山口百恵!スペシャル全話 HD
『Let’s GOAL!〜薔薇色の人生〜』インタビュー
倉木麻衣が語る、“出会い”が育んだデビュー20周年の軌跡「音楽を発信していくことこそ私の使命」
2019.08.14
倉木麻衣が20周年YEAR記念オリジナルアルバム『Let’s GOAL!〜薔薇色の人生〜』を、8月14日にリリースした。国内のみならず、世界を舞台に活躍している彼女を象徴するかのように、初回盤は5大陸をそれぞれイメージした、Blue、Yellow、Black、Green、Redの各色盤が登場。2020年に向けて盛り上がる東京から、世界規模の夢を発信する倉木麻衣らしい、アニバーサリーアルバムに仕上がっている。
16歳の全米デビューから、20年という年月を駆け抜けてきた倉木。常に新しいことへの挑戦だった月日が、ギュッと詰め込まれたかのような本作。ダンサブルな応援ソングから、うっとりするようなバラードなど、宝石箱のように色とりどりの楽曲が耳に飛び込んで来くる。なかには、レディー・ガガのプロデューサーとしても知られるフェルナンド・ガリベイも参加した楽曲も。
8月17日からは、全国15カ所を巡るライブ『20th Anniversary Mai Kuraki Live Project 2019 “Let’s GOAL!〜薔薇色の人生〜』をスタートさせるなど、精力的に活動を続ける倉木にインタビュー。20年を振り返り、ファンや仲間との歩み、音楽との距離に悩んだ日々、そして20年前の自分にかけたい言葉……率直な想いをたっぷり語ってもらった。(佐藤結衣)
「20年分の感謝の気持ちをお返ししていく」
――まずは、デビュー20周年という節目を迎えての心境は?
倉木:あっという間という感じですね。まだまだこれから何かが始まるんだというくらい、自分としては新鮮な気持ちでいます。デビューは高校2年生のときで、振り返ってみると、1年1年新しいことにチャレンジさせていただきながらアルバムを出していて、ライブツアーも毎年テーマを決めて発信していて……1つのプロジェクトが終わって「また次!」って走り続けてきたので。常に新しいというか、フレッシュな気持ちでいます。
――ファンのみなさんとも20年一緒に走ってきたということですもんね?
倉木:そうですね。ライブに「0歳だった子が20歳になって来ました!」っていうお客様もいらっしゃってくださるくらい(笑)。ファンの方とも家族のような感じというか、みなさんと一緒に成長させていただいたなという気持ちでいます。支えてくださってありがたいなと思うのと同時に、その感謝の気持ちをお返ししていく活動をしていきたいなと思っています。実は、今回のアルバムで参加してくださったアーティストの中に、ハタチの方もいるんですよ! その時その時は無我夢中でしたけど、こうして振り返ってみると、20年という年月って、本当にかけがえのない貴重な時間だったなって。途中いろいろと考えた時期もありましたし、まさかここまで歌手として、こうやって音楽に携われると思ってなかったですし。そうした時期を経て、今があるっていうのはやっぱり、聴いてくださっている方々のおかげだなって思います。
――個人的には、そのみずみずしい歌声やビジュアルの印象がデビュー当初から全然変わらないなと思っていて。「20周年!?」と、驚きが隠せませんでした(笑)。
倉木:ありがとうございます! きっと音楽に対する想いが、変わらないからかもしれませんね。大好きな気持ちだったり、もっといろんなライブを皆さんに見ていただいて、元気をお届けしたいっていう気持ちだったり。やっぱり音楽って日々支えてくれてるじゃないですか。いろんなところで、どんなときも鼓舞してくれる存在が、私の中で音楽なんですね。それを年月を経て、みなさんと一緒に共有してこられたのが、大きいのかなって。
――逆に、倉木さん自身が20年で「ここは変わった」と感じている部分はありますか?
倉木:詞の表現が変わったかもしれないですね。ジャンルを問わずに、いろんな楽曲をトライさせていただいている中で、今から振り返ってみると10代のころは逆にすごく大人っぽい歌詞を書いていたなって思いますね。早く大人になりたいって、思っていたんだなって(笑)。楽曲にもよるんですけど、いつもそのときどきで等身大の気持ちを書いていたんですが、いろんな人との出会いによって、詞の書き方とかも変わってきて。口語調になった時期もありましたし、最近だと比喩表現とかは使わないでストレートに書くようになったなと感じています。デビューする前は、歌詞を書いたことがなかったんですよ。“どうやって書いたらいいんだろう”って戸惑いながらのスタートでした。周りの方に「日記のように書いていったらいいよ」とか、アドバイスをいただきながら。今でさえ、歌詞って難しいなって思います(笑)。今回のアルバムも、すっごく悩んで書いたんですよ!
――そうなんですね。制作活動に煮詰まってしまったときは、どうしているんですか?
