眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

普通のおばさん ・・・・・ 『シークレット・サンシャイン』

2009-10-06 01:58:32 | 映画・本

『シークレット・サンシャイン』を、私は去年の秋頃、自主上映で初めて観た。

その後、当地恒例のオフシアター(劇場での興業以外として上映された)映画のベストテン選考会で、外国映画の1位に選ばれ、今年の夏再度上映された際、20代の友人ともう一度観た。彼は初めて、私は8~9ヶ月間をおいて2回観たことになる。

その2度目の時の驚き?のようなものを、自分のために書いておきたいと、その後ずっと思っていた。初めて観た時と2回目とでは、ヒロインの行動、人となりが、私には随分違って見えたのだ。


映画が終わって、いつものように感想を彼に訊くと、一瞬、本当に困ったような顔をしたと思う。

訊いた方が言うのもナンだけれど、その気持ちはよく解る。この映画の感想を少しでも書きたいと、私も去年何ヶ月もジタバタした揚句、結局何も書かないままになっているのだから。


それでも彼は、ほとんど独り言のような言い方で、返事をした。

「あの女の人は、おかあさんなんかの方が、僕よりずっとよくわかるんじゃないかなあ。」

「共通するものがあるっていう意味?」

彼は当然と言った表情で頷いた。

「でもあの人は、意外に普通のおばさん付き合いも出来るみたいだし・・・本当に人と付き合うのが苦手っていうのでもなさそうだし。」

彼はそれ以上言わなかったけれど、彼が付け加えようとした言葉が聞こえる気がした。「あの人は、あんなに苦しまずに生きられる道が見つかる人みたいに、僕には見えるんだけど。」とでもいうような。(勿論、私の勝手な想像なのだけれど。)

「でも・・・最後に美容院で、あの女の子と和解できなかったのが残念。本当に、それだけは残念な気がする。」


20代の友人の言ったことは、ごく表面的な感想のように聞こえてもいいのに、なぜか私の記憶に残った。

彼の言ったことがすべて、現実的な事柄だったからかもしれない。

最近宗教にも興味を持っているらしい?彼は、この映画での大きな要素である「キリスト教」については、敢えて触れたくないのかもしれないとも思った。それでも好奇心から訊いてみると、彼は笑い出してこう答えた。

「確かに、そういう意味ではタイムリーな内容だったけど、要するに・・・神サマと自分とで意見が違った時、どうするかってことでしょ。それって宗教にはついて回ることだと思うし、僕なんかは正直、答えがまだわからない。」

「神サマの考えてること全部が全部、人間である自分に、そんなにきれいに理解できるものなのかなあ。今はわからないことでも、いつかわかる日が来るのかもしれないとか・・・私なんかは思いそう。」などと自信に乏しい私が言うと、「へえ~そういう考え方もあるのかあ。」などと彼は言って、そこで話は終わってしまった。



最初に戻る。私は1回目と2回目で、主人公のシネが随分違って見えたと書いた。

初めて観た時、彼女は「さまざまな怒りを抱え込んだまま、どこへ行っても何をしても周囲との間に摩擦が起こり、それがさらに本人の自尊心を傷つける・・・というような、結果として孤独から逃れられない、不器用な女性」に見えた。そんな彼女が、一人息子の誘拐殺人という悲惨な出来事に出合った時、その行き場のない怒り、悲しみは、彼女を一体どこへ導いていくのか・・・を、映画は描いているのだと思った。

事故死で夫を失った後、一人で育ててきた幼い息子を誘拐され、誰にも相談できず、一人で銀行から預金を下ろし、運転して指定された場所へ金を運ぶ彼女を見ていると、私はもう文字通り胸が締め付けられる思いだった。子どもの命が危ないという時の、あの息も出来なくなるような、周囲が全く視野に入らなくなる瞬間を、思い出してしまったからだ。この時の彼女、そして、息子が還らないと判ったときの彼女の衝撃は、本当に痛ましくて、心底可哀想に・・・と思った、

けれど私が、少なくとも「可哀想」と思ったのはそこまでだったような気がする。その後の彼女の行き場のなさ、怒りのどうしようもなさについては、私は案外冷静に見ていたと思うのだ。

私と彼女は、妙な言い方だけれど「対等」だったのだと思う。

人は本当に苦しい時、どういう行動をとってもそれはその人なりのことで、どうしてそこまでのことをするのか・・・などと思ってみても始まらない。そうせずにはいられないからするのだ・・・と、今の私は思っている。

