詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

根津美術館

2015年11月29日 | 雑記
先週根津美術館に行きました。
秋らしい空で気持ちがよかった。




こんな都会の真ん中に




こんな庭があるとは!










不思議な羊さんもいました。




とても素敵な美術館でした。
そして今度は007を見に行きたい。
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棺桶の中の眉毛は太かった

2015年11月23日 | 
棺桶の中の眉毛は太かった
コンドルみたいだ
帰ってから写真を一枚一枚
焦がしていった
確かに立派だ
なぜこれまでそのことに気付かなかったのか
気付くのにふた月ほどかかった

カメラ、車、タバコ
サングラス、髭、短い小指
擦り切れたネルシャツ、長い舌

血のつながりという神話はないし
つなげる手があるかもわからないまま
闇雲に言葉を投げつけ合った
花咲くことは稀で
互いに違う出口を探して
迷宮にあえぐ、ばかりで
ただときどき同じひとつの月を見た
同じひとつの月を見ていることを
ときどき互いに確かめた

きっと、言葉はゆっくり進む

その人の人生って
なんだったんだろう
って、思うの

それはあなたが考えることじゃないでしょ
きっと、いい人生だったよ

うん、そうだね
い、いや、そうじゃ
なくて

その人が私の
碇だったり
眼鏡だったり
雲だったりして
去っていった意味

並んで歩いていて
肘がぶつかったときの顔が
ふいにどこかのポケットから
転がり出てきた

スーパーで
隣に立っている男の人の顔を見た
まったく知らない
どの形にも馴染みがない

その人が私の中で
その人を顔、表情、手の形、背格好
体の、心の、動かし方
言葉の位置、その配置を表す曼荼羅
ひとつひとつ彫り出して
私の中のその人となるため
どれほど多くのものを必要としたか
それを思うと苦しくなる
病や死さえも食い尽くして
まるで私が産んだ赤ちゃんみたいに
まるで私が分離を知らない赤ちゃんみたいに

付き合いの長さでは足りなくて
棺桶の中の眉毛は太かった
もう何も言わないから
ひたいも撫でた
生きてるときには言えた
大嫌い
が言えない
生きてるから言えなかったこと
いまなら言える

私がわずかばかりでも
その人の季節を揺すった
その人にとっての意味は?
きっと口を開けたまま

私が口を閉じ、継ぐよ
あなたの愚かさ、痛さを
私が継いでいくよ
あなたが眼を閉じたから
私が眼を開くよ

私が私にとって私となるため
どれだけ多くを必要とするのか
他人の一生を食べ
身の内に育てまでして

私には生まれる前から私の定規がありました
まわりのものが歪んで見える
目覚めるほどに私も歪む
叫んでも声が出ない夢
私は私の定規を抜け出し
新しい混沌を泳いでいかなくてはいけない

だけどわからない
いろんな言葉を探してきたけど
いろんな答えを
複雑すぎてわからない
だからすべてに蓋をして
夢という閉じた輪の中にこもっている
こじあけたかったのかその人はそれを
ううん、そんなわけはない
それは私が作った物語で

でもフワフワしている手首をがっしりつかんで
真剣に生きたこと、ないんですか?
きみは一体何者なんですか?
一体何がしたいんですか?
大切なこと、なんですか?
見失わないでください
信じてますから

ついに答えられなかった
そう思うと
いつも顔は斜め四十五度上を向く
しずくが頬のカーブを描く

私の中の彼の何かが大きく未完成で
終わってはいけない
いない感触を忘れてはいけない
腿や手をえんぴつで突いて忘却と闘う
再生しすぎればテープが擦り切れて
声が変わってしまう
あたらしく生み出さなければ
皮膚がガサガサと毛羽立つ

こんな私を知ったら
彼はきっと泣くだろう
そう思って私も泣く

彼によって私が完成し
私によって彼が完成しますように

眼鏡だった
棺桶のひとは眼鏡をかけていなかった
知っているそのままの姿を見たかった
実家に見舞いに行ったら添い寝しよう
来なかった未来を思い浮かべながら眠る
肘がぶつかり笑顔がこぼれた
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近い日

