古事記は天皇や関係者に見せるための本であり、日本書紀は特に中国を意識して作られた国史(正史)と考えられる。古事記は日本書紀を作るための雛型本でもあった。日本書紀は全て漢文で書かれている。中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立を主張しており、唐の皇帝に献上されたものと思われる。現存する正史の最古のものは、古事記(712年完成)、それから8年後、日本書紀(720年)が完成している。古事記は、上巻、中巻、下巻から構成され、神代から推古天皇までが書かれているが、日本書紀は、推古天皇から100年ほど下がった、持統天皇(41代の女性の天皇)までが書かれている。古事記については、不可解な伝承がある。平安時代には、古事記は宮中深く保管され、見てはならない本とされていた。
日本書紀は全31巻だが、現存する日本書紀は全30巻である。最後の31巻がない。最後の31巻には、歴代天皇(神武から持統天皇まで)の系図が載っていたと言われている。実は、桓武天皇の命令で31巻を焚書している。その時の理由は、「過去においては、臣が天皇になっているので正しくない。故に、日本書紀の31巻を焼き捨てよ」と。日本書紀の何箇所かを変更・削除し、変更・削除の個所は、主に日本と朝鮮の外交関係部分だ。
桓武天皇は、朝鮮嫌いで、中国(唐)よりの政治をしたことで知られている。桓武天皇の母は、身分の低い中国人であった。父は光仁天皇であり、60歳を過ぎてから11年間アルコール中毒のまま、天皇を務めた人である。光仁天皇は、天智天皇の5世の孫で、道鏡とともに政治改革をしようとした女帝・称徳天皇の後を継いで天皇になった。本来は、光仁天皇は、天皇になれるような人ではなかった。天武系の称徳天皇(聖武天皇の娘)は、自分の母親が藤原氏でありながら、当時実権を持ちつつあった藤原氏を排除しようとする政治改革をしたため、それが藤原氏の反発に会い、道鏡の裏切りもあって、藤原百川の家で毒を飲まされ、1ヵ月後に平城京で死ぬ。この後, 藤原百川は、天智系から天皇を出すことを考え、当時60歳過ぎの光仁天皇を選んだ。その光仁天皇が名も無き中国系帰化人の女性に生ませた子が、後の桓武天皇となる。
桓武天皇は疑い深い性格だったようだ。井之上内親王やその子の他戸親王(おさべ)を毒殺し、同母の弟、早良親王(さわら)を自殺させている。本来は、桓武天皇は、光仁天皇の後を継ぐような身分ではなかった。藤原百川と結託し、後継者と思われる皇子を次々と殺し、自分が天皇になった。この点、唐の李世民に似ている。古事記を閲覧禁止にしたのは、桓武天皇だ。日本書紀を変更し、古事記を閲覧禁止にしたというのは、天皇と臣民との関係が正しくないという理由だけでなく、親中国(唐)政策を勧めようとする桓武天皇にとっては、当時、日本と朝鮮の友好関係が許せなかったようだ。
日本書紀には、いくつか不自然な部分がある。まず、歴代の天皇の年齢は、一人を除き全て書かれている。書かれていない一人とは、天武天皇である。神代の天皇の歳が書かれていながら、日本書紀の作成を指示した天武天皇自身の年齢が書かれていない。日本書紀全体のストーリーが壊れるので、天武天皇自身の年齢が書けない。つまり、天智天皇と直系ではない天武天皇自身を、天智天皇の弟と設定してストーリーが作られており、年齢的に矛盾するためだ。また、神武天皇から持統天皇まで、41代の天皇のうち、墓のことが記述されていない天皇が2人いる。一人は、天智天皇で、もう一人は持統天皇である。持統天皇は日本書紀が書かれていた頃は生きていたので墓がないのは当然だが、天智天皇は持統天皇の父であり、壬申の乱があったとは言え、墓がわからないはずはない。伝承としての天智天皇の墓は、山科に現存する(京都の地図に載っている)。この墓については、三井寺の(古くは三意寺と書く)伝承がある。伝承によれば、「天智天皇は、ある日、馬で狩に出かけたが、いつまで経っても帰らないので、探したところ、山科の山中に天皇の靴が落ちていた。そこで、そこを天智天皇の墓とした」という。これが事実だとすれば、天智天皇は、誘拐され、殺されたことになる。しかも、遺骸は出ていない。山科にある天智天皇の墓は、真の天智天皇の墓とは言えない。
