藤井厳喜氏がその著「太平洋戦争の大嘘」の中で述べている。第二次大戦後、アメリカは世界の超大国となったため、大戦当時の大統領であったフランクリン・ルーズベルトを偉大な政治家とする見方が現在のアメリカでも一般的だが、ルーズベルトは大戦の終戦直前1945年4月に急死し、当時副大統領だったトルーマンが大統領を引き継ぎ、その後に、広島、長崎に原爆投下が決定されている。このルーズベルトの前の第31代フーバー大統領に注目したい。フーバーはルーズベルトより8歳年上で、終戦後も生き、1964年(昭和39年)90歳になるまで生きていた。フーバーの著作「フリーダム・ビトレイド」(Freedom Betrayed)、日本語に訳すと、「裏切られた自由」という本がある。この本は50年近くの間、出版されなかった。そこには、本当のことが書いてあり、知られるとまずいことが書いてあるので、すぐには出せなかったらしい。この本は2011年(平成23年)になってフーバー研究所から出版されている。この本はアメリカ人が一般に信じている第二次世界大戦論、いわゆるルーズベルト史観というものを真っ向から否定している。このルーズベルト史観は今もアメリカの主流といえるが、大戦は多くの戦死者を出した悲惨な戦争であり、アメリカは参戦する必要がなかったともフーバーは論じている。
ところで日米の歴史を振り返ってみると、江戸時代末期の1853年ペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀に到着し、鎖国政策をとっていた徳川幕府に開国を迫った。当時、日本近海で盛んに操業していたアメリカの捕鯨船に食糧、燃料、水などを供給する港を開くためだった。その頃のアメリカでは捕鯨が一大産業だった。当時のアメリカは人口が増大し、経済の発展とともに、膨大な量の鯨油が必要だった。ランプに使う燃料として最適だったのだ。太平洋を西へ西へと捕鯨漁場を拡大していった。日本にも伝統的な捕鯨漁業が発達しており、当時の日本近海には多数の鯨が生息していた。アメリカの捕鯨船は一度漁に出ると、船倉に樽詰めした鯨油が満杯になるまで2年も3年も帰国しないで漁を続けた。そのため、燃料の薪、食糧、水の供給基地が必要だった。鯨から脂身をとり、そこから油を作る。その過程で肉や骨は全て海に捨てるのがアメリカ式の捕鯨産業だった。ところが、19世紀半ばには石油が発見され、ランプの燃料も石油になり、捕鯨産業は廃れてゆく。
ペリーから開国の要求をされた幕府は翌年、日米和親条約を結び、下田と函館を開港し、日本の鎖国は終わりを告げた。その後の日本は各国とも同様の条約を締結、江戸幕府の土台は揺らぎ始めてゆき、一気に幕末へと向かう。日本の開国に先鞭をつけたアメリカであったが、その後、アメリカ国内では南北戦争(1861~1865)が起こる。南北戦争はアメリカ史上最大の戦争で、60万人以上が亡くなっている。後の第二次世界大戦で亡くなったアメリカ人は40万人ほどなので、アメリカ史上最大の死者を出した国内戦争だった。南北戦争の間、アメリカは外国に目を向ける余裕などなくなり、身動きが取れなかった。一方、幕末の日本は、フランスとイギリスによる奪い合いの地となり、フランスが幕府側につき、イギリスは薩長(薩摩と長州)の側についている。
それ以前、アメリカは1776年、13州の連邦国家としてイギリスに対して独立を宣言、その後、西部へ西部へと領土を拡大し、1848年にはカリフォルニアを獲得し太平洋岸まで到達する。次は海の向こうのハワイを狙っていた。当時のハワイ王国は初代国王カメハメハ大王とその子孫によって統治された独立国だった。そこへ19世紀中頃から砂糖、パイナップル事業などでアメリカが進出し、多くの土地が買いたたかれ、アメリカがハワイを支配するようになる。1893年には白人入植者がクーデターを起こし、ハワイ王国を倒して共和国とする。1898年当時の大統領マッキンリーがハワイを合衆国に編入宣言し、ハワイは合衆国の準州とされてしまう。その後は1959年に50番目の州としてハワイ州が正式に成立する。以前のハワイ王国には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つのグループが形成され、互いに対立していた。カラカウア王の時、1881年(明治14年)、王は世界一周旅行に出て、日本、アジア、ヨーロッパをまわる。ハワイへの移民促進と表敬訪問のためだった。ハワイの労働力不足への協力要請が王の狙いだった。明治維新で近代化した日本と縁組すれば、ハワイ王国の安泰につながるとも考えたようだ。カラカウア王は明治天皇にも謁見し、日本人のハワイ移民促進を要請している。また、日本とハワイを連邦化し、日本主導によるアジア共同体の創設を提案している。カラカウア王は、白人の外来勢力の拡大を阻止し、独立を全うしようという夢をもっていたともいわれている。そして、1985年から1994年にかけて3万人近くの日本人移民がハワイに渡っている。
