仏像は英語で、ブッディスト イメージ(buddhist image)という。仏のイメージを表現したものだ。仏教の始まりの頃には仏像などなかった。キリスト教にも本来は「キリスト像」など信仰の対象としてなかった。イスラム教も、偶像崇拝を認めていない。ミケランジェロのような、あるいは運慶のような巨匠や名人が作ったとしても、人間の技量の範囲での表現だ。従って、イスラム寺院には神像や肖像はない。マホメット(イスラム教の開祖、ムハンマドともいう)も神の前ではただの人間に過ぎないということで、その肖像画を飾ることもしていない。イスラム教では、神は形がなく無限の広がりを持つ存在としており、アラーの神の像など作れるはずもない。そんなことをする人間はとんでもない悪人だということになっている。
仏教の初期には、仏像はなく、お釈迦様の遺骨を安置する塔(ストウーパ)を建てた。この遺骨を仏舎利という。仏舎利は盛んに分骨されて、遠く日本にまで伝わった。仏舎利を祀った高い建物を「塔」と呼ぶ。古い形式の寺院では、あくまで「塔」が寺院の中心であった。もともとインドには仏像を作るという信仰形態はなかったが、紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王がインドまで遠征し、この地域にギリシャの肖像彫刻の技法を伝え、仏像が歴史上初めて出現する。初めて作られた地方の名前をとって「ガンダーラ仏」という。貴金属や宝玉で仏像を作ったり、巨大な仏像も作っている。近年アフガニスタンのタリバンによって破壊されたバーミアンの大仏もそうだ。断崖に彫り込むような形で大仏を造るという技法がスタンダードになり、中国でも大同の雲崗石窟などで巨大な石仏も造られた。韓国にも、石窟庵という寺院には、世界の石仏の中でも最も美しいと思われる見事な大仏がある。日本の九州、国東半島(大分県)の石仏は、芸術作品としてもすぐれている。その後、日本では、世界の中で極めてユニークな、金銅(ブロンズ)の大仏を造った。世界初である。金属で造るということは、鋳物、溶かした金属を型に流し込んで造ることだ。大量の金属と、それを溶かし造形する高度な技術がいる。バーミアンの石仏は立像で53メートルで、奈良時代の日本人が造ろうとした大仏は15メートルしかないが、その製作技術は比べものにならない。石は動かないし、常温で安定しており、コツコツと造ってゆけば、大きなものもできる。これに対し、金属は高温で溶けている、これを特定の形に造形するのは当時、命懸けのハイテク技術だ。奈良の大仏より古い法隆寺の建築にも高い水準の技術が見られるが、それは中国や朝鮮半島から伝わったものだ。金銅製の大仏は、当時アジア最大の国家であった中国ですら造ったことがない。これを見事に完成させた日本は、当時の技術大国でもあった。
奈良の大仏の建立の由来は、当時、聖武天皇が国家を鎮護し平安な社会を作るため「大仏造立の詔」を発し、開眼供養まで足掛け9年の歳月をかけて完成させた。かかった費用を見ても、現代の日本が有人宇宙ロケットを打ち上げるような規模の事業だ。粘土で大きな像を造り、その上にロウを幾重にも重ねてコーティングする。さらにその上に粘土を重ねる。重なった粘土と粘土の隙間に、溶かした銅を流し込む。ロウは溶けて、その間に銅の壁ができる。上層の粘土をはがせば、とりあえずは原型が完成する。余分な部分を削って、最後の仕上げに、金で仏像全体をコーティングする。つまり、金メッキをする。仏像というと、ブロンズや木肌が剥き出しになったものが多いが、金色に輝かせるというのがアジアからのルールとして伝わっていた。奈良の大仏も薬師寺の薬師三尊像も昔は金メッキが施されていた。金メッキの技術は大陸から伝わっていたが、日本では金が見つかっていなかった。幸運にも、「みちのく」の国から、大仏の工事期間中に大量の金が発見された。黄金の国ジパングの第1ページとなった。戦国時代を終わらせた豊臣秀吉が、京都に奈良以上の大きさの大仏を造ったが、それは木造だった。工期を短くしようと急いだため、木造だったが、それも火事で焼けてしまって今はない。奈良の大仏も二度ほど火事で焼けているが、当初の部分も少しは残った。鎌倉の大仏は最初は木造だったが、後に金銅仏に変わっている。