倉木:本を読んだり、映画を観たり、仲のいい人と他愛もない話をしながら、フッて思ったことを書き留めておいて、楽曲のメロディに当てはめていくんですけど、また頭の中でハマったかなって思っていても、実際に歌ってみると“おっとっと? しっくり来ないぞ?”っていうときもあって。また、やり直し、みたいな(笑)。でも、そうやって繰り返していると、あっという間に時間がなくなってしまうので、いつも期限との戦いになってくるんですよ。最終的には自分の“これだ!”っていうのを目指して、作ってはいるんですけれどね。
――期限と戦っている倉木さん、全然想像できません(笑)。
倉木:いやー、もうすごい姿ですよ(笑)。曲を聞きながら、紙とペンで詞を書いているんですが、スタッフさんからは「〆切に追われる漫画家さんのようだ」って言われたこともあるくらい! 実は一度、iPadで書いていた時期があったんですよ。“iPadを持ってカフェで書く”っていうのに憧れて(笑)。でも「よし、出来上がった! 明日これで歌入れだ!」って送信しようとした瞬間に、削除ボタンを押してしまったことがあって。バックアップも取ってなかったので、全部真っ白になって、「うわぁぁぁ!」って(笑)。もうそれからずっとアナログでやってますね。パソコンで書くのも試してみたんですけど、やっぱり手書きのほうが、そのまま想いが出てくる感じがします。
――その手書きのメモを、見てみたいというファンの方もたくさんいそうですね。
倉木:ぐちゃぐちゃ〜って書いてあるので、誰にも解読できないかもですけど(笑)。
「出会いによって音楽の幅が変わってきました」
――では、歌詞以外の変化については?
倉木:そうですね。初めてライブをしたときは、ただひたすら“歌って想いを伝えなきゃ”っていう一点だけだったんですけど、回を重ねるたびにファンのみなさんとのキャッチボールができるようになったというか。一緒に楽曲を育てていくという感覚が生まれていきました。思い出に色をつけていく、というか。いろんな会場で歌うたびに、ファンのみなさんに色をつけていただいたように感じています。例えば、ライブでいつも一番最後に歌わせていただいている「always」は、今となっては欠かせない、「倉木麻衣のライブといえばこの曲だ」ってみなさんの中でも大切にしていただいている曲になりましたし、「chance for you」という曲も、イベントなどでファンのみなさんと一緒に合唱して、希望とか前向きな思いっていうのを共有できました。そういう曲が、生まれたというのは私の宝物ですね。それから私の楽曲はR&Bとかロックテイストなものが多いんですけれど、シンフォニックライブを経験して、こういう感じもしっくりくるんだなって発見しました。曲調に合わせて歌い方もクラシックよりに変えてみたりとか。アジアンテイストだったり、洋楽っぽいものだったり……私の場合は、様々な出会いによって音楽の幅が変わってきていると思います。
――確かに、今回のアルバムを聴いてみても、この20年で広がった表現力が凝縮している印象ですね。
倉木:そうですね。実は、このアルバムの中に入っていない候補の楽曲も、たくさんあったんです。アルバムを作るときにはいつも、バラードがあって、ミディアムテンポやアップテンポがあって……って、いろんな楽曲をお届けしようという思いで挑んでいるんですが、今回はこの12曲に絞るのが本当に大変で(笑)。今回『Let’s GOAL!〜薔薇色の人生〜』ってタイトルだけ見ると、“もしかして20周年でゴール=締めくくっちゃうのかな?”って思われた方も、いらっしゃるかもしれないんですけれど、そうではないので説明させてください(笑)。
このタイトルには、これまでファンのみなさんといろんな夢を共有してきて、目標を1つ1つ達成してこられたなっていう想いがあったんです。そこで気づいたのが、前向きな気持ちは、夢や目標に向かっていることそのものなんだということ。だから、これからも「ゴールを目指して一緒に頑張っていこうよ」っていうメッセージを込めて、『Let’s GOAL!』にしました。そこに『〜薔薇色の人生〜』とつけたのは、やっぱりみなさん幸せになりたくて日々一生懸命頑張っているじゃないですか。なので、それぞれの場所で辛い時、苦しい時があるけれど「笑顔を忘れないでいこうよ」って、これからも共に歩んでいきたいという想いを込めました。
――20周年のゴールを走りきったというよりは、むしろスタートラインに立ったような。
倉木:そうですね。私自身にとっても、新しいスタートですね。あと、『Let’s GOAL!』ってよく見ると、Let’s GO+AL(アルバム)に見えてきませんか(笑)? これは完全に後付けなんですけれども♪
――うまいこと見つかりましたね!
