MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2403 戦争への道程

2023年04月30日 | 国際・政治

 国連憲章は、その第2条4項で「すべての加盟国は…武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものであっても、慎まなければならない」と規定しています。同憲章は、武力攻撃があった際の自衛権の行使、国連安保理が許可した武力行使は認めているものの、今回のロシアのウクライナへの侵攻、武力行使は(同国による)自衛権の行使とは到底言えず、国連安保理の決定に基づくものではないのも自明です。

 米国のオースティン国防長官は昨年6月、シンガポールで開催中のアジア安全保障会議で演説し、ロシアによるウクライナ侵攻を「プーチン(ロシア大統領)による無謀な戦争」と糾弾し「ルールに基づく国際秩序を損なう危険性」があると非難しました。

 オースティン氏は演説後の質疑応答で、(台湾への軍事的圧力を強める中国を念頭に)ウクライナ侵攻と同様の事態が東アジアでも起こる可能性があることを示唆。ウクライナでの軍事衝突は決して「対岸の火事」ではなく、(世界のどこでも起こり得る)民主主義的な秩序への危険な挑戦であるとの認識を示したと伝えられています。

 さて、振り返れば今から1世紀ほど前、東北アジアの一角で(現在のロシア同様)国際社会の非難を省みず、国内的な論理の下で一方的な軍事侵攻に突き進んだ無謀な国がありました。国際社会からの孤立は欧米先進国による経済制裁を呼び、一方で軍部の独走が最終的に破滅への道をたどったのは歴史が証明するところです。

 そう考えれば、ここで過去の日本が経験した戦争への道程を改めて振り返るのも、混乱する現代社会に生きる我々日本人にとって必要な作業かもしれません。帝京大学専任講師(歴史)の高杉洋平氏が3月15日の総合情報サイト『Wedge ONLINE』に、「現代ロシアのように日中戦争に突き進んだ帝国陸軍」と題する論考を寄せていたので、この機会に一部を紹介しておきたいと思います。

 戦前の日本は1931年の満州事変という大きな転機を経て、日中戦争、そして(気が付けば)破滅的な太平洋戦争へと突き進んでいきました。その過程で旧日本陸軍が大きな役割を果たしたのは間違いないわけですが、ではその「軍の暴走」の下地はどのように整えられたのか。高杉氏はこの論考で、(できるだけ)判りやすい整理を試みています。

 思えば1931年に始まった満州事変は「不可思議な戦争」であったと、氏はこの論考に記しています。当事者となった関東軍は、満州の権益(関東州租借地・南満州鉄道)を保護するために設置された警備部隊で、事変当時の兵力は1万人強に過ぎなかった。警備部隊であるから一部の重火力や輜重(補給・輸送)部隊を欠き、本格的野戦に対応することをそもそも想定されてはいなかったということです。

 一方、対する中国軍ははるかに強力だった。事変当時、満州軍閥の張学良は蔣介石の中国国民政府の旗下に参じており、その兵力は数十万。これに国民党軍(国民革命軍)を合わせれば、貧弱な関東軍が対抗できるような相手ではなかったと氏は言います。

 しかも、満州事変は関東軍の一部参謀(板垣征四郎・石原莞爾など)が独断で起こした謀略であり、内閣はおろか軍中央の承認を得たものでもなかった。折しも日本国内は「大正デモクラシー」の全盛期。当然ながら軍事行動に対する国民的な支持があったわけでもなく、常識的に考えれば、孤立した関東軍は中国軍に取り囲まれ、たちまち殲滅されて然るべき状況だったというのが氏の認識です。

 さらに言えば、満州事変は(戦争による紛争解決を禁止した)国際連盟規約と不戦条約に明確に違反しており、極東における現状維持と平和発展を約した「ワシントン体制」の精神を踏みにじるものであった。つまり、満州事変は中国に対する挑戦であるのにとどまらず、第一次世界大戦後の国際秩序に対する挑戦でもあったと氏は説明しています。

