人生に「コスパ」を求める傾向が強まる昨今、特にZ世代を中心とした「コスパ・タイパ重視」の価値観に対し、3月19日の経済情報サイトPRESIDENT ONLINEに作家で精神科医の熊代亨(くましろ・とおる)氏が、『結婚を避け、子供をもたないほうが人生のコスパが良い…現代の日本人に起きている"憂慮すべき変化"』と題する論考を寄せていたので、引き続きその主張を追っていきたいと思います。
人口の都市への集住に合わせ、(効率的に)集団生活を送れるよう「自己家畜化」を選択してきた人間たち。ところが最近では、その生物学的な自己家畜化の進展よりずっと早い速度で文化や社会環境が変化し、(気が付けば)人間の動物性をますます漂白化していく現況が生まれているのではないかと氏はこの論考に記しています。
自己家畜化が進んだとはいえ、人間は、ホモ・エコノミクスである以前に動物としてのホモ・サピエンスである。遺伝子を継承し、子々孫々の繁栄を求める動物の観点からみれば、最もコスパが良いとは、最も効率的に子孫や血縁者を残せることを指すはずだと氏は言います。
しかし今日、そのような観点からコスパを推し量る人はまずいない。コスパを追求する人は結婚を敬遠し、結婚したとしても子どもの人数を制限する判断基準は、動物としてのホモ・サピエンスのものではないというのが氏の指摘するところです。
氏によれば、高収入志向も高学歴志向も、ぜいたくな生活や顕示的消費を望むのも、資本主義の思想を内面化したホモ・エコノミクスならではとのこと。そこから逸脱した「貧乏の子沢山」のような生き方は、今日では選ぶに値しない生き方、というより非常識な生き方とみなされるだろうと氏は話しています。
社会の隅々にまで(こうした)資本主義の価値観が浸透した今日、それを内面化した私たちにとって、資本主義の思想(ミーム)は生物学的な遺伝子(ミーム)よりも強い行動原理に変化しつつある。子孫を残すのにふさわしい暮らしは、資本主義にふさわしい暮らしに上書きされつつあるということです。
さて、時すでにこうなってしまった以上、最終的には、配偶や子育ては個人のものから社会のものになるしかないのではないではないかと氏はこの論考に綴っています。
そもそも、世代再生産を個人のインセンティブに頼っているから少子化が進むのであって、家族や子育てにまつわるリスクを誰もが(資本主義的に)合理的に考えるようになれば、若者が子育てを躊躇し結婚すらリスクとして回避するのは当然のこと。そんな、あまりに長期的でベネフィットが不確かな長期投資は敬遠され、それらをわざわざ選ぶのは異端者とみなされるようになるだろうということです。
実際、既に私たちは、衝動的に性行為し妊娠し出産する人を異端者のように眺めてはいないか。どのみち、未来の世代再生産の場において従来どおりの家族愛が成立しているともあまり期待できないと氏は言います。
ロマンチックラブと配偶の結びつきにしても同じこと。男女が職場で出会い関係をもつことが「ハラスメント」やインモラルと見なされ、マッチングアプリが台頭してきている昨今の風潮は、お見合い結婚が20世紀風の自由恋愛に根差した結婚に変わった、その変化のさらに次の段階が訪れつつあることを暗に示しているのではないかということです。
それは、(具体的に言えば)功利主義に基づいてハラスメントを回避しあい、資本主義に基づいてコスパやタイパを最大化しあう…そのような要件を一層満たす出会いが望まれ始めているということ。性交同意書の導入もその一端で、性行為の領域に功利主義や社会契約のロジックを徹底させるツールとして、(将来的には)中央集権国家に性行為の差配を委ね、管理させることにもつながるというのが氏の懸念するところです。
私(←熊代氏)自身、夫婦で子育てすることや、専門家でもない個人が子育てをすること、自分の身体で妊娠し出産すること、さらに男女が身体を用いて性行為すること、これらがすべて忌避されるようになっても驚きはしないだろうと、氏はこの論考の最後に綴っています。
生産性や効率性のために人間が性別を捨てることについても同じこと。ここ数百年の人間は動物としての性質を一層自己抑制する方向へと、“文化的な自己家畜化”を促す文化や環境からの求めのままに変わり続けてきたのだからと話す熊代氏の指摘を、私も興味深く受け止めたところです。
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