1931年9月18日、中華民国の奉天郊外にある柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で南満洲鉄道の線路が何者かに爆破されるという事件が発生、すぐさま日本の関東軍が中国の張学良軍の暴挙だと決めつけ、奉天城(旧市街)をはじめ満洲各地の主要地点に戦闘部隊を送った。後に「満洲事変」と呼ばれる日本軍の満洲制圧作戦の始まりだった。この鉄道爆破事件も、関東軍が行った「自作自演」であり、現地で取材していた日本の新聞記者もそれを知っていた。しかし、関東軍の将校から「お国のために必要なことだ」と説明された記者たちは、事実を国民に伝えず、「支那人の仕業」であると書き立て、それを信じた日本国民は中国人に敵意を抱くようになる。
満洲事変の経過は、ほぼ関東軍の目論見通りに進展し、張学良の軍勢は各地で敗退して支配権を失っていった。兵員数では張学良軍が圧倒的に有利なはずだったが、近代戦術や近代兵器などの「質」で優る日本軍が次々と勝利を収めた。また、張学良が「関東軍の暴走を日本政府が止めるだろう」との思い込みに囚われ、部隊に「抵抗せずに一時撤退せよ」と命じたことも、日本側に有利に働いた。この軍事作戦と並行して、関東軍は、満洲を日本の言いなりになる独立国に作り替えるという策謀を巡らせ、新たな国家の指導者に担ぎ上げるため、辛亥革命で打倒された清国の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を、天津から満洲の日本支配地域へと迎え入れた。満洲に独立国を作るという構想は、最初は関東軍が日本政府の許可を得ずに勝手にやったものだった。その後、内閣と陸軍中央も関東軍の動きを追認する形へと方向転換、1932年3月1日、溥儀を執政(後に皇帝)とする満洲国の建国が宣言された。
当時、5ヵ国の常任理事国(日英仏独伊)と9ヵ国の非常任理事国(中国を含む)から成る国際連盟理事会は、満洲事変の勃発直後から事態の推移を見守っており、1931年9月30日には「日本軍の満鉄附属地への撤退」を勧告する決議を採択していた。中国は、連盟の非加盟国であるアメリカ政府に働きかけ、前記の九カ国条約に基づく形で、日本に経済制裁を行うという方策も視野に入れて、日本に対抗した。そして、満洲事変がどのような状況下で発生したのかを調査するため、国際連盟はイギリス人のヴィクター・ブルワー=リットン卿を団長とする「リットン調査団」を日本と満洲、中国へと派遣し、各国の要人と面会して聴き取り調査を行った。1932年10月1日、リットン調査団による報告書「リットン報告書」が国際連盟で日中を含む各国代表に公表されたが、その内容は、意外にも日本の立場に一定の配慮を示したもの。報告書は、満洲事変と呼ばれる日本軍の行動が、当時の国際的ルールに合致する「自衛の行動」だとは認めなかったが、日本が満洲に持つ権益を尊重した上で、独立国とは異なる形で中国の満洲地方に「自治政府」を創設して、日本人を含む外国人顧問をその自治政府に付随させることを提言していた。
リットン調査団の構成メンバーは、英仏独伊米の5ヵ国から選出されたが、ドイツ以外はすべて海外に植民地を持つ大国。これらの国から見れば、満洲問題であまり日本を厳しく批判すると、自国の植民地支配にその影響が出る可能性があった。当時の英外相ジョン・サイモンは、日本と中国の二国間で解決すべきだという日本側の主張に理解を示した人物だが、彼は中国に「連盟に頼らず自分で日本と交渉すべきだ」と勧めた。イギリスは別に「日本の味方」をしたわけではなく、大英帝国が世界中に持つ植民地の獲得経緯や支配構造と比較した場合、あまり満洲問題で日本に対して偉そうなことを言える立場ではなかった。また、日本が新興国として隆盛するまでの間、中国人の怒りの矛先は、主にイギリスに向けられていたため、日中関係の悪化はイギリスにとって好都合な展開とも言えた。
日本政府は11月21日、リットン報告書の内容は受け入れられないとして、報告書を批判する意見書を国際連盟に提出。これにより、満洲事変と満洲国建国をめぐる問題を、日本が外交的手段によって自国に有利な形で解決する道が閉ざされることになる。当時、国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右も、満洲事変勃発から8ヵ月前の1931年1月23日、帝国議会(国会)で「満蒙(満洲と内蒙古)はわが国民の生命線である」と演説した。ただし、松岡は1932年12月14日、イギリスの妥協案を受け入れて中国に多少譲歩することで、問題の幕引きを図るべきだと東京の政府に進言しており、満洲国の独立という問題の解決法に固執していたわけでもなかった。そんな時、松岡代表を驚かせる事件が「満洲国」西部の熱河(ねっか)省で発生する。関東軍が新たな軍事行動として「熱河作戦」を開始し、同地から国民革命軍を追い出す行動に出たのだ。1933年1月13日の閣議において、日本政府は関東軍に「長城(満洲国の国境とされる線)を越えないならば」という条件で、作戦を許可した。日本側は「熱河は(日本側が考える)満洲国の一部だから、国際問題にはならないだろう」と、状況を甘く見ていた。しかし、国際連盟の加盟国は、まだ満洲事変や満洲国の問題をどう処理するかの話もついていないのに、関東軍が「占領地」で新たな軍事行動を始めたことは、国際連盟に対する侮辱と挑戦であると理解した。