日本書紀には、天智天皇の墓に関する記述がない。日本書紀では、天智天皇は、病死したことになっている。「歴史書は、いつも勝者の作り話である。」ということを考えると日本書紀もその例外ではない。しかし、中国、朝鮮、日本に関する歴史書としては、第1級の歴史書である。特に日本と朝鮮の関係では事細かに書かれている。ある歴史家の調査では、日本書紀の記述の内8割は朝鮮との関係を書いているという研究報告もある。 朝鮮では、10世紀に「三国史記」という歴史書が書かれ、新羅、百済、高句麗の鼎立時代が書かれているが、この歴史書には日本のことはほとんど書かれていない。また、中国の使者や相手国の使者の会見模様は、三国史記より、日本書紀の方が具体的である。この歴史書は、統一新羅の時代に書かれたものであり、全体が新羅中心に書かれていて、内容に信憑性がない。これに対して日本書紀は、天皇に関する記述や蘇我氏に関する記述は、信憑性はないが、対朝鮮外交記述、対中国外交記述に関しては具体的な事実が記されている。
大化の改新から2年後、新羅の皇子・金春秋が来日しているが、日本書紀では「金春秋きて、人質となる。数ヶ月滞在して親しく談合して帰る。」とある。金春秋は、単身、唐に行き新羅との連合を成立させたり、高句麗に出向いて捕虜を解放したり、この時代の最高の政治家・外交通である。この人が、日本に何の理由もなく人質になるわけがない。日本に大化の改新後の事後処理に来たと思われるが、日本書紀は一応、金春秋の来訪を無視してはいない。また、日本書紀には、あちこちに「人質」という言葉がでてくるが、人質とは今の意味と異なり「教えに来た人」という意味らしい。
日本書紀は、天武天皇の発案で編纂されたものであるが、全体を通して、編纂に当ったのは、藤原不比等だ。藤原鎌足の次男で、天武王朝の基礎を築きあげた人である。古事記・日本書紀の編纂、律令制度の導入、平城京の建設、神道の導入など奈良の大仏建設以前の天武王朝の仕事をすべて遂行した人である。いわば「日本社会」の原型を作ったのは、藤原不比等であった。すなわち、神道を基礎とした天皇制の確立(ただし、天皇家は、長屋王事件から仏教徒に変わる)、中国と朝鮮との関係の確立などは藤原不比等の業績であった。この時期、中国と朝鮮の関係は、主人と家臣の関係であり、中国と日本の関係は、形は同盟関係でも実態は、主人と家臣の関係だった。ここに一つの逸話がある。753年、大伴古麻呂が、唐に遣唐使として赴いたときのこと、朝鮮と日本の使節が、長安で同席した。このとき、中国は、日本の使節より新羅の使節を上座に置いた。これに対して大伴古麻呂は猛烈に抗議した。中国側は、「調査するので待て」といい、すぐに中国・日本・新羅の関係を調べた。その結果、日本が上座に移ることになった。新羅としては、煮え繰り返る思いだが、この唐・日本・新羅の関係を作ったのが、天武王朝の藤原不比等だった。
天武天皇は、天智天皇とは血縁関係にはないが、持統天皇は天智天皇の娘であり、天智系の血が保たれている。天武天皇には、皇后(持統天皇)以外にも妃がいたが、持統天皇は、自分の血筋を天皇家に残そうと多くの皇子達を粛清した。おくり名の「持統」は、「血統を保持する」の意味から持統天皇なのである。自分の子や孫が正当に皇位に付けるため、日本書紀においても天照大神という女神から日本の皇統が始まるとしている。天照大神に関しては、古事記も日本書紀も同じ女神として扱っている。これも、本来は物部氏の伝承を盗んで天皇家の祖先の話としたものだ。物部氏の伝承では、天照大神は男であり弟がいた。名はスサノウという。天照大神は、ある日、スサノウの暴虐ぶりに腹を立て、岩屋に篭ってしまう。天は光を失い暗闇となる。困り果てた神々は、岩屋の前で、女の裸踊りを開催した。これを見ようとしたのが天照大神(男)であり、かすかに岩戸の開いたところをこじ開け、中にいる天照大神を引き出したという話である。この話は、古事記や日本書紀では「天の岩戸」という話で出てくるが、これとて、天照大神が男であってこそ話になるが、逆に、中にいる人が女であったら、外で女の裸踊りをやるという発想は出ない。男神である天照大神を女神に変えている。その結果、天の岩戸は不自然な話になってしまった。要するに天照大神を女神にしたのは、持統天皇を意識し、持統天皇の子、草壁皇子を次の天皇にするための布石であった。これは、藤原不比等の発案であったようだ。