こうして見ると、仏像や絵像というのは、後世の人間が釈尊の教えとは別に創作した芸術作品だったともいえる。釈尊は弟子に対して、人ではなく、法を拠りどころとして生きよと教えた。変化する人の心に依るのではなく、宇宙・生命の法理を拠りどころとしてゆくことを法華経は教えている。また、20世紀最大の歴史家といわれた英国のアーノルド・トインビーは、自分自身はキリスト教の国に生まれたが、キリスト教が説くところの人格神を信じない、むしろ、東洋の仏教の説く、宇宙と生命を貫く法の存在を信ずるといっている。おそらく、キリスト教のいうゴッド(神)も、その前身でもあるユダヤ教のいうアラーの神も、目に見えない宇宙・生命の法を志向していたものと考えたい。そこに後世の人達が新たな神話を付加し、偶像崇拝という様式を追加していったと思われる。宗教というのは、人間が勝手に創作したものではなく、もともと宇宙・生命とともに永遠に存在する法理であり、それを覚知した人が仏(覚者)、つまり釈尊は覚知した人なのだ。世の中には変な偽宗教が多く存在するが、それらは人が勝手に創作したものといえる。日本の既成仏教も葬式仏教中心になり、釈尊の教えとは程遠い形になっている。
歴史家アーノルド・トインビーは指摘している。西洋の歴史は平和よりも戦争の期間が多かった。そこに必ずキリスト教が関わっている。ドイツの有名な三十年戦争というのは、キリスト教の新教と旧教の争いだった。インドのアソカ大王をトインビーは尊敬するという。戦争に明け暮れていたアソカ大王が釈尊の教えに帰依してより、戦争を止め、対話による平和外交でインドを平和に導いていったともいう。また、日本の歴史では平安時代に、仏教による200年以上に渡る戦争のない平和な時代があったともいう。
中近東における紛争の歴史を見ると、イスラム原理主義という極端な考え方が大きく影響している。これも後世に勝手に創作した偽宗教の弊害なのかとも思えてきてしまう。日中間の尖閣問題も、武器よりも対話による平和外交をやり遂げていってもらいたいと願うばかりだ。釈尊も在世当時、戦争を繰り返すインド国内の小国と小国に対する平和外交に力を発揮していた。成仏とは仏という特別な存在になることではなく、人間がその身のままで、仏という最高の人間性を開き現わすこと(即身成仏)とも法華経は説いている。
さて、現在でも「僧侶による読経や引導がなければ故人は成仏しない」という考え方がある。これは、江戸時代、徳川幕府の宗教政策の一つでもある檀家制度によるもので、仏教本来の在り方とは違うものだ。また、戒名というのも本来の仏教にはなく、中国の儒教の中にあり、これは死後ではなく、生前に授けて頂くもの、それを、日本では葬儀の際に取り入れている。これは釈尊の教えにはないものだ。江戸時代、徳川幕府の宗教政策の檀家制度は、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうためのものだった。寺檀制度(じだんせいど)ともいわれ、江戸幕府のキリスト教禁止令を確実に実施していくために全ての国民を仏教の寺の管理下におこうとした日本特有のものだった。現在では、寺院の権限はほとんど無いにせよ、檀家制度だけは残っている。いわゆる葬式仏教や、檀家制度によって確立した年忌法要、定期的な墓参りが日本には根付いており、葬儀や先祖の命日法要、墓の管理を檀那寺に委託する例が数多く残っている。しかし、世代が若くなるにつれて、檀家が減りつつあるのも事実であり、檀家制度に拠る寺院の経営は今後、難しくなる。これを主な生計の手段とする寺も減ってきており、副業としてやっている寺の後継者が引き継いでいるのが現状だ。いずれは消滅していくと考えられる。現在はその過渡期なのであろう。
