ロシアの始まりを振り返ってみると、ロシア人はモンゴル帝国以来、キプチャク=ハン国の支配下にあった。キプチャク=ハン国が衰えると、1480年にモスクワ大公国が独立する。これが、現在のロシアの始まりになる。この時のモスクワ大公国の支配者がイヴァン3世(位1462~1505)。この人は、ビザンツ帝国、つまり東ローマ帝国の最後の皇帝の姪と結婚していた。その関係で1453年にビザンツ帝国が滅びると、イヴァン3世は「ツァーリ」という称号を使いはじめる。ツァーリというのはカエサルのロシア訛りになる。この称号を使うということは、ビザンツ帝国のあとを引き継ぐという象徴的な意味あいがある。ツァーリを日本語に訳すときは皇帝と訳す。モスクワ大公国をさらに発展させたのがイヴァン4世(位1533~84)。イヴァン雷帝ともいわれる。この人は、大貴族を抑圧し、中央集権化を進める。また、農奴制を強化。ツァーリを正式な称号として採用。激情型の性格でユニークなキャラクターだ。ロシアでは非常に有名な王で、小説や映画の題材に取り上げられる。有名なのが資料集に載っている絵のエピソードだが、ある時、イヴァン雷帝は長男の嫁を身なりがだらしないといって殴る。長男が怒る。長男と言い争いになった雷帝は、カッとなって持っていた杖で長男の頭を打つ。長男の頭がパックリ割れて倒れ、殺してしまった。我にかえった雷帝が息子を抱きかかえて泣き叫んでいる、そのシーンを描いたものだ。この短気で凶暴な性格で、自分に逆らう大貴族たちの領地を取り上げて中央集権化をすすめていった。
貴族たちの反発も大きかったようで、イヴァン雷帝は六回結婚しているが、妃のうち五人は大貴族に毒殺された。六人目の奥さんを捜していて、イギリスのエリザベス一世の姪が候補にのぼり、婚約までいったが、彼女の方が、あんな野蛮な国に嫁に行きたくないと破談になってしまった。イギリスから見て、ロシア、モスクワ大公国がどんなに野蛮で辺境の土地だったか。まだまだモンゴル系の勢力も強くて、イヴァン雷帝は、モンゴル王家の血を引く貴族からツァーリの称号を譲られるという形式をとって即位した。ロシアがアジアかヨーロッパかもはっきりしない時代、19世紀末のロシアの文豪トルストイの『戦争と平和』、ナポレオン戦争を題材にしているが、その中で、ナポレオン軍がロシアに攻め込む。モスクワの街並みを目前にして、ナポレオンが「アジアの都だ」というシーンがある。モスクワはフランス人からすればアジアと、トルストイが考えていたというのは興味深い。イヴァン4世のやったことで、シベリア進出がある。コサック隊長のイェルマークという人物にシビル=ハン国遠征をさせた。シビル=ハン国というのはウラル山脈の東にあったモンゴル系の遊牧国家。シベリア方面へ進出するきっかけを作っている。シビル=ハンはシベリアという地名の語源だ。また、コサックというのは南ロシア・ウクライナの辺境地帯に住んでいた人たちで、逃亡してきたロシア人の農奴が中心になってできた集団だ。どこの国の領土でもない平原地帯で誰にも支配されずに共同体を作っていた。住んでいるところによって、ドン・コサックとかウラル・コサックとか、いろいろある。男たちは、はじめは略奪などで生計を立てていた。騎馬兵として優秀。ロシアはコサックたちに自治を認めるかわりに彼らを騎馬兵として利用した。20世紀の日露戦争でも騎馬軍団として登場している。
イヴァン4世の死後、ロシアは大混乱する。王家の血筋が絶え、偽皇帝が出現したり、農民反乱、ポーランド軍やスウェーデン軍の侵入などがあった。こういう混乱のなか1613年に、貴族たちの会議でミハイル=ロマノフが皇帝に選ばれ、ロマノフ朝が始まる。その後も政治は安定せず、1667年から71年まではステンカ=ラージンの乱という大農民反乱が起きる。ロマノフ朝ロシア発展の基礎を築いたのがピョートル1世(位1682~1725)だ。彼の時代から正式にロシア帝国という国名になる。ピョートル1世は、なんとかロシアをヨーロッパ風の国に仕立てあげて、近代化したいと考えた。イギリスはすでに名誉革命で絶対主義が終わっており、フランスはルイ14世が絶対主義の絶頂期。