<4月21日の日記>
南三陸で迎える朝。<ホテル観洋HP>
↑朝からベランダに登場。同じトリさん?昨夜はどこで眠ったんだろう。
昨日はくもっていてよく見えなかったけど、向こうに南三陸の中心部が見えます。町全体がかさ上げ工事中。
朝風呂も入りまして、しっかり朝食を食べました。バタバタと準備をして「語り部バス」に乗り込みました。
ホテル観洋の語り部バスは、南三陸町内の戸倉地区→高野会館→防災庁舎とホテル従業員の方のお話を聞きながらめぐります。
まずは戸倉地区、戸倉小学校跡地へ。戸倉小学校には地震・津波発生当時約200名の児童・職員がいたんだけど、先生たちのナイス判断により、高台にある神社へ避難して全員が無事だったそうです。その避難場所というのが、数日前にある先生が避難場所の変更を提案し、前日に避難訓練を行っていたばかりだったと。例えば屋上なんかに避難してても誰の命も助からなかったはず。見えない力を感じて鳥肌が立ちました。東北の3月=雪の降る寒い日に夜眠ってしまっては危ないので、たき火をたいて身を寄せ合って、みんなで翌日の卒業式で歌うはずだった川島あいさんの歌をくり返し歌い続けて朝を迎えたそうです。予定から2ヶ月後に行われた小学校の卒業式には川島あいさん本人がサプライズで登場したんだと。
次に高台にある戸倉中学校へ。こちらは小学校と違って高台にあるので津波の難を逃れたのかと思いきや・・・
↑止まったままの時計。
↑この体育館の裏から水が流れ込んできたと。すでに高台にあるのに、2階部分まで水が上がってきたとのこと。
↑今は仮設住宅になっていました。
今は戸倉小も戸倉中も志津川小・中に統合されたそうです。少し距離があるので通うのも大変だろうな。
バスの中でかつての南三陸町の写真を見せてもらいました。
↑こんなにいろいろあったのに、
あの日の大津波で、
↑町ごと全部流されたなんて。
南三陸町はかつてのチリ地震津波(5m)を体験しているだけに防災意識の高い町だったそうです。沿岸部には立派な防潮堤もありました。昔から「津波てんでんこ」という言い伝えがあって、津波があったら別々に逃げろ、自分の命は自分で守れ、という意味だそうです。 町の人もまさか最大20mの津波が来るなんて想像できなかったはず。なんと町全体の62%が津波によって流出、死者・行方不明者合わせると約800名。4年たった現在でも町民の3分の1(約5千人)の方々は仮設住宅に住んでいるそうです。
ガイドをしてくれたホテル従業員の方も気仙沼にある自宅は流されていたそうです。でも「家族が助かったからこれ以上のことはない。」と話していました。震災以降、ガソリンは常に満タンにしておくとか、車のトランクに最低限の荷物を積んでおくとか、非常時の備えをこれまで以上に行うようになったそうです。
海沿いに建つホテル観洋ももちろん津波の被害を受けていて、2階部分まで水浸しになったそうです。その後も町の2次避難所として町民やボランティア・工事関係者を受け入れ、避難住民のために様々な取り組みを行いました。一般営業を再開したのは半年後の9月末。従業員は自分の家族の安否も確認できない中、お客様最優先で対応していたんだそう。
語り部バスが終わってチェックアウトした後、話に出てきた戸倉小の児童・職員が避難した高台にある神社に自分たちで行ってみました。
そこにある石碑には、
「未来の人々へ 地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」と刻まれていました。
↑このお堂の中と回りでぎゅうぎゅうになって一夜を明かしたんだとか。
↑こんなに高いところにあるのに、鳥居のすぐ下まで津波は到達したんだそうです。
↑戸倉小があった所。かさ上げ工事中。
↑神社のある高台を裏から見たところ。
九州では3週間以上前に見終わった桜が 東北ではなんと満開でした。
↑桜の花びらをつけていざ東京へ一気に南下します。
見れたのはほんの一部だけど、本当に来てよかった。遅くなってごめんね。
帰りは東北自動車道を一気に南下します!
いい景色~。途中でうれしいサプライズが!
東松島を通過中、航空自衛隊のアクロバット飛行に遭遇。見てるだけでもハラハラします。
いよいよ東京へ突入。ここからの運転はとにかく気が抜けません。
恐怖の首都高に入りまして、
↑スカイツリーを発見。
↑スカイツリーが好き過ぎて運転に集中できない人。
↑迫りくるスカイツリー。
↑うわ~。やっぱりデカイ!