仏教の初期には、仏像はなく、お釈迦様の遺骨を安置する塔(ストウーパ)を建てた。この遺骨を仏舎利という。仏舎利は盛んに分骨されて、遠く日本にまで伝わった。仏舎利を祀った高い建物を「塔」と呼ぶ。古い形式の寺院では、あくまで「塔」が寺院の中心であった。もともとインドには仏像を作るという信仰形態はなかったが、紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王がインドまで遠征し、この地域にギリシャの肖像彫刻の技法を伝え、仏像が歴史上初めて出現する。初めて作られた地方の名前をとって「ガンダーラ仏」という。貴金属や宝玉で仏像を作ったり、巨大な仏像も作っている。近年アフガニスタンのタリバンによって破壊されたバーミアンの大仏もそうだ。断崖に彫り込むような形で大仏を造るという技法がスタンダードになり、中国でも大同の雲崗石窟などで巨大な石仏も造られた。韓国にも、石窟庵という寺院には、世界の石仏の中でも最も美しいと思われる見事な大仏がある。日本の九州、国東半島(大分県)の石仏は、芸術作品としてもすぐれている。その後、日本では、世界の中で極めてユニークな、金銅(ブロンズ)の大仏を造った。世界初である。金属で造るということは、鋳物、溶かした金属を型に流し込んで造ることだ。大量の金属と、それを溶かし造形する高度な技術がいる。バーミアンの石仏は立像で53メートルで、奈良時代の日本人が造ろうとした大仏は15メートルしかないが、その製作技術は比べものにならない。石は動かないし、常温で安定しており、コツコツと造ってゆけば、大きなものもできる。これに対し、金属は高温で溶けている、これを特定の形に造形するのは当時、命懸けのハイテク技術だ。奈良の大仏より古い法隆寺の建築にも高い水準の技術が見られるが、それは中国や朝鮮半島から伝わったものだ。金銅製の大仏は、当時アジア最大の国家であった中国ですら造ったことがない。これを見事に完成させた日本は、当時の技術大国でもあった。
奈良の大仏の建立の由来は、当時、聖武天皇が国家を鎮護し平安な社会を作るため「大仏造立の詔」を発し、開眼供養まで足掛け9年の歳月をかけて完成させた。かかった費用を見ても、現代の日本が有人宇宙ロケットを打ち上げるような規模の事業だ。粘土で大きな像を造り、その上にロウを幾重にも重ねてコーティングする。さらにその上に粘土を重ねる。重なった粘土と粘土の隙間に、溶かした銅を流し込む。ロウは溶けて、その間に銅の壁ができる。上層の粘土をはがせば、とりあえずは原型が完成する。余分な部分を削って、最後の仕上げに、金で仏像全体をコーティングする。つまり、金メッキをする。仏像というと、ブロンズや木肌が剥き出しになったものが多いが、金色に輝かせるというのがアジアからのルールとして伝わっていた。奈良の大仏も薬師寺の薬師三尊像も昔は金メッキが施されていた。金メッキの技術は大陸から伝わっていたが、日本では金が見つかっていなかった。幸運にも、「みちのく」の国から、大仏の工事期間中に大量の金が発見された。黄金の国ジパングの第1ページとなった。戦国時代を終わらせた豊臣秀吉が、京都に奈良以上の大きさの大仏を造ったが、それは木造だった。工期を短くしようと急いだため、木造だったが、それも火事で焼けてしまって今はない。奈良の大仏も二度ほど火事で焼けているが、当初の部分も少しは残った。鎌倉の大仏は最初は木造だったが、後に金銅仏に変わっている。
