勉強しようと思うのだけれど、さてなんの勉強をしよう、と思って本棚の前に行くと、昔よく読んだ本が目に入って思わず手に取る。気が付くとかたつむりのようなかっこうでぬくぬく読み耽っている。わたしの温度に親しいことばに浸っている。
本にも相性があるようで、好きな本は何度も読んで、何度もぬくぬくする。水が砂や土を削って自分の通り道をつくるように、何度も通るほどに、本の中のことばたちもほぐれて、ますますわたしの通りやすい道を作る。
40歳になっても、これといって特別なことはなにもできずにきてしまったのだけれど、定年までまだあと25年ある、と思うと、それまでになにかのプロフェッショナルになることもできるかもしれない、などと思って、それに定年後も働けるようななにかを身に付けたい、とも思って、どうしようかな、と近頃考える。
でも夢見がちな性格のためかわたしの考えることは夢想にしかならなくて、具体的な形を取ってはくれない。ふと思うのは、これをするぞ、と決意するようなものはなかなか続かないのかもなぁ、ということ。決心しようとするとあれこれ考えてしまうし、自分から離れたものを選んでしまいそう。なんとなくそっちに寄っていってしまう、ようなものがいいのかもしれないなぁ。
本を読むのは、たぶん好き。特に味わいがあるものが好き。そういえば、プルーストの『失われた時をもとめて3』を題材にした講義があることを知った。参加できる資格があるのかわからないけれど、勝手に運命を感じている。「古川一義さん翻訳の文庫で、3巻の『花咲く乙女たちのかげに1』を読んで持ってこい」と書いてある。わたしはまさにこの本の3巻まで持っていて、2巻までしか読んでいない。3巻を読むチャンスだし、そんな講義ぜひ聞いてみたい。
こういうチャンスは自分の興味が蔦のように絡まっていて、ぜひとも参加したい、と思う。そんなふうに、仕事も、自分の軽い興味が、蔦のように絡まっていくような、そんななにかだったら、しあわせだろうなぁ。
なんて。40歳で言うべきことではないかしら……。わたしの精神的歩みは亀さん並みなのです。
帝国ホテルでフランク・ロイド・ライトの記念展示をやっているというので、見に行ってきた。というか、それを出しに夫と二人、クリスマスの街に出掛けた。フランク・ロイド・ライトも徐々に薄れながらも、時々、間歇泉的に盛り上がる、勝手な縁を感じてしまう人。
まるで子どもの頃に実際に行った場所のように記憶に残っている建物があって、あるとき、それがフランク・ロイド・ライトの落水荘という建物だということを知った。それで、その記憶が、実際に行った記憶なのではなく、眺めていた子ども用の百科事典に載っていた写真の記憶らしいということに気が付いた。
大人になってからも、学生時代なぜかよくふらふらしていた池袋ー目白間にある自由学園明日館も好きだし、なんと、実は両親の知り合いに遠藤楽さんがいたのだ!遠藤楽さんとは、フランク・ロイド・ライトの弟子、遠藤新の息子で、自身もライトの弟子であり建築家の方。その方から、両親はライトの本をいただいていて、わたしはもちろん読んだ。タイトルは忘れてしまって、実家にあるのでいまは確認できないのだけれど。
ネットで出てこないかと検索してライトの設計した建物の写真を見ていると、わたしやっぱり前世かなにかで見たのかな、と思ってしまう。本で見た、というより、実際に見たような気がしてしまう。決してシンプルではないのに、なぜライトの建物はこんなに良いのかしら。いつだったか蔦屋で写真集があって、買おうかどうか迷った。やっぱり欲しいなぁ。オールカラーの写真集の割にはそんなに高くなかった気がするし。
帝国ホテルにて。いかにもライト的な柱。
父は先日、明日館の講堂でピアノの発表会。しかし肺が悪くなってしまい、もうピアノを弾くだけで息切れがすると言い、しばらくピアノはお休みすることに。わたしはまるで息子を見守るような気持ちで父の演奏を見ていた。
この建物はホールと教室の建物。道を挟んだ反対側、こちら側にあるのが、写ってはいませんが講堂。中を歩くだけでも楽しい。父を心配してちょこまかしながら、パシャパシャ、無駄に探検、をする。
もう何年も前に明日館の売店で購入したライト的な写真立て。中の写真は徳島に住んでいた頃、近所の空き地がこんなことになっていて思わずパシャリ、した写真。
明日館は桜の頃に行くのもいい。天気がいいとテーブルを出して、外でお茶とクッキーをいただける。
ふと、わたしに足りなかったのは、勝手な縁を信じる力だったのかしら、と、これまた能天気なことを思う。