詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

寄り道注意

2022年10月30日 | 日々学び(読書含む)
『日々学び』カテゴリの記事を書こうと、あるイベントが、いつあったかを調べるために日記をひっくり返していたら、読み耽ってしまった。

一生懸命書いてる詩より、日記のほうが良い文章になるのはなぜなのか……。
(あくまで自分感覚)

そして、ようやくイベントの箇所を見つけたけれど、ここから書くのでいいのか?など思い始めたら、頭に靄がかかって、さらに日記に読み耽ってしまう。

寄り道ばかりの人生だ……。
そしてこの『日々学び』カテゴリも、さらなる寄り道、というか迷宮を生み出しているとしか思えない。まだなぜこのカテゴリを作ったか、の記事しか書いてないのに。
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日々学び(読書含む)

2022年10月22日 | 日々学び(読書含む)
いましている行動は、いまの瞬間だけで見ると、たとえば、ただある本を読んでいるだけ、になる。

でも実は、いまこの本を手に取っているのには、自分自身も忘れそうになっている、きっかけの連鎖の結果だということをふいに思った。

それらを振り返ることができるようにしたら、その時々で考えていたことを俯瞰して、全体として、こういうことかと、また新たな学びにつなげられるのではないかと思った。

そこで、新しく「日々学び(読書含む)」カテゴリを作ることにしました。

結局、何のために、何を目指して、学んでいるかがあいまいなまま、というのが、私の残念なところではあるのだけれど。

毎度ながら、自分のために書いているような記事ばかりであきれてしまいますが。どんなことでもいいので、記事の中で、何かに、興味を持ってもらえたなら、うれしいです。






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ブラームス 3つの間奏曲 Op.117-2

2022年10月14日 | ピアノ
いつまでも同じ曲にこだわるので、ピアノの先生に、「いいかげん次の曲に進んだら?人生であと何曲弾けると思うの?」と聞かれてハッとしたのに、やっぱり延々同じ曲を練習してしまう。

そんなに弾いているなら、どれほど上手くなっているか、と思われるかもしれませんが、ちょっとずつをダラダラ続けているので、なかなか上手にならない→延々と練習し続ける、という悪循環。いや、好循環?

そのようなわけで、もしかしてもう、3年も経つ!?2019年に発表会で弾いたブラームスのインテルメッツォOp.117-2を延々練習しているのでした。

この曲は本当に味わい深い美しい曲で、いつかピティナのステップで弾いて、いったん卒業しようと思いました。ピティナのステップは、誰でも申し込めば、ピアノの先生数名に演奏を聴いてもらって講評を頂くことができます。でも、いきなりこの曲を弾いてしまうのはもったいない。その前に練習として、人生初めて挑戦するステップでは、同じくブラームスの6つの小品のうちの一曲Op.118-2にすることにした、という、私らしい遠回りでもったいぶるくらい、好きなのでした。もちろん、Op.118-2も本当に素敵な曲で、もともとはこちらのほうをピアノの先生に薦められて弾き始めて、こんな美しい曲があるんだ!?と驚き、グレン・グールドのCDを購入して、さらに虜になって、同じアルバムに収められていたOp.117にも恋した、という経緯があります。

グレン・グールドの演奏は、音楽が終わった後に、ふと、誰かが話しているのを聴いていたような気持ちになっているのが不思議です。音も、間さえも、その役割の意味をひとつとして疎かにすることなく慈しんで弾いているのが感じられます。ひとつひとつの音が生きている!そしてなお、いや、だからこそ、一曲としてこんなにも自然に聞える。

そして、私はひとつ、ピアノの弾き方のヒントを得ました。語りかけるように弾いてはどうだろうかと。よく、歌うように弾くように言われるけれど、なかなか難しい。語りかけるように弾く、とイメージするほうが手が自然に動く気がする。

そんなふうに考えていて、素晴らしい作品は他のジャンルに例えられると気がつきました。絵が語ってきたり、音楽を感じる言葉だったり、詩のような一曲だったり。それはつまり、手段よりももっと先の、表現したいイメージがしっかりと捉えられている、ということなのではないでしょうか。

そう考えてくると、人生さえももしかしたら手段で、その先のイメージを持つことができるのだ、とも言えます。もしかしたら、そういったイメージをしっかりと掴めた人こそが、年齢や境遇なども超えて、永遠のように若い心を持つことができるのかもしれません。

美しい音楽は、個々の人生という具体を超えたイメージを伝えてくれます。
私の演奏では、なかなかそれを伝えられませんが
( ; ; )(^∇^) (^^;) (^_-) ʅ(◞‿◟)ʃ
(↑ここにふさわしい顔文字はどれでしょうか?)




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分類できない世界に生きる(記号論の続き……なのか?)

2022年10月10日 | 雑記
そのときどきで、考えていることがあっても、上手に書き留めておかないと、忘れてしまったら、そよ風のように、もうどこにも残らない。だからせめて、暴風は困るかもしれないけれど、草を分けて風の通る道くらいは残しておきたい(大げさ)。

上手に書き留める、というのは文章うんぬんよりも、どこに書くか、ということが大事だなと思う。どこかに書いてあったとしても、もう二度と見ない場所なら、ないのと同じことだから。

と、考えてくると、やっぱりブログに残すのがいいのかもしれない、という結論。あとで見返しやすいし、ブログに書いたことは、なぜかけっこうよく覚えている。

非常に前置きが長くなってしまったけれど、記号論。『記号論への招待』を読んでから、考えたこと。

最近、自分が受け身な人間であることにあらためて気づいた。これから変わるかもしれない(と、まだ思ってる)けど、とりあえず、これまでは受け身な人間だった。

受け身の反対って、なんだろう?積極的?主体的?攻撃的!?(まあ、攻撃的は違うと思います)

