みゆきナマケモノ日記

気の向くまま徒然なるままの日記です。現在地=横浜🇯🇵

おじいちゃん

2024-10-31 14:12:57 | 未選択


先月9月21日に我が愛するおじいちゃんが亡くなりました。

100歳でした。

写真はその1ヶ月前の8月に帰省した時のもの。

おじいちゃんが亡くなる5日前には夫側の祖母も亡くなって、まさかのお別れ会のはしご。

埼玉の夫の実家から日程を早めてバタバタと横浜の家に一度帰って、翌朝には福岡へ。

人が死ぬこと、生きることについてこれまで以上に考えた9月でした。





とても頭のいい人で最後までしっかりしていて、孫もひ孫もたくさんおるのにちゃんとみんなの名前を覚えてた。

子どもの頃からおじいちゃんとおばあちゃんが大好きで、一人でもよく泊まりに行ってた。

今となっては一人でおじいちゃんおばあちゃんと何をしてたのか、何が楽しかったのかよくわからんけど、おじいちゃんがラジオで中国語や英語の勉強をしているのを一緒に聞いてマネしていたし、一緒に笑点を見てた。

福岡に帰ってももう会えなくて、話せなくて、そう思うといちいち涙が出そうになるほどとても寂しいけど、おじいちゃんが亡くなったことによって、「死」がこの毎日の延長線上というか、すぐ隣にある、「わたしにも来る」ということを今までで一番実感している。

こうやってどんどん自分の近しい人や家族が亡くなって、遅いのか早いのかはわからんけど、そのうち自分の番が来る、それだけなんやなと思った。

子どもの頃、一緒に住んでいたおばあちゃん(父方)やひいおばあちゃんたちが亡くなった時の記憶はあるけど、その頃は子どもやったしよくわかってなかった。

数年前におばあちゃんやおじさんも亡くなってるけど、その時は海外にいてその姿を目にしていないので、どこか実感が湧いていなかった。



空港からほぼ直行で葬儀屋さんに向かっておじいちゃんと対面。

そこにいるのは「亡くなった人」でも「亡くなったおじいちゃん」でもなくて、1ヶ月前会った時とわたしにとって何も変わらない「おじいちゃん」でした。

「おーい、おじいちゃーん」

「帰ってきたよー」

「会いにきたよー」

「タローちゃんもおるよー」

「苦しくなかったー?」

今までと違うのは、返事がなかったことだけ。

これまで参列したお葬式では、どこか生きている人たちと亡くなった人の間に線が引かれているような気がして、人が死ぬってそういうことなんだなと思ってきたけど、おじいちゃんの時は自分にとって違った。

さっきまで生きていた人が死んだ瞬間別のものになるわけではなくて、おじいちゃんはおじいちゃんで、一人になってたら寂しいだろうなと思って、お通夜の時も葬儀の時も何度もおじいちゃんの側に話しかけにいった。

聞こえてたと思う。



おじいちゃん。

小さい時からかわいがってくれてありがとう。

先生になってからも話を聞いて励ましてくれてありがとう。

長生きしてくれてありがとう。

大人になってからも話ができて楽しかった。

そして何より、わたしに命を繋いでくれてありがとう。





2015年最後のスリーショット。

タローちゃんのこれからがまだまだ見ていたいので、今はなんとしても生きていくけど、おじいちゃんやおばあちゃんに会えると思えば、そのうち死ぬのは寂しくない。

おじいちゃんは最後の朝プリンを食べて眠るように亡くなったということなので、プリンを食べるたびにおじいちゃんを思い出すからね。

またね!



P.S

【100歳まで生きたおじいちゃんの名言】

(長生きの秘訣を尋ねられて)

「なんもせんことよ。運動やらしよー人はさっさと亡くなりよんしゃー」

おじいちゃんはずっとソファに座って新聞を読んでテレビを見ている人でした。

肝に銘じて生きていきます。


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