詩と写真 *ミオ*

歩きながらちょっとした考えごとをするのが好きです。
日々に空いたポケットのような。そんな記録。

時空を超えた話

2024年10月31日 | 雑記

前職で、朝、日経新聞の読み合わせをしていた習慣が残り、いまも通勤電車では日経新聞に目を通すことにしている。座れたら寝るし、読みながらうつらうつらしていることも多いのだけれど。

「春秋」蘭で、9月に亡くなった写真家 細江英公について触れられていた。28歳の時に三島由紀夫の自宅へ撮影に行き、庭にあったホースをくわえさせたり、ぐるぐる巻きにしたりと無茶なことをした、とのエピソードに興味が湧いた。ネット検索してみると、ちょうどフジフイルムスクエアで企画写真展をやっているとのこと。

上野の東京都美術館で開催されている『田中一村展』に行った後、立ち寄ってみることにした。東京ミッドタウンに着いて、降り始めた雨を避けるようにフジフイルムスクエアに駆け込む。ところが、フロアを見てまわっても、それらしき展示がない。『鎌鼬(かまいたち)』とか『薔薇刑』とか、ネットで見て、モノクロゆえか、さらにどぎつく感じた作品が見当たらない。

ラッキーなことに、ロベール・ドアノー展が開かれている。あれれ?という気持ちをいったん置いて、これが『パリ郊外』かぁ、モノクロ写真は味わいがあるなぁ、など思いながら、ひと通り見た。それにしても細江英公展はどこなのか。ネットで再度調べるも、開催場所は写真歴史博物館と書いてある。ドアノー展の入り口を見直すと写真歴史博物館とある。

不思議な感覚。ここにいるのに、ここにあるはずのものが見えない。まるで同時に存在している別世界に来ている、もしくは別世界があるのに見えない、スライドした窓と窓の間、現実が二重映しになっているところに嵌まり込んでいるような感覚。

ところで、『スピード』でお馴染みだったコンビ、キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロック共演の『イルマーレ』という映画を観たことがある。

湖に建つガラス張りの家。家を囲む湖とそのほとりの景色の、時間や季節による変化の中に、部屋が浮かびあがっている。

その家に越してきた男性と、転居していった女性が、家のポストで手紙のやりとりをするようになる。やがて、二人は二年の時を隔てて文通をしていることがわかる。サンドラ・ブロック演じるケイトが手紙を投函したり、返事を受け取ったりするために訪れるこの家では、その手紙を受け取ったり、返事を書いたりしているはずのキアヌ・リーブス演じるアレックスはおらず、一方、転居していったはずのケイトから手紙を受け取るアレックスは、この家にはしばらく人は住んでいなかったはずなのに、と思うのだ。

以前、似たようなことがあった。あくまで自分の感覚的に、ということだけれど。新宿NSビルのタリーズで、夜、夫と待ち合わせをした。夫から着いたと連絡があり、私は少し遅れてタリーズに着いた。ひと通り席を見て回ったが、夫の姿が見えない。携帯で電話する。「タリーズに着いたけど、いる?」「いるよ」「姿が見えないんだけど」

すごく不思議な感覚だった。『イルマーレ』の映画の中のように、二人が違う時空にいるような感じがした。同じ場所にいるのに、透明なガラスを隔てたようにずれがあって、重ならない。実は、同じビルにタリーズが二つあっただけだったのだけれど(そのことにもびっくりしたけど)、その不思議な感触は、頭の中というより身体感覚として残っている。

フジフイルムスクエアでの不思議も、『細江英公特別展』のサイトをあらためて見直してみれば、一年前の開催だっただけなのだけれど、自分のおバカさ加減に苦笑しつつも、その一瞬、時空を飛び越えたような感じがした。新宿NSビルのタリーズでの感覚が蘇り、その向こうには、ガラス張りの湖畔の家があった。

映画を観た後にはそんな感覚が自分の中に残るとは思ってもいなかった。でも、いつのまにか自分の身体感覚を作る風景の一部になっている。ちょっとした体験が重なり、その体験を捉える際のイメージの源が映像の中にあったことに初めて気がついた。

あの映画(もとは韓国映画がオリジナルのようで、そちらはまだ観ていない)は、湖の中に建つガラス張りの家であることが重要だったのだということにも、こうして時を経て初めて気がついた。邦題は『イルマーレ』という劇中に出てくるレストランの名前だけれど、原題は『The Lake House』(韓国のオリジナルは『イルマーレ』がタイトルらしい。ちなみにイルマーレはイタリア語で海という意味だそう)。

