まじ卍

生活の中で気が付いたことを書いています。

他人の目

2024-09-28 | 受け止め方
兵庫県知事が百条委員会を経て不信任決議され失職することになった。
ご本人の口からも「鋼のメンタル」という言葉が出るくらいに
毎回の会見を見ていても彼の話には感情というものが感じられない。
そのため記者会見を見ていても、
聞いている人々を立腹させていてもまったく動じることはない。
だから自分のしてきたことと百条委員会が問題視している問題との関係性や
自殺者との因果関係についてみても
彼にとってみればまったく別問題であり、
何がこんなにも社会問題化しているのかを理解していない。
ただ選挙時に推薦してくれたり応援してくれた政党や仲間が
ある時期を機に突然反旗を翻(ひるがえ)したことにだけには涙を見せた。
しかし彼にしてみれば、どういう理屈で仲間と思っていた人たちが
急に立場が変化したのかの因果関係は理解できない。
だからこそ四面楚歌になっていても再選を目指して出直し選挙に臨むのだ。
私には、何らかの障がいがあるとしか思えない。

同じような人を知っている。
その人とは付き合いも長いけれど私としては感情が感じられない。
その人も頭のすごくいい人で、家庭の事情で高卒で働くことになったが
彼のような人が大学に進まないのはもったいないと
高校の先生が両親にお願いに来られたくらいである。
また母親の信心がそのまま身についているので
言葉の上では「かわいそうに」と発したりして
お見舞いを持って行ったりと
他人の目には慈悲深く見えるのだが、
本人の気持ちの中に慈悲な気持ちはなく
あたかもAIのようにこういう場面ではこういう態度を取るというように
マニュアル的に行動しているだけにすぎない。

私が子どもの頃に成績が振るわず、いつも立たされていた時に
その人は自分の通知表を見せて、
自分がどんなに勉強が出来たのかを説明されたことがある。
成績の悪い私に、どうして自分は優秀だった通知表を見せたのか
子ども心にも理解できなかったのを覚えているが
今にして思うと、自分にとって勉強は出来て当たり前のことなので
勉強の出来ない子どもの気持ちが理解できなかったのだろうと理解している。
この人も同様の障がいがあるという仮説を立てた時にはじめて
これまでのこの人の行動パターンが腑に落ちたのだが
未だに周囲の人たちからは「思いやりのある優しい人」で通っている。

私が長年ソーシャルワーカーとして
さまざまな障がいのある人たちに接してきたことで
その人を当てはめて考えてみて、障がいがある可能性を見出して
彼の行動パターンが理解できたけれども
「思いやりのある優しい人」にしか見えない人たちには
いくら説明しても通じない。
それどころか私自身が「おかしな人」に見られてしまう。
それはあたかも「フーテンの寅さん」のような感じでもあって
近所にいる人にとってみれば、評判が良いオジサンだけれども
家族に居れば迷惑千万ということになる。
ただ救われるのはケアマネージャーをしている妻も
私と同じ受け止め方をしてくれており、夫婦間での齟齬(そご)はみられない。

これまでの知事の一連の発言を聞いていて
分かる人にはすでに周知のことなのだろうけれど
たとえ分かっていたとしても、言葉には出せないのかもしれないが
みんなどんな目で見てるのだろうか?と不安になってくる。
私たちとは土俵の異なる宇宙人のような人の話を切り取っても
所詮、受けとめ方が異なるのだから話になる訳がない。
知事自身のことよりもコメンテーターの扱い方にモヤモヤしている。

お金持ちの価値観

2024-09-23 | 受け止め方
家でテレビを見ていたら、
有名人の大豪邸に訪問するバラエティ番組をやっていた。
車はロールスロイスやポルシェなど何台も所有し
部屋に入ると高級ソファが並べられ、ペルシャ絨毯が敷き詰められ
暖炉には火が明々と燃えていて、シャンデリアが吊り下げられている。
東京の一等地でありながらプールがあったり、
純金製のウォータースライダーがあったりする。
クローゼットには高級ブランドのカバンが並べられてあり、
ブランドバッグ買取店の人がこのバッグは300万円
こちらは500万円、こちらは800万円と説明され
1千万円超えのバッグも多数見られる。
腕時計やスニーカー、宝石に至っても数千万円から億越えまで
こんな所なら気軽にお昼寝も出来ないだろうと思ってくる。

同様に一流企業の社長さんや一流の俳優さんや芸能人やスポーツ選手
に至っては、まだまだ20~30代の若者でも成功者がおられ
同様に高級乗用車や宝石、腕時計にバッグを集めている
という話を耳にするが
ただでさえ売れっ子で忙しくテレビに出演しているというのに
いつそんな車を何台も乗るのだろうか?