倉木:はい(笑)。実は、このアルバムの制作段階でいろいろとチャレンジしすぎてしまって、それこそ締切に追われる場面もたくさんあったんです。スタッフさんと「このアルバムを完成させる」っていうゴールを目指して「JUMP!JUMP!」を収録したときには、何より自分自身が楽曲に励まされました(笑)。2020年も近づいていますし、2030年までに国連の『SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)』を達成しようよ、というメッセージもあわせて、多くの方にとっても応援ソングになったらうれしいなと思います。
――出会いといえば、今回のアルバムにはレディー・ガガのプロデューサーを務めたフェルナンド・ガリベイも「body talkin’」で参加されていますね。
倉木:最初は、事前情報を何も知らずに選曲をしていて。洋楽テイストだけど、どこか懐かしくて、“あー、これ作ってみたいなー”と率直に思って選んだのが、フェルナンド・ガリベイさんの楽曲だったんです。でも、洋楽テイストの楽曲って、日本語歌詞がつくとまた印象が変わってくるので、聴いたときのサウンドとか、言い回しをこだわって作っていった感じです。
――こだわり抜いて作ったアルバムだと思うんですが、その中でも「ここに注目してほしい」というポイントはありますか?
倉木:そうですね。まずは曲順からですかね。1曲目から「スタートしていこうよ!」という気持ちから始まって、徐々に加速していくんですけど、ちょっと休憩があって、また盛り上がって、最後「もうひとふんばりだ!」っていう……あれ、これは私がアルバムを作ってたときの心境かな(笑)? で、一番最後に「みんな幸せの扉を開けたよね」っていうことで! とはいいながら、みなさんの好きな順番で聴いていただけたらうれしいです。あくまで、倉木麻衣オススメの順番ということで参考にしてください(笑)。
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『名探偵コナン』が繋いでくれた海外ファンとの縁
――アルバムの2曲目には、倉木さんのキャリアを語る上で欠かせないアニメ『名探偵コナン』(日本テレビ系)の主題歌にも起用された「きみと恋のままで終われない いつも夢のままじゃいられない」も収録されていますね。
倉木:はい。今までで一番長いタイトルをつけさせていただきました(笑)。略して「きみ恋いつ夢」って覚えていただけたらと思うんですけど。
――史上最長のタイトルになってしまったのには、何か理由が?
倉木:最初は「Eternal Moon」だったんですけれど、それだと恋愛の曲だとすぐにわからないのかなって思ったので。タイトルだけで、恋愛ソングだってわかるような感じにしたいと思った結果、サビのフレーズそのままのメッセージをお伝えしたいという気持ちになり、長くなってしまいました(笑)。
――やはり連想されるのは『名探偵コナン』での、工藤新一と毛利蘭の恋ですね。
倉木:そうですね。アニメでも、胸キュンのポイントがたくさんありましたよね。この曲のテーマも、お互いが本当は好き同士だけど、踏み出す勇気がなくて。じれったい中で、もどかしい気持ちなんですね。相手に告白して恋が実るっていうロマンチックな部分を、どう表現しようかと思ったときに、ストレートに「好きだよ」って伝えるというよりは……って考えたのが、こういうことなんです(笑)。
――日本国内はもちろんですが、中国などアジアでの人気にもつながっているなど、倉木さんと『名探偵コナン』の歩みは、本当に他ではなかなかない形に進化していますね。
倉木:そうですね、ありがたいことに、いろんな楽曲でご一緒させていただいて。気づけば、今23曲目になります。21曲目で「ギネスに認定されました」ってスタッフさんから言われたときには、「えぇ〜っ! そんなことできるんですか?」って驚いたくらい、思いがけない記録で。いろんな人に感謝しながら「これは、みんなでのギネスだね」なんて話してたんですけど。中国では日本のアニメ好きな方も多くて、『名探偵コナン』も知らない人はいないくらい人気なんですね。アジアでテレビ出演させてもらったこともあるんですけど、そこで「『名探偵コナン』のお姉さんって、呼んでもいいですか?」って言っていただいて、もう「ありがたいです、どうぞどうぞ!」って感じでした(笑)。
――「渡月橋 ~君 想ふ~」以降、さらに魅力的な和テイストの楽曲が生まれたという印象です。
倉木:「渡月橋 ~君 想ふ~」は、劇場版『名探偵コナン から紅の恋歌(ラブレター)』の主題歌として書き下ろさせていただいたもので、物語の舞台が京都の嵐山ということから、インスパイアされて制作したんです。そこからありがたいことに、京都の観光おもてなし大使に任命していただくご縁に繋がりまして。私自身、改めて日本の美しさだったり、世界中に注目されて愛されている京都の魅力を再確認することができました。京都は学生時代ずっと過ごしていた場所なので、自分にできることを、と活動させていただいています。国を超えてたくさんの人が愛するもの、大事にしている気持ちを受け止めて、手を取り合っていけるようにできたらいいなと思って、幅広いアジアをミックスさせたような曲を作らせてもらいました。
――“多くの人に愛されているものの魅力を再発信する”という意味では、今回のアルバムでは、初回盤ボーナスディスクにZARDの「負けないで」が収録されましたが。
倉木:そうなんです。20年間歌手としてやってきて、ついに「負けないで」をカバーさせていただくことに……と恐れ多い気持ちでいっぱいです。私自身、学生時代に応援ソングとして支えてもらった大切な曲で、事務所の大先輩であるZARDの坂井泉水さんの名曲でもありますし。『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)でコラボレーションさせていただいたんですけれど、そこでファンのみなさんから思いがけない言葉をいただきまして。「負けないで」っていう楽曲をこれからも大切に歌い続けてくださいってメッセージをいただいたんですね。それが、すごくうれしくて。坂井泉水さんが遺した素敵な楽曲をいろんな方に広めていこうと思ってトライさせていただきました。なんとまた、光栄なことに、ずっとバックバンドとして坂井泉水さんのライブを演奏されていた方々が、参加してくださったんです。
――歌い継がれる名曲ですね。
倉木:本当に、色あせないんですよね。運動会で流れたり、演奏したり、色んなところでカバーされていますしね。大好きな気持ちをギュッとして、「負けないで」を歌わせていただきました。ぜひ、ファンのみなさんにも一緒に歌っていただけたらうれしいです。
「ファンのみなさんの夢を叶えるのが、倉木麻衣の願い」
――「音楽が自分を鼓舞してくれる」というお話がありましたが、20年という長い年月の中では順風ばかりではなかったということでしょうか?
