ふと気づいたら、とっくに秋になっていた。
夏の間っていうのは、私にとっては特別な時間なんだな・・・と、涼しくなるといつも思う。秋になるってことは、私にとっては「ヒコーキの高度が落ちてくる」こと・・・というのを思い出させられるから。
もっとも去年の3・11以来 、私のヒコーキは次々と乱気流に遭遇していて、以前のように「大まかに言うと、夏がソコソコ元気で冬は調子が悪くなる」という感じでもなくなっている。ヒコーキの「揺れ」は以前より細かくて、長時間用のモノサシでものを考えるのが、私にはこれまで以上にムズカシクなってきた。
私の部屋は障子張りで、日の出前から明るくなる。当然のように眼が覚める。でも、すぐには起きない。
身体が「起きられる」状態になるまでに、少し時間がかかる(らしい)。そのまま布団の中で、とりとめのないことを考える。調子が悪くなってくると、この時間が長くなる。「起きなければならない」理由が、今の私にはもう無いからかもしれないけれど。
ほんの数年前までは、こういう時「何もかも、もうどうでもいい」と、もっと強く?思った気がする。
今は、同じ「どうでもいい」でも、もっとカサカサに乾いて軽いトーン?で、感じることが多くなった。
だから、私が朝一番にする「作業」は、そんな気分を適当にあしらって、とにかく身体を起こし、寝床から出て「一歩歩き出させる」ことだ。(「最大摩擦力は動き出す直前」というのを思い出して、いつもちょっと可笑しくなる。)
身体を動かすことが出来れば、あとは少しずつ「脳」の方もついてくる・・・というくらいだと、私の場合特に不調とは言わない。問題は、そういう「作業」が全く出来ないような時だ。
あれこれ自分をダマクラカソウとしても、文字通り「スィッチが入らない」ような事態がたまに起きる。
何もかもが遠くに感じられて、自分とは無関係のような気がする。本当に力尽きた感じで、このままにしておいて欲しい(誰に向って?)と思う。
そういう時は仕方なく、一旦は起き出すのをアキラメる。若い頃と違って、何日も寝ている・・・なんてゼイタクは、身体の方で出来なくなっている。丸一日寝ていると、あちこちの骨が軋んで痛くなってくるので、どうせイヤでも起きなければならなくなる。起きたら気分がマシになるかどうか・・・そういう時はわからないけれど。
「映画を観ていても集中出来ない」「全然観に行く気になれない」というのも、最近はあまり珍しくなくなった。この夏は、一歩家から出て「暑さ」と「冷房」との板挟みになるのを想像しただけで、外出する気力が湧かない日が続いた。(化学物質過敏症からいうと、夏はそもそも空気環境は良くない。私の場合、自宅が一番マシなのだ。)
母が亡くなったこと(或いは自分自身の老化)と関係があるのかどうかもワカラナイけれど、自分のどこかが壊れてしまったような感じにもつきまとわれた。
そんなある朝、何がきっかけだったんだろう・・・ふと、誰かに言われたような気がした。
「見るのをやめてはいけない。」
なぜかハッとした。
遠い昔、私は目に見えたモノは記憶してしまう子どもだった。
その後も、特に興味を持って見ていたわけではなくても、出会った人、人生のどこかですれ違った人々のことが、目の前で起きたことはもちろん、伝聞も加わって、ごく自然に記憶の小箱に一人ずつ仕舞われていった。
映画は私にとっては、生の現実よりリアルな「現実 」そのものだった。「じっと見つめても構わない」現実だったからこそ、私は映画の世界に没頭したんだろう・・・と、今となると思う。
「見る」「見える」現実には、ツライことや悲しいこと、声を上げてなじりたいほど不当なこと、目を背けても記憶から消えないような、人間の残酷な仕打ちが混じっていた・・・とでもいうのだろうか。具体的なことは、もう何も思い出せない。
「観る」現実の方には、もちろんそれらは山盛りになっていた筈だ。
それでも私は、それを「じっと見つめる」ことが出来た。思う存分、耳を塞がず、目も逸らさずに、「見ている」ことが許されている現実・・・。