ロシアは、絶対主義以前の状態で、文化的にも非常に遅れている。ピョートルが貴族たちにエチケットについて注文を付けている。人前でつばをはかないこと 音を立てて鼻をかまないこと 指で鼻くそをほじくらないこと 食後に手で口をぬぐわないこと ナイフで歯の掃除をしないこと 食事中に豚のように口をならさないこと これが、ロシア貴族に対する皇帝の要望だった。だが、ピョートル1世もそんなに礼儀正しい方ではなかった。大酒のみでどんちゃん騒ぎが大好き。お気に入りの酒飲み仲間を、陸軍大臣や公爵にしたり、おちゃらけで「酔っぱらい省」という役所を作って、酔っぱらい大臣を任命して、暇があればみんなで酔っぱらい会議を開いたという。正式なパーティの時に将棋に熱中して、貴族や貴婦人たちをほったらかしにすることもあった。情熱的で、思いこんだら突っ走るところもあった。
ピョートル1世は、ヨーロッパ風の国造りのため、ヨーロッパ諸国の研究をしなければいけないと考え、1697年、総勢250名の大使節団をヨーロッパ諸国に派遣。ヨーロッパの文物、制度を輸入しようという。じっとしていられない性格のピョートル1世は、随行員ピョートル=ミハイロフという変名を使い、身分を隠して使節団に加わる。お忍び旅行。各国を視察してまわるが、オランダでピョートル1世は造船所がすっかり気に入る。一職工として就職してしまう。身分を隠して働きはじめるが、ばれる。あの、背の高い男はロシアの皇帝らしいぜと噂が広まり、見物人が増えて仕事にならなくなり、やめてしまうが、船造りがすっかり好きになる。ピョートルはものすごい大男、2メートル13センチ。イギリス滞在を終わったときには、宿舎の家主から莫大な損害賠償を要求されたという。毎晩のどんちゃん騒ぎの宴会で家の中が滅茶苦茶に壊されていた。いかにもピョートル1世らしい。17世紀の終わりから18世紀のはじめにかけて、西ヨーロッパの先進国がとっていた経済政策は重商主義。オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立して、アジア貿易にどんどんのりだしている。
ピョートル1世も、ロシアのとるべき進路は重商主義と考えた。海外貿易を活発化しなければならない。ところが、当時のロシアは今と違って、内陸国。港はあるがアルハンゲリスクという、ほとんど北極圏にある北の港。スカンディナヴィア半島の北側をクルッとまわらないと到達できない辺境の地。しかも一年の大半は凍っている。もっとよい港が欲しい。当時バルト海沿岸を領有していたのはスウェーデン。そこで、良港を得るためにピョートル1世はスウェーデンと戦争をする。これが、北方戦争(1700~21)。この戦争に勝利し獲得した小さな漁村に建設したのがペテルスブルク。湿地帯で都市建設には不向きな場所だったが、10年間で4万人の農奴と5千人の職人を動員して港と都市を建設。ここを新首都として貴族を強制的に移住させた。ピョートル1世はペテルスブルクの宮殿では半日政務を執った後は、造船所に出かけて船を造っていた。ただの船マニアではなくて、趣味と重商主義政策を兼ねていた。かれのあだ名は「ハンマーをふるう帝王」。ピョートル1世の時代のロシアは東にも領土を広げて中国北方まで到達している。中国は清朝の絶頂期。その清との間で国境線の確定をおこなっている。これがネルチンスク条約(1689)。この条約はロシアと清朝が対等。この時点では、アジアの国もヨーロッパに劣らず繁栄している。ところで、この条約を結ぶ時に何語で書類を作成したか。ロシア語と中国語、接点はない。実は条約の原本はラテン語で書かれている。清朝宮廷にイエズス会の宣教師が仕えていたが、交渉で活躍した。
