詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

JR

2018年08月19日 | メモ
山の手線に乗っていて、ふと顔をあげたら、向かいの電子車内広告に


わたしの月には華がある


と出ていた。

あれ?なんだろう。
ちょっとおもしろい、と思った。

おもしろいと思うとき、自分の中の何かが、ぐぐっと動かされる感触がある。

その何かとは、「言葉とは、こうきたら、こう続くはず」という自分の中の教科書的な感覚。というか思い込み?

大きく、ぐーっと動かれる、というよりも、重たい石(わたしの感覚)が、ぎゅっとした力で、ほんの少しだけ動かされるような感触。

それが微妙にずらされた上に、新しい世界がちらり、と見えたりすると、あ、いいな!と思う。

これが、たとえば新感覚の言葉だらけ、であろう詩集の中の一文だったなら、私はむしろ何も感じられなかったかもしれない。

そんな言葉に出会うとも思っていない当たり前の日常生活の中で、ふいに現れたものだから、
おやっ、きらっ、どきっ、としたのだと思う。


ほんとうは

「わたしの肌には華がある」

というコピーだった。

「肌」という漢字のつくりの部分が、つり革で見えなかったのだ。
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風景の一部

2018年08月15日 | 雑記
ふとしたときにある情景が浮かぶことがある。見たことのない景色なのに、不思議と心惹かれるので、前世の記憶かな、と思っていた。
信じる、というより、戯れに。

前世という割に、けっこう現代的な光景もあるぞ、とあるとき気が付いた。
もしかして、誰かの意識や記憶が、知らないうちに、他の誰かの意識にすっと紛れ込んだりすることもあるのかな、と思うようになった。戯れに。

だから私も、なるべく幸福な気持ちを味わっているほうがいいのかな、と思った。私の心も知らないうちに誰かの意識の中に忍び込むのだとしたら。

人が亡くなるということはとてもありふれたできごとなのだけど、その人が亡くなる、ということは、親しかった人にとっては天地がひっくり返るようなできごとなので、いろいろいろいろ考えてしまう。

それで私はまた新しい神様、というか控え目な信仰を、思い付く。

大切な人が亡くなると、その人は私の一部になって私の人生を一緒に生きているのだ。美しいもの、楽しいことをたくさん私が見たり聞いたり味わったりすると、私の一部もうれしく楽しい。

だから、くぼみの翳りがモーヴ色(『失われた時を求めて』の中で特別な色?)がかった白い鳩が、青い空をもう少しで覆ってしまいそうなほど大きな翼を広げ、その光が川面に白く照り映える夏の夕方、風景には父が織り込まれているように見える。



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