1893年(明治26年)、ハワイでクーデターが起こる。アメリカ人農場主らが米艦ボストンに乗り組んでいた海兵隊150人の協力を得てハワイの王政を打倒し臨時政府を樹立しアメリカに併合を求めた。その時、日本は在留邦人保護を理由に巡洋艦「浪速」(なにわ)と「金剛」の2隻をハワイに派遣、艦長は若き東郷平八郎大佐だった。同じ有色人種の国が白人に乗っ取られ、1年後の共和国建国一周年にも東郷はアメリカから要請された祝いの礼砲を拒否し、それにならって港にいた他国の軍艦も礼砲を撃たなかったという。当時の世界の新聞は「ホノルルの港はハワイ王朝の喪に服すように静寂につつまれた」と報道している。
その後、日本は日清戦争(1894~95年)に勝利し、日露戦争(1904~05年)が起こる。当時は大英帝国とロシア帝国という二つの帝国がアジアの覇権をめぐり対決していた。日本はイギリスと同盟を結び、ロシアと戦った。日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた戦艦三笠や金剛はイギリスのヴィッカーズ社で建造されたものだった。日本の勝利はイギリスにとっても勝利であり、ロシアは敗戦のショックで対外進出もストップし、ロシア帝国は衰退期に入る。1917年にロシア革命が起きてロマノフ王朝によるロシア帝国は滅亡した。
一方、アメリカは1898年の米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの植民地だったフィリピンを獲得、そこがアメリカの東アジアにおける重要な拠点となった。アメリカの一番の狙いは当時4億人の市場といわれたチャイナ(中国)、ところが、日本は日清戦争、日露戦争に勝ち、チャイナの利権を独占している。この状況をアメリカは許せなかった。アメリカは1941年の太平洋戦争開戦前の日米交渉の過程で、シナ大陸から日本の兵隊を全て引き揚げるよう要求してきた。大勢の日本人が合法的にシナ大陸に在住していた。当時のシナ大陸は無政府状態に等しく、中華民国という名前はあったが、その政府が全土を統治していたわけではなかった。アメリカもイギリスもフランスも自国民を守るために軍隊を駐留させていた。日本は移住者も多く、それだけ多くの日本兵を駐留させていた。アメリカは満州からも日本兵を引き揚げるよう要求してきた。当時のフランクリン・ルーズベルト大統領の考えは、相手が呑めないことを言って追い詰め、戦争にしようというものであった。いわゆるハル・ノートが最後通牒だといわれている。日本が石油などの物資の供給を止められ、日本列島以外の領土を手放すように迫ってきた最後通牒であり、これは日本にとって到底受け入れられないもので、戦争は避けられない状況に追い込まれたといえよう。
1941年(昭和16年)7月にアメリカは日本に経済制裁を行う。日本ではABCD包囲網といわれているが、対日経済制裁をしていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)の各国の頭文字を並べたものだ。特にアメリカによる経済制裁は、在米資産の凍結、石油の禁輸という厳しいものだった。フーバーの本、「フリーダム・ビトレイド」(裏切られた自由)の中では、これこそ日本に対する宣戦布告なき戦争であり、アメリカを戦争へと導いていったのは他ならぬルーズベルトその人であったと書かれている。なぜ、ルーズベルトは戦争を望んだのか。1939年(昭和14年)9月、ドイツがポーランドに侵攻したところから第二次大戦は始まった。この時点では日本もアメリカも開戦していない。1940年、ヒットラーのドイツ軍がパリを占領し、フランスを降伏させる。さらに8月からはドイツ空軍がイギリス本土に空爆を開始、イギリスはドイツに本土上陸寸前まで追いつめられる。1941年6月にはドイツ軍は独ソ不可侵条約を破棄してソビエト連邦に侵攻する。その後、ドイツ軍はヨーロッパの大半と北アフリカの一部を占領し、圧倒的な優勢を保っていた。一方では、1937年12月に日本軍も中国の首都南京を陥落させ、中華民国政府は四川省の重慶への疎開を余儀なくさせられていた。イギリスのチャーチルもソ連のスターリンも、中華民国の蒋介石も、とにかくアメリカに参戦してもらいたかった。アメリカこそが世界最大の兵器生産工場を持つ世界最大の工業国でもあった。彼等は皆、アメリカのルーズベルト政権に対して参戦を働きかけてきた。
