詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

ローズ

2018年05月26日 | 
花びらの重なりの緊密さに害が及んで
ゆるく結ばれていた手と手も離れていく

夕暮れが曇り空へ
おずおず別れを告げ始めるあたり
坂道を登っていく車を背後に
私は中腹で立ち止まり地図を確かめる

霧に包まれた荒野のような頭の中から
かかとが交互に出ていった
都会に紛れ込む
森のほうへと

澄んだ鳥の声は姿を持たないまま
光を受けた雨粒のように降る
窓がある

初めて聞く音楽の中に
遠い昔の記憶が形も色も
少しも損なわれることなく残っていた

少しも損なわれることのない胸の奥の
一度も住んだことのない家の庭で
咲き続けている薔薇があった

笑い声には棘があるから魅惑的
心細さには泥が混じるから幻想的

現実などほとんど残されていない
霧が晴れてくると絡まり合った植物が脈打つ

眼はずっと外を向いているのに
いつも記憶を見ている
私の知らないイメージさえ
知らぬ間に繰り返されている

足の裏が絨毯に潜り
がらんとした部屋に延びた
淡い光を踏んで
土と草を感じていく

いつか私が息絶えた時
そこにあるのは
もう誰にも見ることのできない
記憶の亡骸
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さぶいぼ やばし

2018年05月18日 | 雑記
お疲れさまです。ミオです。

今日は仕事で何通もメールを書いたので、その感覚がまだ残っています。

ふと、どこに残っているのだろうと思ったのですが、会社でメールを書くときにはキーボード入力、いまこれを書いているのはフリック入力、とすると手の動きではない気がします。

お疲れさまですと言いたくなる感覚を、耳をすませるように、体をすまして探してみると、頭の中の口が、ぱくぱく、と動いているのを感じます。

などと書くと、日本昔話のあの恐ろしいお嫁さんの話みたいですね。

****************
働き者だし、とても小食だからお金がかからずにすんで、なんと良い嫁だ、と思っていると、ある時、米や味噌がごっそりなくなっていることに気が付く。そんなことが度々起こる。これはおかしいと思って、夜中にこっそりと台所を見張っていると、小食のはずの嫁が、大量のごはんを炊いて、たくさんのお握りと大鍋いっぱいの味噌汁をつくっている。準備がすっかり整って、嫁が自分の長い髪の毛をかきわけると、後頭部から大きな口があらわれて、お握りと味噌汁がそこに次々放り込まれていくというお話。

結末は、忘れてしまいました。なぜかたまに思い出すのです。そして、普段はほとんど食べないのに、夜中になると化け物のようになって食べている嫁には、どういう意味でかはわからないけれど、何かしら真実があったのではないか、なんとなく思うようになりました。そして、そこにもの悲しさのようなものを感じてしまいます。

お伽話や昔話には、真実が含まれているといった話は、たとえば心理学系の本などでもよく見るし、新しくない話ではありますが、上述の昔話に何かしらの真実があったのでは、と私が勝手に感じているのには、もっと個人的な記憶(というと大げさですが)が関わっているように思います。ということに、いまこうしてこの記事を書きながら気が付きました。

****************
母の友人で、娘さんを自殺で亡くした女性だったか。
それとも、同じく母の知り合いで、
娘さんが、ずっと調子が悪かったのだけれど、ようやく元気になってきたので安心していたら、電話で、ちょっと風邪をひいたようなことを言っていて、その数日後に娘さんが亡くなっていた
という女性だったか。

どちらの女性だったか忘れてしまったのだけれど、娘さんを亡くして「かぐや姫が本当の話だったとわかった」と話したというのです。

きっと、悲しみの暴風雨が過ぎ去って、もしくは胸の底に悲しみの嵐を沈めて、表面上は淡々と。

この話を思い出す度、不思議なくらいに、その悲しみがしみじみと胸に伝わってきて、まるで私自身が娘を発見する母になって、娘の部屋に入っていくような気持ちになって、泣きそうになります。

こんなに感情移入してしまうのは、もしかしたら、私も娘であり、自分の母からそれを聞いたからなのかもしれない、ということも、いまふと気が付いたことです。

****************
と、いつかの日記のごとく、というか、いつもの日記のごとく、まったく関係のない話が異様に長くなりましたが、今回書きたかったのは、こうなるとほんとにどうでもいい話のようなのですが、ふと耳にした言葉のことを書きたかっただけなのです。

つい先日、職場で、同僚がたまたま気持ちの悪い画像を見つけてしまい、「わあ、さぶいぼが立つ!」と言うので、そんな言葉を知らなかった私は「さ、さぶいぼ⁉︎」と驚いたのですが、関西の言葉なのだそうですね。

今日も仕事から帰ってきて、晩ごはんの準備をしながら、その言葉をふと思い出して、「さぶいぼかー、あー気持ち悪い」と思ったのでした。さぶいぼという言葉そのものが、さぶいぼだ!と思って。もしかしたらその画像の影響も大いにあるのかもしれませんが。すばらしくよく表現されている気がします。「さぶいぼ」には。その気持ち悪さが。