彼女の言動は破れかぶれというか、殆ど支離滅裂なものになっていき、最後は破綻し入院ということになる。(路上で何事かと集まってきた人たちに、初めて彼女は「助けて下さい。」と言う。そこまでこなければ、人に助けを求めることが出来ない人なのだ。)

その間、私は性格の違い、置かれている境遇の違いは感じても、身近な人を見ているような気持ちは変わらなかった。私より遙かにエネルギーがあり、私が持っているような「人間」という生き物に対する恐怖もなく、私よりはずっと他者からどう見えるかに敏感で、ただ私と同じくらい自分を客観視出来ない人だと思っただけだ。


ところが、2度目に出会ったシネは、最初から最後まで本当に「痛々しい」人だった。私は、ともすると彼女が気の毒でならなくなった。「可哀想に・・・」と思ってしまうのだ。

私は自分で自分の感情に驚いた。「可哀想に・・・って、一体何?それ。」



その後、精神科の友人と電話で話す機会があった。


「私ね、もしかして『タマゴのカラ』が薄くなってきてるのかもしれない。」

「どうしてそう思うの? 何かあった?」

「この前2回観た映画が、1回目と2回目で随分違って見えたの。でも、作品のせいじゃなくて、自分の側の問題みたいな気がした。」

私は、『シークレット・サンシャイン』を観て気づいたことを手短に話した。そして、こう付け加えた。

「私、もしかしたら案外簡単に『普通のおばさん』になっていくんじゃないかなあ。」

「ふうん・・・。」


彼女はちょっと間を置いてから、私が拍子抜けするほど?あっさりと言った。

「そうかあ、あなたほんとに殻が無くなったんだ。」

「無くなった?」

「うん。友だちとの電話で、腹が立ったりするようになったって、この前言ってたでしょ? 世間一般というか・・・私たち(と彼女は言った)のガサツさとかに苛立つようになるっていうのは、そういうことだと思うよ。」

そして、彼女は淡々とした口調で訊いた。

「ねえ、今、自分はどういう人間だと思う?」


私は、自分の気持ちや意見を即答しなければならない状況が、苦手な方だと思う。けれどそういう時の方が、自分の思いがけない本音が出てくることも、これまでの経験から知っている。

といういわけで、私は殆ど考えずに答えた。

「私は・・・『遊び人』やと思うわ。」

彼女は笑い出して、それでも口早に言った。

「遊び人のオバサンなんて、ちょっとカッコイイと思うけど。」

もう一つ・・・と、まだ笑いながら彼女は訊いた。

「子どもさんたちが学校行ってたら、自分はどうなってたと思う?」

「・・・イヤなオンナになってたんやないかなあ。」

彼女はさらに笑った。

「嫌な女っていうのは、当たってるかも。」

自分で言っておきながら、今度は私の方が尋ねる。

「嫌な女って、どういう意味で言ってるの?」

「そうね・・・学校とか学歴とかに疑問や反感を感じているけど、それを表立っては言わないままというか、屈折した感じになるんじゃないかな~って。」

「私、学校キライやもんね・・・うちで本当に学校嫌いなのは、私だけやと思うわ。」

当然そうでしょうね・・・と彼女が頷くのが判る。

「息子たちは、学校を特にキライともイヤだとも、今となっては思ってないみたい。でも、私は子どもの頃からずうっと、学校もそこにいるオトナたちも嫌いだった。」

心の中で続ける。「私はそれを、子どもには出さないように気をつけてたつもりだったんだけど。でも、彼らは何か感じたんだろうな・・・。学校辞めるに至った、数ある理由・きっかけの1つに過ぎないとしても。」


突然彼女の声が耳に入る。

「でもね、さっきおたくが言ったことは、大学時代のイメージとちゃんと繋がってると思うよ。」

「おたくは昔から、ほんとに聞き上手だった。それが居心地良くて部屋に遊びにくる人もいたって、私は思ってる。映画もずっと好きだったでしょ?」

彼女は念を押すように、声を落としてそっと言った。

「そういうあの頃のおたくのイメージは、『映画が好きで聞き上手な人』っていう今のおたくのイメージと、私からはきれいに繋がって見えるよ。」



『シークレット・サンシャイン』に戻る。


この映画の中で一番好きなシーンをと言われたら、私は迷わず、終盤洋品店の女主人と美容院から飛び出してきたシネが出会い、女主人のふと口にした言葉から、二人が一緒に笑う場面を挙げる。この時のシネの、困ったような笑顔の自然さが好きだからだ。

