ローマ帝国という言葉は誤解のもとになっている言葉でもある。紀元前27年のアウグストゥスによる帝政開始がローマ帝国の始まりで、それ以前はローマ共和国と思っている人が少なからずいる。皇帝がいなければ帝国ではないと思うのは普通の感覚であろう。しかし、ローマ帝国というのはラテン語の "Imperium Romanum" の訳で、 Imperium という言葉は命令、権力、支配、職権、命令権などを表す言葉だから、本来は「ローマの支配」とでも訳すのが適切だ。BC227年にシチリアを属州として以来、ローマはイタリアの外に着実に支配地域を広げていった。このローマの支配権のおよぶ範囲を "Imperium Romanum" と呼ぶのであり、皇帝に支配されているのか元老院や民会に支配されているのかは関係無い。アウグストゥス以前の共和政の時代も「ローマ帝国」であり、帝政開始がローマ帝国の始まりではない。 英語ではローマ帝国は the Roman Empire だ。英語にはまだ元の意味が残っているようで、皇帝がいなくても empire である。つまり、ローマ帝国の「帝国」は決して「帝(みかど)の国」ではなく、単に支配の及ぶ領域を指している。 Imperium あるいは empire を「帝国」と訳したために誤解を招いた。皇帝の統治するローマという意味では「ローマ帝国」のかわりに「帝政ローマ」というのが良い。「帝政ローマ」なら間違いなく皇帝が統治するローマを意味する。 ただ、「帝国」が単なる支配領域を意味するのなら、ローマが小さな集落であったころから「ローマ帝国」と言って良いことになりそうだが、王政初期の小さなローマをローマ帝国と呼ぶには抵抗を感じる。imperialism(帝国主義)などの単語のことを考えると、自国外に支配領域が出来てからがローマ帝国と考えるのが良いようだ。シチリアを属州にしたあたりから「ローマ帝国」と呼んでもおかしくはない。
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5世紀から6世紀の初め頃にかけて、日本では大王(おおきみ・天皇)の跡継ぎ問題や、有力な豪族(大伴氏・物部氏・蘇我氏など)の権力争いなどで国内の政治が乱れていた。当時、大和政権が支配していた朝鮮半島の任那地方(加羅)の支配力も弱まり、新羅・高句麗からの侵略が心配されるようになった。そこで大和政権は朝鮮半島の任那地方へ救援軍約6万を派遣するが、この救援軍が当時九州の北半分を統治していた筑紫の国造(くにのみやつこ・大和政権の地方官)磐井氏に進路を妨害され足止めをくらう。これが「磐井の乱」( 527年)だ。磐井氏の行動の裏には自分の統治している領地を大和政権から独立させたいとの思いがあった。しかし大和政権側がこれを放置するはずがない。当時の大和政権の支配は日本全土に及んでおらず、その支配力も絶対的なものではなかった。早急に日本全土に及ぶ支配を固める必要があった。しかも磐井氏のバックには新羅がついており、このままでは朝鮮半島の国に任那地方どころか日本の国土も奪われてしまうかも知れなかった。
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「武士道」というと、封建時代を支えた忠君主義を中心とした精神論であり、前近代的な発想と感じてしまう。また、太平洋戦争の時期にも、武士道は軍国主義の中心的な精神とされ、欧米列強諸国に追いつくために、忠君愛国を立てて軍国主義者たちに利用されていたのも確かだ。実のところ軍国主義者たちは武士道を軽視していた面もあった。しかし、あの近代合理主義思想の上に立った福沢諭吉は、武士道精神を「国家国民の要となった精神」と論文の中で絶賛しており、欧米列強と肩を並べるまでになった近代日本の躍進を支えたのが、日本人に流れる武士道精神であったとまで書いている。
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1871年に日本は中国(当時は清朝)と日清修好条規を結び、朝鮮にも国交を求めた。しかし、朝鮮は、その清朝を宗主国とする伝統的な外交姿勢で西欧諸国に対しても鎖国政策をとっていたため、近代化した日本との通商を拒否した。1875年、朝鮮の首都ソウルに近い江華島の沖で、日本の軍艦雲揚号に朝鮮軍が砲撃を加える事件が起きた(江華島事件)。実は、日本の雲揚号が無断で測量をおこない朝鮮側を意図的に挑発していた。日本は、江華島事件の責任を問う形で朝鮮と交渉を行い、1876年、日朝修好条規が結ばれた。朝鮮は開国し、釜山など三港を開港。この条約は日本の領事裁判権を認める不平等条約だった。ペリーが日本に対したと同じ事を日本は朝鮮に対してやった。この後、朝鮮はイギリス、ドイツなどとも同様の条約を結ぶ。朝鮮政府内では、国王高宗(位1863~1907)の実父大院君と王妃閔妃(ミンビ)がそれぞれ派閥を作り、権力闘争をしていた。開国後の政権運営について、清朝の庇護のもとで伝統を守ろうとする守旧派と、近代化をめざす開化派の路線対立も生じていた。 . . . 本文を読む
日露戦争は、ヨーロッパにアジアが勝利した戦争として、列強に侵略されているアジア諸民族を鼓舞する一面もあった。インドでは「アジア人に対するヨーロッパ人の絶対的優位性の神話は崩れ去った。インド人も民族的自信を持つべきだ」と唱えるティラクの指導でインド国民会議派による反英運動が活発化した。第二次大戦後にインド首相となるネルーも「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に、大きな影響を与えた。私は少年時代どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、大人が同じ感激をした」と、父が子に語る歴史の話として娘のインディラ・ガンジーに伝えている。1906年のイラン立憲革命や1908年のトルコのサロニカ革命も日露戦争の影響があるといわれる。その後の韓国の植民地化と中国侵略は日本がヨーロッパ列強と同様の帝国主義国であることを示していった。 . . . 本文を読む