ピョートル1世の死後は短命な皇帝がつづき、ロシアの政治は少々混乱する。プロイセンとオーストリアの七年戦争に参加したのもこの時期。七年戦争の時の皇帝はピョートル1世の娘のエリザベータ。彼女が死んで、甥のピョートル3世が即位。フリードリヒ2世の崇拝者で、七年戦争から撤退した。ピョートル3世のフリードリヒ2世に対する崇拝ぶりは徹底していて、肖像画にひざまづいたり、胸像に接吻したりする。近衛隊の兵士たちにすれば、自分の仕えている皇帝が敵国の王にひざまずくなんて屈辱的だ。ピョートル3世はそういう兵士たちの心理がわからない。かれは少々知能が低かったとも言われている。近衛隊に徹底的に嫌われ、ついには殺されてしまう。近衛隊は、かわりにピョートル3世の妻を皇帝にした。これが、ピョートル1世と並び称されるエカチェリーナ2世(位1762~96)である。エカチェリーナ2世は、ピョートル1世の政策を引き継いだ。また、当時東ヨーロッパで流行していた啓蒙専制君主でもある。
エカチェリーナ2世はドイツ人だ。ピョートル3世はお妃を求めて、ドイツでめぼしいお姫様を探すが、ロシアは辺境の野蛮国、おまけにピョートル3世は少々頭が弱い。となれば、王家や一流貴族の令嬢は行きたがらない。ドイツ貴族の中では一流でもないエカチェリーナが嫁ぐことになった。教養ある賢い人だった。ロシアに嫁いでからは夫や宮廷の人々ともうまくつきあって、親衛隊からも人気が高かった。夫の死後、皇帝に擁立される。ドイツ出身の彼女が啓蒙専制君主になる。ロシアの社会を見て、遅れているなと感じるところがたくさんあった。彼女が残している「訓示」というのがある。君主は絶対である…。君主政治の真の目的は…人民からその自然の自由を奪うことではなく最高善に達するため、彼らの行為を正すことである。一つ目は、絶対主義。二つ目は啓蒙主義。啓蒙専制君主の典型だ。彼女の言っていることは立派だが、1773年にプガチョフの乱という大規模な農民反乱があって、これを鎮圧したあと、農奴制は強化された。当時のロシアの新聞に農奴の売り出し広告が載っている。一応、農奴というのは移動と職業選択の自由はないが、売買はされない身分のはずであるが、これでは奴隷と変わらない。1789年にはフランスで革命がおきる。そういう時代状況のなかで、彼女の政治は、ますます反動的になる。領土は拡大する。プロイセン、オーストリアと共同でポーランドの領土を分けあう。ポーランド分割だ。その結果、1793年にポーランドは滅亡。もう一つが南方への発展で、オスマン帝国からクリミア半島を奪う。クリミア半島は、黒海に面した半島、ここから地中海へ抜けて、大西洋にでることができる重要な場所だった。東アジアにも関心を持ち、1792年には日本にラクスマンを使節として派遣している。これには日本人の商人大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)も大きく関わっていた。
大黒屋光太夫は現在の三重県伊勢の商人。米や木綿を積んで伊勢から江戸に向かう途中で難破する。アリューシャン列島のアムチトカという島に漂着したのが1783年。一行は17人。そこに来ていたロシア人の毛皮商人に助けられて、ロシアに渡る。光太夫たちは日本に帰りたいが、日本は鎖国中。仕方ないので、かれらはロシア人商人に連れられて、ロシア本土に渡る。1789年にはイルクーツクに来たが、そのときには光太夫の一行は5人に減っている。厳しい環境や病気で死んでいく。イルクーツクで光太夫は学者で企業経営をしているラクスマンというロシア人と知り合い、そのつてで1791年、皇帝エカチェリーナ2世に謁見する。ペテルブルクまで行っている。当時の日本人としてはけた外れの大旅行。光太夫がエカチェリーナ2世に謁見した目的はただ一つ、日本に帰りたいと訴えた。エカチェリーナ2世も、日本貿易に関心があったので、漂着民大黒屋光太夫を日本に送り届けるという名目で、日本に使節を送った。使節に選ばれたのが光太夫たちの面倒をみたラクスマンの息子。5人になっていた日本人のうち二人はロシアに残ることを選ぶ。ロシア人と結婚したりして、生活基盤ができてしまった人たち。結局、光太夫を含めて三人が日本に向かうが、そのうち一人は根室で死んでいる。1792年、ロシア使節ラクスマンは北海道根室に着く。幕府は、漂着民は受け取るが、外交交渉は長崎でしかおこなわないとしてラクスマンに長崎への入港許可書を与えて追い返す。日本との貿易交渉は事実上失敗。