倉木:そうですね。音楽一筋の生活でしたので、一時期いろいろと考え込んでしまって、歌い方で悩んだり、歌ってもしっくりこないということがありました。アルバムを制作しなければならない時だったんですけれど、ちょっと時間をいただいて「1回“倉木麻衣”の生活から離れて、自分を見つめ直してみよう」と。ラッキーなことに、そういう環境をいただけたので、イギリスのほうで語学勉強をしながら、少し音楽と距離をおいたんです。離れることによって、私って音楽が好きだし、もっと自分らしくいられる視点から見つめることだってできるんだと気づくことができました。もう一度、音楽と向き合う自分自身を鼓舞する一曲を作ろうって思って生まれたのが、「Wake me up」という曲だったんです。その楽曲を、イベントやライブでファンのみなさんと歌うことで、元気をいただきましたね。今でも、何かものを作ろうってプロジェクトが動いているときってとても大変で、負けちゃいそうにもなるんですけど、スタッフのみなさんが「運命共同体だよ」って言って支えてくれるので、それはとっても助かっています。
――スタッフのみなさんはどんなふうに倉木さんを元気づけるんですか?
倉木:それが本当にさりげなくて。そっと見守る系とも、「頑張れ!」って盛り上げる感じとも違って、やさしさがしみるっていうんですかね(笑)。この前も、テレビ出演のときに初披露とかプレッシャーを感じて、よく緊張してしまうタイプなんですけど、ふと見たらスタッフさんのTシャツに私の好きな犬がプリントされていて。「ほら、今日生出演だから犬の着てきたよ〜」って。そういう和やかな空気を作ってくださるのが、とてもありがたいんです。お正月には、お煎餅のなかにはいってる小さい七福神のお人形を分け合いっこして。「何かあったら、それぞれ七福神を持って集合しよう!」なんて言いながら(笑)。やっぱり苦しくて大変だってときって、笑顔が減りがちじゃないですか。そういう自然体な繋がりに支えられています。
――20年も一緒に歩んでこられたら、もはや家族同然ですよね。
倉木:そうですねー! マネジメント側もですが、エンジニアさんたちも20年変わっていないんです。私の性格はもちろん、歌い方なども熟知してくださっている方々と一緒に作り上げるので、いい意味で新鮮さを追求できるんですよね。
――チームが安定している分、新しいことに安心してチャレンジできるのかもしれませんね。
倉木:そのとおりですね。戻ってこられる場所があるって思えるのは、大きいです。環境には本当に恵まれました。音楽は120%ピュアであってほしいと思っているんですね。作品にも「大好きだ」っていう気持ちで向き合って、それを聴いたファンのみなさんが「好きだ」って気持ちを返してくださる、そこに信頼できる仲間がいて……っていう環境がありがたくて。こんなこというとおこがましいかもしれませんが、そんな素晴らしいところにいるのだから、音楽を発信していくことこそ私の使命だと思って活動を続けていけたらなって思っています。
新しい挑戦は常に超えていくことに意味がある
――先ほどイギリス留学のお話もありましたが、最近では社会貢献活動にも注力されるなど、海外への興味はもともとあったんですか?
倉木:はい。初めての海外が、アメリカのボストンで。16歳の夏休みに「アメリカでアルバムを作ってきてほしい。急いでパスポートを取ってきて」と言われまして。“え〜! 英語も全然できないのに!?”って慌てましたけど(笑)。実際に行ってみるといろんなカルチャーショックが待っていて。大きかったのは、音楽ってこんなフリーなスタイルでいいんだって思えたことですね。もっと他の国にも行ってみたいっていうのが、ずっと心の中にありました。そんな中、ありがたいことにプロモーションビデオ撮影でイギリスに行く機会がありまして。イギリスの古い文化もありつつ、言葉の発音もキレイですし、いつかここで学べたらいいなって考えるようになったんです。それからアジアのファンの方から「こっちでもライブをやってください」っていうお手紙をたくさんいただいて、台湾で初海外ライブの夢も叶いましたし。カンボジアや、ロシアにも行くことができました。
――世界に目を向けて活躍する中で、強い女性を歌う曲も増えてきたように思いました。
倉木:自分がこうなれたらいいなという思いも入っているんですけども、『国際女性デー|HAPPY WOMAN FESTA 2018』で女性に向けた応援歌を作るワークショップを開かせていただいたんですね。そこで、それぞれ異なる環境で頑張っている女性たちと出会いまして、すごく刺激を受けました。「ふだんは主婦として家にいるので、こういう機会があってすごくうれしかったです」という方もいましたし、「一緒に歌を作れて自信がつきました」というお言葉もいただきまして。「いやいや、こちらこそです!」ってなりましたけど(笑)。そんなふうに色んな環境にいる人たちの気持ちを高める活動ができているのも、幸せですね。
――20年という節目を経て、今後どのような活動をしていきたい、という夢や目標はありますか?
