兵庫県知事が百条委員会を経て不信任決議され失職することになった。
ご本人の口からも「鋼のメンタル」という言葉が出るくらいに
毎回の会見を見ていても彼の話には感情というものが感じられない。
そのため記者会見を見ていても、
聞いている人々を立腹させていてもまったく動じることはない。
だから自分のしてきたことと百条委員会が問題視している問題との関係性や
自殺者との因果関係についてみても
彼にとってみればまったく別問題であり、
何がこんなにも社会問題化しているのかを理解していない。
ただ選挙時に推薦してくれたり応援してくれた政党や仲間が
ある時期を機に突然反旗を翻(ひるがえ)したことにだけには涙を見せた。
しかし彼にしてみれば、どういう理屈で仲間と思っていた人たちが
急に立場が変化したのかの因果関係は理解できない。
だからこそ四面楚歌になっていても再選を目指して出直し選挙に臨むのだ。
私には、何らかの障がいがあるとしか思えない。
同じような人を知っている。
その人とは付き合いも長いけれど私としては感情が感じられない。
その人も頭のすごくいい人で、家庭の事情で高卒で働くことになったが
彼のような人が大学に進まないのはもったいないと
高校の先生が両親にお願いに来られたくらいである。
また母親の信心がそのまま身についているので
言葉の上では「かわいそうに」と発したりして
お見舞いを持って行ったりと
他人の目には慈悲深く見えるのだが、
本人の気持ちの中に慈悲な気持ちはなく
あたかもAIのようにこういう場面ではこういう態度を取るというように
マニュアル的に行動しているだけにすぎない。
私が子どもの頃に成績が振るわず、いつも立たされていた時に
その人は自分の通知表を見せて、
自分がどんなに勉強が出来たのかを説明されたことがある。
成績の悪い私に、どうして自分は優秀だった通知表を見せたのか
子ども心にも理解できなかったのを覚えているが
今にして思うと、自分にとって勉強は出来て当たり前のことなので
勉強の出来ない子どもの気持ちが理解できなかったのだろうと理解している。
この人も同様の障がいがあるという仮説を立てた時にはじめて
これまでのこの人の行動パターンが腑に落ちたのだが
未だに周囲の人たちからは「思いやりのある優しい人」で通っている。
私が長年ソーシャルワーカーとして
さまざまな障がいのある人たちに接してきたことで
その人を当てはめて考えてみて、障がいがある可能性を見出して
彼の行動パターンが理解できたけれども
「思いやりのある優しい人」にしか見えない人たちには
いくら説明しても通じない。
それどころか私自身が「おかしな人」に見られてしまう。
それはあたかも「フーテンの寅さん」のような感じでもあって
近所にいる人にとってみれば、評判が良いオジサンだけれども
家族に居れば迷惑千万ということになる。
ただ救われるのはケアマネージャーをしている妻も
私と同じ受け止め方をしてくれており、夫婦間での齟齬(そご)はみられない。
これまでの知事の一連の発言を聞いていて
分かる人にはすでに周知のことなのだろうけれど
たとえ分かっていたとしても、言葉には出せないのかもしれないが
みんなどんな目で見てるのだろうか?と不安になってくる。
私たちとは土俵の異なる宇宙人のような人の話を切り取っても
所詮、受けとめ方が異なるのだから話になる訳がない。
知事自身のことよりもコメンテーターの扱い方にモヤモヤしている。
ご本人の口からも「鋼のメンタル」という言葉が出るくらいに
毎回の会見を見ていても彼の話には感情というものが感じられない。
そのため記者会見を見ていても、
聞いている人々を立腹させていてもまったく動じることはない。
だから自分のしてきたことと百条委員会が問題視している問題との関係性や
自殺者との因果関係についてみても
彼にとってみればまったく別問題であり、
何がこんなにも社会問題化しているのかを理解していない。
ただ選挙時に推薦してくれたり応援してくれた政党や仲間が
ある時期を機に突然反旗を翻(ひるがえ)したことにだけには涙を見せた。
しかし彼にしてみれば、どういう理屈で仲間と思っていた人たちが
急に立場が変化したのかの因果関係は理解できない。
だからこそ四面楚歌になっていても再選を目指して出直し選挙に臨むのだ。
私には、何らかの障がいがあるとしか思えない。
同じような人を知っている。
その人とは付き合いも長いけれど私としては感情が感じられない。
その人も頭のすごくいい人で、家庭の事情で高卒で働くことになったが
彼のような人が大学に進まないのはもったいないと
高校の先生が両親にお願いに来られたくらいである。
また母親の信心がそのまま身についているので
言葉の上では「かわいそうに」と発したりして
お見舞いを持って行ったりと
他人の目には慈悲深く見えるのだが、
本人の気持ちの中に慈悲な気持ちはなく
あたかもAIのようにこういう場面ではこういう態度を取るというように
マニュアル的に行動しているだけにすぎない。
私が子どもの頃に成績が振るわず、いつも立たされていた時に
その人は自分の通知表を見せて、
自分がどんなに勉強が出来たのかを説明されたことがある。
成績の悪い私に、どうして自分は優秀だった通知表を見せたのか
子ども心にも理解できなかったのを覚えているが
今にして思うと、自分にとって勉強は出来て当たり前のことなので
勉強の出来ない子どもの気持ちが理解できなかったのだろうと理解している。
この人も同様の障がいがあるという仮説を立てた時にはじめて
これまでのこの人の行動パターンが腑に落ちたのだが
未だに周囲の人たちからは「思いやりのある優しい人」で通っている。
私が長年ソーシャルワーカーとして
さまざまな障がいのある人たちに接してきたことで
その人を当てはめて考えてみて、障がいがある可能性を見出して
彼の行動パターンが理解できたけれども
「思いやりのある優しい人」にしか見えない人たちには
いくら説明しても通じない。
それどころか私自身が「おかしな人」に見られてしまう。
それはあたかも「フーテンの寅さん」のような感じでもあって
近所にいる人にとってみれば、評判が良いオジサンだけれども
家族に居れば迷惑千万ということになる。
ただ救われるのはケアマネージャーをしている妻も
私と同じ受け止め方をしてくれており、夫婦間での齟齬(そご)はみられない。
これまでの知事の一連の発言を聞いていて
分かる人にはすでに周知のことなのだろうけれど
たとえ分かっていたとしても、言葉には出せないのかもしれないが
みんなどんな目で見てるのだろうか?と不安になってくる。
私たちとは土俵の異なる宇宙人のような人の話を切り取っても
所詮、受けとめ方が異なるのだから話になる訳がない。
知事自身のことよりもコメンテーターの扱い方にモヤモヤしている。