不幸にも、草壁皇子は、天皇になる前に死んでしまった。そこで、今度は草壁皇子の子、つまり、持統天皇の孫(軽皇子)を天皇にするため、自分が天皇になり、軽皇子が成人するまで在位した。こうして生まれたのが文武天皇である。ところが、文武天皇は25歳で死んでしまう。今度は、文武天皇の子、首皇子を天皇にするため、中継ぎとして、元明、元正天皇という女性の天皇を置いた。こうして誕生したのが聖武天皇である。このような時代背景のもとに古事記や日本書紀ができてきた。この時代には、藤原不比等という稀にみる国際感覚を身に付けた政治家が出現し、また、稀代の詩人である柿本人麻呂も出現した。これらが相まって、世界的にも優れた詩情あふれる歴史書・古事記が出来上がったのである。初版の古事記は、必ずしも元明天皇の満足の行くものではなかった。不比等は、作家を柿本人麻呂から太安万侶に変えて、元明天皇の注文どおりの古事記に変更したことになる。
古事記は、碑田阿礼という語り部が語った内容を記述したとされている。古事記には「碑田阿礼、御歳二十七歳」と書かれている。いつの時点が27歳かはわからないが、恐らく、古事記を書き始めたときが27歳であったと思われる。目を転じると、藤原不比等の当時の領地に「碑田村」と言うのがある。また、古事記が書き出されたときの藤原不比等の年齢は27歳である。要するに、碑田阿礼とは、藤原不比等を指しているようだ。古事記の内容は、藤原不比等により、いにしえの出来事、各氏族の伝承、中国の書物、さらには、ヨーロッパの伝説まで調査され編纂された。決して、無教養な「語り部」の話す内容を記述したものではない。古事記の作家・柿本人麻呂や太安万侶は、このような事実を「碑田阿礼、御歳二十七歳」という短い文章で古事記の編纂の真実を書き残した。
聖徳太子は、馬小屋で生まれたので、「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)と呼ばれた。天皇の皇子が馬小屋で出産するわけがない。これはキリストの伝説を取り入れた。また、聖徳太子の誕生日は1月1日である。可能性としてはあるが、これとて真実とは思えない。古代ローマの神々の誕生日はすべて1月1日であることを考えると、古代ローマの神になぞらえて1月1日としたのであろう。また、聖徳太子は、18歳のとき外出して、人間の無常を知ったとされている。これは、ゴーダマシッタルタ(釈迦)が四方の門から外出して人間の無常を知って出家したという話に似ている。聖徳太子は、キリスト、釈迦、ローマの神などの逸話をすべて、取り入れて虚飾されている。藤原不比等は、多くの文献から、このような伝説を選んで、古事記や日本書紀の中で聖徳太子像を書かせた。日本書紀には荒唐無稽な話もあるが、中国の歴史書・三国志と同程度に現実味を帯びた歴史書であり、唐の皇帝からは一応の評価を得たものと思われる。これにより日本の王が「天皇」という称号を使うことを唐は「黙認」したようだ。
(もう一つの参照メモ)
『日本書紀』は天武天皇の命により編纂が始まり、712年に完成している。なぜ100年前でも100年後でもないこの時期なのか。編纂前後の歴史を振り返ると、蘇我氏を倒し、天智天皇、中臣(藤原)鎌足の全盛時代となり、朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れ、国家的危機を迎える。九州には防衛のための城が築かれ、都はより奥地である近江に移し、天皇は天智の子・弘文となる。この弘文を武力で倒し、天武天皇が政権を奪い、旧体制を一新した政権が誕生。天武死後は妃の持統天皇が継ぎ、藤原氏と協力し国家の土台を固め、やがて天平文化が花ひらくという筋書きが一般に知られている。つまり、天武天皇は、外国に敗れた政権を武力で倒した新政権の初代である。また、『日本書紀』は全て漢文で書かれている。同時代の『古事記』は違う。一見、漢文風だが平仮名・片仮名がまだできていないため、当時の日本語を漢字の当て字にしたものだ。
『古事記』では「日本」ではなく自らを「倭」と呼んでいる。直後に作られた『日本書紀』はタイトル通り「倭」を「日本」に改め、これは国名だけでなく、「倭」を含むほとんどの人名なども「日本」に訂正してある。漢文で書かれているということは、明らかに中国を意識している。先に作られた『古事記』は日本語で歴史が綴られていた(日本語を漢字の当て字で書いた)。中国に対しては、白村江で戦った「倭国」ではなく「日本」であると宣言している。実際、白村江で戦った「倭国」政権の天智、弘文、藤原氏勢力は、天武天皇により排除された。「倭国」が「日本」に滅ぼされたとも言える。これで中国は「倭国」を攻める理由がなくなる。「倭国」は存在しないからだ。また、「天皇」号の使用を見てみると、初めて「天皇」号を使ったのは天武天皇だと言われている。「倭国」では「大王(オホキミ)」で、「日本」になると「天皇」となる。「日本」は「日のもと」つまり日の昇る所であり、有名な聖徳太子が中国皇帝に宛てた「日出ずる処の天子、日没する処の天子に~」というのと同じ発想だ。日本は中国から見て日の昇る方角にあり、中国を意識した名前だ。「昇る」と「没する」では、当然「昇る」の方が良く、中国より日本の方が上であるかのようだ。