倉木:楽器とのコラボですね。いつもはドラム、ベース、ギター、キーボード、コーラス、ダンサーさんという感じなんですが、シンフォニックライブをしたことによって、カルテット的な見せ方もライブで取り入れていきたいという気持ちにもなりましたし、今回のアルバムでもブラスや、ピアノ1本でのバラードだったり、とコラボものをたくさん取り入れました。今後もいろんなライブスタイルを提案していきたいっていうのもありますし、水族館とかエンターテインメントな場所で音楽と融合させていきたいなっていう夢もありますね……あんなことをしてみたいなっていうアイデアは尽きないので、またトライしすぎて締切に追われてしまうかもしれませんが(笑)。
――溢れ出るアイデアは、いつ生まれるものなんですか?
倉木:一番は、ファンのみなさんからのリクエストかもしれませんね。「ここでライブして」「こういうライブが見たい」「この曲が聞きたい」という夢を叶えていきたいっていうのが、私の願いでもありますので。
――ファンのみなさんは、どんどんリクエストしたほうがいいですね!
倉木:そうですね! でも、おかげさまで20年も続けていると曲も増えて、限られた時間の中でセットリストを組むのが難しくなっていきますよね。実際に『名探偵コナン』に起用された楽曲だけとか、2日公演で1日目と2日目のセットリストをガラリと変えたり、春夏秋冬をテーマに演出の異なる4公演をしたり……と、振り返ってみるとかなり凝縮して活動をしているなと思うときもあります(笑)。
――20年という歩みがあればこそできることが、これからも広がっていきますね。では、倉木さんが20年前の自分に言葉をかけるとしたら、何と言いたいですか?
倉木:「自信を持って、突き進んで大丈夫だよ!」って(笑)。16歳のときすっごく不安だったし、周りも大人の方ばかりで迷惑かけちゃいけないって思って、“大丈夫かな? 大丈夫かな?”って手探りしていた印象が強かったので。「大丈夫だよ、自信を持って!」と伝えたいです。
――「こんなにも充実した日々が待っているよ」と伝えてあげたいですね。それでは、逆に20年後の倉木さんには?
倉木:うわ〜! 何歳になってるんでしょう、私(笑)。でも、20年後もこうして歌い続けられてたらすごいですよね。地球も今、おかしな気候になってきていますし。ファンのみなさんも、スタッフのみなさんも、まずは無事に年齢を重ねられたら。「20年前、インタビューでこんなこと話していましたよ」なんて、今回のことを振り返れたらいいですね!
――そのときも「倉木さん、デビュー当時の印象と変わらないですね」なんて話しているかもしれませんね(笑)。
倉木:アハハハ! さすがに、それはすごすぎますね(笑)!
――今回、お話をお聞きして、改めて倉木さんの音楽に対するピュアさを感じることができました。“夢は叶う”というフレーズが、デビューシングル「Love, Day After Tomorrow」から、今回の最新アルバムまで一貫しているのも、きっとその純粋な気持ちの現れなのかな、と。
倉木:そうですね。やっぱり「夢」とか「前向きな気持ち」は、必ず歌詞の世界観の中には入れるようにしているんです。私自身が、まず自分の楽曲を聴いて“よし、頑張るぞ!”って思えたら、きっとファンのみなさんにも伝わるんじゃないかなって。それから「空」とか「風」とか、自然の言葉も大切にしています。もうお亡くなりになったんですが、以前「MOTTAINAI」で有名なワンガリ・マータイさんと対談させていただいたことがありまして。そこで「倉木さん、環境に対する大切な歌っていうのを発信してください」って言っていただいたんです。日本の四季の移り変わりもそうですし、自然の美しさを感じられるフレーズを意識しています。
――確かに身近にあるからこそ、大切にするのを忘れてしまいそうになります。
倉木:私も、海外に行くことによって、日本をすごく意識するようになりました。「日本ってどういうところなの?」って聞かれることも多いので。そういうところで、日本のいいところを再確認してきたように思いますね。京都、富士山、伝統、おもてなし、やまとなでしこ……と、素晴らしい和の文化がたくさんありますけど、やっぱりその中で日本の四季に対しては特別な想いがあって。楽しむこともできるし、思い出と共にタイムスリップさせてくれるような感覚もあるじゃないですか。一言で語り尽くせないですよね、日本の美というのは。
――古き良きものを再発見しながらも、新しいジャンルの楽曲や技術、楽器、環境と融合していくのが、20年で築かれた“倉木麻衣らしさ”なのかなと感じました。
倉木:そうかもしれません。新しい挑戦は、発見と成長がありますから。大変で、勇気がいることですけど、常に超えていくことに意味があると思っていて。これからもみなさんと一緒に、大切なことを発信しながら、明るい未来に向かって突き進んでいけたらうれしいですね。
(取材・文=佐藤結衣)
東京五輪を決めた高円宮久子妃のスピーチ 世界がうらやむ皇室外交の底力
2019年7月29日掲載
天皇皇后両陛下や皇太子ほどには、その他の皇族の外国訪問は注目されない。だが、皇族はその振る舞いや言葉を通して、国際親善の実を挙げるべく努めている。またホスト国も皇族の訪問を決して軽く見てはいない。往々にして日本国内のニュースでは「微笑ましいトピック」程度の扱いなのだが、外交という観点でみた場合、これら皇室、皇族の外国訪問は極めて重要な価値を持つのだ。