ガラス、そして湖という水。どちらも周囲の景色を映す媒体で、だからこそ、現実を二重にしながら、それらを映したままで、揺れ動いたりする。

ある映画が自分の中に風景やイメージを作っていて、そのイメージが、窓を通して見る世界のように、思わぬタイミングの他愛ない出来事の重なりに、時間と空間という奥行きを映して揺れた。

心象風景は、はかない。骨は何万年も残るかもしれない。でも、心の中にある景色はすぐに他の印象や記憶に埋もれ溶けてなくなる。わずかに残った感覚のモザイクも、体ではないのに、死とともに消えてなくなる。体ではないから、かもしれない。波紋で像がいっとき壊れても、頑固に景色を戻そうとする水面とは異なり、そこにないものまでも映すがゆえに、隠れてしまった景色もまた、たくさんある。

 

周囲の世界をかたどる水の表情の豊かさ

立山 室堂のミクリガ池では、さざなみが生み出す細かな光と陰が、ゆっくりと、渡り鳥のように水面の空を渡っていった。

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最高の時は演出できない、という恐れ3

2024年09月27日 | 雑記

※行為を目指す人、状態を目指す人
(行為を目指す人も、行為後の達成感など、最終的には状態を目指しているのかもしれないけれど、きっかけとしては行為することに気持ちが動くのでは)

状態を目指すと、受け身になりがち?

「最高の時は演出できない、という恐れ」というタイトルで書いてみた雑記
1では、心身は時々刻々と変化していくから、「最高の時」は、偶然にしか得られないのではないか、と考えた。

2では、自分はなぜ計画を立てるのが苦手なのか、それは、自分がいつも、偶然得られるような感覚的な「最高の時」を求めてしまうからなのではないか、と考えた。

3では、私とは、まるで違うタイプの人について考えてみる。

ある友人は週末を利用して登山に行く。その実現のため、平日のうちに家事を片付けておくらしい。仕事を終えた夜のうちにてきぱきと。えー!ずっと忙しいじゃん。ずっと疲れるじゃん。ぜんぜんゆっくりできないじゃん。

休みといえば、のんびりするとこ、と思ってしまう私には信じられない感覚だ。しかし友人は、仕事では外から縛られてしまう時間を、休日、計画を立てて行動し、自分の思う通りに使う、ということでリフレッシュできるらしい。

なるほど。そういう感じ方もあるのだ。どんな時を「最高」と感じるかは人によって違う。その違いによって、選択の仕方、時間の過ごし方、大げさに言えば生き方も変わる。

感じ方は生来のものと思ってしまうけれど、実際は習得された考え方によって決まる、変わる、のではないか。

その結果は、どんなふうであっても、いいのだけれど、近頃の私は計画を立てられるようになりたいと思っている。そうして自分を少し違う場所に連れて行けるようになりたい。自ら意図することによって。

そうなると、「最高の時」に出会える偶然を期待するような受け身な姿勢ではダメだなぁと思う。自分の中にこれをしたいこうしたい、がないから、目の前に現れる様々な用事(プラス自らの雑念やちょっとした気晴らし)に自分の時間が埋もれてしまう。

なんの座標もない見渡す限り大海原の波間のようなところに自ら任意の錨をおろしていき、自分はこれとこれとこれを目印にして生きています、と言えることが大人らしい態度、というか力強い生き方なのではないだろうか。偶然出会える快感という波を当てにしてはいけない。自分の快感の種類を変えなくてはいけないのではないか。

友人を例に考えてみれば、彼は身体に負荷がかからず楽であることを求めているのではなく、自分が決めたことを実行したこと、さらに経験を重ねてより良い登山を実現していくことに快感を覚えているのだ。なんと健康的で逞しい精神だろうか。

自分がこうしたい、と思ったことを、自ら行動することで叶えられたら素敵だなぁ。それを「最高の時」と思えるようにならなければ。さて私は何を叶えたいだろうか。

しかし……。何のために?

考え始めると、自ら目標を定めてそのために行動することを理想と考える、それさえも軽い波に押し流されてしまう。それが自然と身についていたのではない、私のようなタイプがそれを真似したところで、「私はこれをしています」と、誰とも知れない誰かに向かって言いたいだけの、つまらない自尊心なのかもしれない。しかし、さらにあらためて考えてみると、誰とも知れない誰かに向かって(つまり自分に向かって)言いたいだけの自尊心こそが何より大切なような気もする……。

そうして一回りして、何を考えたことにもならない思い巡らしをする中でも、どこにも到達できる気がしないことばかりの中で、自分にとって大切、と感じられる場所に関しては、重めの錨を降ろしておこうかな、などと思う。演出できない「最高の時」のことなど当てにせず、自分がそれを大切にしている、ということに、喜び、というか、自分の確かさを感じて生きていける、というふうでありたい。

