人類の歴史は戦争の歴史でもある。そして戦争は古代からずっと続いてきた。しかし、近年になって、戦争や植民地支配は国際的に違法とされる時代がやってきた。第一次世界大戦で約2600万人の犠牲者を出し、戦争を外交と並ぶ国家政策の一手段とみなしてきた考え方から、戦争を否定する方向へと向かう。つまり、第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約の一部として国際連盟規約が結ばれ、国際連盟が設立され、それは、全ての連盟加盟国がお互いに武力行使をしないと約束し、戦争を行う国に対しては、全ての加盟国が協力して制裁するという集団保障体制で戦争を抑止しようとするものであった。
東京大学名誉教授の大沼保昭氏は、その著、『「歴史認識」とは何か』の中で述べている。東京裁判の根拠法とされたのは極東国際軍事裁判所憲章であり、憲章では対象とする犯罪類型を、A「平和に対する罪」、B[通例の戦争犯罪]、C[人道に対する罪]と規定し、「平和に対する罪」で最も根拠になったのは、1928年にパリで締結された不戦条約であり、当時は日本も条約の当事国だった。国際紛争解決のために戦争に訴えることは禁止されている。国際連盟規約で「戦争に訴えない義務」をうたった頃から、戦争を違法とすべきという考え方が強まり、それが不戦条約として結実したという。
さて、なぜ日本は、はるかに軍事力、経済力に勝る米国を攻撃するという無謀なことをやったのか。日本が中国において1931年から10年間も戦争をやってきていたが、それを米国、英国が批判し、中国からの撤兵を日本に要求したのだが、日本は応じようとしなかった。そのため、米国は最後の手段として、対日石油禁輸政策をとり、日本には石油が入らなくなり、日本は最終的な勝算のないまま、ハワイの真珠湾に停泊中の米国艦隊に先制攻撃を行い、太平洋戦争に突入した。日本が中国で始めた戦争とは1931年の満州事変に始まるのだが、これは日本の関東軍による陰謀で起こしたもので、当時の日本政府は中国からの攻撃に対する自衛戦争と称して中国国内に戦線を広げ、満州国という傀儡国家まで作り上げた。満州事変について当時、国際連盟から派遣されたリットン調査団も実地に調査し、その報告では満州国は日本の傀儡政権と認定され、国際的にも日本が悪いと判断された。日本は国際連盟から脱退し(1933年)、ヨーロッパにおいても、ヒットラーが率いるドイツやムッソリーニのイタリアも国際連盟から脱退し、ドイツ、イタリア、日本は三国同盟を締結し、三国ともに国際的に孤立していった。
当時の時代状況として、欧米諸国がアジアに進出し、例えば英国が中国に対してアヘン戦争を起こして中国の一部(香港など)を割譲させ植民地化していたが、日本も勢いに乗じて日清戦争(1894年)を起こし勝利し、中国の一部(台湾や遼東半島など)を割譲させ、植民地化している。その後、英国とも同盟し、日露戦争(1904年)を起こし、日本海軍はロシアのバルチック艦隊を破り、大陸においても日本陸軍はロシアに勝利し、世界的にも日本の実力を世界に認めさせ、勢いに乗じて、1931年の満州事変を突破口に朝鮮や中国大陸で戦線を広げ、1937年12月には当時の中国の首都南京を陥落させ(南京大虐殺も起きた)、やむなく中華民国政府は四川省の重慶へ疎開させられている。
東京裁判は「文明の裁き」という建前で行われた。確かに南京大虐殺は非文明的な行為といえる。そして、広島、長崎への原爆投下や1945年3月10日の東京大空襲なども非文明的な行為といえるが、東京裁判では裁かれて当然の行為が裁かれていない、その意味では東京裁判は勝者の裁きであり、不公正な裁判だったともいえる。だが、1945年当時に思いをはせると、戦勝国側の国民感情は峻烈だった、当時のソ連は2千万人以上、中国も1千万人以上の国民が殺されていたし、犠牲の少なかったといわれる米国でも30万人以上の死者を出している。犠牲に対する国民的な憤りが圧倒的ななかで完全に公正な裁判ができたかどうかは疑問だ。東条英機以下25人の被告人は当時の日本国の指導者として裁かれ、東京裁判では日本の戦争責任に対する国際社会の判断が示された。日本は連合国の多くの国々と締結した1951年のサンフランシスコ講和条約で、この東京裁判を受け入れている。