2015年11月23日 | 
駅まで急ぐ
鞄の中では携帯電話が友人の夢を思い描いている
階段を駆け上がりホームで遅れて
私はそれを受信する
同心円から

NとSの夢を見た
友人からメッセージ
私もSの夢を見ていた前日に
でも私のところにNは来てくれなかったしSだって
他の人が会ったと聞き
まだ生きていることに気が付いて
今夜電話でゆっくり話せると喜んでいる
それだけの夢だった

電車のドアが開いて
降りる人と乗る人に紛れていく
彼女がピュアだから?
ウサギのような優しい茶色い目
小柄な身体で残酷な天使のように
歌う声で部屋をなびかせていた
小さな視野でNと、Sと、
他の誰かと、他の誰とも
下向きに話をする
父親が厳しかった
木のように芯は深く
噴水のように奔放で
のびあがって飛び散る興味の先々で
紙一枚挟まず夢中になる
頭がいいしかわいいし
だけど底には土を敷き詰めていて
じっとり湿っているから安心して
いっしょに根を生やしている
彼らも、私も

彼女と、私と
コンパスの狂い方は似ているのに
NとS私のところには来てくれなかった
真ん中でウロウロして
不純物が多いからか
こんな嫉妬も、あるのか

ボロいアパートで
いっしょにこたつに入ってた
二人はちょっと顔を見せただけで帰ったけど
話ができたことがうれしくて泣いたって彼女
夢の中で
まるでほんとうに
訪ねに来てくれたみたい
空から

三日ぶりに晴れた朝は明るくて
つり革につかまりながら
ぷるぷるしている街を眺める
夢見がちなビルの角にある窓は
二枚のガラスで光を濾過して
親密そうに見えない部屋の話をする

宙に浮いて
道路や郵便局をまたいで
光の街を駆ける電車の中で
外を眺める私の中を駆けていく
死んでしまった友だち
生きている友だち

なぜか暴力的にこみあげてくる涙を
無理矢理抑えつけると
地面から水を吸い上げるように
足の底からこみあげてくる
生きてるって、こういうこと
体いっぱいにひろがる
まぶしいような
透明な血液が勢いよく体中を駆け巡る

空は地に地は空に近付いて
放たれた光が
雲の周りを緑色に輝かせる
空にいる人と地にいる人が近付いて
無数の道が光り輝く
そんな日も、あるのかも

ああとびきり熱いコーヒー飲みたい
砂糖もミルクも入れずに
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悲しい知らせ

2015年11月23日 | 
古い歌が流れている
ときどき耳に入る
ときどき後ろや斜め前の
テーブルの会話も聞こえる
このテーブルはしんとしている
向かい合う二人の間に
遺影となった写真
ワインとビールのグラスを手に
相手のペースに合わせると
飲むのがどんどんゆっくりになった
語り合っていた視線がいつのまにかすれ違い
視線の先にある内側にふけっている

食べ残しの皿に乗ったフォークが鈍く光って
カーブと光沢の形と動きを見つめるうち
過ぎてしまった
という気持ちがふくらんで弾けた

こんな結末だったんだ
時間がめくれて裏返しになるような
頭が異様に大きくなっているような
ずっと何かを思い出さなければならない気がしていて
投げてきたフォークが夜の壁にぶつかって
帰ってきたような
遺影の人が投げてきた無数のフォークが
いまごろになって突き刺さってくるような
終わることによって覚醒した私であれば

いま、いましかない
過去は、過去を生きていた
だけど、いまがすべて
意味はすべて過去にあるのに
答えがいまにあって
すべてがいまにあるのに
それはもう失われてしまったものなんだ

いつだって、溺れているのに
いつだって、川べりを歩いている
そんな私もいつのまにか流れの中
全身いっぱいに何かを浴び
それは過ぎてしまったことだった
到達してみると十六年は
一瞬の枠に収まって
過ぎてしまったことだった
人生は傷口によって進み
気付きたかったことを
気付くことで喜ばせたかった人を失って気が付く