日本側に引き渡された光太夫たちは北海道から江戸に護送される。鎖国の日本から外国へ行っただけで罪人扱い。江戸では幕府の役人から取り調べを受ける。光太夫は貴重な海外の情報をたくさん持っている。ロシア皇帝と会っている、ロシアの上流階級と幅広い付き合いもあって、ヨーロッパの制度や思想もそれなりに理解している。こういう人物を、大事にすれば日本にとって、ものすごいプラスだったと思うが、幕府にはそういう発想はなかった。幕府から見れば、光太夫は、世界を知ってしまった危険な人物。一般庶民と混じわらせることはできない。せっかく帰ってきたのに、光太夫は江戸に家を与えられ死ぬまで軟禁生活を送った。鎖国政策の被害者だ。日本に帰ってきた漂流民が、海外知識を利用して活躍するのは幕末のジョン万次郎以後になる。
貴族たちの反発も大きかったようで、イヴァン雷帝は六回結婚しているが、妃のうち五人は大貴族に毒殺された。六人目の奥さんを捜していて、イギリスのエリザベス一世の姪が候補にのぼり、婚約までいったが、彼女の方が、あんな野蛮な国に嫁に行きたくないと破談になってしまった。イギリスから見て、ロシア、モスクワ大公国がどんなに野蛮で辺境の土地だったか。まだまだモンゴル系の勢力も強くて、イヴァン雷帝は、モンゴル王家の血を引く貴族からツァーリの称号を譲られるという形式をとって即位した。ロシアがアジアかヨーロッパかもはっきりしない時代、19世紀末のロシアの文豪トルストイの『戦争と平和』、ナポレオン戦争を題材にしているが、その中で、ナポレオン軍がロシアに攻め込む。モスクワの街並みを目前にして、ナポレオンが「アジアの都だ」というシーンがある。モスクワはフランス人からすればアジアと、トルストイが考えていたというのは興味深い。イヴァン4世のやったことで、シベリア進出がある。コサック隊長のイェルマークという人物にシビル=ハン国遠征をさせた。シビル=ハン国というのはウラル山脈の東にあったモンゴル系の遊牧国家。シベリア方面へ進出するきっかけを作っている。シビル=ハンはシベリアという地名の語源だ。また、コサックというのは南ロシア・ウクライナの辺境地帯に住んでいた人たちで、逃亡してきたロシア人の農奴が中心になってできた集団だ。どこの国の領土でもない平原地帯で誰にも支配されずに共同体を作っていた。住んでいるところによって、ドン・コサックとかウラル・コサックとか、いろいろある。男たちは、はじめは略奪などで生計を立てていた。騎馬兵として優秀。ロシアはコサックたちに自治を認めるかわりに彼らを騎馬兵として利用した。20世紀の日露戦争でも騎馬軍団として登場している。
イヴァン4世の死後、ロシアは大混乱する。王家の血筋が絶え、偽皇帝が出現したり、農民反乱、ポーランド軍やスウェーデン軍の侵入などがあった。こういう混乱のなか1613年に、貴族たちの会議でミハイル=ロマノフが皇帝に選ばれ、ロマノフ朝が始まる。その後も政治は安定せず、1667年から71年まではステンカ=ラージンの乱という大農民反乱が起きる。ロマノフ朝ロシア発展の基礎を築いたのがピョートル1世(位1682~1725)だ。彼の時代から正式にロシア帝国という国名になる。ピョートル1世は、なんとかロシアをヨーロッパ風の国に仕立てあげて、近代化したいと考えた。イギリスはすでに名誉革命で絶対主義が終わっており、フランスはルイ14世が絶対主義の絶頂期。ロシアは、絶対主義以前の状態で、文化的にも非常に遅れている。ピョートルが貴族たちにエチケットについて注文を付けている。人前でつばをはかないこと 音を立てて鼻をかまないこと 指で鼻くそをほじくらないこと 食後に手で口をぬぐわないこと ナイフで歯の掃除をしないこと 食事中に豚のように口をならさないこと これが、ロシア貴族に対する皇帝の要望だった。だが、ピョートル1世もそんなに礼儀正しい方ではなかった。大酒のみでどんちゃん騒ぎが大好き。お気に入りの酒飲み仲間を、陸軍大臣や公爵にしたり、おちゃらけで「酔っぱらい省」という役所を作って、酔っぱらい大臣を任命して、暇があればみんなで酔っぱらい会議を開いたという。正式なパーティの時に将棋に熱中して、貴族や貴婦人たちをほったらかしにすることもあった。情熱的で、思いこんだら突っ走るところもあった。
