉、伯母への絵葉書を匿名にし、メッセージを書かず、移動しながら、週二回、送り続けること、そしてカミタからもう戻ってきてよいと言われるまで、この旅を続けること、これらのキーセンテンスを本文でご確認ください。
思うことを述べるとそれは常に自己弁護、ミミクリ(擬態)になります。生物はそう生きています。人は自分に都合のいいように言ってしまいます。そうやって毎日を送っているのです。それは「正しくないこと」ではないのですが、「正しい」ことでもありません。生きるためにそう生きている、ミミクリ・擬態を取っているのです。
それでは何が起こるか、村上春樹はこれを問題にしています。もちろん、生きるためにナンデモするとか、何が悪いかと居直ることはそれぞれ勝手です。いろんなことは言えますが、ここでは村上文学を問題にしましょう。
バー「木野」を休業して、旅に出て、自身の中の蛇の両義性(性欲のもたらすものの両義性、講座でお話しします)と格闘し、これを克服すると、営業再開が可能です。猫が戻ってきます。これがカミタの木野に求める要求、指示です。ところが、木野は旅の途中の熊本で、伯母への絵葉書にメッセージと自身の名前を書き、約束を破ってしまいます。
木野は言いたいことを言えないでいることによって、自分が現実との関わりを失い、身体が透明になってしまう危機感、限界・境界状況に陥ります。
思うことを表明できず、自分を空っぽにし、空白・真空にすることは出来ないことを知り、言うべきことを言い、関わることを真に求める境地に達します。やっと、木野は自分を相対化する地平を手に入れるのです。熊本のビジネス・ホテルで心の扉を叩く音を聴き続け、新たな時空に向き合います。末尾、物語は木野が泣くところで終わります。
視点人物木野を語る〈語り手〉を捉え、作品全体の仕組みを振り返りましょう。
自分が「正しくないことをしない」のはもちろん基本です。しかし、「正しくないことをしない」だけでもない、そもそも「正しいことは出来ない」、人類は本来的に根源的に「正しいことは出来ない」のです。その意味で「原罪」から逃れられません。宗教とはかかわりなく、世界そのものは人類には捉えられません。客体の対象の外界、相手の男、あるいは女、世界それ自体は捉えられないのです。〈第三項〉です。
男にとって、女にとって、世界は・・・、土曜日ご一緒しましょう。