中国の「皇帝」というのは、簡単に言えば、天から統治を任せられた(天命を受けた)者で、「天子」とも呼ばれる。高い徳を持った者が天命を受けるのであり、血筋ではない。世の中が乱れると、皇帝の徳の低いことに原因があると考える。現代でも「私の不徳のいたすところ」という表現があるが、皇帝の徳が低く世が乱れ続けた場合は、もっと徳の高い者に皇帝を取り替える。結局、強い者が皇帝になるのであり、血筋による日本の天皇とは違う。「王」というのは、「地域の主」程度の存在で、皇帝は天子であり地上で最高位だ。皇帝が地域の有力者を王と認め、王は皇帝に臣下として貢ぎ物を出し、皇帝は「よしよし」ということで、その何倍もの宝を授けるという図式である。その王の国が外部の侵略を受ければ、皇帝は王の国を保護する。中国の冊封体制だ。卑弥呼は中国の皇帝に貢ぎ物を送り、認められた「親魏倭王」であった。
「天皇」とは何か。まず皇帝しか使うことの出来ない「皇」の文字がある。「王」とは違う。皇帝と同等であることを示す。「皇帝」はすでに中国に存在する。中国の道教の最高神は「天皇大帝(てんこうたいてい)」という。「天皇」はここから取ったのかもしれない。天皇家の祖先が天にある高天原にいたことからもわかるように、天皇とは天の皇帝であり、人間の「皇帝」とは違い、神様そのものであり、従って中国の皇帝以上の存在であるということになる。「天皇」というネーミングも、中国を意識し、冊封体勢の中でなく、中国と同等かそれ以上の立場で並び立つ存在であることをアピールしている。
『日本書紀』にはもう一つ重要な編纂目的があった。『日本書紀』は壬申の乱の勝者で新政権をたてた天武天皇の命により編纂が始まった。しかし天武の在命中には完成していない。この間に天皇家の事情も少し変化した。中国に負けない国であることをアピールすること以外に、天皇の跡継問題があった。『日本書紀』前半の神話の世界の話、高天原の神たちの系譜は、編纂当時の実際の系譜を意識して作られている。高天原神話は、女神の天照大神が高皇産霊と相談し孫の瓊々杵を地上に降臨させるが、この女神を女帝・元正に当てはめると、跡継ぎ争いは自動的に孫の聖武天皇となる。聖武に娘を嫁がせた藤原不比等は高皇産霊の位置におさまる。天照大神と高皇産霊の子孫が日本を治めるように、天皇家と藤原氏の子孫が跡を継ぐという話しになる。天武天皇は天智天皇が跡継ぎとした大友皇子(弘文)を武力で倒しているが『日本書紀』はこのような表現をするはずがない。天武天皇と大友皇子、どちらが正当か、歴史とは勝者の歴史であり、勝者が正義となる。神話は、編纂時の系譜の影響が出ていることから、編纂前後の力関係が影響している。神話に出て来る神々の前後関係や血縁関係も操作されている。神話以外でも、天皇家や藤原氏に関わることはそのまま鵜呑みには出来ない。藤原氏は、蘇我氏を打倒して出世した一族であり、藤原氏の評価を高めるためには、蘇我氏を貶める必要もあった。しかし虚構を作るわけにもいかない。日本の国家事業であり、正式な歴史書である。「大友皇子など最初から存在しなかった」「蘇我氏など最初から存在しなかった」とは書けない。当時知られている史実に色をつけるということになる。従って、蘇我氏の活躍が書かれていることは当然だが、実際の蘇我氏の活躍は『日本書紀』に記されているもの以上であった。
『日本書紀』という名前は現代人が呼ぶ名前であり、本当の名前ではない。『日本書紀』の続編とも言えるものに『続日本紀』があり、この中で「一品舎人親王は天皇の命を承り日本紀を編纂した」ということが出ている。ここから本当は『日本紀』というのではないかという説もある。「書」はどこから来たのか。中国の正史は、例えば『漢書』や『後漢書』あるいは『宋書』『隋書』等々があるが、『日本書紀』の「書」はこれら各正史のタイトルにある「書」である。本来は『日本書』であるはずだが、中国正史に相対するものだ。『日本書紀』の「紀」とは何か。「紀」は天皇の事跡を編年体で表わすことで、本来はこの他に「志」「伝」があったのではと考えられる。「あった」というのは「存在していた」という意味ではなく「作る予定だった」という意味だ。「志」は地誌や制度など、「伝」は功績のあった人の伝記。つまり、『日本書』は本来「紀」「志」「伝」で構成されていたはずで、このうちの「紀」だけが完成し、他は完成しなかったということで、『日本書』の「紀」ということになったらしい。これは、中国正史を充分に意識したものだったといえる。
