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大化改新(乙巳の変)、意外な事実、天智天皇と天武天皇

2012年05月23日 | 歴史メモ
 645年乙巳の変(大化改新)これは、中大兄皇子、中臣鎌足等が、蘇我入鹿とその父である蘇我蝦夷を殺害し、政権を奪取した事件だ。当時、蘇我氏は日本で最大最強の豪族であり、日本を朝鮮系皇族支配から脱却させ、仏教を国教とする国造りをしていた。これに対し、2つの大きな反動勢力があった。一つは朝鮮系皇族、特に百済系・高句麗皇族、2つ目は八百万の神を信奉する勢力。前者の代表が中大兄皇子、後者の代表が中臣鎌足だった。最近の研究では、律令制度の根幹である「改新の詔」は、乙巳の変の翌年646年に作られたものではなく、後世に作られたものらしい。新政権の目玉としての要路・津港の改修、戸籍の作成などは行われたようだ。また、百済を経由して多くの実用品が日本に紹介された。天智天皇が35才の時、導入された水時計は、官僚の管理上、重要な道具にはなったが、政治形態まで中国式になってはいない。

 乙巳の変から6年後の651年に、日本への新羅使が中国風の服を着用していたのに対して中大兄皇子は不快感を持っていた。唐と新羅は軍事的同盟関係にあった。乙巳の変からは、蘇我氏の仏教国家作り路線から、八百万神派・百済派・高句麗派へと方向転換した。唐と新羅の軍事同盟を成立させた金春秋(後の新羅の太宗武烈王)が647年に金多遂とともに日本を訪れている。
 日本書紀には「人質として金春秋が日本に来た」とあるが、金春秋は何らかの意図を持って日本に来たはずである。前年、高向玄理が新羅に訪問しているので、唐・新羅・日本の三国軍事同盟の成立を目指して日本政府と交渉したのであろう。舒明天皇は新羅から派遣された天皇であるが、百済系の皇極天皇後の後任は、再度、新羅から出すべきだと金春秋は主張した。金春秋は、日本滞在9ヶ月で帰国するが、金多遂が帰国したという記録はない。後の天武天皇は金多遂だという説もある。

 蘇我氏は、蘇我蝦夷の代から日本の王を百済、新羅の王族から選出した。百済、新羅との関係を良好に保つためである。蘇我氏自身は、王族ではないので日本の王とはなれない。推古天皇が崩御して以来、本当の意味での倭国王はいない。欽明王朝の血筋は、聖徳太子の息子である山背大兄皇子が最後だ。蘇我入鹿が山背大兄皇子を殺害した時、日本書紀によれば、蘇我蝦夷は、蘇我入鹿の行為を嘆くとともに山背大兄皇子の死を悼んだ。日本に王族の血が絶えたため、今後の国家経営が難しくなることを嘆いたのであった。そこで、舒明天皇(新羅王族:在位628-641年)、皇極天皇(百済王族:在位641-645年)と、新羅、百済の王族を迎えた。欽明王朝(欽明、敏達、用明、崇峻、推古)が朝鮮の金官国の王族であることを思えば、新羅王族や百済王族の人が蘇我氏の傀儡ではあっても、当時の豪族達が受け入れられない話ではなかった。

 乙巳の変は、金春秋が643年に新羅で起こしたクーデターの方法と酷似している。当時、新羅内の勢力は、中国との連合派と非連合派とで対決していたが、皇太子であった金春秋が率いる連合派が王の座前で反対派の頭目を殺害している。2年後に全く同じ方法で、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害したのだ。中大兄皇子と鎌足は、「蹴鞠」の席で出会ったとされているが、金春秋も味方の頭目との出会いが、「蹴鞠」の席と言うことで似ている。金春秋のやり方を中臣鎌足が知り、同じ方法で蘇我氏討伐を計画したものと思われる。

