詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

見えるもの見えないもの

2023年01月28日 | 
わたしには見えないわたしの顔を
通りすがりの見知らぬ人は
一瞥で見ることができる

わたしの瞳は
この小ささが巨大なスクリーン
広い空も海も山も
雲の乱舞も
一度に収めることができる

通りすがりの人も
風景を湛えたわたしのこの瞳を見ることができる
でもこの瞳が何を見ているか見ることはできない
実は濁っていること

わたしも他の人のそれを見られない
ただ想像するだけ



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2023年の抱負

2023年01月01日 | 雑記
新年あけましておめでとうございます。
旧年中も、わたくしごとにお付き合いいただき、ありがとうございました。
本年も少しずつ記事をアップできればと思っております。
少しずつ、楽しい記事にできれば、と思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。

さて、今回の年越し読書はこちら。
國分功一郎先生の『暇と退屈の倫理学』です。



このタイトルからして私の人生のテーマかもしれない、と思いましたが、本書を読み、人類のテーマであったのだとわかりました。

まだ読んでいる途中ですが、私自身は、ある程度、人生の退屈をいかに回避するかが出来上がりつつあります。
ただ、これも、年齢や環境によるものも大いにあるのかもしれず、恐らく数年、数十年後には別のやり方を見つけなければいけないのだろうな、という予感はしております。

本書の本質のところをまだ理解していない段階で言ってしまうのは少し勇気が要りますが、メモとしても、書き留めておきたいな、と思います。

考えてみると、小さい頃から、ある部分への興味があったと思います。
それが何なのかわからず、もしかしてそのまま亡きものにして生きてしまう可能性も大いにあったと思うのですが、運良く(見方によっては運悪く?)ここまでなんとか消さずに運んでこられた、守ってこられたように思います。

それを大切にする
ということ、それが私の人生においては退屈の理由でもあり、退屈の撃退法でもある、つまりは人生の意味かもしれない、などと、大げさにも思っています。

この年末の休みに入って、私はひとつ大きな気づきを得ました。

ここ数年は私にしては珍しい、忙しい日々なのですが、だからこそ、休日をいかに過ごすか、を真剣に考えるようになりました。

そして比較的余裕のある年末の休みに入り、自分にとって大切なことに時間を使おう、と思いました。

すると、ほとんど生産性のない一日になる、ということに気がつきます。
詩、一日で一行直した、くらいで終わってしまう。

以前なら焦りを覚えたこのような状況で、「何かをした」と自分に言うために何かをしないことが、本当に自分の大切なことのために時間を使った一日なのではないかと思い至りました。

大切にする
とは、意味があるかどうかを問わないこと、もっと正確に言うなら、他者にとって意味があるかどうか、未来の自分にとって意味があるかどうかを考えずに、いま感じる手ざわりでいまに集中すること。

そして、未来や他者にとっての意味に向いた自分のために、気持ちを紛らせないこと。

なのではないかと思いました。

まるで若者みたいじゃないですか!?
私はあまり若者らしい若者時代を過ごしてこなかったので、いまそれを取り戻しているのかもしれません。

退屈とは、損得を計算する頭が、いまが何の役にも立っていないぞと自分を糾弾している状態なのではないかと思います。

だって、カーペットに落ちているゴミをひたすら拾ったり、枕に刺さっている髪の毛を一本一本抜いたり、ブラシについている埃を楊枝でほじくってるのとかって、それだけですごく楽しくないですか?

私にとっていま大切なこと、バカみたいに聞こえると思うのですが、詩を書くこと、ピアノを弾くことなんです。なんて何の役にも立たないことなのでしょうか!?

われながら呆れますが、なぜかいま一生懸命にやりたいと思ってしまうこと、なのでした。

役に立たないし、振り返ったら、なんであんなことに時間使っちゃったんだろう?と思うかもしれないこと、後悔するのかも、と思いながらもそれを選ぶということ、何かの為じゃない、ということが、なぜか、「だからこそ」自分にとって大切なことなんだよ、「だからこそ真剣だ」と自分に言えるんだよ、といまは感じています。

真剣さから行動への反映にはレベルがあって、私はそこも非常に甘っちょろいので、この文章の大げささとのギャップが滑稽だとは自分でも思うのですが。

それさえも、他人と比べてペースアップしないことが、まさに退屈と戯れつつも退屈をすり抜けていく光なのではないかと感じます。

というわけで、今年の抱負は、生産性を気にせずに詩を書く。
ピアノはブラームスのOp.118 『6つの小品』すべてを暗譜で弾けるようになる(他に平均律クラヴィーアの第一巻2番、ショパンのエチュードOp.25-1、欲張りすぎ……)。
感覚を研ぎ澄ませる。

で、まいります。

ところで、いまこうして要するに趣味にしきりと一生懸命な気持ちになってしまうのは、仕事を一生懸命にやっているからだな、ということも感じています。だから、今年も仕事、がんばります。

追伸
でも、詩を書く、ピアノを弾くって、そんなに純粋ないまじゃないよね、と思う方いらっしゃると思います。私もそう思います。自分の純粋な興味と計算が、もはや計算に見えないくらいに深く複雑に絡まり、根となっているいまの充実が、意味に支配されすぎる自分がスタンスや巡る気持ちも含めて、数十年かけて織りあげた退屈の作品なのだと思います。
コメント (2)
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