日本書紀は全31巻だが、現存する日本書紀は全30巻である。最後の31巻がない。最後の31巻には、歴代天皇(神武から持統天皇まで)の系図が載っていたと言われている。実は、桓武天皇の命令で31巻を焚書している。その時の理由は、「過去においては、臣が天皇になっているので正しくない。故に、日本書紀の31巻を焼き捨てよ」と。日本書紀の何箇所かを変更・削除し、変更・削除の個所は、主に日本と朝鮮の外交関係部分だ。
桓武天皇は、朝鮮嫌いで、中国(唐)よりの政治をしたことで知られている。桓武天皇の母は、身分の低い中国人であった。父は光仁天皇であり、60歳を過ぎてから11年間アルコール中毒のまま、天皇を務めた人である。光仁天皇は、天智天皇の5世の孫で、道鏡とともに政治改革をしようとした女帝・称徳天皇の後を継いで天皇になった。本来は、光仁天皇は、天皇になれるような人ではなかった。天武系の称徳天皇(聖武天皇の娘)は、自分の母親が藤原氏でありながら、当時実権を持ちつつあった藤原氏を排除しようとする政治改革をしたため、それが藤原氏の反発に会い、道鏡の裏切りもあって、藤原百川の家で毒を飲まされ、1ヵ月後に平城京で死ぬ。この後, 藤原百川は、天智系から天皇を出すことを考え、当時60歳過ぎの光仁天皇を選んだ。その光仁天皇が名も無き中国系帰化人の女性に生ませた子が、後の桓武天皇となる。
桓武天皇は疑い深い性格だったようだ。井之上内親王やその子の他戸親王(おさべ)を毒殺し、同母の弟、早良親王(さわら)を自殺させている。本来は、桓武天皇は、光仁天皇の後を継ぐような身分ではなかった。藤原百川と結託し、後継者と思われる皇子を次々と殺し、自分が天皇になった。この点、唐の李世民に似ている。古事記を閲覧禁止にしたのは、桓武天皇だ。日本書紀を変更し、古事記を閲覧禁止にしたというのは、天皇と臣民との関係が正しくないという理由だけでなく、親中国(唐)政策を勧めようとする桓武天皇にとっては、当時、日本と朝鮮の友好関係が許せなかったようだ。
日本書紀には、いくつか不自然な部分がある。まず、歴代の天皇の年齢は、一人を除き全て書かれている。書かれていない一人とは、天武天皇である。神代の天皇の歳が書かれていながら、日本書紀の作成を指示した天武天皇自身の年齢が書かれていない。日本書紀全体のストーリーが壊れるので、天武天皇自身の年齢が書けない。つまり、天智天皇と直系ではない天武天皇自身を、天智天皇の弟と設定してストーリーが作られており、年齢的に矛盾するためだ。また、神武天皇から持統天皇まで、41代の天皇のうち、墓のことが記述されていない天皇が2人いる。一人は、天智天皇で、もう一人は持統天皇である。持統天皇は日本書紀が書かれていた頃は生きていたので墓がないのは当然だが、天智天皇は持統天皇の父であり、壬申の乱があったとは言え、墓がわからないはずはない。伝承としての天智天皇の墓は、山科に現存する(京都の地図に載っている)。この墓については、三井寺の(古くは三意寺と書く)伝承がある。伝承によれば、「天智天皇は、ある日、馬で狩に出かけたが、いつまで経っても帰らないので、探したところ、山科の山中に天皇の靴が落ちていた。そこで、そこを天智天皇の墓とした」という。これが事実だとすれば、天智天皇は、誘拐され、殺されたことになる。しかも、遺骸は出ていない。山科にある天智天皇の墓は、真の天智天皇の墓とは言えない。
日本書紀には、天智天皇の墓に関する記述がない。日本書紀では、天智天皇は、病死したことになっている。「歴史書は、いつも勝者の作り話である。」ということを考えると日本書紀もその例外ではない。しかし、中国、朝鮮、日本に関する歴史書としては、第1級の歴史書である。特に日本と朝鮮の関係では事細かに書かれている。ある歴史家の調査では、日本書紀の記述の内8割は朝鮮との関係を書いているという研究報告もある。 朝鮮では、10世紀に「三国史記」という歴史書が書かれ、新羅、百済、高句麗の鼎立時代が書かれているが、この歴史書には日本のことはほとんど書かれていない。また、中国の使者や相手国の使者の会見模様は、三国史記より、日本書紀の方が具体的である。この歴史書は、統一新羅の時代に書かれたものであり、全体が新羅中心に書かれていて、内容に信憑性がない。これに対して日本書紀は、天皇に関する記述や蘇我氏に関する記述は、信憑性はないが、対朝鮮外交記述、対中国外交記述に関しては具体的な事実が記されている。
