自由と民主主義の国アメリカ合衆国を真っ二つに分けて戦われた2020年の大統領選挙も、民主党バイデン候補の勝利でようやく幕が引かれることとなりました。
バイデン氏は昨年の11月7日夜、デラウェア州ウィルミントンで行った演説において「明らかで納得のいく勝利」を宣言しました。
そして、それと同時にトランプ大統領の支持者に対し「(私たちが)前に進むためには互いを敵と見做すのはやめなければいけない。私たちは敵ではない。私たちは米国人だ」と話し、「分断ではなく結束を目指す大統領になる」と約束したのは記憶に新しいところです。
振り返れば、この国の分断が最初に大きく、そして危機的に表面化したのはおよそ160年前の南北戦争のこと。国民が南北二つに分かれて血で血を洗う戦いを繰り広げ、両軍合わせて(アメリカの戦役史上最悪の)50万人近くの戦死者を出しました。
その後も、例えば1960年代~70年代にかけての公民権運動やベトナム反戦運動、さらには今回の選挙にも大きな影響を与えたブラック・ライヴズ・マター運動など、彼の国は保守派とリベラルの間で様々な対立を繰り返し先鋭化させてきています。
建国以来の米国の歴史は、そういう意味で言えば政治的な対立の歴史であったと言えるかもしれません。
今回の大統領選挙の勝負はついたとしても、およそ7380万票を獲得したトランプ氏の支持者が米国内からいなくなるわけではなく、バイデン政権はそうした世論のせめぎ合いの中で厳しい船出を強いられることでしょう。
黒人初の大統領となったリベラルなバラク・オバマから米国一国主義を掲げる保守派のドナルド・トランプへ。そして4年の歳月の混乱を経て、再びリベラルへ回帰しようとする米国の政治の動きをどのように見ればよいのか。
神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏は、昨年暮れの12月30日の自身のブログ「内田樹の研究室」に、「アメリカ大統領選を総括する」と題する興味深い一文を掲載しています。
理想の社会はどのようなものであるべきか? アメリカ合衆国という国では、その「アイディア」によってこれまでも幾度となく国民的分断がもたらされてきたと内田氏はこの論考に綴っています。
氏はその本質を、「自由」と「平等」のどちらをアメリカの理念に掲げるか、その選択の違いによるものではないかと指摘しています。
そこを判断する際に第一に確認しなければならないこととして、氏は(そもそも)アメリカの建国理念が最も重んじたのは「市民の自由」であって、「市民の平等」ではなかったということを挙げています。
独立宣言には「すべての人間は平等に創造され、創造主によって生命、自由、幸福追求の権利など奪うことのできない権利を付与されている」と書かれている。つまり、合衆国の公権力は、「生命、自由、幸福追求の権利」については国民にこれを保証しなければならないが、「平等の実現」については必ずしも政府の仕事とは考えられていないというのがこの論考における内田氏の認識です。
なので、1787年に制定された合衆国憲法にも(さらにはその修正条項(いわゆる「権利章典」)にも)、「自由を保障する」ことが繰り返し確認されている一方で「平等を達成する」という文言はどこにも見当たらない。
アメリカ社会においては、「社会的なフェアネス」とは、あくまで個人の市民的自由の行使を妨げないことであって、全体の平等を実現することではないというのが氏の指摘するところです。
さて、同じ統治理念でありながら、「自由」と「平等」ではその位置づけがまったく違うこと、そして人間たちにとっての優先順位がまったく違うこと、その両方を踏まえておかないと、アメリカで今起きている国民的分断の理由は(いつまでたっても)理解できないと氏はこの論考に記しています。
アメリカにおける国民的分断は、つねに「自由」と「平等」のどちらを優先させるかというきわめて原理的な対立スキームの中で起きて来たと氏は言います。
独立宣言が発布されてから奴隷解放令まで80年以上かかった国で、公民権法の制定まではさらに100年を要した。しかし、それでも未だにアメリカでは人種差別が深刻な社会問題のひとつとなっている。
建国以来250年経っても市民的平等が実現していないということは、「平等の実現はアメリカ建国の目標ではない」と考える多数の市民が(今でも)存在するということを意味しているということです。
「平等」の実現は、公権力が富裕層や権力者に強権的に介入し、彼らの財産や権力の一部を取り上げて、それを貧者・弱者に再分配するというかたちでしか実現しない。しかし、「自由」を最優先する人たちにはこれが許せないと氏はしています。
自助努力を通じて獲得した資産や権力を、何が哀しくて、努力もせず、才能もない人間たちと分かち合わなければならないのか。それは建国理念がめざす市民的自由の侵害である…そう考える(トランプのような)人たちは、(見方を変えれば)まさにアメリカの建国理念に忠実な人たちだということです。
実際、アメリカに公教育が導入されたときも、フランクリン・ルーズベルト大統領が「ニューディール」政策を発表したときも、オバマ大統領のオバマケアが制定されたときも、つねに「それは社会主義だ」「非アメリカ的」だという激しい批判が右派からなされたと氏は指摘しています。
公権力が介入して平等を実現することは間違っている…(平等主義の日本人には理解しにくいかもしれないけれど)そう確信している人たちがアメリカにはそれだけいるということでしょう。
「自由の国」アメリカはまさに自由の国であって、何でも叶えてくれる(あまっちょろい)「理想の国」ではない。(例えどのような形であれ)アメリカンドリームを体現させたトランプはリスペクトされ、オバマケアなどの社会位保障に頼る「負け犬」に用はないと考える(半分ほどの)人々が暮らす国だということを、私も内田氏の指摘から改めて厳しく受け止めたところです。
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