この女主人は、私の思い浮かべる「普通のおばさん」の典型のような人だ。

妙なことを言うように聞こえるだろうけれど、私は「普通のおばさん」に、憧れのような気持ちをずっと持っていた。

私の目には、所謂「普通のおばさん」というのは、「大人の女性の一完成型」に見えるのだ。自分なりの人生を歩いてきて、その間のさまざまな経験が積み重なってその人なりの自信になり、どんなことがあろうとその人なりの対処が出来る・・・そういうオトナの1つの完成された形だと。

男性の場合も基本的には同じようなイメージを持っているので、「普通のおじさん」も私は好きだった。ただ(同性だからということではななしに)女性の方が、なんとなく「なるのに必要とされるオトナ度が高い」?ようなイメージがあったので、余計に「憧れ」にちかい気持ちを持ったのかもしれない。世に謂う「オバサン」という言葉の語感とは、随分違うイメージだと自分でも思うけれど。

あの場面での女主人の言葉も態度も、そういう「普通のおばさん」の良さそのもののように私には見える。

そう言う意味では、最初から最後まで、シネから離れようとしないジョンチャンも「普通のおじさん(ちょっと若いけれど)」の一人であって、彼の温かさも同様に「普通のおじさん」の良さなのだとしみじみ思う。


「普通」という言葉は誤解を招きやすい。けれど他に適当な言葉が見つからない。「現実的」とか「目に見える現実の中で生きていて、頭の中にしかないようなことだけに没頭したりしない」といった意味で使っているつもりなのだけれど、それだけでもないような気もする。自分でもよくわからないモノも含んだまま使っている言葉の1つかもしれない。



ここまで書いてきて、私が言いたかったのは、シネや私の人生において、私たちを実際に支えてくれるのはこういう人たちなのだ・・・というある種の感慨を、映画を観てから今までずっと、私が感じているということだったような気がしてきた。


映画のタイトルは舞台になった密陽(ミリャン)という地名から来ている。(この映画の原題はそもそも『密陽』だ。)

秘密の陽差し・・・エンディングでの裏庭に射すやわらかな(どこか頼りなげな?)光は、私の眼にはたとえばジョンチャンに重なる。



私はこれからは、ちょっと変わった(30年も世間から離れていたのだから当然だ)でも「普通のおばさん」になっていくだろう。というより、もう既になっているのかもしれない。

たとえば2回目に映画を観たとき、私は初めてシネと自分との年齢の違いに気がついた。

これまでずっと、私は自分より年下の人に対して、自分を年長だと感じたことがなかった。子どもも若い人も、私は対等にしか見えていなかったのだ。

それが、「ああこの人は、まだ(人生の)若いステージを生きてる人なんだ・・・」とでもいうような視線を、自分の中に感じるようになった。(これが「おばさん」というものなのだろうか。まだヨクワカラナイけれど。)


今初めて気がついた。

もしかしたらシネは、私には亡くなったあの「ルノアールの少女」とも、どこかで重なって見えている部分があるのかもしれない。

彼女はもういないけれど、私は「普通のおばさん」になってこの先も生きていく。

シネも(20代の友人が言ったように)普通のおばさんたちと付き合いながら生きていく道が、いつの間にか自然に見つかることを私は願っている。(彼女には、私よりもその素質?がありそうな気が、実は私もするからだ。ちょうどあの頃「ルノアールの少女」にも、同じような資質をどこかで感じていたように。)

そしていつか、あの女の子(犯人の娘)の苦しみに気がついてくれたら・・・と。

現実を生きるというのはそういうことなのだと、今の私は思うようになったのだと思う。



『シークレット・サンシャイン』のことを、結局ほとんど書かずに終わる。

それでも、この映画は私にとって特別の1本だったことが、ここまで書いてみてよくよくわかった。最初に見たのは去年の秋・・・とうとう1年間、抱えて暮らした映画が出てきたのには、さすがに自分でも驚いている(笑)。











『透明なタマゴのカラの中で』

http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/841b5787a09fcf04bd5178fadc9b9cb7

『ルノアールの少女』

http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/1916445eb88fddc1af8a889c2f39c69a





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『愛を読む人』 | トップ | 『カムイ外伝』の話から・・・ »

コメントを投稿

映画・本」カテゴリの最新記事