先日、家の掃除をしていたとき、具体的には、机の下や、ちょっとしたカーペットの下を、屈んだり、めくったりして、クイックルワイパーで埃を拭き取りながら、動物が泣かないことについて考えていた。
最近、ポテチがとまらない。
体がしょっぱいものを求めてしまう。
しょっぱいものが欲しいのに、手に入れる、というか、口に入れる、ことができなかったら、つらいだろうな、と思った。
猿にしょっぱいものを舐めさせて、その後をついていって水場を探すブッシュマンだったか、のドキュメンタリーを思い出した。
動物は、過酷だ(人だって過酷なのだけど。私がいまたまたま、呑気な暮らしが許されているだけで)。
先日は、『ダーウィンが来た!』で、群れから追い出されてしまったメスライオン(だったかな?すべての記憶が曖昧)が、子供たちを連れて水場に行き、ようやく喉の渇きを癒せると思ったら、そこを縄張りにしているライオンたちに追い出されてしまう、姿を見た。
見ているこちらもつらくなる。
でもメスライオンは泣いてなんかいなかった。ただ、じっと座って耐えていた。動物は、泣かない。人は、泣く。赤ちゃんはいろんなことをアピールして泣く。そういえば動物も赤ちゃんは泣いている。というか鳴いている。餌が欲しい餌が欲しいと。
泣く、ということはアピールなのだなぁと思う。しかし、人は飢えているとか、ケガをして痛いとかだけでなく、感情でも泣く。動物は感情では泣かない(基本的には?)。
「悲しい」って何だろうか?そうか「悲しい」というのは、自分を憐れんでいるのだな。人は自分を憐れむ生き物なのだな。
ということを、クイックルワイパー的難所を低姿勢で攻めながらなぜか思っていた。
泣くのはアピール。人が群れで生活する動物だからこそのもの。一人で泣くこともあるけれど、それだって、自分のことを第三者的に眺めている誰かに向かって泣いているのかもしれない。
自分を憐れむのをやめたら、もっと強くなれるのかも。
けれど、アピールそのものが悪いわけではないのだ。それは「伝えたい」という欲求で、黒目を小さくし、白目を見えるようして、他者にも視線がわかるようにすることで、コミュニケーションがより複雑にできるようになったのと同じで、泣くことで、より複雑な感情を伝えることができるようになったのかもしれない。
他者への共感も自分への憐れみから生まれるものなのかもしれない。そのような複雑な感情を持つようになった人間という動物だからこそ。
最近、ポテチがとまらない。
体がしょっぱいものを求めてしまう。
しょっぱいものが欲しいのに、手に入れる、というか、口に入れる、ことができなかったら、つらいだろうな、と思った。
猿にしょっぱいものを舐めさせて、その後をついていって水場を探すブッシュマンだったか、のドキュメンタリーを思い出した。
動物は、過酷だ(人だって過酷なのだけど。私がいまたまたま、呑気な暮らしが許されているだけで)。
先日は、『ダーウィンが来た!』で、群れから追い出されてしまったメスライオン(だったかな?すべての記憶が曖昧)が、子供たちを連れて水場に行き、ようやく喉の渇きを癒せると思ったら、そこを縄張りにしているライオンたちに追い出されてしまう、姿を見た。
見ているこちらもつらくなる。
でもメスライオンは泣いてなんかいなかった。ただ、じっと座って耐えていた。動物は、泣かない。人は、泣く。赤ちゃんはいろんなことをアピールして泣く。そういえば動物も赤ちゃんは泣いている。というか鳴いている。餌が欲しい餌が欲しいと。
泣く、ということはアピールなのだなぁと思う。しかし、人は飢えているとか、ケガをして痛いとかだけでなく、感情でも泣く。動物は感情では泣かない(基本的には?)。
「悲しい」って何だろうか?そうか「悲しい」というのは、自分を憐れんでいるのだな。人は自分を憐れむ生き物なのだな。
ということを、クイックルワイパー的難所を低姿勢で攻めながらなぜか思っていた。
泣くのはアピール。人が群れで生活する動物だからこそのもの。一人で泣くこともあるけれど、それだって、自分のことを第三者的に眺めている誰かに向かって泣いているのかもしれない。
自分を憐れむのをやめたら、もっと強くなれるのかも。
けれど、アピールそのものが悪いわけではないのだ。それは「伝えたい」という欲求で、黒目を小さくし、白目を見えるようして、他者にも視線がわかるようにすることで、コミュニケーションがより複雑にできるようになったのと同じで、泣くことで、より複雑な感情を伝えることができるようになったのかもしれない。
他者への共感も自分への憐れみから生まれるものなのかもしれない。そのような複雑な感情を持つようになった人間という動物だからこそ。
ウェストミンスター寺院