多くの皇族の中でも、特に近年ご活躍が目立つのが高円宮久子妃だ。久子妃のパフォーマンスの高さを衆目の前で見せつけたのが、2013年9月、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会(JOC)総会だった。2020年の夏季五輪の東京開催が決まったあの総会である。
皇室が直接五輪招致活動に関わってよいかどうかについては日本政府内で両論があったため、久子妃は日本招致委員会のプレゼンテーションの前に登壇し、皇室の政治関与とみなされないようにした上で、英語とフランス語を使って見事なスピーチを行った。冒頭で、東日本大震災への世界からの支援に対するお礼を述べ、続いて皇室とスポーツの関係を説明し、最後にIOCメンバーとの絆について語った。ジャーナリストの西川恵氏は、新著『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』で、「このスピーチがIOC委員の心をとらえたのは疑いなく、これによって東京五輪開催の流れがほぼ決まったという意見も、あながち間違っていない」と記し、その時の様子をこう描写している(以下、引用はすべて同書より)。
「……締めに入ると『ではチームジャパンのプレゼンテーションが始まります。皆、一生懸命努力してきましたので、説得力あるものであることを祈っております』と語り、フランス語で『メルシー・ア・トゥス』(皆様有り難うございました)と結んだ。
スピーチは全体を通して親愛の情溢れたメッセージだった。他人行儀のよそよそしさ、肩肘張った緊張やよそ行きの響きはいささかもない。身近な人に語りかけるようにゆっくりと、聴衆を見ながら話していた。最後の『メルシー・ア・トゥス』も身近な友人に礼を言うときの表現だ。
ユーチューブで何度か聞いたが、簡潔にして要を得たスピーチである。内容も、プレゼンの仕方も、聴く者を引き込んだ。終わったあと会場を包んだ拍手も、おつきあいではないだろう」
皇室とて明瞭なメッセージが求められる時代にあって、久子妃の発信力は高く評価されている。現在、20を超える団体の名誉総裁を務めているが、その数は皇族の中で一番多い。スポーツ、文化、環境保護、国際交流など故高円宮の遺志を継いだものと、その後に引き受けたものがある。昨年ロシアで行われたサッカーワールドカップの際には、日本サッカー協会名誉総裁として日本代表戦を観戦・激励し、この機会を利用して現地の弓道の交流行事などに出席して、両国の友好を深めるために一役買った。
皇族が最後にロシアを訪れたのはロマノフ王朝の末期、ロシア革命直前の1916年の閑院宮載仁親王にさかのぼる。実に102年ぶりである。この間、皇族がなぜ訪露しなかったのか、西川氏は同書でこう説明する。
「この間、皇族が訪露しなかったのは、一にかかって日露両国の歴史的関係からだ。ロシア革命によって日本と相容れない共産主義体制となったソ連と、日本はシベリア出兵で軍事衝突し、第2次大戦の終戦間際、日ソ中立条約を破棄して満洲に侵攻したソ連軍と再び衝突した。
戦後はシベリア抑留、東西冷戦、そして北方領土問題と、平和条約を結べない状態が続いてきた。しかし今回は政治抜きのサッカー応援という名目の下、皇族としては102年ぶりの久子妃の訪問が実現した」
久子妃は日本代表チームの応援も、地元との友好もというスタンスをとった。実際、訪れた3カ所で、試合の前後には美術館やロシア正教会、イスラム寺院、スポーツ施設などを精力的に回り、人々と交流した。ロシア側の対応はどうだったか。
「行く先々で地元政府要人が出迎え、ロシア側の歓迎ともてなしは温かかった。ロシアのメディアも久子妃について報じるとき、『102年ぶりの日本の皇族訪問』という言葉が必ずといっていいほど入った」
「久子妃の訪問から約1カ月後の7月31日、モスクワで日露の外務・防衛閣僚協議が持たれた。ロシアのラブロフ外相は日本の河野太郎外相に、サッカーW杯での日本代表チームの活躍を祝福し、『日本の皇族による102年ぶりのロシア訪問だったが、高円宮久子妃が満足されたことを願っている』と述べた。ラブロフ外相も両国関係のよき雰囲気を醸成する上での皇族の役割を重視していることを窺わせた」
皇族による国際交流について、元駐仏大使・ユネスコ事務局長の松浦晃一郎氏はこう語っている。
「皇室の国際的活動は、個別の外交課題を1つずつ具体的に解決していくものではないが、そのための空気を醸成する役割を果たす」
皇室が「最強の外交資産」と評される所以である。
「天地真理」が激白! 「柳沢きみお」も瀬戸際! 誰でも危ない「老後破産」の共通項を検証する
週刊新潮 2015年10月1日号掲載
老後とは、それをエンジョイできる余裕がある人には「第二の人生」でも、「破産」状態に陥った人にとっては、悪夢でしかないだろう。天地真理も、柳沢きみおも味わう「老後破産」の恐怖。人生の終章で辛酸をなめる人には、どうやら共通項があるようだ。