ルーズベルト大統領は当初からソ連が好きで、大統領に就任してすぐに共産主義のソ連を承認している。独裁者スターリンにも親しみを持ち、側近やブレーンにもソ連のシンパが多くいた。大恐慌の経済危機を克服するために、ニューディール政策を行ったが、これは自由主義経済を大幅に修正し、政府が積極的に経済に介入することを基調としたもので、急進的な社会改革そのものであり、社会主義こそが新しい時代のトレンドであり、アメリカも長期的には計画経済の方向に行くべきと考えていた。チャーチルとも仲が良く、日本との戦争に入る直前の1941年(昭和16年)8月に大西洋憲章を調印するが、その時点でアメリカの参戦について話し合っていた。
1941年(昭和16年)7月末に日本軍が南部仏印に進駐、サイゴンに入城したことへの報復として、アメリカが対日石油全面禁止の制裁強化に踏み切った。これによって日本はより窮地に立たされた。経済制裁がすでに戦争の開始であるというのは、当時の国際法上からも認められていた原則だった。後の1951年5月のアメリカ上院の軍事外交合同委員会でも、マッカーサーが、「日本の戦争は自衛戦争であった」と証言している。日本は自らの防衛のために戦争に向かわざるを得なかったというまっとうな証言だった。「日本人は工場を建設し、多くの優秀な労働力を抱えていましたが、原料を産出することができません。日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。彼等には、綿がなく、羊毛がなく、石油の産出がなく、スズが無く、ゴムが無く、おおくの資源が欠乏しています。それら全てのものはアジア海域に存在していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では、1000万から1200万人の失業者が生まれるであろうという恐怖感がありました。したがって、彼等が戦争を始めた目的は、主として、安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」とマッカーサーは証言していた。また、日本の天皇陛下は、1941年11月に駐日米国大使を通じて、行き詰まった日米交渉において3か月間の冷却期間をおいてはどうかとの提案をされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否したとも証言している。
それにしても、1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟さえなかったら、ルーズベルトは日本をいじめることができても対ドイツ戦に参戦する口実にはならなかったはずだ。日独伊三国同盟は通常の軍事同盟とは異なる性質のものだった。一般的に軍事同盟とは、安全保障のために、戦争を抑止するために、国家が相互に軍事力の援助を行うことを定めたもの、つまり通常は、戦争をやっている国とは同盟を結ばないものだ。ところが、当時、ドイツはもう1939年(昭和14年)から戦争状態に入っていた。戦争中のドイツと同盟関係に入るということは、自動的にイギリスをはじめとした国々と敵対することになる。当時、日本では、天皇の重臣から、三国同盟は非常に危ないという話が出ていた。つまり、ヒットラーは一代で終わりだろう、そのうち落ちぶれる、それと陛下を運命共同体にするのはまずいだろうという話、だが陸海軍の枢軸派に押し切られてしまった。かくして、1941年(昭和16年)12月8日、日本帝国海軍はハワイ真珠湾基地を奇襲し、太平洋戦争が始まった。日本ではそれをシナ大陸での戦闘も含めて大東亜戦争と命名した。日本軍の作戦は敵の不意をつくために、攻撃は宣戦布告と同時に行うと予定されていた。