 しかし、実際に戦闘が始まってみると、関東軍は破竹の勢いで進撃し、半年で北満州を含む満州全土を制圧すると、1932年3月に清朝最後の皇帝溥儀を執政(のち皇帝)とする満州国を一気に建国してしまう。そして、思えばこれがその後10年以上も続く、日本の長い長い戦いの端緒となったということです。

 それでは、東北アジアのほんの一角で始まったこの小さな局地戦が、どうしてアジア全体を巻き込む混乱にまで広がりを見せるに至ったのか。関東軍参謀による独断行動は軍中央の多くの将校を驚かせたが、陸軍中央の急進的派は(起こしてしまった以上)軍事行動をなんとしても成功に導くために軍内外で猛烈に活動したと氏は指摘しています。

 陸相や参謀総長は困惑し不拡大を模索するが、(一般論としてではあれ)武力行使に「コンセンサス」を与えてしまっていた以上、その統制力は大きく減じられた。政軍協調路線の挫折以降、軍上層部の権威が失墜していたことも、彼らにとって大きなプラスとなったというのが氏の見解です。

 そして、関東軍の援助要請を受けた朝鮮軍(朝鮮駐屯の日本陸軍部隊)が満州へ独断越境。大挙して軍を進めたことで、満州事変は単なる局地的事件に収まらず、事態は既に大規模武力紛争に発展していったということです。

 一方、当時の政権、若槻礼次郎・民政党内閣の立場も複雑だったと氏は説明しています。政府への不信感を煽るメディアの力もあり、世論は関東軍の行動を後押しした。平和主義やアンチ・ミリタリズムの風潮は霧散しナショナリズムが高揚。戦況を伝える新聞は飛ぶように売れ、巷には「満蒙は日本の生命線」といったスローガンがあふれたということです。

 爆発した強硬世論は、(当時の)日本国民の平和主義の底の浅さを表していると言える。また一般論としての平和主義と実際の政治行動は、別個の行動原理によって動いているともいえると高杉氏はこの論考に綴っています。

 いずれにしても、野党・政友会はこうした世論の変化をバックに、若槻内閣を(「弱腰」として)攻撃し、内閣は不拡大方針を貫くのが困難になっていくこととなった。国民的熱狂は「大正デモクラシー」期の軍人蔑視の社会風潮をも簡単に吹き飛ばし、軍部の受難時代は一掃。皇軍飛躍時代が訪れたということです。

 一方、武力抵抗を放棄した蔣介石は、国際連盟に対して関東軍の行動を侵略行為として提訴。派遣されたリットン調査団が日本の武力行使と満州国建国の正当性を否定する報告書(「リットン報告書」)が提出されたことで、国際社会における日本の孤立は明らかなものとなったというのがその後の経過です。

 しかし、時は既に、全満州の軍事制圧と独立国家建国が既成事実となった状況下。強い群分の発言力と世論の後押しの下で、政府が国際連盟の勧告を承諾することは国内政治的にもはや不可能な状況にあったというのが氏の認識です。

 そして1933年3月27日、日本政府は国際連盟脱退を正式に通告するに至りました。

 さて、結局のところ、想像できるのは(ロシアによるウクライナへの侵攻もそうかもしれませんが)「どうしてこんなことが起こるのだろう」と言うような出来事の背景には、多くの場合、蓄積された世論の不満や圧力の危険な高まりがあるということ。突発的な出来事をひとつの契機としてそうしたものが噴出し、もしくは権力に利用されて世界的な不幸や危機に繋がっていくのだろうということです。

 「国際秩序への挑戦」と言うと、何だかそこには大そうな政治判断や決断があるような気がしてしまいますが、本当のところは(苦しい状況に置かれた指導者たちが)やむにやまれぬ状況の中で(もしかしたら苦し紛れに)掴んだ一本の藁に過ぎないのだろうなと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。

 



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