日本文化史を研究するイタリア人、パオロ・マッツァリーノ氏は、著書『「昔はよかった」病』(新潮新書)の中で、「昔はよかったね」と言って今を嘆き、過去を懐かしんでばかりいるのが日本の年長者の特徴だ、と看破する。しかし、「老後破産」に追い込まれてしまった人が生きている「今」は、誰がどう見ても、「昔はよかった」と言うほかないものである。
そして今、「昔」の「よかった」生活から「破産」に近い状態にまで転落する人が激増している。『老後破産 長寿という悪夢』(新潮社刊)がベストセラーになり、「老後破産」の実例を報告した本誌(「週刊新潮」)34号の特集記事が話題を呼んだのも、誰もが「悪夢」にうなされかねない現実があるからだろう。
事実、「昔」のほうが、老後をすごしやすい環境が整っていたようだ。貧困者の生活相談に乗り、アパートの連帯保証人を引き受けるNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の大西連理事長が言う。
「私たちが収入を得る要素は、労働、資産、家族の援助、社会保障の4つ。そして国民年金は、社会保障以外の3つの要素がある前提で成り立っている制度なんです。成人するまでは親に扶養され、学校を出たら働いて貯金する。結婚して子供が生まれたら、家族を養いながらマイホームを買い、資産を作る。そして定年退職を迎えたら、貯蓄と退職金、子供たちの援助に支えられて生活する――。実際、昭和にはそうした社会モデルが一般的で、現在の社会保障制度は、こうしたモデルを前提に設計されている。国民年金も、それ1本で生活を成り立たせるための制度ではないのです」
ところが、そんな社会モデルが大きく崩れているという。大西氏が続ける。
「高度成長期には正社員が当然で、終身雇用が前提で企業福祉も充実し、妻が専業主婦でも家族を養う余裕があった。しかし、現在は非正規雇用者が労働者全体の37%を占め、彼らは給料が低いので資産を形成できず、そんな状態では結婚して家族を養うこともできない。要するに、収入の4要素のうち3つがない人が増え、昭和モデルが通用しなくなっているのです」
月給1,000万円の超アイドル「天地真理」・・そんで今は??
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米国のその他の1ドルショップとダイソーは、取り扱う商品が異なり、文化が劇的に異なる。西海岸ですでに多数の店舗を展開しているダイソーは今年3月、ニューヨーク都市圏にも進出。8月3日には同地域で2番目の店舗をニュージャージー州エッジウォーターに開業した。
米国内の店舗数が78となったダイソーは、それぞれ1万5000店舗近くを持つ業界の巨人、ダラー・ゼネラル、ダラーツリーに比べればごく小規模だ。だが、東海岸に進出したダイソーには今後、急速な成長が見込まれている。ニューヨークにさらに2店舗、ニュージャージー州内にもその他の店舗をオープンする予定だ。
競合他社は要警戒
ダイソーを警戒しなければならないのは、1ドルショップだけではない。手芸用品店やホビーショップもまた、同社から目を離してはいけない。ユーチューブにはインフルエンサーたちが、ダイソーで手に入れた「収穫物」を紹介する動画がいくつも投稿されている。
ダイソーは東海岸で最初の店を設ける場所として、アジア系の人口が多い地域を選んだ。すでに同社の名前をよく知っており、確実につかむことができる顧客層があるためだ。世界各地に合計4000店舗以上を展開する同社だが、その大半は日本と、その他のアジア諸国にある。
今年3月、ニューヨークのフラッシングにあるモール「スカイビューセンター」の店舗がオープンしたときには、店内に入るための長蛇の列ができ、最後尾はフロアの端にまで達した。
エッジウォーターにある「ミツワ・マーケットプレイス」内に開業した新店舗とフラッシングの店舗では、ほぼ全ての商品を1.99ドルで販売している。西海岸では基本的に全て1.50ドルであることから、高めに設定されている。ダイソーの幹部はこれについて、店舗の賃料が高額であることから、ニューヨークでは価格を上げる必要があったと説明している。
加工食品やスナック、日本のドリンク類も販売するダイソーでは、基本価格(1.99ドル)で販売されている商品の割合がその他の大手1ドルショップよりも高い。一部の1ドルショップでは、価格が実際に1ドルのものを見つけるのが難しい場合もある。
また、ダイソーのファンたちによれば、価格に対する品質のレベルは、その他の1ドルショップより同社の方が優れているという。
「ニッチ市場」にアピール
ダイソーは1ドルショップ業界にとって重要な「ニッチ市場」にアピールしている。それは、低価格と高品質を求める高所得層がターゲットとなる市場だ。調査会社IBISワールドが2月に発表した同業界に関する報告書によると、米国の1ドルショップ業界は中間~高所得者層の消費者によって、871億ドル(約9兆2600億円)規模に成長している。
報告書は、「多くの高所得の消費者にとっては、安く買い物ができたことはますます誇るべきことになっている。そうしたトレンドが、同業界の顧客ベースを大幅に拡大させてきた」と指摘する。
ダイソーでは、米国の代表的な1ドルショップでは決して見つけることができない数多くの商品が販売されている。
I cover science and innovation and products and policies they create.
