死後の世界の本やサイトをよく読んだことを書きました。死んだ先輩に会えるかどうか知りたくて。最終的には何を知ったところで、自分の判断でしかないとわかってやめました。だったら自分に都合のいいように考えればいいじゃないかと思いました。わざわざそんなふうに思わなくても、そもそも、何事も自分の都合のいいようにしか考えられないのですけれど。
都合のいい考え方のひとつに、目に見えないこと、それが確かなことかをわからないまま、なんとなく信じる、ということがあります。そんなことは絶対にありえない、と決めつけるのでもなく、絶対あるよ!と強く信じるのでもなく、そんなことも、あるかもしれない、よなぁ~と、軽く洗濯物をたたむみたいにぽんぽんと、胸にしまっておく。たまーに、ちょっと不思議なこと、あると思うのですけど、そういうことが世の中に存在している可能性を残しておくと、なんとなく救われる気持ちがするのです。
以前、ブログに前の職場の上司のことを書きました(その部分は削除してしまってもう残っていないのですが)。とてもお世話になった上司だったので、東京に来てから挨拶に行きたかったけれど、連絡がうまく取れなかったりして、もういっか、忙しいだろうし、とあきらめました。ブログに自転車のことを書いていて、その上司とのやり取りを思い出し、とても懐かしくなりました。二日後に、ぼーっと夜ごはんのカレーをかき混ぜていると、急にいま上司に連絡しなきゃという気持ちが湧きあがってメールをしました(少し心配なことがあったのです)。約一年ぶりくらいに。返信ないなぁと思っていたのですが、翌日になって、近況を知らせてくれるメッセージが届きました。そして「ちょうど二、三日前に○○さん(私)のことを思い出して 、そしたら、メールが来た」と。ちょうど二、三日前に考えてたよ!と、ご本人に伝えはしませんでしたが、気持ちが通じたのかな、と思いました。
身近な人を亡くしたあとは、何事もその人からのメッセージだと思いたくなってしまうようですが、私もそうで、いくつかそういうことがありました。そんなの偶然だよ、と言ってしまえばそれまでですが、でももしかしたら、そこに何かしらの思いや意思のようなものが働いていたりするのかな、と思うのも悪くない。「大切なものは目に見えない」じゃないですけど、ないと思ってしまえばそこで終り。そんなこともあるかも、と思うことでひろがる世界もあるよね、と都合よく私は考えたいのです。
デジャビュにちょっと似たような感じで、ふいにある光景が頭の中に浮ぶことがあります(最近はかなり少なくなりましたがデジャビュもよくある)。もしかしたら記憶なのかもしれないけれど、自分でその光景を見た記憶はない。さらにただ光景が浮かぶだけではなくて、懐かしさのような、不思議な気持ちがそこにあるんです。以前は、自分も誰かの生まれ変わり?とか、先祖の記憶?等と思ったのですが、それにしては景色が現代的すぎる(昔のヨーロッパとか、ギリシャとか、江戸時代?のような光景もあるのですが)。まったくなんの根拠もないのですが、どこかの誰かの心を感じているのかもしれない、とあるときふと思いつきました。
自分が何かしようと思うとき、その意思の始まりはどこにあるかわからない。だから(というつながりはとっても飛躍しているのですが)、もしかしたら人の思いやなんかは電波と同じように世界中を飛び回っていて、ふとしたときにそれをキャッチ!して影響を受けているかもしれないと、思ったわけなのです。それはどうやってもきっと確かめようのないことだから、逆にそうでないとは言い切れないことだ、と思うのです。自分が良い気持ちをたくさん発するほど世の中が少しよくなるかもしれないし、何か第六感ではないけれど、感覚を研ぎ澄ませることで世の中の大切な何かをたくさんキャッチできるようになるかもしれない、なんて、夢見たりする。
ところで、上司に気持ちがつながった?と思ったときというのは、思いかえしてみると、詩を書こうと思って昔の家の電気みたいに少し明かりを黄色く暗く落として淡いあわいに向かって目を凝らす、ような心持ちだったような気がします。だから、先輩が亡くなって詩を書くのがとてもむなしくなってしまったけれど、気持ちが落ち着いて、やっぱり文章を書くのが好きだと思ったとき、続けよう、と思いました。
詩を書こうとするとき、詩を見つけようとするとき、開く目が、なにかとても大切なことに気付かせてくれるかもしれない。その瞬間にはそれが大切なことだとも気付かないくらい淡くて微妙なものかもしれないけれど。先輩のためにもっとできることがあったのでは、もっと寄り添った言葉をかけたり、行動をしたりできたのではないか、と苦しい気持ちが胸の中をずっとゴロゴロ転がり続けていたけれど、そういう感覚を鋭くしておくことで、その人が本当に必要としているものを適切なときに差し出すことができるようになるかもしれない。四十九日の旅のとき、先輩が私にそのようにしてくれたように。さらには、亡くなった人の思いさえ感じ取れるようになれるかもしれない。まあできたとしても、それを確認することはできないのですが。
ところで、「微妙」って、本当はすごくいい言葉なのですよね。「ビミョー」みないな言い方に慣れてしまって、最近なんだか「ビミョー」ですけど。携帯に入っている大辞林で見ると、
1.なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深い・こと(さま)。
2.はっきりととらえられないほど細かく、複雑で難しい・こと(さま)。
微かに妙なる、ですもんね。微かに妙なる詩を書けるようになりたいです。そのように世界を、大切な人の気持ちを捉えたいです。
ですが……、昨日もテロがあったのですよね。そんな消極的な思いなんて嘲笑うばかりのことが世の中にはあふれていて……。人は一体何を目指したいのでしょう?(全体的な意志などなくて、てんでばらばらで、それがいつのまにか何かの意志によって、どこかに向かってしまうのかもしれませんけど)人って、なんなんでしょう?
ふと、本棚にある『137億年の歴史』をパラパラとめくって読む。人間て、残酷なことばかりしているし、生きるって本当はものすごく壮絶なことなのだろうし、地球はいま、大変なことになっているようだし、私って何?と、思うと、おなかが空いて、ミルクコーヒーを作ってミスターイトウのチョコチップクッキーを食べました。とりあえず。不安になるのは自分の幸せの尺度が空中楼閣のようなかりそめのところにあるから。本当の世界の有り様からかけ離れているから……。
そして、先輩が亡くなってから読みかけのままになっていた『薔薇の名前』の続きを読み始めて、ふと、だから眼を瞑る方法ばかり学んでしまう、と思いました。
『137億年の歴史』クリストファー・ロイド著 文藝春秋社
『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ著 東京創元社
「書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号のほうもまたそれぞれに事物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。」(『薔薇の名前』より)
ウィリアムの言葉がかっこいい。
夏を引っ張りまだ八ヶ岳
自然の景色を見ているときも
大気に微かに漂っている妙なる何かに
触れられるような気がする……
なんて思うのは能天気の極みなのでしょうね……