大化の改新から2年後、新羅の皇子・金春秋が来日しているが、日本書紀では「金春秋きて、人質となる。数ヶ月滞在して親しく談合して帰る。」とある。金春秋は、単身、唐に行き新羅との連合を成立させたり、高句麗に出向いて捕虜を解放したり、この時代の最高の政治家・外交通である。この人が、日本に何の理由もなく人質になるわけがない。日本に大化の改新後の事後処理に来たと思われるが、日本書紀は一応、金春秋の来訪を無視してはいない。また、日本書紀には、あちこちに「人質」という言葉がでてくるが、人質とは今の意味と異なり「教えに来た人」という意味らしい。
日本書紀は、天武天皇の発案で編纂されたものであるが、全体を通して、編纂に当ったのは、藤原不比等だ。藤原鎌足の次男で、天武王朝の基礎を築きあげた人である。古事記・日本書紀の編纂、律令制度の導入、平城京の建設、神道の導入など奈良の大仏建設以前の天武王朝の仕事をすべて遂行した人である。いわば「日本社会」の原型を作ったのは、藤原不比等であった。すなわち、神道を基礎とした天皇制の確立(ただし、天皇家は、長屋王事件から仏教徒に変わる)、中国と朝鮮との関係の確立などは藤原不比等の業績であった。この時期、中国と朝鮮の関係は、主人と家臣の関係であり、中国と日本の関係は、形は同盟関係でも実態は、主人と家臣の関係だった。ここに一つの逸話がある。753年、大伴古麻呂が、唐に遣唐使として赴いたときのこと、朝鮮と日本の使節が、長安で同席した。このとき、中国は、日本の使節より新羅の使節を上座に置いた。これに対して大伴古麻呂は猛烈に抗議した。中国側は、「調査するので待て」といい、すぐに中国・日本・新羅の関係を調べた。その結果、日本が上座に移ることになった。新羅としては、煮え繰り返る思いだが、この唐・日本・新羅の関係を作ったのが、天武王朝の藤原不比等だった。
天武天皇は、天智天皇とは血縁関係にはないが、持統天皇は天智天皇の娘であり、天智系の血が保たれている。天武天皇には、皇后(持統天皇)以外にも妃がいたが、持統天皇は、自分の血筋を天皇家に残そうと多くの皇子達を粛清した。おくり名の「持統」は、「血統を保持する」の意味から持統天皇なのである。自分の子や孫が正当に皇位に付けるため、日本書紀においても天照大神という女神から日本の皇統が始まるとしている。天照大神に関しては、古事記も日本書紀も同じ女神として扱っている。これも、本来は物部氏の伝承を盗んで天皇家の祖先の話としたものだ。物部氏の伝承では、天照大神は男であり弟がいた。名はスサノウという。天照大神は、ある日、スサノウの暴虐ぶりに腹を立て、岩屋に篭ってしまう。天は光を失い暗闇となる。困り果てた神々は、岩屋の前で、女の裸踊りを開催した。これを見ようとしたのが天照大神(男)であり、かすかに岩戸の開いたところをこじ開け、中にいる天照大神を引き出したという話である。この話は、古事記や日本書紀では「天の岩戸」という話で出てくるが、これとて、天照大神が男であってこそ話になるが、逆に、中にいる人が女であったら、外で女の裸踊りをやるという発想は出ない。男神である天照大神を女神に変えている。その結果、天の岩戸は不自然な話になってしまった。要するに天照大神を女神にしたのは、持統天皇を意識し、持統天皇の子、草壁皇子を次の天皇にするための布石であった。これは、藤原不比等の発案であったようだ。
不幸にも、草壁皇子は、天皇になる前に死んでしまった。そこで、今度は草壁皇子の子、つまり、持統天皇の孫(軽皇子)を天皇にするため、自分が天皇になり、軽皇子が成人するまで在位した。こうして生まれたのが文武天皇である。ところが、文武天皇は25歳で死んでしまう。今度は、文武天皇の子、首皇子を天皇にするため、中継ぎとして、元明、元正天皇という女性の天皇を置いた。こうして誕生したのが聖武天皇である。このような時代背景のもとに古事記や日本書紀ができてきた。この時代には、藤原不比等という稀にみる国際感覚を身に付けた政治家が出現し、また、稀代の詩人である柿本人麻呂も出現した。これらが相まって、世界的にも優れた詩情あふれる歴史書・古事記が出来上がったのである。初版の古事記は、必ずしも元明天皇の満足の行くものではなかった。不比等は、作家を柿本人麻呂から太安万侶に変えて、元明天皇の注文どおりの古事記に変更したことになる。
