山の手線に乗っていて、ふと顔をあげたら、向かいの電子車内広告に
わたしの月には華がある
と出ていた。
あれ?なんだろう。
ちょっとおもしろい、と思った。
おもしろいと思うとき、自分の中の何かが、ぐぐっと動かされる感触がある。
その何かとは、「言葉とは、こうきたら、こう続くはず」という自分の中の教科書的な感覚。というか思い込み?
大きく、ぐーっと動かれる、というよりも、重たい石(わたしの感覚)が、ぎゅっとした力で、ほんの少しだけ動かされるような感触。
それが微妙にずらされた上に、新しい世界がちらり、と見えたりすると、あ、いいな!と思う。
これが、たとえば新感覚の言葉だらけ、であろう詩集の中の一文だったなら、私はむしろ何も感じられなかったかもしれない。
そんな言葉に出会うとも思っていない当たり前の日常生活の中で、ふいに現れたものだから、
おやっ、きらっ、どきっ、としたのだと思う。
ほんとうは
「わたしの肌には華がある」
というコピーだった。
「肌」という漢字のつくりの部分が、つり革で見えなかったのだ。
わたしの月には華がある
と出ていた。
あれ?なんだろう。
ちょっとおもしろい、と思った。
おもしろいと思うとき、自分の中の何かが、ぐぐっと動かされる感触がある。
その何かとは、「言葉とは、こうきたら、こう続くはず」という自分の中の教科書的な感覚。というか思い込み?
大きく、ぐーっと動かれる、というよりも、重たい石(わたしの感覚)が、ぎゅっとした力で、ほんの少しだけ動かされるような感触。
それが微妙にずらされた上に、新しい世界がちらり、と見えたりすると、あ、いいな!と思う。
これが、たとえば新感覚の言葉だらけ、であろう詩集の中の一文だったなら、私はむしろ何も感じられなかったかもしれない。
そんな言葉に出会うとも思っていない当たり前の日常生活の中で、ふいに現れたものだから、
おやっ、きらっ、どきっ、としたのだと思う。
ほんとうは
「わたしの肌には華がある」
というコピーだった。
「肌」という漢字のつくりの部分が、つり革で見えなかったのだ。