 蘇我氏討伐後は政府の実権を孝徳天皇と中大兄皇子が握った。孝徳天皇の目的は、出身国である高句麗を唐から救済することであり、また、中大兄皇子の課題は百済を新羅から救済することであった。当時、高句麗や百済は、唐・新羅の連合軍にいつ攻められるか知れない状況にあった。高句麗は644年以降3回も唐と交戦しており、日本国内の軍国化そして高句麗への救援が急務だった。蘇我氏のように仏教国家などという悠長なことは言っていられなかったのである。そのため、公地公民制や道路港湾の整備、駅伝制の設置、兵や軍需物資の調達のための戸籍や里・五保制の設置などが実施されている。
 645年から壬申の乱が終了する672年までは、日本が急速に軍事国家に変身した時期だ。乙巳の変の目的は、蘇我氏の進めていた全方位外交や理想主義路線を打破し、積極的に高句麗・百済を救援することにあった。
 一方、孝徳天皇や中大兄皇子を中心とする日本の多くの豪族は、百済・高句麗と共に唐・新羅との交戦路線を進めようとしていた。高句麗は、先の隋帝国のときにも隋の遠征軍を3回追い返したが、唐の時代になっても、乙巳の変の前年である644年に唐の太宗自ら遠征軍を率いて高句麗に押し寄せたが高句麗は追い返している。日本から見ると高句麗は軍事的強国に見えた。当時の高句麗の領土は、今の北朝鮮と中国の吉林省東部の延辺自治州を合わせた領域であった。9世紀に起きる「渤海国」は、高句麗を作った民族と同じだが王朝は違う。高句麗人は高句麗国といわず高麗国(「句」の字は辺境民族差別語)と呼んだ。日本書紀では、乙巳の変の推進者として、中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂などを挙げるが、乙巳の変後、天皇になる中大兄皇子の弟と言われている大海人皇子については記述していない。

 乙巳の変により、唐・新羅連合軍に対し、高句麗・百済・日本の連合軍ができた。日本は、孝徳天皇(高句麗出身)、中大兄皇子(百済出身)の二頭政治となったが、月日が経つにつれて、孝徳天皇と中大兄皇子が不仲になる。孝徳天皇の妃は、中大兄皇子の同母の妹の間人皇女であったが、この妹と中大兄皇子は不倫関係にあったとも言われる。この関係は公然の秘密であったが、同母兄・妹の恋愛関係であり、周囲から非難の的になった。
 654年、中大兄皇子一派は孝徳天皇に見切りをつけ、難波宮を出て飛鳥に戻る。これが中大兄皇子の2度目のクーデターである。乙巳の変と違って無血クーデターだ。中大兄皇子としては、乙巳の変と違い、高句麗を代表する孝徳天皇を殺すことはできなかった。難波宮に取り残された孝徳天皇は翌655年病死する(暗殺か)。