↑さすがの首都高には「お父さんクラス」でもハンドルを持つ手に力が入っています。
↑アサヒビール。
↑金色の〇〇〇。
無事に到着。運転おつかれさまでしたm(_ _)m
↑レンタカー屋横の中華料理屋さんでハッピーアワーの早目の乾杯。
ここでしばらくバイバイ。わたしはHちゃんの新居にお泊りさせてもらいました。
やっと東北に行けた。まだ考えはまとまらないけど、いろんなことを感じた濃い3日間でした。
南三陸で迎える朝。<ホテル観洋HP>
↑朝からベランダに登場。同じトリさん?昨夜はどこで眠ったんだろう。
昨日はくもっていてよく見えなかったけど、向こうに南三陸の中心部が見えます。町全体がかさ上げ工事中。
朝風呂も入りまして、しっかり朝食を食べました。バタバタと準備をして「語り部バス」に乗り込みました。
ホテル観洋の語り部バスは、南三陸町内の戸倉地区→高野会館→防災庁舎とホテル従業員の方のお話を聞きながらめぐります。
まずは戸倉地区、戸倉小学校跡地へ。戸倉小学校には地震・津波発生当時約200名の児童・職員がいたんだけど、先生たちのナイス判断により、高台にある神社へ避難して全員が無事だったそうです。その避難場所というのが、数日前にある先生が避難場所の変更を提案し、前日に避難訓練を行っていたばかりだったと。例えば屋上なんかに避難してても誰の命も助からなかったはず。見えない力を感じて鳥肌が立ちました。東北の3月=雪の降る寒い日に夜眠ってしまっては危ないので、たき火をたいて身を寄せ合って、みんなで翌日の卒業式で歌うはずだった川島あいさんの歌をくり返し歌い続けて朝を迎えたそうです。予定から2ヶ月後に行われた小学校の卒業式には川島あいさん本人がサプライズで登場したんだと。
次に高台にある戸倉中学校へ。こちらは小学校と違って高台にあるので津波の難を逃れたのかと思いきや・・・
↑止まったままの時計。
↑この体育館の裏から水が流れ込んできたと。すでに高台にあるのに、2階部分まで水が上がってきたとのこと。
↑今は仮設住宅になっていました。
今は戸倉小も戸倉中も志津川小・中に統合されたそうです。少し距離があるので通うのも大変だろうな。
バスの中でかつての南三陸町の写真を見せてもらいました。
↑こんなにいろいろあったのに、
あの日の大津波で、
↑町ごと全部流されたなんて。
南三陸町はかつてのチリ地震津波(5m)を体験しているだけに防災意識の高い町だったそうです。沿岸部には立派な防潮堤もありました。昔から「津波てんでんこ」という言い伝えがあって、津波があったら別々に逃げろ、自分の命は自分で守れ、という意味だそうです。 町の人もまさか最大20mの津波が来るなんて想像できなかったはず。なんと町全体の62%が津波によって流出、死者・行方不明者合わせると約800名。4年たった現在でも町民の3分の1(約5千人)の方々は仮設住宅に住んでいるそうです。
ガイドをしてくれたホテル従業員の方も気仙沼にある自宅は流されていたそうです。でも「家族が助かったからこれ以上のことはない。」と話していました。震災以降、ガソリンは常に満タンにしておくとか、車のトランクに最低限の荷物を積んでおくとか、非常時の備えをこれまで以上に行うようになったそうです。
海沿いに建つホテル観洋ももちろん津波の被害を受けていて、2階部分まで水浸しになったそうです。その後も町の2次避難所として町民やボランティア・工事関係者を受け入れ、避難住民のために様々な取り組みを行いました。一般営業を再開したのは半年後の9月末。従業員は自分の家族の安否も確認できない中、お客様最優先で対応していたんだそう。
語り部バスが終わってチェックアウトした後、話に出てきた戸倉小の児童・職員が避難した高台にある神社に自分たちで行ってみました。
そこにある石碑には、
「未来の人々へ 地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」と刻まれていました。
↑このお堂の中と回りでぎゅうぎゅうになって一夜を明かしたんだとか。
↑こんなに高いところにあるのに、鳥居のすぐ下まで津波は到達したんだそうです。
↑戸倉小があった所。かさ上げ工事中。
↑神社のある高台を裏から見たところ。
九州では3週間以上前に見終わった桜が 東北ではなんと満開でした。
↑桜の花びらをつけていざ東京へ一気に南下します。
見れたのはほんの一部だけど、本当に来てよかった。遅くなってごめんね。
帰りは東北自動車道を一気に南下します!
いい景色~。途中でうれしいサプライズが!
東松島を通過中、航空自衛隊のアクロバット飛行に遭遇。見てるだけでもハラハラします。
いよいよ東京へ突入。ここからの運転はとにかく気が抜けません。
恐怖の首都高に入りまして、
↑スカイツリーを発見。
↑スカイツリーが好き過ぎて運転に集中できない人。
↑迫りくるスカイツリー。
↑うわ~。やっぱりデカイ!
↑さすがの首都高には「お父さんクラス」でもハンドルを持つ手に力が入っています。
↑アサヒビール。
↑金色の〇〇〇。
無事に到着。運転おつかれさまでしたm(_ _)m
↑レンタカー屋横の中華料理屋さんでハッピーアワーの早目の乾杯。
ここでしばらくバイバイ。わたしはHちゃんの新居にお泊りさせてもらいました。
やっと東北に行けた。まだ考えはまとまらないけど、いろんなことを感じた濃い3日間でした。