ピョートル1世は、ヨーロッパ風の国造りのため、ヨーロッパ諸国の研究をしなければいけないと考え、1697年、総勢250名の大使節団をヨーロッパ諸国に派遣。ヨーロッパの文物、制度を輸入しようという。じっとしていられない性格のピョートル1世は、随行員ピョートル=ミハイロフという変名を使い、身分を隠して使節団に加わる。お忍び旅行。各国を視察してまわるが、オランダでピョートル1世は造船所がすっかり気に入る。一職工として就職してしまう。身分を隠して働きはじめるが、ばれる。あの、背の高い男はロシアの皇帝らしいぜと噂が広まり、見物人が増えて仕事にならなくなり、やめてしまうが、船造りがすっかり好きになる。ピョートルはものすごい大男、2メートル13センチ。イギリス滞在を終わったときには、宿舎の家主から莫大な損害賠償を要求されたという。毎晩のどんちゃん騒ぎの宴会で家の中が滅茶苦茶に壊されていた。いかにもピョートル1世らしい。17世紀の終わりから18世紀のはじめにかけて、西ヨーロッパの先進国がとっていた経済政策は重商主義。オランダ、イギリス、フランスは、東インド会社を設立して、アジア貿易にどんどんのりだしている。
ピョートル1世も、ロシアのとるべき進路は重商主義と考えた。海外貿易を活発化しなければならない。ところが、当時のロシアは今と違って、内陸国。港はあるがアルハンゲリスクという、ほとんど北極圏にある北の港。スカンディナヴィア半島の北側をクルッとまわらないと到達できない辺境の地。しかも一年の大半は凍っている。もっとよい港が欲しい。当時バルト海沿岸を領有していたのはスウェーデン。そこで、良港を得るためにピョートル1世はスウェーデンと戦争をする。これが、北方戦争(1700~21)。この戦争に勝利し獲得した小さな漁村に建設したのがペテルスブルク。湿地帯で都市建設には不向きな場所だったが、10年間で4万人の農奴と5千人の職人を動員して港と都市を建設。ここを新首都として貴族を強制的に移住させた。ピョートル1世はペテルスブルクの宮殿では半日政務を執った後は、造船所に出かけて船を造っていた。ただの船マニアではなくて、趣味と重商主義政策を兼ねていた。かれのあだ名は「ハンマーをふるう帝王」。ピョートル1世の時代のロシアは東にも領土を広げて中国北方まで到達している。中国は清朝の絶頂期。その清との間で国境線の確定をおこなっている。これがネルチンスク条約(1689)。この条約はロシアと清朝が対等。この時点では、アジアの国もヨーロッパに劣らず繁栄している。ところで、この条約を結ぶ時に何語で書類を作成したか。ロシア語と中国語、接点はない。実は条約の原本はラテン語で書かれている。清朝宮廷にイエズス会の宣教師が仕えていたが、交渉で活躍した。
ピョートル1世の死後は短命な皇帝がつづき、ロシアの政治は少々混乱する。プロイセンとオーストリアの七年戦争に参加したのもこの時期。七年戦争の時の皇帝はピョートル1世の娘のエリザベータ。彼女が死んで、甥のピョートル3世が即位。フリードリヒ2世の崇拝者で、七年戦争から撤退した。ピョートル3世のフリードリヒ2世に対する崇拝ぶりは徹底していて、肖像画にひざまづいたり、胸像に接吻したりする。近衛隊の兵士たちにすれば、自分の仕えている皇帝が敵国の王にひざまずくなんて屈辱的だ。ピョートル3世はそういう兵士たちの心理がわからない。かれは少々知能が低かったとも言われている。近衛隊に徹底的に嫌われ、ついには殺されてしまう。近衛隊は、かわりにピョートル3世の妻を皇帝にした。これが、ピョートル1世と並び称されるエカチェリーナ2世(位1762~96)である。エカチェリーナ2世は、ピョートル1世の政策を引き継いだ。また、当時東ヨーロッパで流行していた啓蒙専制君主でもある。
