詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

記憶よどこまでも。

2018年10月27日 | メモ
昨夜は、あることを順番に考えていった結果、「自分を信じる」ということについて、そうか、そういうことか、と分かった気がしていたけれど。

あとで考えてみたら、それは誰かの受け売りだったと気が付いた。

『失われた時を求めて』にもよくその話が出てくる。人が言ったことをあたかも自分の考えのように言う。素敵なサン・ルーとかが、特にね。

きっと誰かの話を聞くか読むかして、なるほど、そうかもしれない、と思い、自分にとってとてもためになる言葉であるから、軽く薄く簡単に記憶から剥がれて飛んでいってしまうことなく、ゆっくりと沈んでいって、いつのまにか咀嚼され消化されて、まるで自分で考えたかのように錯覚するほどに、私の身になったのだ。

本当はもうひとつ?昨日ひらめいた仮想の敵について書きたかったのだけれど、それはやっぱり秘密にしておこう。とてもおもしろいことなのだけど、たぶんそれは私にとってだけだろうし(いつもそういうことしか書いてないくせに!)、変なふうに思われてもやだな、と思って。いまさら。

それに、これから書く詩にそのひらめきが効果を発したとして、あ、あれのせいか、と思われたら、恥ずかしいじゃない!!
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自分を信じる

2018年10月27日 | メモ
自分を信じるというのは、自分が正しいと信じる、ということではないのだな。
自分は強い、とか、自分には能力がある、とか
そういうことではないのだろうな。

自分は自分自身でなんとかやっていけると思える、ということなのだろうな。

自分からはみ出すことなどそもそもできないのだけれど、
自分の中にすっぽり収まって、なんとかかんとかやっていける、という気持ち。

本を考えれば。

文学にできること。
それは、世界の中に、自分のための自分だけのポケットをつくれるようになる、ということなのではないかな。

本は私が読み続ける限り、応えてくれる。
いつでも応えてくれる。
そして私は考える。
私の中で考え続ける。

だから、そのように、自分を信じることができるほど充分に、自分を育てる前に、外からの攻撃を受けてしまう人は悲劇だ。でもそんなことはいろんな場所で起きていることなのだろう。

ああ、でも、自分で自分自身でなんとかやっていける、という気持ちさえ、うっかりするとぐらつきそう。

弱っ。私。

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2018年09月14日 | メモ
何度も聞いた思い出話だったけれど、それだって、一度きりの出来事だったんだ。

なにもかも一度きりのことばかり。いっしょに過ごせる時間はたくさんあると思っているけれど、たくさんの思い出も、ひとつひとつが、すべて一度きりの経験だった。

ありふれていることは切実でない、なんてことはないのだろう。

それなのに自分自身が、むしろあたりまえのこととして、剥がれていく網膜の一部を簡単に切り捨てようとしてしまう。見えていた景色を簡単にあきらめてしまう。

忘れないで、強く深く、もう一度思い出すことで、世界の膜の上に新たな像が結ばれる。この時のために、あの人はいたのかと思いそうになるほどの。
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JR

2018年08月19日 | メモ
山の手線に乗っていて、ふと顔をあげたら、向かいの電子車内広告に


わたしの月には華がある


と出ていた。

あれ?なんだろう。
ちょっとおもしろい、と思った。

おもしろいと思うとき、自分の中の何かが、ぐぐっと動かされる感触がある。

その何かとは、「言葉とは、こうきたら、こう続くはず」という自分の中の教科書的な感覚。というか思い込み?

大きく、ぐーっと動かれる、というよりも、重たい石(わたしの感覚)が、ぎゅっとした力で、ほんの少しだけ動かされるような感触。

それが微妙にずらされた上に、新しい世界がちらり、と見えたりすると、あ、いいな!と思う。

これが、たとえば新感覚の言葉だらけ、であろう詩集の中の一文だったなら、私はむしろ何も感じられなかったかもしれない。

そんな言葉に出会うとも思っていない当たり前の日常生活の中で、ふいに現れたものだから、
おやっ、きらっ、どきっ、としたのだと思う。


ほんとうは

「わたしの肌には華がある」

というコピーだった。

「肌」という漢字のつくりの部分が、つり革で見えなかったのだ。
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ダララララからタララララへ

2018年02月28日 | メモ
先ほどから目の前を人が走っていく。
私は携帯を見ているので、姿は見えない。
けれど右のほうから歩いてきた人が、なぜか私の前方10メートルあたりのところへ来るとシャカシャカシャカと突然走り始める音がする。
なぜだろうなぜだろう。

私はコーヒーを飲んでいる。暗がりで。
するとそれに気付いたおじさんがそっと電気をつけてくれる。

私は意気消沈している。
空はとても青いのに。
どうやって元気って出すんだっけ。
と思っている。
何があったわけでもないけれど、インフルエンザにかかって、気持ちを緩めたら緩めすぎてしまったらしい。もとに戻れなくなってしまった。

『失われた時を求めて』が同じことをダラダラ書きすぎていて読んでてイライラしてきた。

今日乗ってきた電車で高校生くらいのスタイル抜群の男の子が、左手をポケットに入れて立っている姿がとんでもなく様になっている。この子は以前もすぐ前に立っていた。顔を見たいけど、おばちゃんに見られると気持ち悪いだろうと思って見ない。芸能人になれそう。お金持ちのお坊ちゃんかな。

詩を書こうと思うけど、詩ではなく意味になってしまう。意味になる前の言葉を書くには時間がなさすぎる、と、思うのは大間違い?

意味を結ばないイメージを結ぶ。

びっくり!がほしい。
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