実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告がアメリカに届いたため、アメリカ側は卑怯な奇襲と受け取ることになってしまった。アメリカでは、今でも、「だまし討ち」だったといわれている。日本軍がハワイのパールハーバー(真珠湾)を襲った時、世界で初めての海底ケーブルの電話によるホットラインがルーズベルトとチャーチルの間につながった。その時、チャーチルがいった有名な言葉、「We are on the same boat」(我々は一緒の船に乗った)、これで英米は運命共同体になったというのだ。これでアメリカが参戦してくれる、これで勝てると確信したチャーチルは、その夜はぐっすり眠れたと「第二次世界大戦回顧録」に書いている。
ところで日米の歴史を振り返ってみると、江戸時代末期の1853年ペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀に到着し、鎖国政策をとっていた徳川幕府に開国を迫った。当時、日本近海で盛んに操業していたアメリカの捕鯨船に食糧、燃料、水などを供給する港を開くためだった。その頃のアメリカでは捕鯨が一大産業だった。当時のアメリカは人口が増大し、経済の発展とともに、膨大な量の鯨油が必要だった。ランプに使う燃料として最適だったのだ。太平洋を西へ西へと捕鯨漁場を拡大していった。日本にも伝統的な捕鯨漁業が発達しており、当時の日本近海には多数の鯨が生息していた。アメリカの捕鯨船は一度漁に出ると、船倉に樽詰めした鯨油が満杯になるまで2年も3年も帰国しないで漁を続けた。そのため、燃料の薪、食糧、水の供給基地が必要だった。鯨から脂身をとり、そこから油を作る。その過程で肉や骨は全て海に捨てるのがアメリカ式の捕鯨産業だった。ところが、19世紀半ばには石油が発見され、ランプの燃料も石油になり、捕鯨産業は廃れてゆく。
ペリーから開国の要求をされた幕府は翌年、日米和親条約を結び、下田と函館を開港し、日本の鎖国は終わりを告げた。その後の日本は各国とも同様の条約を締結、江戸幕府の土台は揺らぎ始めてゆき、一気に幕末へと向かう。日本の開国に先鞭をつけたアメリカであったが、その後、アメリカ国内では南北戦争(1861~1865)が起こる。南北戦争はアメリカ史上最大の戦争で、60万人以上が亡くなっている。後の第二次世界大戦で亡くなったアメリカ人は40万人ほどなので、アメリカ史上最大の死者を出した国内戦争だった。南北戦争の間、アメリカは外国に目を向ける余裕などなくなり、身動きが取れなかった。一方、幕末の日本は、フランスとイギリスによる奪い合いの地となり、フランスが幕府側につき、イギリスは薩長(薩摩と長州)の側についている。
それ以前、アメリカは1776年、13州の連邦国家としてイギリスに対して独立を宣言、その後、西部へ西部へと領土を拡大し、1848年にはカリフォルニアを獲得し太平洋岸まで到達する。次は海の向こうのハワイを狙っていた。当時のハワイ王国は初代国王カメハメハ大王とその子孫によって統治された独立国だった。そこへ19世紀中頃から砂糖、パイナップル事業などでアメリカが進出し、多くの土地が買いたたかれ、アメリカがハワイを支配するようになる。1893年には白人入植者がクーデターを起こし、ハワイ王国を倒して共和国とする。1898年当時の大統領マッキンリーがハワイを合衆国に編入宣言し、ハワイは合衆国の準州とされてしまう。その後は1959年に50番目の州としてハワイ州が正式に成立する。以前のハワイ王国には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つのグループが形成され、互いに対立していた。カラカウア王の時、1881年(明治14年)、王は世界一周旅行に出て、日本、アジア、ヨーロッパをまわる。ハワイへの移民促進と表敬訪問のためだった。ハワイの労働力不足への協力要請が王の狙いだった。明治維新で近代化した日本と縁組すれば、ハワイ王国の安泰につながるとも考えたようだ。カラカウア王は明治天皇にも謁見し、日本人のハワイ移民促進を要請している。また、日本とハワイを連邦化し、日本主導によるアジア共同体の創設を提案している。カラカウア王は、白人の外来勢力の拡大を阻止し、独立を全うしようという夢をもっていたともいわれている。そして、1985年から1994年にかけて3万人近くの日本人移民がハワイに渡っている。