受け身な人間とその反対の人間とは物事の見え方、いや見方も違うのだろうな、という気がする。

それは少し前に考えていた、サポートをするタイプの人間(私はこちら)と、自分が新しい事業を立ち上げたり、企画や営業などをやって仕事を進めていくタイプの人間との違いにもつながっているのかもしれない。

これがなぜ記号論?
つまり、私は受け身な人間。どういうふうにか。自分の置かれた環境に合わせて、自分が望めることを望む、というスタンス。環境なのか、運命なのか、それとも周りの人間なのか……、いやもしかしたら自分がどういう人間か、かも……?、それらが自分に何を求めているのか、様子をうかがってしまうタイプ。だから、もしかして、あらゆることが記号(何かを意味しているもの、意味があるもの)に見えてしまうのではないか!?と思ったのだった。

物事をどんどん進める人間というのは、自分がやりたい!を中心にして周りを変えていく。もちろんそのやりたい!も、人間だから、周りの要請を無意識に取り込んでいるのかもしれないけれど、その瞬間で考えてみると、自分のやりたい!が強い。そういう人は、自分のやりたいに合わせて物事を見る。目的意識がはっきりしている、とも言える。だから、情報の取捨選択も得意だ。自分がやりたいことに対して、必要な情報にだけ集中するし、物事を整理する。そのため、要領も効率もいいけど、もしかしたら、実は大事な情報を見落としてしまったり、歪めて見てしまう危険性も高い、のではないか。

一方、受け身な人間は、環境に適応するために、なるべく環境を正しく見る必要がある。そのため、積極的な人間よりも実は事実を事実の通りに見ることができていたりするのだけれど(ほんとか!?)、いろんなものが記号に見えてきてしまって、その分、情報の整理が苦手な可能性も高い。効率も悪い。というのも、自然の森のように、分類整理せず、なるべくありのままにしておくほうが間違いが少ないから。状況を理解するにも、対応をするにも。

『記号論への招待』をなぜ読むに至ったかの話になってしまうけれど、ベンジャミン・ウォーフの『言語・思考・現実』を読んでいたら、ホーピ語(ウォーフが研究していたアメリカ・インディアンの言語)は英語に比べて、高度の思考をし、もっと理性的な場面の分析をしている、ホーピ語が細身の剣だとすると、英語はまるで棍棒のようだ、と書いているところがあって、その箇所が文脈を離れて、自分にとって非常に示唆的に感じられて、とても気になってしまった。

ウォーフの本を翻訳していて『記号論への招待』の著者である池上嘉彦さんは、序文で、「人類最高の文明を支えるものと絶対視されがちな西欧の言語を、ウォーフはアメリカ・インディアンの言語を通じて相対化してみせた。決して西欧の言語に、他の諸言語より勝る素質があるというのではない、ということをウォーフは情熱的に語っている」と書いていた。

でも。
と、ウォーフの本を読んでから数ヶ月が経つ間に考えていた。非常に半端な理解ながらも。
もしかして、だからこそ、一見、雑に?物事を整理してしまえる言語を使う西欧人たちが覇権を握ったのではないか、と。

自然に適応して生きていこうとする限りは、自然を繊細に見ていこうとするのではないか。外界に合わせて対応し続けるのではないか。でも自然をコントロールしようと思い始めたら、あるがままに見るのではなく、自分たちに都合の良いように、線を引いて整理をして、働きかけて、改変を加えていく。それが言語にも表れているのでは!?

こうして記事にしようと(ほぼメモですが)思ってあらためて、どんなふうに書かれていたかと『言語・思考・現実』を手に取ると、一読では理解ができなかったことを再び実感し、再読する、どころか、研究さえしたいような気持ちになってしまう。でもそうなるとこの記事は永遠に書き終えられなくなってしまうので、メモを残す、という目的に立ち返り、雑なまま、いったん書き終えることにする。

ぜんぜん繊細に物事見れてないし!検討外れだし!という突っ込みに対しては、人間には、タイプというものと同時に、レベルというものもありまして、と、ゴマ・カス。

進歩というのは、破壊なのだなぁ、と、ふと思いました。

そのようなわけで、最近、言語学、記号論、認知心理学系に興味が湧いている。言語学関係の本も何冊か積読になっているので、ちゃんと読みたい。

認識の仕方の相違が、どのようにそれぞれの人の個性や能力、言葉の使い方に顕在化しているのか、気になる。

ちなみに、『言語・思考・現実』を読んだ限り、私も、ウォーフは、言語が思考を決定づけるなんて言ってない(wikiより)と思いました。自身が研究して理解し得たことを、乱暴に単純化することなく、とても繊細に慎重に書いているように感じました。サピア・ウォーフの仮説はもしかして、ウォーフの研究を単純化して人が理解したからこそ有名にもなったし、批判されもするようになったのかも?でもそんなふうに言うには私にはまだまだ理解が足りない。

ウォーフ本人の研究をよく理解すること、それらがどう理解されたことによって後世に大きな影響を与えたのか、それに対する反論は的確なものなのか、などなど、調べたいなと思いました!!
byウォーフファン

これも、何かの記号?







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しおり

2022年10月09日 | 
一冊の本の中に
いくつもしおり入っている
読みかけの本
ふと
手にとって
また違うページ
読み始めてしまうから
時間に迫られ
後ろ髪
ひかれながら
ことばの手ざわり
紙の手ざわり
心の手ざわり
ページのあいだ
いくつもいくつも
挟まっていく
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