2月初頭、国際連盟は日本に対する新たな勧告案を作成し始めたが、その内容を察知した日本の外務省は慌てる。もし、勧告案が満洲国の正当性を否定し、日本がそれを受け入れない場合、連盟規約に従って日本に対する諸外国からの「経済制裁」が課される可能性が出てきたからだ。実際、2月24日に国際連盟総会で採決にかけられた勧告案の内容は、満洲国の成立を認めず、満洲事変以降の日本の責任を問うという厳しいものだった。採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対が1ヵ国(日本)、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)で、日本の完敗。松岡代表は即座に「日本は、このような勧告案は受け入れられない」と演説して会場を後にし、日本政府は1933年3月27日に国際連盟の脱退を決定する。「国際連盟の脱退」という決断は、連盟を脱退してしまえば「連盟規約に基づく経済制裁」は発動できなくなるだろうという日本の外務省による場当たり的な判断だった。しかし、日本はこれにより、国際社会のルールを破って飛び出した国として外交的に孤立していく。総合的・長期的な判断としては失敗だった。
けれども、当時の日本国民と新聞各紙は、4月27日に帰国した松岡洋右を「英雄」のように出迎え、自国の名誉が守られたのだから国際社会で孤立しても全然構わないではないかという威勢のいい言説が国内で主流となる。日清・日露戦争が行われた明治時代、日本政府と日本国民は「国際的ルール」を守ってその枠内で大国になろうと努力したが、昭和初期には次第に、国際社会での協調よりも「日本の利益」を追求する方を優先すべきという風潮が広がり始めた。それは、数年後の日中戦争と太平洋戦争へと繫がり、日本という国を重大な危機へと導く危険な道だったが、当時の日本人はその危険性を認識せず、むしろ「日本の利益」を追求するのだから「愛国の道」なのだと信じていた。
満洲事変の経過は、ほぼ関東軍の目論見通りに進展し、張学良の軍勢は各地で敗退して支配権を失っていった。兵員数では張学良軍が圧倒的に有利なはずだったが、近代戦術や近代兵器などの「質」で優る日本軍が次々と勝利を収めた。また、張学良が「関東軍の暴走を日本政府が止めるだろう」との思い込みに囚われ、部隊に「抵抗せずに一時撤退せよ」と命じたことも、日本側に有利に働いた。この軍事作戦と並行して、関東軍は、満洲を日本の言いなりになる独立国に作り替えるという策謀を巡らせ、新たな国家の指導者に担ぎ上げるため、辛亥革命で打倒された清国の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を、天津から満洲の日本支配地域へと迎え入れた。満洲に独立国を作るという構想は、最初は関東軍が日本政府の許可を得ずに勝手にやったものだった。その後、内閣と陸軍中央も関東軍の動きを追認する形へと方向転換、1932年3月1日、溥儀を執政(後に皇帝)とする満洲国の建国が宣言された。
当時、5ヵ国の常任理事国(日英仏独伊)と9ヵ国の非常任理事国(中国を含む)から成る国際連盟理事会は、満洲事変の勃発直後から事態の推移を見守っており、1931年9月30日には「日本軍の満鉄附属地への撤退」を勧告する決議を採択していた。中国は、連盟の非加盟国であるアメリカ政府に働きかけ、前記の九カ国条約に基づく形で、日本に経済制裁を行うという方策も視野に入れて、日本に対抗した。そして、満洲事変がどのような状況下で発生したのかを調査するため、国際連盟はイギリス人のヴィクター・ブルワー=リットン卿を団長とする「リットン調査団」を日本と満洲、中国へと派遣し、各国の要人と面会して聴き取り調査を行った。1932年10月1日、リットン調査団による報告書「リットン報告書」が国際連盟で日中を含む各国代表に公表されたが、その内容は、意外にも日本の立場に一定の配慮を示したもの。報告書は、満洲事変と呼ばれる日本軍の行動が、当時の国際的ルールに合致する「自衛の行動」だとは認めなかったが、日本が満洲に持つ権益を尊重した上で、独立国とは異なる形で中国の満洲地方に「自治政府」を創設して、日本人を含む外国人顧問をその自治政府に付随させることを提言していた。