エカチェリーナ2世はドイツ人だ。ピョートル3世はお妃を求めて、ドイツでめぼしいお姫様を探すが、ロシアは辺境の野蛮国、おまけにピョートル3世は少々頭が弱い。となれば、王家や一流貴族の令嬢は行きたがらない。ドイツ貴族の中では一流でもないエカチェリーナが嫁ぐことになった。教養ある賢い人だった。ロシアに嫁いでからは夫や宮廷の人々ともうまくつきあって、親衛隊からも人気が高かった。夫の死後、皇帝に擁立される。ドイツ出身の彼女が啓蒙専制君主になる。ロシアの社会を見て、遅れているなと感じるところがたくさんあった。彼女が残している「訓示」というのがある。君主は絶対である…。君主政治の真の目的は…人民からその自然の自由を奪うことではなく最高善に達するため、彼らの行為を正すことである。一つ目は、絶対主義。二つ目は啓蒙主義。啓蒙専制君主の典型だ。彼女の言っていることは立派だが、1773年にプガチョフの乱という大規模な農民反乱があって、これを鎮圧したあと、農奴制は強化された。当時のロシアの新聞に農奴の売り出し広告が載っている。一応、農奴というのは移動と職業選択の自由はないが、売買はされない身分のはずであるが、これでは奴隷と変わらない。1789年にはフランスで革命がおきる。そういう時代状況のなかで、彼女の政治は、ますます反動的になる。領土は拡大する。プロイセン、オーストリアと共同でポーランドの領土を分けあう。ポーランド分割だ。その結果、1793年にポーランドは滅亡。もう一つが南方への発展で、オスマン帝国からクリミア半島を奪う。クリミア半島は、黒海に面した半島、ここから地中海へ抜けて、大西洋にでることができる重要な場所だった。東アジアにも関心を持ち、1792年には日本にラクスマンを使節として派遣している。これには日本人の商人大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)も大きく関わっていた。
大黒屋光太夫は現在の三重県伊勢の商人。米や木綿を積んで伊勢から江戸に向かう途中で難破する。アリューシャン列島のアムチトカという島に漂着したのが1783年。一行は17人。そこに来ていたロシア人の毛皮商人に助けられて、ロシアに渡る。光太夫たちは日本に帰りたいが、日本は鎖国中。仕方ないので、かれらはロシア人商人に連れられて、ロシア本土に渡る。1789年にはイルクーツクに来たが、そのときには光太夫の一行は5人に減っている。厳しい環境や病気で死んでいく。イルクーツクで光太夫は学者で企業経営をしているラクスマンというロシア人と知り合い、そのつてで1791年、皇帝エカチェリーナ2世に謁見する。ペテルブルクまで行っている。当時の日本人としてはけた外れの大旅行。光太夫がエカチェリーナ2世に謁見した目的はただ一つ、日本に帰りたいと訴えた。エカチェリーナ2世も、日本貿易に関心があったので、漂着民大黒屋光太夫を日本に送り届けるという名目で、日本に使節を送った。使節に選ばれたのが光太夫たちの面倒をみたラクスマンの息子。5人になっていた日本人のうち二人はロシアに残ることを選ぶ。ロシア人と結婚したりして、生活基盤ができてしまった人たち。結局、光太夫を含めて三人が日本に向かうが、そのうち一人は根室で死んでいる。1792年、ロシア使節ラクスマンは北海道根室に着く。幕府は、漂着民は受け取るが、外交交渉は長崎でしかおこなわないとしてラクスマンに長崎への入港許可書を与えて追い返す。日本との貿易交渉は事実上失敗。日本側に引き渡された光太夫たちは北海道から江戸に護送される。鎖国の日本から外国へ行っただけで罪人扱い。江戸では幕府の役人から取り調べを受ける。光太夫は貴重な海外の情報をたくさん持っている。ロシア皇帝と会っている、ロシアの上流階級と幅広い付き合いもあって、ヨーロッパの制度や思想もそれなりに理解している。こういう人物を、大事にすれば日本にとって、ものすごいプラスだったと思うが、幕府にはそういう発想はなかった。幕府から見れば、光太夫は、世界を知ってしまった危険な人物。一般庶民と混じわらせることはできない。せっかく帰ってきたのに、光太夫は江戸に家を与えられ死ぬまで軟禁生活を送った。鎖国政策の被害者だ。日本に帰ってきた漂流民が、海外知識を利用して活躍するのは幕末のジョン万次郎以後になる。