第二次大戦では300万人以上の日本国民の犠牲者と1000万人以上の他の国々の犠牲者を生んだ。だが1931年の満州事変から第二次大戦までの戦争責任を償うということが東京裁判で全て果たされたわけではない。その後、1951年9月に結ばれたサンフランシスコ平和条約で日本は主権を回復するわけだが、沖縄は米国の信託統治下(実際は米国の施政権下)に置かれた。しかし、1952年にサンフランシスコ条約が発効すると同時に、中ソなど一部を除く連合国との戦争状態は法的には終了し、日本の占領統治も終わり、主権国家として日本は国際社会に復帰した。ただし、米国の施政権下に置かれていた奄美大島の本土復帰は1953年、小笠原諸島は1968年、沖縄は1972年となった。ただし、北方領土や竹島などの領土問題は今日に至るまで未解決だ。
サンフランシスコ講和会議にソ連は参加したが条約には調印せず、中国、インド、韓国は会議自体には参加していない。戦後米ソの冷戦が深刻化していたため、米国主導の色合いが強く、ソ連は、ソ連の主張した中華人民共和国の参加を拒否された対日講和には参加しなかった。中国については、米国は1949年に国共内戦に敗れて台湾に逃れた蒋介石の国民党政権である中華民国を承認していた。イギリスは中国本土を支配する中華人民共和国を承認していた。日本と台湾は米国の強い圧力の下で日華平和条約を結んでいる。
日本の在外資産は連合国などに没収され、満州や朝鮮半島、東南アジア等の在外居留者だった日本国民は苦しみを味わっているが、一方で、日本に侵略され占領された中国やフィリピンなどの国民から見れば、大日本帝国国民は侵略者の一員だったので許す気持ちはなかったであろう。攻めて来られた国々の人は何の罪もないのに日本国民よりもはるかに大きい被害を受けていたからだ。
1945年の日本の敗戦から1951年のサンフランシスコ講和までの間には、米ソの冷戦が世界規模に広がってきていた。アジアでも、中国の国共内戦で中国共産党が勝利して中華人民共和国を建国し、ソ連と軍事的、経済的に手を結んでいた。また、朝鮮半島では、親米政権による韓国と、ソ連を後ろ盾とする北朝鮮がそれぞれ建国宣言をし、1950年には朝鮮戦争が始まった。一方でフィリピンやオーストラリアなど、戦争中に大きな被害を受け、日本の軍国主義の再来を恐れる国々は日本に対する寛大なサンフランシスコ講和条約には強く抵抗していた。フィリピンでは100万人以上の国民が日本の侵略戦争の犠牲になっていたし、中国のことでいえば、日本が1931年から1945年まで中国本土内で戦い、甚大な被害を与えていた。日本軍に殺された中国国民は1000万人以上といわれ、家を焼かれ、レイプされ、負傷した無数の人々がいた。中国との国交回復の交渉にあたっていた日本の関係者は、中国がまともに戦争賠償を請求してきたら日本の経済は破綻してしまうという認識もあったという。そんな巨額の賠償を放棄してもらうことなど考えられないことだった。その後の中国との国交回復では、中国の周恩来首相の決断は画期的だった。全ての賠償権を放棄するという。戦争は一部の日本の軍部上層部のやったことであり、多くの日本国民に罪はないという判断を示したのだ。国民から尊敬され信頼されている周恩来の言葉は重かった。だが、その日本の軍部上層部であった東条英機以下のA級戦犯が合祀されている靖国神社に、現在日本の総理大臣以下閣僚が参拝することに対しては中国が極度の抵抗を示しているのは当然であろう。日本がこの中国の国民感情を無視することはできない。
初の原爆被爆国となった日本が米国に対して被害者意識を感じたのは当然としても、日本が侵略戦争を仕掛けて被害を与えたアジア諸国はそれ以上に日本に対しての被害者意識が大きい。日本が一方的に大東亜共栄圏などという構想のもとにアジア諸国を侵略していったことは許されることではない。この歴史認識は今も消し去ることはできないであろう。