 中大兄皇子は、百済の皇族である母を再度天皇にすることで高句麗との関係や百済との関係を維持した。3年後の658年さらに悲劇が起きる。孝徳天皇の子に有馬皇子がいたが、中大兄皇子は有馬皇子に帝位を奪われると考え、有馬皇子を無実の罪(反逆罪)で捕らえ処刑してしまう。日本書紀によれば中大兄皇子の忠臣、蘇我赤兄が有馬皇子に中大兄皇子の悪行を述べ、共に中大兄皇子を打つよう薦めたとある。18才の有馬皇子は、最初は気違いの真似をして蘇我赤兄を警戒したが、ついに蘇我赤兄に同意する。その夜、中大兄皇子の追っ手が掛かり、有馬皇子は捕らえられる。その時、斉明天皇は南紀の牟呂温泉にいて、有馬皇子は牟呂まで連れて行かれ、裁きを受けたが結果は死刑となった。これは中大兄皇子の陰謀であった。後年、蘇我赤兄は左大臣にまで昇進する。高句麗や百済の意向によっては、有馬皇子が天皇になる状況だった。
 その翌年、659年、ついに唐・新羅の連合軍は百済を攻撃し、百済は翌年の660年、唐の大軍に破れる。これにより百済王は死ぬ。残った百済の将軍達は九州に住んでいた百済王の子・余豊璋を百済の王に迎え、再度新羅との決戦に臨む。日本は、662年、阿倍野比羅夫を将軍として百済に援軍を出す。日本書紀によれば、この時、斉明天皇が余豊璋を百済王に任命していることが記録されている。余豊璋と中大兄皇子が同一人物とするなら、この不可思議な任命式も問題にはならない。百済出身の斉明天皇が、空位となった百済王に我が子を据えただけのことだ。日本書紀では、この時期、余豊璋が百済王になり、中大兄皇子が天皇になったと記している。斉明天皇は九州にあって病気となり明日をも知れない命であった。百済の将軍達や日本側も、このような百済王の任命を何の違和感もなく認めている。斉明天皇と余豊璋の関係が、斉明天皇と中大兄皇子の関係と同じであり、余豊璋と中大兄皇子は同一人物であったと考えられる。

「中大兄皇子」という呼び名は不思議だ。王子の名は、母方の出身地の名か、母方の姓をもらってつけるのが普通だ。中大兄皇子も葛城皇子という大和葛城地方の出身らしき名は持っているが、彼だけが中大兄皇子という「次男坊皇子」という意味の名で呼ばれている。中大兄皇子を、特定の名で呼ぶことができない理由があった。葛城皇子と呼んだら嘘になってしまう。余豊璋が百済に入り、新羅と戦いをするが、戦局はうまくゆかず、日本の豪族に援軍を頼む。日本側は、2万5,000人の軍隊を送るが、この軍隊が朝鮮に着いたとき、すでに余豊璋の百済軍は破れていた。援軍は、663年、白村江で唐・新羅連合軍と戦うが敗戦となり、多くの日本軍が新羅の捕虜となる。余豊璋は高句麗に逃げたと日本書紀や朝鮮の三国史記には書いてあるが、九州で育った余豊璋は九州に帰るのが自然であり、これは疑わしい。つまり、余豊璋こと中大兄皇子は大和に帰ったが、その立場は非常に弱いものになる。663年、百済の国は完全に滅ぶ。667年、天智天皇は、妃の実家である大友氏を頼って、琵琶湖畔の大津に都(近江京)を移し、唐・新羅の日本進出に備える日々となる。日本書紀ではこの頃から大海人皇子が登場する。なぜかこの大海人皇子は出生、年齢が不明で、乙巳の変や朝鮮出兵の時に名前すら出ていなかった皇子だ。日本書紀は、720年持統上皇の統治時代に完成した歴史書だ。発案は天武天皇。日本書紀には、神武天皇から持統天皇まで41代の天皇が記述されているが、年齢が記されてないのは天武天皇(大海人皇子)だけ、それ以外の天皇は年齢が書かれている。つまり、日本書紀の作者は、何らかの理由で故意に天武天皇の年齢を隠している。多くの歴史家は、天武天皇は、天智天皇の弟どころか、全く血縁関係のない人と見ている。日本書紀では無理に天武天皇を天智天皇の弟と設定したため、もともと年上であった天武天皇の年齢が書けなかったと見られる。大海人皇子は、戦勝国の新羅から戦後処理のため、日本に派遣された新羅の人なのだ。大海人皇子が新羅の皇子であれば日本で天皇になることができるが、皇子でなければ天皇にはなれない。天武天皇は、日本書紀30巻の内2巻を使って天武天皇が正当な天皇の継承者であることを累々と述べている。