1893年(明治26年)、ハワイでクーデターが起こる。アメリカ人農場主らが米艦ボストンに乗り組んでいた海兵隊150人の協力を得てハワイの王政を打倒し臨時政府を樹立しアメリカに併合を求めた。その時、日本は在留邦人保護を理由に巡洋艦「浪速」(なにわ)と「金剛」の2隻をハワイに派遣、艦長は若き東郷平八郎大佐だった。同じ有色人種の国が白人に乗っ取られ、1年後の共和国建国一周年にも東郷はアメリカから要請された祝いの礼砲を拒否し、それにならって港にいた他国の軍艦も礼砲を撃たなかったという。当時の世界の新聞は「ホノルルの港はハワイ王朝の喪に服すように静寂につつまれた」と報道している。
その後、日本は日清戦争(1894~95年)に勝利し、日露戦争(1904~05年)が起こる。当時は大英帝国とロシア帝国という二つの帝国がアジアの覇権をめぐり対決していた。日本はイギリスと同盟を結び、ロシアと戦った。日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた戦艦三笠や金剛はイギリスのヴィッカーズ社で建造されたものだった。日本の勝利はイギリスにとっても勝利であり、ロシアは敗戦のショックで対外進出もストップし、ロシア帝国は衰退期に入る。1917年にロシア革命が起きてロマノフ王朝によるロシア帝国は滅亡した。
一方、アメリカは1898年の米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの植民地だったフィリピンを獲得、そこがアメリカの東アジアにおける重要な拠点となった。アメリカの一番の狙いは当時4億人の市場といわれたチャイナ(中国)、ところが、日本は日清戦争、日露戦争に勝ち、チャイナの利権を独占している。この状況をアメリカは許せなかった。アメリカは1941年の太平洋戦争開戦前の日米交渉の過程で、シナ大陸から日本の兵隊を全て引き揚げるよう要求してきた。大勢の日本人が合法的にシナ大陸に在住していた。当時のシナ大陸は無政府状態に等しく、中華民国という名前はあったが、その政府が全土を統治していたわけではなかった。アメリカもイギリスもフランスも自国民を守るために軍隊を駐留させていた。日本は移住者も多く、それだけ多くの日本兵を駐留させていた。アメリカは満州からも日本兵を引き揚げるよう要求してきた。当時のフランクリン・ルーズベルト大統領の考えは、相手が呑めないことを言って追い詰め、戦争にしようというものであった。いわゆるハル・ノートが最後通牒だといわれている。日本が石油などの物資の供給を止められ、日本列島以外の領土を手放すように迫ってきた最後通牒であり、これは日本にとって到底受け入れられないもので、戦争は避けられない状況に追い込まれたといえよう。
1941年(昭和16年)7月にアメリカは日本に経済制裁を行う。日本ではABCD包囲網といわれているが、対日経済制裁をしていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)の各国の頭文字を並べたものだ。特にアメリカによる経済制裁は、在米資産の凍結、石油の禁輸という厳しいものだった。フーバーの本、「フリーダム・ビトレイド」(裏切られた自由)の中では、これこそ日本に対する宣戦布告なき戦争であり、アメリカを戦争へと導いていったのは他ならぬルーズベルトその人であったと書かれている。なぜ、ルーズベルトは戦争を望んだのか。1939年(昭和14年)9月、ドイツがポーランドに侵攻したところから第二次大戦は始まった。この時点では日本もアメリカも開戦していない。1940年、ヒットラーのドイツ軍がパリを占領し、フランスを降伏させる。さらに8月からはドイツ空軍がイギリス本土に空爆を開始、イギリスはドイツに本土上陸寸前まで追いつめられる。1941年6月にはドイツ軍は独ソ不可侵条約を破棄してソビエト連邦に侵攻する。その後、ドイツ軍はヨーロッパの大半と北アフリカの一部を占領し、圧倒的な優勢を保っていた。一方では、1937年12月に日本軍も中国の首都南京を陥落させ、中華民国政府は四川省の重慶への疎開を余儀なくさせられていた。イギリスのチャーチルもソ連のスターリンも、中華民国の蒋介石も、とにかくアメリカに参戦してもらいたかった。アメリカこそが世界最大の兵器生産工場を持つ世界最大の工業国でもあった。彼等は皆、アメリカのルーズベルト政権に対して参戦を働きかけてきた。