古事記は、碑田阿礼という語り部が語った内容を記述したとされている。古事記には「碑田阿礼、御歳二十七歳」と書かれている。いつの時点が27歳かはわからないが、恐らく、古事記を書き始めたときが27歳であったと思われる。目を転じると、藤原不比等の当時の領地に「碑田村」と言うのがある。また、古事記が書き出されたときの藤原不比等の年齢は27歳である。要するに、碑田阿礼とは、藤原不比等を指しているようだ。古事記の内容は、藤原不比等により、いにしえの出来事、各氏族の伝承、中国の書物、さらには、ヨーロッパの伝説まで調査され編纂された。決して、無教養な「語り部」の話す内容を記述したものではない。古事記の作家・柿本人麻呂や太安万侶は、このような事実を「碑田阿礼、御歳二十七歳」という短い文章で古事記の編纂の真実を書き残した。
聖徳太子は、馬小屋で生まれたので、「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)と呼ばれた。天皇の皇子が馬小屋で出産するわけがない。これはキリストの伝説を取り入れた。また、聖徳太子の誕生日は1月1日である。可能性としてはあるが、これとて真実とは思えない。古代ローマの神々の誕生日はすべて1月1日であることを考えると、古代ローマの神になぞらえて1月1日としたのであろう。また、聖徳太子は、18歳のとき外出して、人間の無常を知ったとされている。これは、ゴーダマシッタルタ(釈迦)が四方の門から外出して人間の無常を知って出家したという話に似ている。聖徳太子は、キリスト、釈迦、ローマの神などの逸話をすべて、取り入れて虚飾されている。藤原不比等は、多くの文献から、このような伝説を選んで、古事記や日本書紀の中で聖徳太子像を書かせた。日本書紀には荒唐無稽な話もあるが、中国の歴史書・三国志と同程度に現実味を帯びた歴史書であり、唐の皇帝からは一応の評価を得たものと思われる。これにより日本の王が「天皇」という称号を使うことを唐は「黙認」したようだ。
(もう一つの参照メモ)
『日本書紀』は天武天皇の命により編纂が始まり、712年に完成している。なぜ100年前でも100年後でもないこの時期なのか。編纂前後の歴史を振り返ると、蘇我氏を倒し、天智天皇、中臣(藤原)鎌足の全盛時代となり、朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れ、国家的危機を迎える。九州には防衛のための城が築かれ、都はより奥地である近江に移し、天皇は天智の子・弘文となる。この弘文を武力で倒し、天武天皇が政権を奪い、旧体制を一新した政権が誕生。天武死後は妃の持統天皇が継ぎ、藤原氏と協力し国家の土台を固め、やがて天平文化が花ひらくという筋書きが一般に知られている。つまり、天武天皇は、外国に敗れた政権を武力で倒した新政権の初代である。また、『日本書紀』は全て漢文で書かれている。同時代の『古事記』は違う。一見、漢文風だが平仮名・片仮名がまだできていないため、当時の日本語を漢字の当て字にしたものだ。
『古事記』では「日本」ではなく自らを「倭」と呼んでいる。直後に作られた『日本書紀』はタイトル通り「倭」を「日本」に改め、これは国名だけでなく、「倭」を含むほとんどの人名なども「日本」に訂正してある。漢文で書かれているということは、明らかに中国を意識している。先に作られた『古事記』は日本語で歴史が綴られていた(日本語を漢字の当て字で書いた)。中国に対しては、白村江で戦った「倭国」ではなく「日本」であると宣言している。実際、白村江で戦った「倭国」政権の天智、弘文、藤原氏勢力は、天武天皇により排除された。「倭国」が「日本」に滅ぼされたとも言える。これで中国は「倭国」を攻める理由がなくなる。「倭国」は存在しないからだ。また、「天皇」号の使用を見てみると、初めて「天皇」号を使ったのは天武天皇だと言われている。「倭国」では「大王(オホキミ)」で、「日本」になると「天皇」となる。「日本」は「日のもと」つまり日の昇る所であり、有名な聖徳太子が中国皇帝に宛てた「日出ずる処の天子、日没する処の天子に~」というのと同じ発想だ。日本は中国から見て日の昇る方角にあり、中国を意識した名前だ。「昇る」と「没する」では、当然「昇る」の方が良く、中国より日本の方が上であるかのようだ。
