MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2545 人生の方向性が決まるのは15歳

2024年02月19日 | 教育

 モータースポーツの世界で、2024年の全日本スーパーフォーミュラ選手権参戦が発表された野田樹潤(Juju)選手のヨーロッパでの武者修行の姿を追った、テレビのドキュメンタリー番組を見る機会がありました。(1月13日TBSテレビ『バース・デイ』)

 元F1ドライバーとして活躍した野田英樹の娘である樹潤選手は現在17歳。幼いころからフォーミュラマシンをドライブし、中学卒業後に家族で渡欧してからは、デンマークF4や女性のみで争われるWシリーズなどに次々と参戦。ユーロフォーミュラ・オープンでは史上初の女性優勝を飾るなどの活躍をみせてきました。

 2024年はいよいよ日本に戻り、50年の歴史があるアジア最高峰のフォーミュラカーレース「全日本スーパーフォーミュラ選手権」への参戦も決まっている樹潤選手。キャンピングカーで家族と共にヨーロッパのサーキットを回り、自らの未来をいきいきと切り開いていく17歳のリアルな姿に、圧倒された視聴者も多かったのではないでしょうか。

 思えばこの日本でも、世界的に活躍する若者の姿が目立つようになりました。オリンピックなどのスポーツの世界でも、スケボーなどのストリート系競技を中心に10代の活躍には目を見張るものがあります。音楽やバレエなどの芸術の世界でも、日本の10代は名だたる国際コンクールで頭角を現しているということです。

 多くの日本の若者たちが高校に入学する15歳は、昔で言えば「元服」の歳。(いつまで「子ども」でいるのだか)だらだらと高校生活を送る10代も多い一方で、人生の進路を一気に絞り込み、今できることに懸命に取り組む10代の姿は清々しくも美しく輝いて見えます。

 実際、野球の大谷翔平にしろ、将棋の藤井聡太しろ、一つの世界で「一流」の名をほしいままにできるような人は、実は中学を卒業するころまでに、自分の進む道を見つけているケースが多いという話も聞くところです。

 とは言うものの、自分が15歳の時に「どのようであったか」というのとはまた別の話。子どものままではいられず、かといって大人にもなりきれない自分を持て余す不機嫌そうなニキビ面を晒していたのは、(今思えば)恥ずかしいばかりです。

 さて、そんなことを感じていた折、12月28日の経済情報サイト「MINKABUマガジン」が、日本宗教連盟・理事の宍野史生氏による『人生の方向性が決まるのは「15歳」の理由』と題する記事を掲載していたので、小欄にもその概要の一部を残しておきたいと思います。

 「自分に合った生き方」とはどんなものか…こうしたことは一定の年齢を迎えるまでには結論を出すべきだが、私はその年齢は15歳だと思っていると宍野氏はこの論考に綴っています。人の寿命がまだ短かったということもあるが、かつての日本で男子は15歳で元服という儀式を行い一人前の人間として社会への仲間入りを果たすことになった。15歳というのはひとつの人格が形成される時期であり、ここ日本では長く、人生の方向性が決まる分かれ道だったということです。

 人は年齢を重ねるごとに余計な情報を取り込み、本当に自分が望んでいることが何なのかわからなくなってくると氏は言います。自分は何が好きで何が嫌いか。何が得意で何が苦手か。どんな人生を歩んでいきたいのか…。しかし、正直言うと、今の日本の社会ではそんな15歳はなかなか出てこないだろうというのが氏の見解です。その最たる原因は、受験最優先の教育にある。いまの学校は、社会性を度外視し、子どもたちを非現実的な世界に押し込めているだけだということです。

 教員たちは学校というシステムの中でしかものを考えず、学校における価値観のみが子どもを支配してしまっている。それは「多様性」とはかけ離れたものであり、そんな場所に閉じ込められていては、自分の将来の姿を想像することなどできないというのが氏の指摘するところです。

 日本では、「不登校」や「ニート」「引きこもり」が社会問題となっているが、その実、彼らの中には学校によって押し付けられた価値観に迎合することができなかっただけというケースも多いだろうと氏は話しています。「6・3・3・4制」の下、義務教育を終えたら高校に進学し、いい大学に入りいい会社に就職する。ルートに乗っていればそれでよいと考え、親たちは子どもの可能性を学校や教師に任せきりにしているということです。

 「ルートに乗せる」のではなく、いろんな可能性を見い出し、体験させ、「自分は何が好きなのか」を考えさせること。そして、そうした中で必要になるのが、能力のある子どもには飛び級をさせるということだというのが氏の見解です。

 これはもう、海外では普通にあることなのに、なぜか現在の日本の学校には好まれない。その理由は簡単で、一旦飛び級を認めてしまうと、学校の存在意義がなくなってしまうからだと氏はしています。一方、スポーツの世界などでは「6・3・3・4制」などに従って日本に残っていてはすぐに使い物にならなくなってしまう。そこで、プロになるようなトッププレイヤーたちは 15歳の時点ですでに日本を離れ、当然のように海外でトレーニングしているということです。

 職人の世界も同じこと。世界に誇れるものだった日本のものづくりの技術も、今では胸を張って誇ることができない状況になっていると氏は話しています。

 戦後の日本の技術を支えたのは、当時15歳で集団就職をした人たちだったが、今ではこの技術を伝える相手がいないのが実際のところ。職人が技術を身に着けるには大学を卒業してから始めるのでは遅く、15歳からの5年間を使って体に覚えさせる必要がある。体が技術を吸収できる時期というのは限られているというのが氏の指摘するところです。

 結局のところ、大人たちが(あくまで)平均的な日本人のために設定された「スタンダード(標準)」な教育課程を絶対視するあまり、個々人の特性や素質への目配りを忘れたことが本人から貴重な5年間を奪っている。結果、日本の若者自身の不幸を招いているということでしょうか。

 規格外の才能を伸ばすには、時に(個人の能力に合った)規格外の教育が求められる。時代は既に「大量生産」ではなく、「オーダーメイド」の時代に移ったということなのかもしれないなと、氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。



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