これに比べると「鳥肌」は、別に普通というか、肌がそんなふうに見えるということを、外から説明しているだけです(「鳥肌」もあらためて考えてみると、すごい表現ではあるけれど)。

でも「さぶいぼ」は、この字面といい、語感といい、気持ち悪さの感触をそのまま、内側から表現しているように感じられます。「きもち(パンチ!)わるい(パンチ!)」と、グーで殴ったらその部分がぼこぼこ出っぱった、ような感じ。

そんなこんなで結局、何を言いたかったのかというと、私も「鳥肌」ではなく「さぶいぼ」的な詩を書けるようになりたい、ということなのでした。恐らく間歇泉的な気の迷いで。


さぶいぼの写真なんて載せませんよ〜。
目に鮮やかな緑。
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忘れ物

2018年05月04日 | 
ひとりで出掛けた
葉っぱのように
風が揺れて
まだらな影が落ちる

どんな声が呼び交わしている
聞こえるものは意味を失い
聞こえない声が伸びてきて
背中に触れる

太陽のきらきらする粒子に
混ざっている
過去の中の可能性の石たち
カーディガンを重ねる
わたしをはるかに追い越して
星座のように光る

はめるのを忘れてきた腕時計が
テーブルの上で
確かめられることのない
時を刻んでいる
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ネタバレ注意!

2018年05月02日 | 雑記
先日は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のセミナーの日だった。

そうでなくても読むのが遅い私。そうでなくても年度末は忙しい前職場を、年度末で退職することにしていた私。そうでなくても学ぶことがたくさんある新しい職場で、4月の課題図書として5冊も本を与えられた私。

通読してから行かなければいけないのに、間に合わなかった。今回は第4巻『花咲く乙女たちのかげに2』の会で、前回のセミナーの際に主催の先生がおっしゃっていた通り、厚みがあるけれど明るく楽しい巻で、本当に楽しく読んだ。というか読んでいる(まだ読んでる!)。

4月は前述した通り、とても忙しかったのだけれど、お風呂に入るときはプルーストを読もうとか、ちょっとした時間をこの読書に割り当てていた。会社から与えられたのは経営学の本だったりして、私にはちんぷんかんぷん。仕事と、仕事関係の読書とで、まったく余裕がない中で読むプルースト。なんだか、とても楽しい。文章がとても生き生きしている。私も、とても浮き浮きしている。

まったく違う分野のこと(義務)にぎゅーっとサンドイッチされた趣味(自由)の読書は、時間がたっぷりある中でびよーんと延びてしまう読書よりも、はるかに鮮やかに輝くのかもしれない。

そのようなわけで、セミナーも本当に楽しみだった。通読できていないことだけが残念だった。まだ読んではいない先の話が出てきてしまうではないか。「まだ先を知りたくないのよ私」などと、まさかプルーストで思うとは、思わなかった。

そして実際、セミナーで「あ、それ、ネタバレですよ!」と心の中で思う。ちゃんと通読してこい!という話ですが。花咲く乙女たちと主人公がどうやって出会うのか、知ってしまった。そうなのかー。そうやって出会うのかー。あ、これ自体もネタバレかな?だとしたら、ごめんなさい!それでも、もちろんそんなことで楽しみが半減するような小説ではないので(言い訳⁉︎)、変わらず浮き浮き読み続けている。読み続けられます。

読書は一人でするものだけれど、このような会がある、みんなで感想を持ち寄って話し合うことができる、という当てがある読書というのも、また別の楽しさがあるのだな、と知った。ああ、まだまだ続くよ、プルースト。うれしいな。次回は必ず通読してから参りたい!

次回からは、「ゲルマントの壁」というヒマラヤ山脈にも?喩えられる、越えることかなわず数々の脱落者を出す恐ろしい壁が待っているらしい。

ところで、先々週の日曜美術館ではベラスケスが取り上げられていて、私はビデオ予約で録画したものを、少し遅れて夜、我流ヨガ体操をしながら見ていた。「ラス・メニーナス」という、私も見たことがあるぞ、と思った絵は、ピカソがそれを題材にして58枚の連作を描いたほど、後世の画家たちに影響を与えた傑作だそう。へぇーと思って少しして、プルーストを読んでいたら、ベラスケスの「ラス・メニーナス」に触れているではないですか。あちらとこちらとつながって、学びの星座という感じでうれしくなる。






ポリプ母体によって形づくられる原始的な有機体のように、たがいにくっついたままで、笑いによっていっせいにゆれ動くと、光を発して震えるジュレ状のかたまりにしかめ面が溶け込んでしまう少女たち(396)も素敵だけれど、女子としてのごひいきは、やはりサン=ルーではないでしょうか。


岩波文庫『花咲く乙女たちのかげに2』 プルースト作 吉川一義訳
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