 百済滅亡後、朝鮮半島は唐と新羅の覇権争いがおこるが、日本においては新羅系と中国系が勢力をもつようになり、百済系の天智天皇は不安定であった。唐・新羅連合軍は百済を滅ぼしてから5年後の668年、高句麗を攻め滅ぼした。朝鮮半島では唐と新羅の指導権争いが起きてきた。新羅は、旧百済、旧高句麗の武将を駆り立て、唐を朝鮮半島から追い出そうと画策した。天智天皇は政権を「近江京」で維持していたが、唐から新羅征伐に参加するように再三催促される。中大兄皇子にとって新羅は、祖国百済を滅ぼした敵国ではあったが、新羅出身の大海人皇子が勢力をもっていた時期であり、天智天皇一人ではどうにもならない。671年、太宰府に唐の使節・郭務宗が、3000人の軍隊とやってきた。天智天皇としても、唐に付くか新羅に付くか最終的な決断をしなければならない。その決断とは唐と共に新羅と戦うことであるが、新羅派の大海人皇子は新羅擁護のため、天智天皇と戦わなければならない。大海人皇子側の作戦は天智天皇が唐に返事をする前に天智天皇を暗殺することにあった。唐の使節が来て1ヶ月後(671年11月か12月)京都の山科で天智天皇を殺害したことが「扶桑略記」に三井寺(園城寺)の伝承として伝えられている。天智天皇の息子・大友皇子は、直ちに即位して天智天皇の政策を継承したが、父の天智天皇を殺害した大海人皇子を放置しておくわけにはいかない。大海人皇子としても目的は天智天皇の殺害でなく朝鮮出兵の阻止であるから、大友皇子が天智天皇の政策を継承する限り、戦いはさけられない。壬申の乱となる。扶桑略記によれば、天智天皇は、ある日、山科に馬で出かけた。ところが、いつまで経っても帰りがなかったので、山科一帯を探したところ、天智天皇の靴のみが落ちていた。靴が落ちていたところに墓を作ったが、この墓は今でも、東海道線「やましな」駅の近くにある。天智天皇は拉致されて殺害されたと見られる。京都近くの宇治市小倉町天王に今はないが、江戸時代まで、「天智天皇」と書かれた石碑が建っていた。寺の言い伝えでは、天智天皇が運ばれて埋葬されたという。地名である「天王」と言う名も、「天智天皇」の石碑から来たとされる。この宇治市小倉町天王の地は、天智天皇が殺害された頃は山科とは「やましな川」で結ばれていた。当時は小舟一つで拉致した天智天皇を宇治市小倉町天王まで運ぶことができた。日本書紀による天智天皇の最後は、枕元に大海人皇子を呼び、事後を託したと記されているが、大海人皇子は身の危険を感じ、次期天皇に天智天皇の息子である大友皇子を推薦し、自身は吉野に僧として隠遁生活をしたことになっている。大友皇子が、大海人皇子討伐軍を編成しているのを知った大海人皇子は、吉野で兵を募り吉野から三重県側に出て関ヶ原に進み、地方豪族の兵達と合流して近江京を攻めたとされる。大海人皇子(天武天皇)は天智天皇の禅譲を辞退し、大友皇子が戦を仕掛けてきたので、やむをえず挙兵したという話を日本書記に書かせている。

