MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯782 銀行というシステムの終焉

2017年04月26日 | 社会・経済


 IT(情報技術)技術を使った新たな金融サービス「FinTech(フィンテック)」と呼んでいます。 金融を意味する「Finance(ファイナンス)」と、技術を意味する「Technology(テクノロジー)」を組み合わせた造語で、ITを駆使して新たな金融サービスを生み出したり、金融の仕組みを大きく見直したりする動きとして注目されています。

 特に2010年代以降、インターネットなどの情報通信技術等の発達が(従来は大手金融機関などが独占していた)金融業務を個人や新興金融企業が担うことを可能にしたため、業界の秩序や社会構造が変化する兆候が見られ、そのことがフィンテックはその存在感をさらに大きくしていると言えるでしょう。

 Wikipediaによれば、フィンテックの起源は2008年のリーマンショックにまで遡るということです。金融危機に直面した米国では多くの金融機関でリストラが断行され、職を失った(金融の知識を持つ)大量の人材がフィンテックに関連する事業に参画したり、事業者として起業したりした。東海岸の(ニューヨーク)ウォールストリートからシリコンバレーに、金融に関わる多くの人材が移動したということです。

 家計簿・会計ソフトウェアから資産運用、貸付け、決済と、金融ビジネスの世界で次々にその領域を広げるフィンテックに関し、2月9日のYahoo newsには、投資顧問のHCアセットマネジメント株式会社社長の森本紀行氏が「銀行死す、銀行員よ死の覚悟をもて」という衝撃的なタイトルの論評を寄せています。

 確信的なフィンテックの開発や普及により、銀行はついに歴史的使命を終えることになるだろう。もうすぐ規模と数の縮小が(現実に)始まり、いずれ遠くない将来に従来型の銀行は消滅に向かうと、森本氏はこの論評で予言しています。そして、この未曾有の危機を転じて機会にするためには、(世の)銀行マンたちは死の覚悟をもって、金融の本質を直視するほかないと指摘をしています。

 当然、仮に銀行が無くなったとしても、銀行が現に演じている社会的機能が無くなるわけではないでしょう。森本氏によれば、その機能自体は、まるでタイプライターがなくなっても(より効率的により利便性の高いものとして)コンピュータとプリンタによって実現されているのと同様に、形を変えて提供され続けるということです。

 しかし、機能は残っても、タイプライターが消滅すればタイピストという職業が不要になるのも事実です。森本氏は、故に、(そうした時代が訪れれば)タイピストのような銀行員は不要になると厳しく指摘しています。

 それでは、(近い将来)銀行の何が不要になり何が残るのか?

 銀行を銀行として規定しているのは、「預金」の存在にあると森本氏は説明しています。氏は「預金」を、決済と貯蓄を結びつける機能として位置付けています。しかし決済は、(ある意味)利便性の見地から銀行預金を舞台に行われてきただけで、もともとは金融とは次元の異なるものだと氏は捉えています。

 一方、フィンテックが活用されることによって、決済と商取引とを直接結び付けることが可能になります。もともと決済は商取引によって生じるものなので、預金を経由しない決済が一般的になれば預金の存立基盤はなくなると森本氏は予想しています。

 貯蓄機能しか残っていない預金は、一時的に滞留する摩擦資金の受け皿以上の何物でもあり得ない。(そのような存在は)投資信託等の他の資産形成手段との競争においては、何らの積極的価値をも生み得ないからだという指摘です。

 そうした中、森本氏は、銀行の固有の存在意義に「信用創造機能」を見ています。

 銀行に預金100があるとして、そのうちの20を支払準備として留保したうえで銀行が80を企業に融資すれば、その企業の預金口座に入金されることで、預金が80増加します。更に、その20を留保して64を別の企業に融資すれば、預金が64増加します。これを無限に続けると、預金総額は100を20%で除した額、即ち、500になる計算になります。この預金と融資の相互規定的な累増効果が信用創造だと氏は説明します。

 信用創造は銀行だけの機能であり、より厳密に言えば預金だけの機能なのであって、ここに銀行の本質があるということです。

 さて、そこで問われるのは、フィンテックにより銀行への貯蓄が必要無くなったらどうなるかということです。

 銀行の消滅に伴う預金流出は、理屈上、全て投資運用業界への資金流入となると森本氏は説明しています。しかしその一方で、氏によれば、その分、投資運用業界には、ガバナンス改革や融資を超える高度金融機能の提供を通じて産業構造革新を実現し、もって国民の資産形成に寄与することで経済厚生の増大に貢献しなければならないという重責が課せられることになるということです。

 これまで銀行が背負ってきた金融の安定的な成長のための諸機能を、投資運用業界が担っていくことが期待される。そこでは、これまで銀行が(十字架のように)背負ってきた社会的な責任が、投資コンサルらの肩にのしかかってくるということです。

 そうした時、これまで銀行業の背後にある理念に対して忠実に仕事をしてきた銀行マンは、投資運用業界やフィンテックの領域に、あるいは金融機能の利用者である産業界の側で、新たな機会、おそらくはより魅力的な機会を容易に見つけることになるだろうというのが森本氏の見解です。

 銀行が演じている社会的機能の高度化を顧客の視点で考えてきた人は、(たとえ銀行という組織や機能が無くなっても)新しく訪れる世界確実に未来のある人となる。さらに言えば、銀行員であることで高度な拘束のもとにおかれ、煩瑣なルールに縛られて真の顧客本位を貫き切れなかった人は、自由な新天地では思う存分、顧客の視点での創意工夫の限りを尽くすことができるということです。

 現在の形の銀行が終焉を迎えることを、私たちは決して恐れることはないと森本氏は考えています。

 「銀行は確実に死ぬ」という覚悟のもと、真に生きるために偽りの生を死す。ややもったいぶった言い回しですが、これこそ「葉隠」がいう「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の真意であり、日本精神史の精華ではないかと氏は説明しています。

 生は、死を突き詰めたとき、死からの照射を受けて鮮明になる。銀行の死を具体的な事実として覚悟をもって直視できる銀行と銀行マンだけが生き残り、違う輝きを放つだろうと考えるこの論評の指摘を、私も大変興味深く受け止めたところです。



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