きっとある程度以上のお金を持ってしまうと
お金の使い道に困っておられるんだろうなあと思う。
私はミニマム主義ではないけれど車も一台あれば十分だし
腕時計も普段使いがあれば十分だし、
カバンは擦り切れるまで使っている。
お金持ちな人たちのようには買えないのは事実だけれど
少しも羨ましいと思ったことがない。

資産を増やすためにコレクションしているとも聞くけれど
そのための維持費や警備費用を考えると
今の時代、闇バイトを雇って泥棒に入るお宅の
ターゲットになりかねないと思うと夜も眠れない。
お金を持ちすぎると周囲に集まってくる人たちも普通の人ではなくなり
住む世界が変わってしまい、庶民感覚とはかけ離れてしまうのかもしれない。

どうせなら旅行に使うとか何らかの体験する趣味に使うとか、
もっと芸を磨く方に使うべきではないだろうか?
あるいはどこかに寄付をするのもいい。
形に残る使い方よりも形の残らない体験の方が頭が活性化し、
いつまでも色褪せずいい記憶として頭に残り続ける。
そういう生き方をすることが幸福度も上がると言われている。

ああいうテレビを観るたびに、お金持ちでなくて良かったと
いつも思っている。

劣等感

2024-09-22 | 受け止め方
私は子どもの頃から劣等感が強い。
学校の勉強も自分なりにはよくやってきたつもりだが
要領が悪いのかぜんぜん成績には反映されず
いつも残されて勉強させられたり、補習補講の対象になってきた。
それでも成績はいっこうに振るわず
高校1年生の時の成績は、学年のワースト3のひとりとして
3月31日まで学校に通わされてきたし、
忘れ物ばかりしていつも立たされてきた。

そんな私にも得意科目はあって数学がとにかく好きで
苦手な社会科の5倍以上の成績でありながらも
大学で社会福祉を学び、卒業証書に社会学士と書かれているのを見て
この国はどうかしていると思ったのを覚えている。

あれから40年が経ち、今では得意だった数学もボロボロだが
テレビのクイズ番組を見たり、実際に現地を旅行したりして
一般教養もかなり身についたと感じてきた。
中でも大学時代にサークル活動で始めた手話のおかげで
さまざまな人たちと接し、劣等感さえもいつしか消えるほど
今日まで充実した毎日が送れている。

そんな中、たまたまスマホでネットサーフィンしていて
学歴に関係なく本当に頭のいい人の特徴6選(えらせん)を読んだ時、
決して自分が頭がいいなんて思ったことはないが
自身にピッタリと当てはまると感じた。

①人間観察が好き
   電車に乗ると一斉にスマホを開く、
   人間の生態を観察を愉しみながら生きている。
②暗記科目が嫌い
   とにかく歴史が苦手で、歴史好きな人とは一緒に居たくない   
   旅行先で案内人から歴史上の人物の話が出るたびに
   「ここの地はあの時代以降、立派な人が輩出していないのか」と思っている。
③だらしない一面がある
   片付けができず、今もPCの周囲は物であふれている。
④初対面の人とのコミュ力が高い
   デジタルコミュニケーションは苦手だが、アナログでの世間話は得意。
⑤ただの作業は嫌い
   ひとつのことをずっとしておられず、常に効果的な方法を考えてしまう。  
⑥0を1よりも1を100にする能力が高い
   下書きした文章も、清書する時には必ず内容が変わってしまう。

そんな自分が「自分の短所」だと思ってきたが
生まれて初めて褒められた気持ちになった。
俺って頭がいいんだと有頂天になっているから
またどこかで失敗してしまうのだろう。

スマホの影響

2024-09-21 | 受け止め方
「スマホ脳」という言葉が出来て久しいけれど、科学者に言わせると
スマホがいろいろと影響を及ばせて悪くさせていると言われる。
とりわけ9歳以下の子どもには、スマホを見せない方がいいそうで、
スマホをしている時にまばたきをしないため、ドライアイになるだけでなく
近視や内斜視になるというのだ。
それを聞いてから電車で向かいの座席に座ってスマホに夢中の人の目を
じっと見るようになった。
すると面白いほどにまばたきをしていないのが分かる。
まばたきは自分でも意識しないでやっているので、
スマホに夢中になっている人も意識されていない。
それどころか他人が自分の眼をじっと見られていることにも気が付かない。

話は逸れるが、この無防備な姿を見ていると痴漢行為をする人には
ありがたい世の中になっているようにも思える。
しかも耳にはイヤホンを装着して自分の世界に入っている。
言い換えればそれだけ無防備な人が増えたということである。

またエレベーターで自分が乗るとすぐに閉める行為について
当ブログでも随分批判してきた。
単なる関西人のせっかちな気質とも受け取れるけれど、
それもまた自分のことしか考えられないスマホ脳によるものなのかもしれない。