追記1
こうしてあれこれ考えると、計画を立てるというのは、人間らしい営みだな、と思う。知的な生物として、というよりは、生物の本能に従えば、やらないだろうようなことをしてしまうこと。計画というブイを浮かべても、いろんな要因という潮で流されてしまうのに、あきらめずに一生懸命元に戻そうとしたり、流されたところでなんとかしたり、また新たな計画を立ててみたり。そうやって、文明の飛距離を伸ばしてきたのだなぁ。私などは計画を立てることの意味すら押し流されてしまって、生きるための生活ばかり。

追記2
恐ろしいことに、「最高の時」は味わっている現時点だけでは足りず、過去についても評価がなされ、それもまた時につれ変化する。いつ時点の「最高」に照準を定めたらいいのか、そこにもその人の生き方考え方が現れてしまっている。

追記3
当記事が停滞(繋留)している間に堀江敏幸『河岸忘日抄』を読み進む。
「つまり、受け身を重ねてできた石の形姿や大きさは、そのまま石の個性だと言っていいのではないでしょうか」by枕木さん

 

「最高の時」は演出できない、という恐れ 1 - 詩と写真 *ミオ*

転職先の新しい職場はこれまでよりも朝がゆっくり。楽でいいと思ったけど、通勤電車の混雑がピークになってしまうので、結局、始業の一時間前に出勤するようになった。職場...

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「最高の時」は演出できない、という恐れ 2 - 詩と写真 *ミオ*

たとえば、七月から九月の間で夏休みを三日取っていいですよ、と言われたとする。三連休とくっつけて海外に行こう、といった計画を立てるなら、必然的に休みを取る日は絞ら...

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夕焼けを見ながら、十年という時の長さについて考えていた

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「最高の時」は演出できない、という恐れ 2

2024年07月21日 | 雑記

たとえば、七月から九月の間で夏休みを三日取っていいですよ、と言われたとする。三連休とくっつけて海外に行こう、といった計画を立てるなら、必然的に休みを取る日は絞られてくる。

しかし、まだ新人(この歳で)で、いつが忙しいかもまだよくわかってないし、業務のコントロールも難しいし、さすがにそれは無理かな、と考え、三日間を自由にバラバラに取る、と考えると話が違ってくる。私は途方に暮れてしまう。一体いつ休みを取って、それを何に充てたらいいのか。いずれの日にも必然性がないのに、それらを任意でどこかに当てはめなければならない難しさ!

そんなふうになってしまうのは、もしかして、私がその休みによって得たいものが「偶然だけがもたらしてくれるような快感」だからなのではないか。

いつ、どのように休みを取れば、そんなことは可能になるのか……。いつまで経っても決まらないわけだ。いつにしたところで、何をすると決めたところで、求めている快感を得られるのか確信を持てないのだから。そりゃ持てないはずだ。意図したって、いや、意図するからこそ、得られないものなのだから。

刻々と変わる私の「身体」が求めるものに照準を定めてしまっては、動き続ける的を追いかけるようなもので、それが一ヶ月後にどこにあるか定めよ、みたいなこと、できるわけがなかった。

なのに、私はそのように生きてきたらしいのだ。どこに行ったら、何をしたら、仕事の前の夏ギフトカタログパラパラほど、快感を得られるのか、みたいなことを思っていたのだ。意図すればするほど、そこから外れてしまうというのに。

***

まだ続く……

偶然見つけて最高の時を過ごしたコンサート 青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂にて

 

「最高の時」は演出できない、という恐れ 1 - 詩と写真 *ミオ*

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「最高の時」は演出できない、という恐れ 1

2024年07月06日 | 雑記

転職先の新しい職場はこれまでよりも朝がゆっくり。楽でいいと思ったけど、通勤電車の混雑がピークになってしまうので、結局、始業の一時間前に出勤するようになった。

職場の近くのファミマで淹れたてコーヒーを買っていくのは前職からの習慣。

私は朝が弱く、布団から身を引き剥がすのも大変だし、生まれたてのゾンビ……、じゃなかった、死にたてのゾンビみたいに世を儚んで、フラフラしながら通勤電車に乗っている。電車を降りたら、重い体を引きずって、ようやく職場に着く。

不要な荷物をロッカーに放り込んで、パソコンのスイッチを入れて席に座ると、買ってきたアイスコーヒーを手元に引き寄せる。慌てるのが苦手な、のんびりタイプのゾンビなので、始業時間に業務をスムーズに開始できるように、大量に届くメールを仕分けしたり、自分のフォルダを整理したり、といった気楽なことをして、溶けかかった体を朝に慣らす。冷たい闇(アイス・コーヒー)の力を借りながら。