中国の「皇帝」というのは、簡単に言えば、天から統治を任せられた(天命を受けた)者で、「天子」とも呼ばれる。高い徳を持った者が天命を受けるのであり、血筋ではない。世の中が乱れると、皇帝の徳の低いことに原因があると考える。現代でも「私の不徳のいたすところ」という表現があるが、皇帝の徳が低く世が乱れ続けた場合は、もっと徳の高い者に皇帝を取り替える。結局、強い者が皇帝になるのであり、血筋による日本の天皇とは違う。「王」というのは、「地域の主」程度の存在で、皇帝は天子であり地上で最高位だ。皇帝が地域の有力者を王と認め、王は皇帝に臣下として貢ぎ物を出し、皇帝は「よしよし」ということで、その何倍もの宝を授けるという図式である。その王の国が外部の侵略を受ければ、皇帝は王の国を保護する。中国の冊封体制だ。卑弥呼は中国の皇帝に貢ぎ物を送り、認められた「親魏倭王」であった。
「天皇」とは何か。まず皇帝しか使うことの出来ない「皇」の文字がある。「王」とは違う。皇帝と同等であることを示す。「皇帝」はすでに中国に存在する。中国の道教の最高神は「天皇大帝(てんこうたいてい)」という。「天皇」はここから取ったのかもしれない。天皇家の祖先が天にある高天原にいたことからもわかるように、天皇とは天の皇帝であり、人間の「皇帝」とは違い、神様そのものであり、従って中国の皇帝以上の存在であるということになる。「天皇」というネーミングも、中国を意識し、冊封体勢の中でなく、中国と同等かそれ以上の立場で並び立つ存在であることをアピールしている。
『日本書紀』にはもう一つ重要な編纂目的があった。『日本書紀』は壬申の乱の勝者で新政権をたてた天武天皇の命により編纂が始まった。しかし天武の在命中には完成していない。この間に天皇家の事情も少し変化した。中国に負けない国であることをアピールすること以外に、天皇の跡継問題があった。『日本書紀』前半の神話の世界の話、高天原の神たちの系譜は、編纂当時の実際の系譜を意識して作られている。高天原神話は、女神の天照大神が高皇産霊と相談し孫の瓊々杵を地上に降臨させるが、この女神を女帝・元正に当てはめると、跡継ぎ争いは自動的に孫の聖武天皇となる。聖武に娘を嫁がせた藤原不比等は高皇産霊の位置におさまる。天照大神と高皇産霊の子孫が日本を治めるように、天皇家と藤原氏の子孫が跡を継ぐという話しになる。天武天皇は天智天皇が跡継ぎとした大友皇子(弘文)を武力で倒しているが『日本書紀』はこのような表現をするはずがない。天武天皇と大友皇子、どちらが正当か、歴史とは勝者の歴史であり、勝者が正義となる。神話は、編纂時の系譜の影響が出ていることから、編纂前後の力関係が影響している。神話に出て来る神々の前後関係や血縁関係も操作されている。神話以外でも、天皇家や藤原氏に関わることはそのまま鵜呑みには出来ない。藤原氏は、蘇我氏を打倒して出世した一族であり、藤原氏の評価を高めるためには、蘇我氏を貶める必要もあった。しかし虚構を作るわけにもいかない。日本の国家事業であり、正式な歴史書である。「大友皇子など最初から存在しなかった」「蘇我氏など最初から存在しなかった」とは書けない。当時知られている史実に色をつけるということになる。従って、蘇我氏の活躍が書かれていることは当然だが、実際の蘇我氏の活躍は『日本書紀』に記されているもの以上であった。
『日本書紀』という名前は現代人が呼ぶ名前であり、本当の名前ではない。『日本書紀』の続編とも言えるものに『続日本紀』があり、この中で「一品舎人親王は天皇の命を承り日本紀を編纂した」ということが出ている。ここから本当は『日本紀』というのではないかという説もある。「書」はどこから来たのか。中国の正史は、例えば『漢書』や『後漢書』あるいは『宋書』『隋書』等々があるが、『日本書紀』の「書」はこれら各正史のタイトルにある「書」である。本来は『日本書』であるはずだが、中国正史に相対するものだ。『日本書紀』の「紀」とは何か。「紀」は天皇の事跡を編年体で表わすことで、本来はこの他に「志」「伝」があったのではと考えられる。「あった」というのは「存在していた」という意味ではなく「作る予定だった」という意味だ。「志」は地誌や制度など、「伝」は功績のあった人の伝記。つまり、『日本書』は本来「紀」「志」「伝」で構成されていたはずで、このうちの「紀」だけが完成し、他は完成しなかったということで、『日本書』の「紀」ということになったらしい。これは、中国正史を充分に意識したものだったといえる。