現在、日韓基本条約によって朝鮮が日本の植民地だった時代の問題は全て解決したというのが日本政府の立場だが、韓国では決してそうではないという立場で戦時中における慰安婦への賠償を求め、日本に強制徴用された元労働者が未払い賃金や慰謝料などの支払を求めて韓国の裁判所へ提訴している。1965年に日韓基本条約が結ばれた時、それに伴っていくつかの条約が結ばれたが、その一つに日韓請求権協定と呼ばれるものがある。日韓両国・両国民の請求権と日本から韓国への経済協力に関する取り決めであり、二国間を法的に拘束するものだ。政権が変わっても、国内裁判所が違憲、違法と判断しても国家間の約束として守らなければならないものだ。一方的に変えてよいことにしたら国際関係・秩序が成り立たなくなるからだ。ところが、2011年に韓国の憲法裁判所が、元慰安婦への賠償請求について韓国政府が日本政府と十分な交渉をしないのは違憲であるという決定を下した。さらに、大法院(日本の最高裁に相当する)が2012年に、戦時中に強制徴用された元労働者の日本企業に対する個人請求権は消滅していないという判決を下した。近年、欧米先進国を中心に「人権」の力が強くなってきていて、欧州人権裁判所や中南米の米州人権裁判所では、過去の条約や法令で決まったことでも、きわめて深刻な人権侵害があった場合は、それを重視して被害者救済をすべきという判例も出てきている。
なお、北朝鮮でも日本が植民地支配をしていた時代の朝鮮の人々の権利侵害など未解決なので、将来には日韓請求権協定と同じような協定を結ぶ必要もあり、その後に個人からの請求があればさらに困難な問題も出てくるとも予想される。もちろん韓国と北朝鮮では政治機構の違いもあるので、一概にはいえない話でもあるのだが。
歴史認識を問い直すということは、他国とのつきあいをうまくやるためではなく、日本がどういう国であろうとするのかを考えることになる。将来の日本のありようを決めていく土台として、歴史認識は今後も重要だ。かつて、文部省が教科書検定で高等学校用の日本史教科書の記述の中で、「華北へ侵略」を「華北に進出」と改めさせたと多くのメディアが報じたことがあった。文部省は確かに「侵略」という表現を改めるように意見を付けたのだが、教科書の中には「侵略」を維持した事例もあった。この報道をきっかけに、中国から日本の歴史教科書に対して激しく抗議があった。抗議は韓国からも来た。政府も大きなショックを受けることになった。当時の鈴木善幸内閣の官房長官だった宮澤喜一氏から、「日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えた」と認め、教科書に関しても「アジアの近隣諸国との友好・親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」との談話を発表している。
第一次世界大戦は米国が参戦して連合国を勝利に導き、日本も中南米諸国も参戦したが、基本的にはヨーロッパの戦争だった。しかし、第二次世界大戦は文字通りの世界戦争で、1939年のドイツによるポーランド侵略に始まると考えられており、1941年まではヨーロッパの戦争だったが、1941年の日本の参戦以降、中南米諸国、エチオピア、リビア、トルコ、エジプトなどのアフリカ、西アジア諸国も含む世界戦争に拡大した。ただ世界戦争といっても日本、ドイツ、イタリアなど8か国が主体で、1943年以降はイタリアをはじめ5か国が離脱し、1945年には日本、ドイツ、タイの3か国だけになり、結局のところ日本とドイツが国際社会全体と戦う形になった。
