話を藤原京の時代から始めると、当時の天皇(女帝)の持統天皇は一人息子の草壁皇子(くさかべのみこ)が早死にしてしまったため、草壁皇子の遺児である珂瑠皇子(かるのみこ)に皇位を譲ろうと考え、弱冠14歳の珂瑠皇子を文武天皇(もんむてんのう)として即位させる(697年)。この14歳の少年への譲位には反対者も多く、持統天皇が上皇となって文武天皇を補佐したが、持統天皇は702年に亡くなる。藤原不比等(ふじわらのふひと・藤原鎌足の息子)は自分の娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇の夫人にする (697年)、その後、文武天皇と藤原宮子との間に首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)」が生まれる(701年)。藤原氏はこの後、自分の娘を天皇の夫人とし天皇家と親戚関係を結んでゆくことになる。聖武天皇は奈良時代の中頃、深く仏教を信仰し全国に国分寺、国分尼寺を建立し、また奈良の大仏を完成させた天皇であり、天平文化の黄金時代を築いた天皇でもある。
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10~11世紀にかけて行われた摂関政治(せっかんせいじ)や当時の藤原氏の権力の強さを語る上では見逃せない事件で、学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)が出世するきっかけになった事件がある。宇多天皇(うだてんのう)が、自分を天皇に推薦してくれた藤原基経(ふじわらもとつね)に感謝の意を表し「天皇に関する全ての事は太政大臣である藤原基経が関与する。これからは天皇が臣下に対して命令する際にも、臣下の要望を天皇に伝えるときも全て藤原基経に相談して決める」という詔(みことのり)を出され、正式に関白(かんぱく)と言う役職が誕生した。
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ケルト人は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族、古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていた。「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」といえる。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存する。ケルト人は青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文明(紀元前1200年~紀元前500年)を発展させた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明はラ・テーヌ鉄器文明(紀元前500年~紀元前200年)に発展した。
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竹島問題は、韓国では最も国民感情が刺激される問題だ。それは、歴史問題にこだわった故・盧武鉉大統領の時代、韓国国民が政治的宣伝活動で、竹島を領土問題ではなく歴史問題として認識するようになったことが背景にある。日本が竹島を島根県に編入したのは1905年であり、それは日本が韓国から外交の権限を奪い、保護領とした年と一致する。したがって、韓国では竹島は日本の韓国侵略の第1歩であり、日本の竹島領有権の主張は、日本の新たな領土的野心の表れだとの認識が広まっている。 . . . 本文を読む
1931年9月18日、中華民国の奉天郊外にある柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で南満洲鉄道の線路が何者かに爆破されるという事件が発生、すぐさま日本の関東軍が中国の張学良軍の暴挙だと決めつけ、奉天城(旧市街)をはじめ満洲各地の主要地点に戦闘部隊を送った。後に「満洲事変」と呼ばれる日本軍の満洲制圧作戦の始まりだった。この鉄道爆破事件も、関東軍が行った「自作自演」であり、現地で取材していた日本の新聞記者もそれを知っていた。しかし、関東軍の将校から「お国のために必要なことだ」と説明された記者たちは、事実を国民に伝えず、「支那人の仕業」であると書き立て、それを信じた日本国民は中国人に敵意を抱くようになる。
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