さらにその翌日の5日には同じくカリフォルニア州南部でM7.1の余震が発生。40秒以上も続いた揺れにより、ラスベガスで開催中のNBAのサマーリーグでは、一部の試合が打ち切られた。
現地の模様はSNSを通じて広く拡散され、ネット上では恐怖が広がった。その余波はインターネットユーザーの検索動向にも反映されている。グーグルトレンドでは、地震発生以降に「スーパーボルケーノ(超巨大火山)」関連の検索回数が急上昇したことが確認された。
スーパーボルケーノという言葉は、インターネットの利用時間が長い人々にはおなじみのワードだ。地震が引き金となり「イエローストーンのスーパーボルケーノ(超巨大火山)が噴火する」という説は、以前から繰り返し述べられてきた人類滅亡のシナリオだ。
米中西部の3州にまたがるイエローストーン国立公園は、かつて巨大な火山があった地域だ。イエローストーンが万が一噴火した場合、240立方マイル(約1000立方キロメートル)のマグマが噴出し、数十年間に渡って「火山の冬」が地球を覆い、複数の州にまたがるほどのクレーターが出現するとされる。
しかし、米地質調査所の発表によると近い将来、イエローストーンで巨大噴火が起きる確率は73万分の1(0.00014%)で、壊滅的な小惑星の衝突が起きる確率とほぼ同じだという。
つまりこの説は根拠のないデマとも呼ぶべきものだが、地震が起きる度に浮上している。その一例にあげられるのが、下記のようなツイートだ。
「カリフォルニアで大地震が発生した。この地震が引き金となりイエローストーンの巨大噴火が起こる。北米全土が壊滅し、世界の終わりがやってくる」
実際のところ、今回の地震がイエローストーンの巨大噴火につながる可能性はない。現地で常にイエローストーン火山の模様を監視している研究チームも、「噴火につながるいかなる兆候も観測されていない」と述べている。
今回のインターネット民たちの反応は、2つの心理学理論で説明できる。その1つは「アポフェニア(apophenia)」と呼ばれるもので、無意味なノイズや偶然の存在を信じてしまう心理状態のことだ。さらにもう1つが、「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれるもので、能力の低い人物が自らの容姿や発言・行動などについて、実際よりも高い評価を行ってしまう錯覚を意味する。
これらの言説を信じてしまう人の多くは、過去に広まったツイートを繰り返し引用している。しかし、実際のところ世界の地理はもっと複雑で専門家たちも未来を予測することは不可能なのだ。人類滅亡説をつぶやく暇があったら、今後の余震に備え、防災グッズの購入などを検討したほうがいい。
数十年に1度しか咲かない中南米原産の多肉植物「アオノリュウゼツラン」が、兵庫県小野市の小西一男さん(68)方で、小さな黄色の花をたくさん付けている。結婚した1973年から大事に育ててきた妻立子さん(67)は「どんな花が咲くのかずっと、楽しみにしてきた」と喜んでいる。
【写真】黄色の小さな花がたくさん咲いている
放射状に広がる、先のとがった葉が根元に密集し、竜の舌を連想させることから「龍舌蘭」と呼ばれる。花を咲かせるまでに数十年かかり、英語の異名は「センチュリー・プランツ」(世紀の植物)。空へと高く伸びた株は命が尽きる前に1度だけ花を咲かせ、最後は根元に子株を残して枯れてしまう。
小西さん夫妻は結婚直後に小さな株を知人から譲り受け、2、3年後に建てた自宅の庭に植え替えた。40年以上が経過して茎は高さ約5メートルに成長。今月11日に最初の花が咲き始めた。
立子さんは「2人の娘は大きくなって家を出て、長い時間が過ぎた。本当に咲くのか半信半疑だった時期もあるけど、きれいな花にやっとお目にかかれてうれしい」と話している。(笠原次郎)