こうして見ると、仏像や絵像というのは、後世の人間が釈尊の教えとは別に創作した芸術作品だったともいえる。釈尊は弟子に対して、人ではなく、法を拠りどころとして生きよと教えた。変化する人の心に依るのではなく、宇宙・生命の法理を拠りどころとしてゆくことを法華経は教えている。また、20世紀最大の歴史家といわれた英国のアーノルド・トインビーは、自分自身はキリスト教の国に生まれたが、キリスト教が説くところの人格神を信じない、むしろ、東洋の仏教の説く、宇宙と生命を貫く法の存在を信ずるといっている。おそらく、キリスト教のいうゴッド(神)も、その前身でもあるユダヤ教のいうアラーの神も、目に見えない宇宙・生命の法を志向していたものと考えたい。そこに後世の人達が新たな神話を付加し、偶像崇拝という様式を追加していったと思われる。宗教というのは、人間が勝手に創作したものではなく、もともと宇宙・生命とともに永遠に存在する法理であり、それを覚知した人が仏(覚者)、つまり釈尊は覚知した人なのだ。世の中には変な偽宗教が多く存在するが、それらは人が勝手に創作したものといえる。日本の既成仏教も葬式仏教中心になり、釈尊の教えとは程遠い形になっている。
歴史家アーノルド・トインビーは指摘している。西洋の歴史は平和よりも戦争の期間が多かった。そこに必ずキリスト教が関わっている。ドイツの有名な三十年戦争というのは、キリスト教の新教と旧教の争いだった。インドのアソカ大王をトインビーは尊敬するという。戦争に明け暮れていたアソカ大王が釈尊の教えに帰依してより、戦争を止め、対話による平和外交でインドを平和に導いていったともいう。また、日本の歴史では平安時代に、仏教による200年以上に渡る戦争のない平和な時代があったともいう。
中近東における紛争の歴史を見ると、イスラム原理主義という極端な考え方が大きく影響している。これも後世に勝手に創作した偽宗教の弊害なのかとも思えてきてしまう。日中間の尖閣問題も、武器よりも対話による平和外交をやり遂げていってもらいたいと願うばかりだ。釈尊も在世当時、戦争を繰り返すインド国内の小国と小国に対する平和外交に力を発揮していた。成仏とは仏という特別な存在になることではなく、人間がその身のままで、仏という最高の人間性を開き現わすこと(即身成仏)とも法華経は説いている。
さて、現在でも「僧侶による読経や引導がなければ故人は成仏しない」という考え方がある。これは、江戸時代、徳川幕府の宗教政策の一つでもある檀家制度によるもので、仏教本来の在り方とは違うものだ。また、戒名というのも本来の仏教にはなく、中国の儒教の中にあり、これは死後ではなく、生前に授けて頂くもの、それを、日本では葬儀の際に取り入れている。これは釈尊の教えにはないものだ。江戸時代、徳川幕府の宗教政策の檀家制度は、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうためのものだった。寺檀制度(じだんせいど)ともいわれ、江戸幕府のキリスト教禁止令を確実に実施していくために全ての国民を仏教の寺の管理下におこうとした日本特有のものだった。現在では、寺院の権限はほとんど無いにせよ、檀家制度だけは残っている。いわゆる葬式仏教や、檀家制度によって確立した年忌法要、定期的な墓参りが日本には根付いており、葬儀や先祖の命日法要、墓の管理を檀那寺に委託する例が数多く残っている。しかし、世代が若くなるにつれて、檀家が減りつつあるのも事実であり、檀家制度に拠る寺院の経営は今後、難しくなる。これを主な生計の手段とする寺も減ってきており、副業としてやっている寺の後継者が引き継いでいるのが現状だ。いずれは消滅していくと考えられる。現在はその過渡期なのであろう。