明日の講座は魯迅の「『藤野先生』再論 ―『狂人日記』を踏まえて―」
と題しましたが、芥川龍之介の『羅生門』や『白』についても話をします、
と前の記事でも書きました。
それについて補足をしておきます。
魯迅の『藤野先生』と芥川の『羅生門』や『白』とは一見無関係のように見えますが、
文学の根底を問題にすると、メタプロットで繫がっています。
すなわち、通常、小説はストーリーを読み、プロットを捉えますが、
それを支えるメタプロットまで読み込むと、近代的リアリズムを超える
近代小説の神髄の問題が浮上してくるのです。
メタプロットを読み込むと、哲学や宗教あるいは最先端の科学、
そうしたことも視野に入ってきて、ポストモダンの問題に突き当たります。
これを乗り越えて、ポスト・ポストモダンを拓きたいと
『小説の力―新しい作品論のために』から考えて来ました。
明日もそうした話になります。
と題しましたが、芥川龍之介の『羅生門』や『白』についても話をします、
と前の記事でも書きました。
それについて補足をしておきます。
魯迅の『藤野先生』と芥川の『羅生門』や『白』とは一見無関係のように見えますが、
文学の根底を問題にすると、メタプロットで繫がっています。
すなわち、通常、小説はストーリーを読み、プロットを捉えますが、
それを支えるメタプロットまで読み込むと、近代的リアリズムを超える
近代小説の神髄の問題が浮上してくるのです。
メタプロットを読み込むと、哲学や宗教あるいは最先端の科学、
そうしたことも視野に入ってきて、ポストモダンの問題に突き当たります。
これを乗り越えて、ポスト・ポストモダンを拓きたいと
『小説の力―新しい作品論のために』から考えて来ました。
明日もそうした話になります。