第一次大戦の場合、戦争の原因はドイツ側、英仏側の双方にあったが、第二次大戦では、日本には満州事変から真珠湾攻撃と国際法に反する不正な軍事力の行使があり、ドイツも1939年9月1日に突然ポーランドを侵略し、日本、ドイツともに弁明の余地のない戦いをしてしまった。東京裁判は勝者の裁きであり、不公平なこともあったが、勝者たる連合国は国際社会のほとんど全ての国だった。その意味では、東京裁判は国際社会による裁きでもあった。ドイツもニュルンベルク裁判で裁かれたが、最高指導者ヒットラーは自殺していたので他の24名の主要戦犯が裁かれている。
東京大学名誉教授の大沼保昭氏は、その著、『「歴史認識」とは何か』の中で述べている。東京裁判の根拠法とされたのは極東国際軍事裁判所憲章であり、憲章では対象とする犯罪類型を、A「平和に対する罪」、B[通例の戦争犯罪]、C[人道に対する罪]と規定し、「平和に対する罪」で最も根拠になったのは、1928年にパリで締結された不戦条約であり、当時は日本も条約の当事国だった。国際紛争解決のために戦争に訴えることは禁止されている。国際連盟規約で「戦争に訴えない義務」をうたった頃から、戦争を違法とすべきという考え方が強まり、それが不戦条約として結実したという。
さて、なぜ日本は、はるかに軍事力、経済力に勝る米国を攻撃するという無謀なことをやったのか。日本が中国において1931年から10年間も戦争をやってきていたが、それを米国、英国が批判し、中国からの撤兵を日本に要求したのだが、日本は応じようとしなかった。そのため、米国は最後の手段として、対日石油禁輸政策をとり、日本には石油が入らなくなり、日本は最終的な勝算のないまま、ハワイの真珠湾に停泊中の米国艦隊に先制攻撃を行い、太平洋戦争に突入した。日本が中国で始めた戦争とは1931年の満州事変に始まるのだが、これは日本の関東軍による陰謀で起こしたもので、当時の日本政府は中国からの攻撃に対する自衛戦争と称して中国国内に戦線を広げ、満州国という傀儡国家まで作り上げた。満州事変について当時、国際連盟から派遣されたリットン調査団も実地に調査し、その報告では満州国は日本の傀儡政権と認定され、国際的にも日本が悪いと判断された。日本は国際連盟から脱退し(1933年)、ヨーロッパにおいても、ヒットラーが率いるドイツやムッソリーニのイタリアも国際連盟から脱退し、ドイツ、イタリア、日本は三国同盟を締結し、三国ともに国際的に孤立していった。
当時の時代状況として、欧米諸国がアジアに進出し、例えば英国が中国に対してアヘン戦争を起こして中国の一部(香港など)を割譲させ植民地化していたが、日本も勢いに乗じて日清戦争(1894年)を起こし勝利し、中国の一部(台湾や遼東半島など)を割譲させ、植民地化している。その後、英国とも同盟し、日露戦争(1904年)を起こし、日本海軍はロシアのバルチック艦隊を破り、大陸においても日本陸軍はロシアに勝利し、世界的にも日本の実力を世界に認めさせ、勢いに乗じて、1931年の満州事変を突破口に朝鮮や中国大陸で戦線を広げ、1937年12月には当時の中国の首都南京を陥落させ(南京大虐殺も起きた)、やむなく中華民国政府は四川省の重慶へ疎開させられている。
東京裁判は「文明の裁き」という建前で行われた。確かに南京大虐殺は非文明的な行為といえる。そして、広島、長崎への原爆投下や1945年3月10日の東京大空襲なども非文明的な行為といえるが、東京裁判では裁かれて当然の行為が裁かれていない、その意味では東京裁判は勝者の裁きであり、不公正な裁判だったともいえる。だが、1945年当時に思いをはせると、戦勝国側の国民感情は峻烈だった、当時のソ連は2千万人以上、中国も1千万人以上の国民が殺されていたし、犠牲の少なかったといわれる米国でも30万人以上の死者を出している。犠牲に対する国民的な憤りが圧倒的ななかで完全に公正な裁判ができたかどうかは疑問だ。東条英機以下25人の被告人は当時の日本国の指導者として裁かれ、東京裁判では日本の戦争責任に対する国際社会の判断が示された。日本は連合国の多くの国々と締結した1951年のサンフランシスコ講和条約で、この東京裁判を受け入れている。
