詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

月曜日の雨

2016年05月30日 | 
さびしいなあ
月曜日にこの天気

夜中に猛烈な雨音で目を覚まし
それからも汗をびっしょりかいて
そういう感触の夢を見続け
幾度も目を覚ました

朝が来てもさみしくて
家を出ても狭い空間に閉じこもっている
陰気なマッチ棒みたいなひとを感じている

昼になっても空は暗くて
向かいの建物の窓は灰色に塞がれている
壁には長年の雨だれの染みが
いくつも浮き上がっていて

ここの椅子は座面が高くて
足が下に着かなくて
子どもみたいに心細くなって
まわりの笑い声が塀のように高く響く

向かいの建物の前に
ネックレスのように垂れている電線
ハトが二羽とまっていて
くっつけばいいのに
くっつかないで
離れるでもなく
少し離れて
それぞれで
後ろを振り返り
自分のふくらんだ羽毛に没頭している

この距離感
ぼうっとしている
曇った目を
受け止めるでもなく受け止めて
縛るでもなく泳がせている
厚く重ねたコットンの上で
空と気持ちの今日の関係のよう
はっきりしない力のない
こんな心、空に
放ってしまえ

飛んでいった
ハート
ハト
ネックレスにハト
ハートのダイヤ
空に放たれたハートが
生き生きと羽ばたき出す



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川に沿う

2016年05月23日 | 
名も知らぬ草花が空に向かって
いっせいに口を開けている
幼い子らのように
それはよろこばしい
無数のほころび

川に許された広さ分の空が
青さを忘れるほど青いとき川は
横にゆったりする

葉っぱの一枚一枚
緑の濃淡を丹念にあぶりだして
樹は丸々と狂おしく立体的になった

犬を連れた人
恋人を連れた人
子どもを連れた人
伴侶を連れた人
魚が釣れた人

川に沿って歩くとき
人びとは似ている
添わねばならないから
表面張力に浮かびながら
水底の胎動を感じている

キッチンの白いまな板に
注ぎ込む川の光
抜けなくなった指輪をはめている手が
ふっくらと動きをとめる
むきかけの
アボカド

進路に迷った子どもたち
庭の草むらに自転車を置き去りにして
駆け抜けて行った
空気の中に抜けあとが残っている
屋根の上へ投げたばかりのように
すうすうする
いつまでも

白い鍵盤に
黒鍵の影が斜めにかかる
それら鍵盤のワルツを
ピアノの蓋の蝶番がじっと見つめている
演奏者の顔を知ることなく

永いワルツはくるくるまわりながら
カーテンの隙間を通り川べりの
タンポポやシロツメクサのほうまで
土手を駆けのぼっていく

太陽が見えなくなると
土手の下のツツジが燃えるように赤くなる
同じ色に染まった空とスカート
秘密の談義
たとえば
さみしさについてなど

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分かる話(分からない話)3

2016年05月17日 | 雑記
分かるの感覚を覚えたのはしばらく前。その感覚を記号にしてずっと持っていました。

ところが、ここ一、ニ週間、「分かる」が進み過ぎて危機的な状況に!なんだかどんどん分からなくなってきてしまったのです。

目の前のことをこれはどういうことなんだろう?と考え始めると、根拠なんてどんどんなくなっていってしまって、崩れていってしまうんです。とても久しぶりに、ぐずぐず危機を迎えました。

たとえばですね、仕事をしていて、自分に自信がなくなるんです。自分の足りなかったところに気が付いて、だめだなあ、と思う。でもじゃあどうするのがいいのか、どうあるのがいいのか、考え始めるとわからなくなってしまって。やってることはそう難しいことじゃない、普通の事務仕事なのです。でも事務仕事ってきちんとやろうとするとけっこう難しいですよね、少なくとも私には。それにちょっとした人への対応だって、とても難しいです。うーん、そこはたぶん特に深くは考えずに、快活にしていられればいいのでしょうけど。