流れ去る言葉に避けたくなるほど
強く握りしめられたことは
テーブルの向こうの人に
また違った経験を折り畳んで
表面的には似ているかもしれない
でも層の異なる思いの繭の中に入っている人に
その繊細な網目を透して
ぼんやりと見えることでしかない
(私も相手にとってそうであるように)
開かずにひっそりと糸を紡ぐことで
眠りのように慰めのベッドを得ることもある

どれだけ人とすれ違ってもその人にだけは
もう決して出会えないとわかっている道を歩く
歩いていることがうわずみで
確かなことだと思う
生きるほどに
瞬間、鮮やかな色を放っても
きっと色褪せていく世界で
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スピリチュアル

2015年11月14日 | 雑記
死後の世界の本やサイトをよく読んだことを書きました。死んだ先輩に会えるかどうか知りたくて。最終的には何を知ったところで、自分の判断でしかないとわかってやめました。だったら自分に都合のいいように考えればいいじゃないかと思いました。わざわざそんなふうに思わなくても、そもそも、何事も自分の都合のいいようにしか考えられないのですけれど。

都合のいい考え方のひとつに、目に見えないこと、それが確かなことかをわからないまま、なんとなく信じる、ということがあります。そんなことは絶対にありえない、と決めつけるのでもなく、絶対あるよ!と強く信じるのでもなく、そんなことも、あるかもしれない、よなぁ~と、軽く洗濯物をたたむみたいにぽんぽんと、胸にしまっておく。たまーに、ちょっと不思議なこと、あると思うのですけど、そういうことが世の中に存在している可能性を残しておくと、なんとなく救われる気持ちがするのです。

以前、ブログに前の職場の上司のことを書きました(その部分は削除してしまってもう残っていないのですが)。とてもお世話になった上司だったので、東京に来てから挨拶に行きたかったけれど、連絡がうまく取れなかったりして、もういっか、忙しいだろうし、とあきらめました。ブログに自転車のことを書いていて、その上司とのやり取りを思い出し、とても懐かしくなりました。二日後に、ぼーっと夜ごはんのカレーをかき混ぜていると、急にいま上司に連絡しなきゃという気持ちが湧きあがってメールをしました(少し心配なことがあったのです)。約一年ぶりくらいに。返信ないなぁと思っていたのですが、翌日になって、近況を知らせてくれるメッセージが届きました。そして「ちょうど二、三日前に○○さん(私)のことを思い出して 、そしたら、メールが来た」と。ちょうど二、三日前に考えてたよ!と、ご本人に伝えはしませんでしたが、気持ちが通じたのかな、と思いました。

身近な人を亡くしたあとは、何事もその人からのメッセージだと思いたくなってしまうようですが、私もそうで、いくつかそういうことがありました。そんなの偶然だよ、と言ってしまえばそれまでですが、でももしかしたら、そこに何かしらの思いや意思のようなものが働いていたりするのかな、と思うのも悪くない。「大切なものは目に見えない」じゃないですけど、ないと思ってしまえばそこで終り。そんなこともあるかも、と思うことでひろがる世界もあるよね、と都合よく私は考えたいのです。

デジャビュにちょっと似たような感じで、ふいにある光景が頭の中に浮ぶことがあります(最近はかなり少なくなりましたがデジャビュもよくある)。もしかしたら記憶なのかもしれないけれど、自分でその光景を見た記憶はない。さらにただ光景が浮かぶだけではなくて、懐かしさのような、不思議な気持ちがそこにあるんです。以前は、自分も誰かの生まれ変わり?とか、先祖の記憶?等と思ったのですが、それにしては景色が現代的すぎる(昔のヨーロッパとか、ギリシャとか、江戸時代?のような光景もあるのですが)。まったくなんの根拠もないのですが、どこかの誰かの心を感じているのかもしれない、とあるときふと思いつきました。

