井沢元彦氏が「『誤解』の日本史」の中で書いている。山本七平氏の「私の中の日本軍」で紹介している文言だが、「戦争、なぜ終わらないのか、それは軍人の戦時加俸(昇給)がなくならないためだ」、戦争中からこういういいかたがあった。つまり戦争が続いているかぎり、軍人の給料は上がり続けるという。日本の戦国時代は戦さが日常的だった。武士は戦さで活躍し、そして出世してゆく。司馬遼太郎の小説「功名が辻」の主人公の山内一豊は、信長、秀吉そして家康に仕えて功名をたてた。ここでいう功名とは、敵を殺せば、領地も増え、城ももらえるということ。出世を望む武士なら誰でも功名をあげたいと考える。それを実現した最大の成功者が豊臣秀吉であった。その秀吉が戦国の世を終わらせて天下を統一した。 . . . 本文を読む
日本史の中で、応仁の乱以前と以後とでは、国の支配構造に大きな違いが出ている。応仁の乱によって室町幕府が衰退し始め、その後に戦国時代が始まっている。応仁の乱は応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで11年にわたる大乱だった。室町幕府の八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)に息子がいなかったので、弟の義視(よしみ)を後継者としたが、その直後に義政の妻の日野富子が男児を出産し、富子が我が子を将軍にしようと画策、折しも幕府の実権を握ろうとしていた細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両雄がそこに介入し、応仁の乱が勃発したというのが一般的な説明だが、この通説に対しては批判もあるようだ。最初は京都のみが戦場だったが、戦乱は地方に波及し、全国各地で合戦となった。大規模で長期にわたる戦乱なのに、大名たちが何のために戦ったのか見えてこないというのも不思議だ。
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加瀬英明とヘンリー・S・ストークスの著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」によれば、この500年の世界史は白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国を植民地支配した壮大なドラマだったといっている。第一次大戦に勝った連合国が1919年1月からパリに集い、ドイツにどのような条件を課するか討議したのがパリ講和会議、その当時は日本も連合国の一員だった。この会議では、各国首脳が講和だけでなく、国際連盟の創設を含めた新たな国際体制づくりについても協議、日本は内容的に人種差別撤廃提案ともいうべき案を提出したが、議長だった米国のウイルソン大統領が強く反発、当時、米国では黒人を「ニガー」と呼んで、法的にも社会的にも差別していた。白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相も退席するほどの強硬な反対だった。英国、米国、ポーランド、ブラジル、ルーマニアなどが反対したが、出席16か国中セルビアをはじめとする11か国の小国が賛成し、可決された。だが、議長のウイルソン大統領は重大な案件は全会一致と言って受け入れなかった。今日の文明世界ではあり得ないことだった。
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日本の国家の形成は、中国や朝鮮の国家形成と深い関係にある。特に、秦・漢の成立は朝鮮と日本に大きな影響を与えた。漢の時代すでに九州は倭人の住むところとして中国にも知られており、交易もしていた。このことは西暦57年、漢が日本の委奴国(イト国)に「漢委奴国王」(漢のイト国王)という金印を与えたという記録からも読み取れる。歴史学会では、「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」と読ませ、奴国が金印をもらったとしているが、「かんのいとこくおう」とも読める。「わ」は「倭」であり、「委」ではない。「いと」国は、魏志倭人伝に「伊都国」という呼び名で出ている。現在の糸島半島の「糸(いと)」は、その名残と言われる。中国の王朝は、たびたび周辺諸国に「印」を与えているが、中国からみれば、金印を持つものが、その地の王であり、中国と「交易権」を持つ人になる。委奴国は金印をもらってから、130年間は平穏だったと思われる。
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古事記は天皇や関係者に見せるための本であり、日本書紀は特に中国を意識して作られた国史(正史)と考えられる。古事記は日本書紀を作るための雛型本でもあった。日本書紀は全て漢文で書かれている。中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立を主張しており、唐の皇帝に献上されたものと思われる。現存する正史の最古のものは、古事記(712年完成)、それから8年後、日本書紀(720年)が完成している。古事記は、上巻、中巻、下巻から構成され、神代から推古天皇までが書かれているが、日本書紀は、推古天皇から100年ほど下がった、持統天皇(41代の女性の天皇)までが書かれている。古事記については、不可解な伝承がある。平安時代には、古事記は宮中深く保管され、見てはならない本とされていた。
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