第二次大戦では300万人以上の日本国民の犠牲者と1000万人以上の他の国々の犠牲者を生んだ。だが1931年の満州事変から第二次大戦までの戦争責任を償うということが東京裁判で全て果たされたわけではない。その後、1951年9月に結ばれたサンフランシスコ平和条約で日本は主権を回復するわけだが、沖縄は米国の信託統治下(実際は米国の施政権下)に置かれた。しかし、1952年にサンフランシスコ条約が発効すると同時に、中ソなど一部を除く連合国との戦争状態は法的には終了し、日本の占領統治も終わり、主権国家として日本は国際社会に復帰した。ただし、米国の施政権下に置かれていた奄美大島の本土復帰は1953年、小笠原諸島は1968年、沖縄は1972年となった。ただし、北方領土や竹島などの領土問題は今日に至るまで未解決だ。
サンフランシスコ講和会議にソ連は参加したが条約には調印せず、中国、インド、韓国は会議自体には参加していない。戦後米ソの冷戦が深刻化していたため、米国主導の色合いが強く、ソ連は、ソ連の主張した中華人民共和国の参加を拒否された対日講和には参加しなかった。中国については、米国は1949年に国共内戦に敗れて台湾に逃れた蒋介石の国民党政権である中華民国を承認していた。イギリスは中国本土を支配する中華人民共和国を承認していた。日本と台湾は米国の強い圧力の下で日華平和条約を結んでいる。
日本の在外資産は連合国などに没収され、満州や朝鮮半島、東南アジア等の在外居留者だった日本国民は苦しみを味わっているが、一方で、日本に侵略され占領された中国やフィリピンなどの国民から見れば、大日本帝国国民は侵略者の一員だったので許す気持ちはなかったであろう。攻めて来られた国々の人は何の罪もないのに日本国民よりもはるかに大きい被害を受けていたからだ。
1945年の日本の敗戦から1951年のサンフランシスコ講和までの間には、米ソの冷戦が世界規模に広がってきていた。アジアでも、中国の国共内戦で中国共産党が勝利して中華人民共和国を建国し、ソ連と軍事的、経済的に手を結んでいた。また、朝鮮半島では、親米政権による韓国と、ソ連を後ろ盾とする北朝鮮がそれぞれ建国宣言をし、1950年には朝鮮戦争が始まった。一方でフィリピンやオーストラリアなど、戦争中に大きな被害を受け、日本の軍国主義の再来を恐れる国々は日本に対する寛大なサンフランシスコ講和条約には強く抵抗していた。フィリピンでは100万人以上の国民が日本の侵略戦争の犠牲になっていたし、中国のことでいえば、日本が1931年から1945年まで中国本土内で戦い、甚大な被害を与えていた。日本軍に殺された中国国民は1000万人以上といわれ、家を焼かれ、レイプされ、負傷した無数の人々がいた。中国との国交回復の交渉にあたっていた日本の関係者は、中国がまともに戦争賠償を請求してきたら日本の経済は破綻してしまうという認識もあったという。そんな巨額の賠償を放棄してもらうことなど考えられないことだった。その後の中国との国交回復では、中国の周恩来首相の決断は画期的だった。全ての賠償権を放棄するという。戦争は一部の日本の軍部上層部のやったことであり、多くの日本国民に罪はないという判断を示したのだ。国民から尊敬され信頼されている周恩来の言葉は重かった。だが、その日本の軍部上層部であった東条英機以下のA級戦犯が合祀されている靖国神社に、現在日本の総理大臣以下閣僚が参拝することに対しては中国が極度の抵抗を示しているのは当然であろう。日本がこの中国の国民感情を無視することはできない。
初の原爆被爆国となった日本が米国に対して被害者意識を感じたのは当然としても、日本が侵略戦争を仕掛けて被害を与えたアジア諸国はそれ以上に日本に対しての被害者意識が大きい。日本が一方的に大東亜共栄圏などという構想のもとにアジア諸国を侵略していったことは許されることではない。この歴史認識は今も消し去ることはできないであろう。