ルーズベルト大統領は当初からソ連が好きで、大統領に就任してすぐに共産主義のソ連を承認している。独裁者スターリンにも親しみを持ち、側近やブレーンにもソ連のシンパが多くいた。大恐慌の経済危機を克服するために、ニューディール政策を行ったが、これは自由主義経済を大幅に修正し、政府が積極的に経済に介入することを基調としたもので、急進的な社会改革そのものであり、社会主義こそが新しい時代のトレンドであり、アメリカも長期的には計画経済の方向に行くべきと考えていた。チャーチルとも仲が良く、日本との戦争に入る直前の1941年(昭和16年)8月に大西洋憲章を調印するが、その時点でアメリカの参戦について話し合っていた。
1941年(昭和16年)7月末に日本軍が南部仏印に進駐、サイゴンに入城したことへの報復として、アメリカが対日石油全面禁止の制裁強化に踏み切った。これによって日本はより窮地に立たされた。経済制裁がすでに戦争の開始であるというのは、当時の国際法上からも認められていた原則だった。後の1951年5月のアメリカ上院の軍事外交合同委員会でも、マッカーサーが、「日本の戦争は自衛戦争であった」と証言している。日本は自らの防衛のために戦争に向かわざるを得なかったというまっとうな証言だった。「日本人は工場を建設し、多くの優秀な労働力を抱えていましたが、原料を産出することができません。日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何もありません。彼等には、綿がなく、羊毛がなく、石油の産出がなく、スズが無く、ゴムが無く、おおくの資源が欠乏しています。それら全てのものはアジア海域に存在していたのです。これらの供給が断たれた場合には、日本では、1000万から1200万人の失業者が生まれるであろうという恐怖感がありました。したがって、彼等が戦争を始めた目的は、主として、安全保障上の必要に迫られてのことだったのです」とマッカーサーは証言していた。また、日本の天皇陛下は、1941年11月に駐日米国大使を通じて、行き詰まった日米交渉において3か月間の冷却期間をおいてはどうかとの提案をされたが、ルーズベルトはこの提案をも拒否したとも証言している。
それにしても、1940年(昭和15年)の日独伊三国同盟さえなかったら、ルーズベルトは日本をいじめることができても対ドイツ戦に参戦する口実にはならなかったはずだ。日独伊三国同盟は通常の軍事同盟とは異なる性質のものだった。一般的に軍事同盟とは、安全保障のために、戦争を抑止するために、国家が相互に軍事力の援助を行うことを定めたもの、つまり通常は、戦争をやっている国とは同盟を結ばないものだ。ところが、当時、ドイツはもう1939年(昭和14年)から戦争状態に入っていた。戦争中のドイツと同盟関係に入るということは、自動的にイギリスをはじめとした国々と敵対することになる。当時、日本では、天皇の重臣から、三国同盟は非常に危ないという話が出ていた。つまり、ヒットラーは一代で終わりだろう、そのうち落ちぶれる、それと陛下を運命共同体にするのはまずいだろうという話、だが陸海軍の枢軸派に押し切られてしまった。かくして、1941年(昭和16年)12月8日、日本帝国海軍はハワイ真珠湾基地を奇襲し、太平洋戦争が始まった。日本ではそれをシナ大陸での戦闘も含めて大東亜戦争と命名した。日本軍の作戦は敵の不意をつくために、攻撃は宣戦布告と同時に行うと予定されていた。実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告がアメリカに届いたため、アメリカ側は卑怯な奇襲と受け取ることになってしまった。アメリカでは、今でも、「だまし討ち」だったといわれている。日本軍がハワイのパールハーバー(真珠湾)を襲った時、世界で初めての海底ケーブルの電話によるホットラインがルーズベルトとチャーチルの間につながった。その時、チャーチルがいった有名な言葉、「We are on the same boat」(我々は一緒の船に乗った)、これで英米は運命共同体になったというのだ。これでアメリカが参戦してくれる、これで勝てると確信したチャーチルは、その夜はぐっすり眠れたと「第二次世界大戦回顧録」に書いている。