カフェインを注入し、自分のペースで、静かに何かしらの作業をしていると、体がしっかりとし始め、ゾンビだった私も人として息を吹き返す。

ところで、数日前から、私の机の脇には、郵便局の夏ギフトのカタログが置いてあった。会社に届いたものだが、経理の方から「見るならどうぞ〜」と渡されたのだ。捨てることもできず、しばらくそのままになっていた。

また別の話だが、労働法規に厳しい同期入社の人から、「始業前に仕事をする必要なんてないですよ」と言われて(なのにその人は始業の三時間くらい前に来て、掃除機をかけたり、給茶機の水を替えたりしてくれている!)、それもそうかぁ、少し自分のことに有意義に時間を使おうかしら、と思った。

そんなこんなで、ふと、郵便局の夏ギフトから夫の両親に何か贈ろうか、と思いついた。明日は始業前の、このゾンビから人へと生まれ変わる変身タイムを使って、カタログをパラパラめくろっと、と思った。

翌日、フラフラゾンビはいつものように暑さと怠さを乗り越えて職場に辿り着き、ひと通りの机のセットを終えて、アイスコーヒーを片手に夏ギフトをパラパラし始めた。旬の果物の詰め合わせ。果物の入ったゼリー。水ようかん。ジュースなどなど。なんとも喉ごしさわやかな誌面。なんか、心地良い。いやなんだか、異様に気持ちいい。もしかしていま、最高の時間かも。

あまりに気持ちがいいので、この時間をもっと延長したい、と思って、仕事が終わったらカタログを持って喫茶店に行こうかな、などと考えた。

いやしかし。長さは充分あるけれど、豊かさは乏しい私の経験からでも容易に予想がついた。実際にそうしたとしても、この心地良さは再現できないのだと。意図してできるものではないのだと。そうしよう、と決めた時点で何か違うものになってしまう。意図には「気分の無視」が付きものだからだ。

「え?カタログを始業前にパラパラしようと、前日から意図してたじゃん」と、ここまで読んでくださった方は思うかもしれない。でもそこで意図したのは行為であって、心地良くなること、ではなかったのだ。

そうだ、最高の心地良さは偶然にしか出会えない。心地良さを目指した途端、体の感覚は無視されてしまう。さらには、何に心地良さを感じるか、その条件は自分の中で、刻々と変わっていく。気温、湿度、体調、気分、少し前の出来事への忸怩たる思い。これから起こるであろうことへの期待や不安。これらが様々組み合わさって、いま、私にとって一番心地良いものは変化していく。

そんなふうに考えていると、ふとまた別のこと、自分の精神構造が、見えてきた。なぜ計画を立てるのが苦手なのか。もっと正確に言うなら、なぜ、必然性のないところで計画を立てるのが苦手なのか。

ほんとどうでもいい話で恐縮ですが、次回に続く。

きれいな空を見ると、気分は上向く。

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今日のお天気 2024/5/31

2024年06月09日 | 雑記

夜になると、「ああ今日もなんとか終わった。ようやく布団に入れる」などと、うれしく思って、一日が終わることを大喜びしている。

そうやって何気なく過ごす一日一日に、私は確実に歳を取り、感じて考えて過ごしていることを、惜しむことなく忘れてしまう。私の人生は、重さのない感じた考えたことの見えない山積でしかないのに。

5/26(日)に日本の南の海上で発生した台風一号は、今日、温帯低気圧に変わった。

傘を差して家を出る。台風ではなくなったとはいえ、今日も雨。

このところ、身体なのか、気持ちなのか、疲れが取れない感じがする。のんびりできる時間もあるのに、なんだか休んだ気がしない。重く感じる体で家を出ると、雨だけど、ベタベタせずに、ひんやりした空気が心地いい。

道路の横断歩道のあたりにできた水たまりが細長い銀色の川のように見えて、その水面にたくさんの小さな透明な王冠があちらこちらと跳ねまわっている。

紫陽花の色は鮮やかで、学校の裏側の、いまはまだ誰もいない部室の静けさ、翳っている窓とそこに差し掛かる青々とした木々の枝葉との遠近感が、思い出す自分の高校時代のように、近くて遠く、幼い頃からこの距離をずっと眺めてきたような気がする。

空気なのか気持ちなのか、いろんなものの輪郭がくっきりと見える。そのことに目が覚めるような気持ちになる。体に芯が通り、足取りがしっかりする。見るということに強い意思はなかったけれど。見ているということは生きているということなのだとふと思う。

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