「大化の改新」は単に「蘇我氏(そがし)」を滅ぼしただけの事件ではなく、蘇我氏滅亡後の政治改革を含めた全体を指す。蘇我氏を滅ぼしたという事件だけなら、「乙巳の変(いっしのへん)」といわれる事件になる。
飛鳥地方(奈良県)に疫病が流行、有力な豪族であった「物部守屋(もののべのもりや)」は「疫病の原因は『蘇我馬子(そがのうまこ)』が仏教を崇拝したがために日本の神がお怒りになったからだ」と言って豪族の「中臣氏(なかとみし)」と共に仏教を排斥し、仏教を信仰している蘇我氏との対立を深める。587年、物部守屋は蘇我馬子に殺され、物部氏は滅び、政治の権力は蘇我氏に集中する。蘇我氏の勢力は大王をも凌ぐほどに成長する。622年、推古天皇の摂政であり皇太子でもあった聖徳太子が49歳の若さで亡くなる。628年、権力者「蘇我馬子」の後押しで初の女帝となった推古天皇は次の皇太子を決めぬまま亡くなる。 . . . 本文を読む