自分が何かしようと思うとき、その意思の始まりはどこにあるかわからない。だから(というつながりはとっても飛躍しているのですが)、もしかしたら人の思いやなんかは電波と同じように世界中を飛び回っていて、ふとしたときにそれをキャッチ!して影響を受けているかもしれないと、思ったわけなのです。それはどうやってもきっと確かめようのないことだから、逆にそうでないとは言い切れないことだ、と思うのです。自分が良い気持ちをたくさん発するほど世の中が少しよくなるかもしれないし、何か第六感ではないけれど、感覚を研ぎ澄ませることで世の中の大切な何かをたくさんキャッチできるようになるかもしれない、なんて、夢見たりする。

ところで、上司に気持ちがつながった?と思ったときというのは、思いかえしてみると、詩を書こうと思って昔の家の電気みたいに少し明かりを黄色く暗く落として淡いあわいに向かって目を凝らす、ような心持ちだったような気がします。だから、先輩が亡くなって詩を書くのがとてもむなしくなってしまったけれど、気持ちが落ち着いて、やっぱり文章を書くのが好きだと思ったとき、続けよう、と思いました。

詩を書こうとするとき、詩を見つけようとするとき、開く目が、なにかとても大切なことに気付かせてくれるかもしれない。その瞬間にはそれが大切なことだとも気付かないくらい淡くて微妙なものかもしれないけれど。先輩のためにもっとできることがあったのでは、もっと寄り添った言葉をかけたり、行動をしたりできたのではないか、と苦しい気持ちが胸の中をずっとゴロゴロ転がり続けていたけれど、そういう感覚を鋭くしておくことで、その人が本当に必要としているものを適切なときに差し出すことができるようになるかもしれない。四十九日の旅のとき、先輩が私にそのようにしてくれたように。さらには、亡くなった人の思いさえ感じ取れるようになれるかもしれない。まあできたとしても、それを確認することはできないのですが。

ところで、「微妙」って、本当はすごくいい言葉なのですよね。「ビミョー」みないな言い方に慣れてしまって、最近なんだか「ビミョー」ですけど。携帯に入っている大辞林で見ると、
1.なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深い・こと(さま)。
2.はっきりととらえられないほど細かく、複雑で難しい・こと(さま)。
微かに妙なる、ですもんね。微かに妙なる詩を書けるようになりたいです。そのように世界を、大切な人の気持ちを捉えたいです。

ですが……、昨日もテロがあったのですよね。そんな消極的な思いなんて嘲笑うばかりのことが世の中にはあふれていて……。人は一体何を目指したいのでしょう?(全体的な意志などなくて、てんでばらばらで、それがいつのまにか何かの意志によって、どこかに向かってしまうのかもしれませんけど)人って、なんなんでしょう?

ふと、本棚にある『137億年の歴史』をパラパラとめくって読む。人間て、残酷なことばかりしているし、生きるって本当はものすごく壮絶なことなのだろうし、地球はいま、大変なことになっているようだし、私って何?と、思うと、おなかが空いて、ミルクコーヒーを作ってミスターイトウのチョコチップクッキーを食べました。とりあえず。不安になるのは自分の幸せの尺度が空中楼閣のようなかりそめのところにあるから。本当の世界の有り様からかけ離れているから……。

そして、先輩が亡くなってから読みかけのままになっていた『薔薇の名前』の続きを読み始めて、ふと、だから眼を瞑る方法ばかり学んでしまう、と思いました。

『137億年の歴史』クリストファー・ロイド著 文藝春秋社
『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ著 東京創元社

「書物にとっての喜びは、読まれることにある。書物は他の記号について語る多数の記号から成り立つのだが、語られた記号のほうもまたそれぞれに事物について語るのだ。読んでくれる目がなければ、書物の抱えている記号は概念を生み出せずに、ただ沈黙してしまう。」(『薔薇の名前』より)
ウィリアムの言葉がかっこいい。


夏を引っ張りまだ八ヶ岳

自然の景色を見ているときも

大気に微かに漂っている妙なる何かに

触れられるような気がする……

なんて思うのは能天気の極みなのでしょうね……




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