記憶力問題というのが私にはありまして。もともと記憶力があまり良くないのです。そしてさらに悪いことには記憶力にあまり重きを置いていなかったのです。名詞とか細かい事実関係みたいなことにも注意を払わない。だからもちろん人の名前や顔もぜんぜん覚えられない。細かい出来事も。でも仕事をする上で、それってけっこう大事なことなのですよね。仕事にもよるけれど。少なくとも社内のいろんな人がしょっちゅう窓口に来る、細かいことがあれやこれやとある、マニュアルにしにくいことがたくさんある、今の職場では、それはけっこう大事な能力だなあと最近つくづく思うのです。

でも私がむしろ記憶をしたくない理由はですね、記憶にたくさん容量を使ってしまうと本当に大事なことに脳ミソを使えなくなってしまうのではないか、という謎の強迫観念があったのです。で、脳にとって本当に大事なことって何よ?と、考えてみればこれまで一度も突っ込んだことのなかった疑問を改めて自分にぶつけてみると、はて?と首を傾げるばかりなのですが。

それで、たとえば記憶力を売りにする人というのはどういう経緯で記憶力が大切だ、そこに"脳"力を使おう、という答えに至ったんだろう、なんて、考えてしまうのです。

頭の良さというのは、ある方面において、なのですよね、きっと。飛び抜けた天才はともかく、並みの人はその人の価値観や向いている方向によって、賢いと思われたり思われなかったりする。でもそれはなんらかの方向を想定した上での判断であって、その方向性が人に見えやすい形になっていると賢く見え、見えにくい形になっていると賢くみえない、ということのように思うのです。加えてそういった分かりやすい頭の良さには、かなり性格も関係しているなぁというのは最近よく思うことです。たとえば私の父はいつも自分の意見をはっきりと持っていて口論も得意だし、いろんなことをよく知っているしよく覚えている。いろんなことをよく見ている。そんな父はどんな性格かというと独立心が旺盛なのです。自分が先頭に立ちたいタイプなのですね。そんな性格だと、やっぱりあとからついていく末っ子タイプの私なんかとは物事の捉え方がぜんぜん違うのです。自分の力でなんとかしたいからもちろん周りの状況をよく見るし、知っていることを人に話したいからよく覚えている。

と、ここまで書いて数週間が経過しました。
一体、何が書きたかったのでしょうね?
途中から、なぜか賢いかどうかみたいな話になっているし。いやぁ、どういう方向に向かっていけばいいのかなぁと思って、何が正しいのかなぁと思って、正しさって何かなぁと思って、そういうことがわかっているのが賢さかなぁと思って、こんな展開。

分かるが進んでいくといろんなことがどんどん解体されていって、しっかりした土台などなくなってしまって、溺れそうになるのでした。
自分の中に芯がないといけない。でも芯てなんでしょうね?ぐずぐずになって、ぐるぐるして、結果としては基礎の部分というのは盲目的にならざるを得ない、土台のところはある程度までは、「なんかよくわかんないけど、こういうものなのだろう」というような思い込みが必要だ、ということが分かった。分かった?のかな?

分かつだけじゃだめ、方向性がなければ。
理解だけじゃだめ、意志がなければ。
と、いうことかもしれません。

当初の書きたかったことからだいぶ離れてしまったような気がします。こんな放り投げるみたいな文章で、すみません!!


ある日、ある場所で、こんなものを見つけて。
ぎゃあっとなりました。
ツボですツボ。ツボにハマるツボがちょっと多めの私です。
灯りのまわりだけ、咲いている。


そしてあたりを見回して、さらにぎゃあっとなる。
花が花が……。きれいに刈り込まれた植木から花だけぴょこんと顔を出しているよ。
偵察?