 天智天皇亡き後、大友皇子は天皇になるが、日本書紀では、大友皇子は天皇になっていないことにしている。大海人皇子が天皇と戦禍を交えるのを避けるため、大友皇子を皇子のまま壬申の乱に登場させている。明治になってから、大友皇子は、「弘文天皇」とされ、39代天皇として認められている。壬申の乱は1カ月ほどで終わるが、結末は東国、美濃、大和地方の豪族から多くの支持を得た大海人皇子の勝利となり、大友皇子派は大友皇子の自害とともに解体。日本の実力者となった大海人皇子は、天武天皇となり、親新羅政策を柱として政権を発足。しかし、問題はすぐに内外から起こった。大海人皇子の前身が、どのようなものであったかは現在でもよくわかっていないが、新羅の軍人と見られ、当時の人からみれば天皇位につけるような身分ではなかった。674年には、唐と新羅の全面戦争になる。唐と新羅との全面戦争は2年間続くが、676年、新羅は朝鮮半島から唐を追い出し「統一新羅国」を作りあげる。唐にとって、日本の重要性が一段と増す。新羅を攻めたい唐は再度日本への圧力を加える。唐の政策は、朝鮮侵攻を第1と考え、大和政権とは手を握るという政策だった。これも新羅が滅びるまでのことで、新羅滅亡後は日本が侵略される番になる。日本が大きく唐風の制度に傾く。律令制度を本格的に導入することにより、天武天皇政権が親唐政権であることを示す。反唐、親新羅勢力として誕生した天武政権であるが、唐の軍事力のもとに心ならずも唐に協力する形で生きなければならなかった。反唐一辺倒であった新羅は外交的手段で解決しようと動き始める。唐に対しては臣下の礼をとり、日本に対しては、任那からの使者を復活させる。唐、新羅、天武王朝の関係は安定を見るが、日本はその後長く防人制度が存続し、多くの農民が過大の負担を負うことになる。

 天武天皇は、天智天皇の娘4人、藤原鎌足の娘2人を妃としている。持統女帝はその内の一人であるが、本当の兄弟なら、これほど兄である天智天皇が弟である天武天皇に気を遣うはずがない。天智天皇と命運を共にした藤原鎌足も2人の娘を妃に出している。戦勝国である新羅の代表の大海人皇子に対し、人質を出したと見られる。日本書紀に記されていることとして、天皇家の象徴である「草薙の剣」の御霊が、天武天皇に祟る。天武天皇が正当な天皇の後継者ではないことを示す話とも取れる。「草薙の剣」は、熱田神宮に奉納される事になる。天武天皇の正統性を擁護するために書かれた日本書紀なら「草薙の剣」の話は削除すべき内容だが、天武天皇の不当性を伺わせるような内容が日本書紀に出てくる。また、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)にある位牌。泉涌寺は桓武天皇が作った天皇家の菩提寺だが、桓武天皇は天智天皇から6代下がった血筋の天皇。天武王朝(天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、(称徳))8人の位牌はない。泉涌寺には、天智、光仁、桓武・・・と天皇の位牌は奉られている。このことは、天武王朝は、天智天皇の後胤を主張する桓武王朝とは関係ないことを示している。持統天皇は天智天皇の娘であるから、その子孫である文武天皇、聖武天皇、称徳天皇などが、桓武天皇と血のつながりがないということはない。父系としては血のつながりがない。朝鮮の新羅・高句麗・百済の三国時代は、4世紀から7世紀までの300年間。この300年の大半は、戦乱状態。この時期は、日本では、邪馬台国などの部族国家が成立した頃から律令制度が定着した時期。日本の領土は、この間、大半が朝鮮三国の領土と化したと思われる。そうした中、物部氏、蘇我氏、中臣氏などのようにルーツは朝鮮かも知れないが、日本の豪族として確実に倭人国家を形成していったものが現れた。日本の王や天皇は、朝鮮の皇族によって占められ、674年、朝鮮が新羅によって統一された頃、日本では天武天皇以降、ようやく倭人としての天皇が誕生した。



2 コメント

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古代の権力闘争はすごいね。 (T.K)
2012-05-23 14:15:32
天武天皇や天智天皇、教科書では教えていない本当の歴史事実を知ると、すさまじい権力闘争の果てに天皇家は存続してきたんだね。
これほど朝鮮との関係が深い天皇家だったとは驚きです。
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Unknown (かさぶた)
2016-09-19 18:31:35
日本書紀を読んでも壬申の乱の意味が分からず、天武天皇と天智天皇の出自もあやしく感じ、悶々としてきましたが、この記事を読んでスッキリしました。孝徳天皇が高麗出身という点でもスッキリできました。ありがとうございます。
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