私がこれまでにしてきたことというのは、要するに、「見る」(見えてしまう)ことと「観る」(或いは「読む」)ことだけだったんじゃないかという気がする。私は非常に視覚優位?なところがあって、離人症につきまとわれていた間も、自分は「眼」だけで生きているような気がした。
「見る」「見ている」ことをやめたら、私というヒトはいなくなってしまう・・・ふとそんなことまで考えた。
それ以来、起き出すエネルギーが湧かない時など、ふとあの言葉が浮かぶ。
「見ることをやめてはいけない。」
すると、なぜか私の中で、「そうだね。」という子どもの声が聞こえる。そして、なんとか起き上がれるようになる。
自分でも不思議だと思う。でも、全然不思議じゃない気もする。
「書く」ことは私をとても元気づけるけれど、私という人間にとっては外側にある「付録」の事柄なんだな・・・ということがよく判る。ヒコーキが高く飛べなくなると、あっという間に書けなくなる。最初に捨てられる荷物・・・とでもいうように。
せめて「見る」こと(出来れば「観る」ことも) だけは、捨てずに抱えたまま行きたい。ボロのヒコーキの最後の荷物だ。
いつもとっても気持ちの良いエッセイのようで
私はとっても好きです
ムーマさんにとって、辛い出来事なのかもしれないのに
とっても気持ちの良いなんて表現は
正しくないとは思うのですが
見る事をやめてしまったら
この素敵な文章もなくなってしまうので
どうぞ、止めないで下さい。
一ファンとしてそう思います。
「とっても気持ちがいい」という言葉を聞いて、本当に驚きました。
ありがとう! とってもとっても嬉しいです(本当)。
「ひとりごとウィルス」は特に(「要するにグチ」なので)本人としては
人目に晒すには鬱陶しい文章で、なんとなく申訳ないというか
肩身が狭く?感じていました。
映画の感想も、書く書くと言いながらなかなか書けずにいます。
でも、更年期さんが書いておられた『フリーダム・ライターズ』も
BSで放映されたので、やっと観られました。
また少しずつでも、感想書きたいと(気持ちの上では)思っています。
いつも読んで下さって、書き込んで下さって
本当にありがとう!
なんだか少しだけ、元気と勇気が湧いてきました(^o^)。
>いつもとても大切に好意的見てらっしゃるので
自分でそんな風に思ってなかったので、驚きました。
でも・・・そうかもしれませんね。
意識してではないけれど、「好意的」に見るようにしてるのかも。
私は自分がここに書くことは(特に映画以外については)
自分のための「砂糖菓子」だと思っています。
自分が見たもの、思ったコトを、脚色せずにそのまま書いてるだけなんですが
書いてしまうと、それが自分の「記憶」として定着してしまうんだろな・・・と最初から思っていたので
「ウソは書かない」でも「覚えていたくない書き方はしない」
そのために、「イヤだったコトは書かない」・・・になっていると思います。
だから「宝物」なのかもしれません。
私は「砂糖菓子」を食べて生きてる、そういう生き物なんだなあ・・・って
自分でもつくづく思うことがあります。
(真摯っていう言葉からは遠い?生き物かも(^_^;)
でも今となると、最後までそれで行けるなら
それもいいかも・・・って、思えるようになったのかもしれません。
優しい受け取り方して下さって、どうもありがとう(^o^)。
(昔々、コーヒーを淹れて、こういう話をよくしましたね。
今でも思い出すことがあります。懐かしいです。)
わたしはここ数年の問題を抱えていて
「生きて動く」事をやめたくないとやっと最近前向きになりました。
時間かかりましたわ・・・。
真摯っていうのは、本人が真摯であればいいです。
周りがどう思っていても。
それも含めての自分なんだから・・・
つくづく思いますよ。
「やっと最近前向きになりました。」とのこと。
良かったですね。
なんだか私まで嬉しくなりました。
かさぶらんかさんは、真摯に生きておられるんだな・・・
と思いました。
来て下さって、書き込んで下さって
本当にありがとうございました。