現在、日韓基本条約によって朝鮮が日本の植民地だった時代の問題は全て解決したというのが日本政府の立場だが、韓国では決してそうではないという立場で戦時中における慰安婦への賠償を求め、日本に強制徴用された元労働者が未払い賃金や慰謝料などの支払を求めて韓国の裁判所へ提訴している。1965年に日韓基本条約が結ばれた時、それに伴っていくつかの条約が結ばれたが、その一つに日韓請求権協定と呼ばれるものがある。日韓両国・両国民の請求権と日本から韓国への経済協力に関する取り決めであり、二国間を法的に拘束するものだ。政権が変わっても、国内裁判所が違憲、違法と判断しても国家間の約束として守らなければならないものだ。一方的に変えてよいことにしたら国際関係・秩序が成り立たなくなるからだ。ところが、2011年に韓国の憲法裁判所が、元慰安婦への賠償請求について韓国政府が日本政府と十分な交渉をしないのは違憲であるという決定を下した。さらに、大法院(日本の最高裁に相当する)が2012年に、戦時中に強制徴用された元労働者の日本企業に対する個人請求権は消滅していないという判決を下した。近年、欧米先進国を中心に「人権」の力が強くなってきていて、欧州人権裁判所や中南米の米州人権裁判所では、過去の条約や法令で決まったことでも、きわめて深刻な人権侵害があった場合は、それを重視して被害者救済をすべきという判例も出てきている。
なお、北朝鮮でも日本が植民地支配をしていた時代の朝鮮の人々の権利侵害など未解決なので、将来には日韓請求権協定と同じような協定を結ぶ必要もあり、その後に個人からの請求があればさらに困難な問題も出てくるとも予想される。もちろん韓国と北朝鮮では政治機構の違いもあるので、一概にはいえない話でもあるのだが。
歴史認識を問い直すということは、他国とのつきあいをうまくやるためではなく、日本がどういう国であろうとするのかを考えることになる。将来の日本のありようを決めていく土台として、歴史認識は今後も重要だ。かつて、文部省が教科書検定で高等学校用の日本史教科書の記述の中で、「華北へ侵略」を「華北に進出」と改めさせたと多くのメディアが報じたことがあった。文部省は確かに「侵略」という表現を改めるように意見を付けたのだが、教科書の中には「侵略」を維持した事例もあった。この報道をきっかけに、中国から日本の歴史教科書に対して激しく抗議があった。抗議は韓国からも来た。政府も大きなショックを受けることになった。当時の鈴木善幸内閣の官房長官だった宮澤喜一氏から、「日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えた」と認め、教科書に関しても「アジアの近隣諸国との友好・親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」との談話を発表している。
第一次世界大戦は米国が参戦して連合国を勝利に導き、日本も中南米諸国も参戦したが、基本的にはヨーロッパの戦争だった。しかし、第二次世界大戦は文字通りの世界戦争で、1939年のドイツによるポーランド侵略に始まると考えられており、1941年まではヨーロッパの戦争だったが、1941年の日本の参戦以降、中南米諸国、エチオピア、リビア、トルコ、エジプトなどのアフリカ、西アジア諸国も含む世界戦争に拡大した。ただ世界戦争といっても日本、ドイツ、イタリアなど8か国が主体で、1943年以降はイタリアをはじめ5か国が離脱し、1945年には日本、ドイツ、タイの3か国だけになり、結局のところ日本とドイツが国際社会全体と戦う形になった。
第一次大戦の場合、戦争の原因はドイツ側、英仏側の双方にあったが、第二次大戦では、日本には満州事変から真珠湾攻撃と国際法に反する不正な軍事力の行使があり、ドイツも1939年9月1日に突然ポーランドを侵略し、日本、ドイツともに弁明の余地のない戦いをしてしまった。東京裁判は勝者の裁きであり、不公平なこともあったが、勝者たる連合国は国際社会のほとんど全ての国だった。その意味では、東京裁判は国際社会による裁きでもあった。ドイツもニュルンベルク裁判で裁かれたが、最高指導者ヒットラーは自殺していたので他の24名の主要戦犯が裁かれている。