さて、21世紀に入り、20世紀の世界を仕切ってきた大国「米国」と、力を盛り返してきたアジアの雄「中国」の対立が顕在化の様相を見せています。
習近平国家主席は、これまでも全国人民代表大会などのたびに「中華民族の歴史と偉大な復興」を主張してきました。今年7月に行われた中国共産党100周年記念式典の演説では、天安門広間に集まった群衆を前にアヘン戦争(Opium War)の屈辱に触れ、「中国が虐げられる時代は完全に過去のものになった」と述べています。
「中国は100年前の中国ではない」「中華民族の偉大な復興は、不可逆的な歴史の流れに入っている」と話したのも記憶に新しいところです。米中が、様々な場面で対立姿勢を見せるこうした状況に対し、8月27日の日本経済新聞の経済コラム「大機小機」が「中国脅威論、対応は現実的に」と題する一文を掲載しているので、この機会にその概要を本稿に残しておきたいと思います。
最近、思い出したように学生時代の世界史の教科書を買い直している。勉強していて思うのは、我々が習った世界史ではいつも「中国が世界一」だったことだと、筆者はこの論考に記しています。
紀元前3世紀、中国初代皇帝となる始皇帝の出現以来、中国はインドと並び東洋の中心で、その勢力は西洋を凌駕していた。中国が西洋に後れをとったのは18世紀以降、西洋が産業革命や帝国主義に向かって以降で、何千年の世界史のなかのせいぜい200年にすぎないというのが筆者の認識です。
中国にとって西洋との逆転を印象づけた象徴的事件は(広く知られた)1840年のアヘン戦争で、それを機に1842年の南京条約で中国は香港を割譲するに至った。そうした中国の(屈辱的な)歴史観からみれば、中国の国際社会での台頭は、イコール過去200年を取り戻す「中国の夢」の実現であり、香港はその象徴的存在ではないかというのが筆者の考えるところです。
ただし、(こうした)中国からみれば「当たり前」の歴史観も、第2次世界大戦以降、米国を中心に成立している戦後秩序の観点からは「現状変更」を迫る脅威に映るのも事実だと筆者は話しています。
米国にとっては、ソ連の脅威がなくなり、一時的に日本の経済脅威を退けた後、ついに中国と向き合う状況になっている。覇権国が新興の挑戦国と戦争が避けられないまで衝突する「ツキディデスのわな」という言葉があるが、軍事的衝突を伴うか否かは別として、(現在)歴史的にも大きな節目に差し掛かっているというのが筆者の見解です。
ソ連との冷戦は東西の経済・政治圏が完全に分断されたなかで生じたもの。一方、今回の中国の台頭は、中国が「世界の工場」としてサプライチェーンに組み込まれた(相互依存関係の)なかで生じただけに、政治的スローガンとしての「デカップリング」を文字通りに実現するのは困難だと筆者は説明しています。
世界への影響力が大きい大国同士が強い緊張関係の中にある現在、国際的な利益を守るため、私たちどのような態度でそこに接していけばよいのか。こうした問題に対し、2020年代の世界経済は、中国の台頭と脅威のなかで現実的な接点を見つけることが重要になるだろうと筆者は答えています。
第2次大戦前、現状変更を挑んだドイツは、欧米との緊密な経済依存関係にありながらも(結局のところ最後は)軍事衝突に向かった。我々はそれを知るだけに、あらゆる英知によって衝突回避を実現する世界的連携網が必要だというのが筆者の強く指摘するところです。
中国四千年の歴史の中で、屈辱の歴史を刻んだこの200年をどう清算するのか。中国の台頭を単なる現状変更と見るのは容易いことですが、かの国にはおそらく(欧米人が考えている以上の)相当の覚悟と自信があることを、少なくとも我々日本人は忘れるわけにはいきません。
今や中国は日米欧の多国籍企業も含めた相互依存関係にあり、中国不在での経済も金融も成り立ちにくい現実もある。世界のリーダーたちは慎重にリスク管理を行いながら、プレゼンスを増す中国に向き合う必要があるとこの論考を結ぶ筆者の示唆するところを、私も大変興味深く読んだところです。
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