リットン調査団の構成メンバーは、英仏独伊米の5ヵ国から選出されたが、ドイツ以外はすべて海外に植民地を持つ大国。これらの国から見れば、満洲問題であまり日本を厳しく批判すると、自国の植民地支配にその影響が出る可能性があった。当時の英外相ジョン・サイモンは、日本と中国の二国間で解決すべきだという日本側の主張に理解を示した人物だが、彼は中国に「連盟に頼らず自分で日本と交渉すべきだ」と勧めた。イギリスは別に「日本の味方」をしたわけではなく、大英帝国が世界中に持つ植民地の獲得経緯や支配構造と比較した場合、あまり満洲問題で日本に対して偉そうなことを言える立場ではなかった。また、日本が新興国として隆盛するまでの間、中国人の怒りの矛先は、主にイギリスに向けられていたため、日中関係の悪化はイギリスにとって好都合な展開とも言えた。
日本政府は11月21日、リットン報告書の内容は受け入れられないとして、報告書を批判する意見書を国際連盟に提出。これにより、満洲事変と満洲国建国をめぐる問題を、日本が外交的手段によって自国に有利な形で解決する道が閉ざされることになる。当時、国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右も、満洲事変勃発から8ヵ月前の1931年1月23日、帝国議会(国会)で「満蒙(満洲と内蒙古)はわが国民の生命線である」と演説した。ただし、松岡は1932年12月14日、イギリスの妥協案を受け入れて中国に多少譲歩することで、問題の幕引きを図るべきだと東京の政府に進言しており、満洲国の独立という問題の解決法に固執していたわけでもなかった。そんな時、松岡代表を驚かせる事件が「満洲国」西部の熱河(ねっか)省で発生する。関東軍が新たな軍事行動として「熱河作戦」を開始し、同地から国民革命軍を追い出す行動に出たのだ。1933年1月13日の閣議において、日本政府は関東軍に「長城(満洲国の国境とされる線)を越えないならば」という条件で、作戦を許可した。日本側は「熱河は(日本側が考える)満洲国の一部だから、国際問題にはならないだろう」と、状況を甘く見ていた。しかし、国際連盟の加盟国は、まだ満洲事変や満洲国の問題をどう処理するかの話もついていないのに、関東軍が「占領地」で新たな軍事行動を始めたことは、国際連盟に対する侮辱と挑戦であると理解した。
2月初頭、国際連盟は日本に対する新たな勧告案を作成し始めたが、その内容を察知した日本の外務省は慌てる。もし、勧告案が満洲国の正当性を否定し、日本がそれを受け入れない場合、連盟規約に従って日本に対する諸外国からの「経済制裁」が課される可能性が出てきたからだ。実際、2月24日に国際連盟総会で採決にかけられた勧告案の内容は、満洲国の成立を認めず、満洲事変以降の日本の責任を問うという厳しいものだった。採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対が1ヵ国(日本)、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)で、日本の完敗。松岡代表は即座に「日本は、このような勧告案は受け入れられない」と演説して会場を後にし、日本政府は1933年3月27日に国際連盟の脱退を決定する。「国際連盟の脱退」という決断は、連盟を脱退してしまえば「連盟規約に基づく経済制裁」は発動できなくなるだろうという日本の外務省による場当たり的な判断だった。しかし、日本はこれにより、国際社会のルールを破って飛び出した国として外交的に孤立していく。総合的・長期的な判断としては失敗だった。
けれども、当時の日本国民と新聞各紙は、4月27日に帰国した松岡洋右を「英雄」のように出迎え、自国の名誉が守られたのだから国際社会で孤立しても全然構わないではないかという威勢のいい言説が国内で主流となる。日清・日露戦争が行われた明治時代、日本政府と日本国民は「国際的ルール」を守ってその枠内で大国になろうと努力したが、昭和初期には次第に、国際社会での協調よりも「日本の利益」を追求する方を優先すべきという風潮が広がり始めた。それは、数年後の日中戦争と太平洋戦争へと繫がり、日本という国を重大な危機へと導く危険な道だったが、当時の日本人はその危険性を認識せず、むしろ「日本の利益」を追求するのだから「愛国の道」なのだと信じていた。
さらに、国際連盟が満洲国の成立を認めず、満洲事変以降の日本の責任を問う決議案、採決の結果は、賛成が42ヵ国、反対が1ヵ国(日本)、棄権が1ヵ国(シャム、後のタイ)で、日本の完敗。松岡代表は即座に「日本は、このような勧告案は受け入れられない」と演説して会場を後にし、日本政府は1933年に国際連盟の脱退を決定。「国際連盟の脱退」という決断は、連盟を脱退してしまえば「連盟規約に基づく経済制裁」は発動できなくなるだろうという日本の外務省による場当たり的な判ミス。歴史の検証は大事だね。