ぴょこんぴょこんぴょこんぴょこん!!
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きゅんとする季節

2016年05月12日 | 雑記
今朝はようやくすっきりと晴れて、風もからりとして気持ち良く、歩いていてもなんとなく浮き立ってくる。陽の光を浴びるのが精神的にもすごく大事だというのも良くわかる。やっぱり明るいと明るくなる。しぜん。

プラタナスの道にやってくると、アスファルトに手をつないだ星々の形が無数に浮かんでいる(プラタナスの葉っぱの影なのです)。さぁっと砂糖の溶けるような音に、星々がきらきらと瞬く。ああ!!この季節。巡ったんだなぁと思う。そうしてこの情景を書いた『移ろい』を振り返ってみると。やっぱり。5月24日にアップしていました。

影なんて。
晴れていればいつでも見られると思う。でも違うんですね、光が。下を向いて歩いていて、星々が手をつないでいっせいに瞬くのがまぶしい、なんてことは、一年のうちでもこの季節だけなのです。

そのように季節の移ろいは何も外でだけではなく、仕事をしている部屋の中にも訪れる。16時頃、机に向かって計算したりなんかしているとちらちらと動くものが目に入ってなんだろう、と顔をあげる。卓上カレンダーに白い縞模様が浮かんで上下に揺れている。わたしの後方には壁一面の窓があって、曇りガラスにブラインドが開いた状態だけれどあって、外は見えないけれど、それらがクッションになって部屋に入る光が淡く白くやさしくなる。

この窓のほうを振り返ってみると、部分的に空いている窓やブラインドに映る影などで、風が木々を揺らし、木々が光を揺らしているのがわかる。風の音をBGMにして。穏やかでネコでなくてもお昼寝してしまいそうな午後。みんなの表情も気のせいかいつもよりも明るく見える。雑談も弾む。
中学生の頃、英語の教科書に白い光が落ちていて、漠然と未来を夢見た。漠然と夢見たまんま大人になってしまい、何々を成し遂げた、とか夢を叶えた、みたいなこともないけれど、こんな午後を味わうと、すごく平凡なのに、いまが夢見た未来かも、などという気がしてしまう!

帰りは電車を降りて、いつも通らないくねくねしている住宅街に入っていく。日が長いってすごい。朝は早々から否応なく目覚めさせてくれちゃうし、定時で仕事をあがると外に出てもまだ充分に明るくて、なんだか誰かとおしゃべりしたりどこか行きたくなってしまう(いつも黙々と一人で帰るのだけれど。ここに「黙々と」はいらないか。モクモクと煙を吐きながら帰る人もいまはほとんどいない)。自宅の最寄り駅に着いて電車を降りてもまだ明るくて、だから寄り道してしまう。そして違う世界に誘われてしまう。空の色。街の色。ところどころに咲いている花々。時折、鼻の奥まで届く花のビロードのような匂い。時間が、空気が、違う。ああ、あるよ、あるよ、こんな世界。何気ない窓が家が手すりが何かを映しているよ。うっすらとだけど見える。いま暮れていこうとしているあたり。それはもう本当に切ないような胸がきゅーんとするような場所なのです。










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光学的な現象

2016年05月08日 | 
わたしとは光学的な現象なのでしょう
波長を様々に変えることやまず
重なり合い
囲い込み合い
外へ開けば戻って来ず
内へ閉じれば無気味な屈折を繰り返す

公園でかくれんぼ
呼びかける声が動いて
耳を澄ましている
期待と恐れとあきらめが
綱を引き合って
見つけ出されるのを待っている
勝負は長引く

夕暮れが赤ん坊の泣き声を追い出した公園に
ひとりでに砂に手を描く枯山水
置いて木彫りの跡
一ニ三
スカートなんかはかなかった
あの頃は赤い実を切に持っていた
みずからの屈折率も知らなかったので

方向を定められない光にとって
出会うものすべてがプリズム

暗い箱の中に映し出された七色は
あなたという障害物があれば
向かっていく波長がふくらむほどに
大きくたわみ
あなたの背中へとまわりこむ

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