謝らないこともそうだ。他人にぶつかっても謝らない人が増えた。
吉本新喜劇には、「謝ればいいよ」というギャグを言う人もいるが、
先ず謝ればいいのに謝りもせず無視されることが増えた。
いちいち文句を言うのも大人げないので何もしないが、
スマホを見たままこちらに振り向くこともせず謝られたことも少なくない。
正に周囲が見えない状況を引き起こしている。
歩きスマホでぶつかられたり、人の流れを無視して立ち止まる。
みんなが自己中心的になって周囲が見えなくなってきた。
若い頃なら梅田の繁華街を縦横無尽に歩いていてもぶつからなかったが、
今はぶつかりそうに何度もなるし、
周囲で体調の悪い人がいても目に止まらない。
自分は乗り降りしないのに電車のドア付近で立ちふさがり
スマホに夢中になっているのもスマホの影響だろうか。
脳科学者が言うように脳下垂体や前頭下部がなどに
異常をきたしているのかどうかまでは分からないが
スマホ脳になると短気になってキレやすくなるとも言われているが、
周囲で何が起こっていてもあまり意識をしなくなったせいで
ゆっくりと状況判断をするなどの行為までもが
タイパを考えて当てはまらなくなってきたのかもしれない。

さらにスマホから得られる情報量は多いけれど
自ら求めて行かないと知る機会を失うために
何日も前から台風情報が報道されていても知らなかったとか
昭和の時代にさんざん使い古されたような
ねずみ講などの手口に大勢の若者が被害を受けたとか
一度も会ったことにない人に恋愛し、多額を巻き上げられる
国際ロマンス詐欺も後を絶たない。
人生相談や恋愛相談などではLINEなどのSNSを使ったの方が
自分の気持ちを伝えやすいというのは理解できるけれど
相手の顔も見ずに、相手の言葉を信じてしまうことは
リアル社会を生きる者としてはどうも信じがたい。
そうやって自殺を考えている人同士の集まりかと思ったら
殺人鬼が殺人をする対象を探していたとか
恐ろしい事件も次々と起きているけれど
そういう人たちほど他人のニュースには疎く
悪いことを考えている人たちにはありがたい世の中になっている。
いい加減、日本国民も賢くなって
デジタル小作人から脱却していかなければならない。


障がい者理解

2024-09-20 | 受け止め方
私は生まれつき足に障がいがある。
そのままにしていたらおそらく歩行困難だったとみられるが
恵まれた家で生まれ育ったおかげで
幼児期からギプスで矯正したり、価格の高い矯正靴を履いたりを繰り返して
パッと見ではそれほど大きな障がいがあるようには見えないが
本来の重心位置でなかったり、かなり無理を強いているため
足への負担が大きく、足がつりやすく激痛で何度も起こされる。

そのため定期的にマッサージに通っている。
治療費もバカにならないけれど、
このおかげで社会生活が出来ていると思えば必要経費ともいえる。
整形外科医に通って紹介状をもらえば健康保険も適用できるが
60年以上も付き合ってきた足をいじくりまわされて
大量の湿布を買わされるくらいなら正規料金を支払って
通い慣れたマッサージ店に通う方が精神衛生上いい。
この店は若い頃から通っており、結婚して転居した時には
自宅近くの店を紹介してもらったが、再び転居して
元の店に戻ってきたし、当時お世話になった先生が亡くなられ
今はその奥様になってからでも20年は通っている。
先生夫婦は視覚に障がいがあり、私が長年手話をやっていることや
福祉関係で働いてきたことから
ラジオからの情報だけでは分からないことや福祉問題について
忌憚なく話し合える友人でもある。

今日訪れた際に先生は、日本はまだまだ障がい者に対する理解が低いと言っておられた。
おそらくパラリンピックで外国人選手に比べて思われたのだろう。
日本人は障がい者に対して腫れ物に触るようなところがあり、
なかなか理解してもらえていないと私自身感じている。
その原因として考えられるのは、障がい者を隠してきた歴史と
戦時中の徴兵検査で分けられて非国民扱いしてきたことに関係があり
戦後も教育機関を分けてきたせいもあって、
身近に障がい者に接する機会を奪われてきたことが原因かと思う。
私のような(結果的に)軽度の障がい者で、ずっと普通学級で学び
社会生活してきた者でも理解されないことが多く、
定年で退職したのも、障がいに抗って生きてきたことで
身体への負担が大きすぎて続けられなくなったのだが、
親しい人からも「その若さでどうして仕事をしないんだ?」と言われ
結構、傷ついている。
「人はいったいどこを見てるんだろう」と思う時もしばしばみられる。
普通に過ごせていたのは、障がいを理解してくれていたのではなく、
単に「見ていなかっただけ」と感じさせられることが多い。
結果、人を思いやるのは下手で、
触らないことで関わりにならないようにしてるだけなので
いつまで経っても日本人は障がい者を理解出来ないのかもしれない。