ケルト人は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族、古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていた。「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」といえる。ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存する。ケルト人は青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文明(紀元前1200年~紀元前500年)を発展させた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット鉄器文明はラ・テーヌ鉄器文明(紀元前500年~紀元前200年)に発展した。
ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残っている。紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。やがてゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀には古代ローマのカエサルによって征服される。カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献でもある。やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化を受け入れ、中世にはゲルマン系のフランク人と融合してフランス人に変質していった。
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、通説では鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされるが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつケルト部族社会があった。西暦1世紀にイングランドとウェールズはローマの支配を受け、この地方のケルト人はローマ化するが、5世紀にゲルマン人がガリアに侵入すると、ローマ帝国はブリタンニア(イングランド)の支配権を放棄し、ローマ軍団をヨーロッパ大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。しかし、同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残った。スコットランドやアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域。現代におけるいわゆる「ケルト人」とは、残存するケルト語派の言語が話される国のアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュの人々だ。
ブルターニュは、フランス北西部の大西洋に大きく突き出した半島。北は英国海峡、南はビスケー湾に面する。同地域の4県を管轄するフランスの地域圏の名称でもある。ケルト系ブルトン人の言語、風俗が強く残った地域だ。もともとはケルト系アルモリカ人の住地だったが、紀元前58年古代ローマのカエサルによって征服され、ローマ領ガリアのアルモリカ地方となった。4,5世紀になってブリテン島やガリアにおけるローマ帝国の支配が大きく後退すると、ゲルマン系アングロ・サクソン人に襲われたブリテン島西南部からケルト人が海峡を越えて大量にこの半島に来住した。ブリテン島から来たケルト人をフランスではブルトン人と呼び、彼らが住む地域をブルターニュと呼んだ。中世初期には3王国が分立したが、やがてブルターニュ公国に統一される。ブルターニュ公国はフランク王国に形式上臣従したが、実質的には独立的な地域。ローマの遺産の上にゲルマン系フランク人の支配が形成されたフランス主要部とは異なり、ブルターニュではケルト系の風俗・風習が強く残る。地理的にイングランドに近い(実際にイングランド王室であるアンジュー家が領有していた時期がある)ため、しばしばイングランド王の介入を招き、英仏百年戦争ではブルターニュ公国の支配権をめぐってブルターニュ継承戦争(1341年 - 1364年)が起こる。
近世になるとフランス王国の力が強大化し、最後のブルターニュ女公アンヌ(在位1488年 - 1514年)が即位すると、フランス王シャルル8世がブルターニュに侵攻、ハプスブルク家のマクシミリアンとアンヌの婚姻を無効とし自身との結婚を強制する。シャルル死後もアンヌはルイ12世との再婚を余儀なくされ、アンヌが死去するとその娘クロードは皇太子時代のフランソワ1世と結婚、1532年ブルターニュはフランスに併合された。これ以後はパリから派遣された知事が地方行政に当る。フランス皇太子は代々ブルターニュ公を名乗るようになる。これはイギリス皇太子がプリンス・オブ・ウェールズを名乗るのと似ている。
ケルト人がイングランドに流入してきたのは紀元前5世紀頃と見られる。ケルト人は鉄器と共にヨーロッパにやって来ており、この遺物を調査する事によって彼らがいつ頃グレートブリテン島にやって来たかが判る。しかしそれ以前にイングランドにも石器時代の存在は確認されており、ストーンヘンジなどの巨石による遺跡も残されている。紀元前55年ローマのユリウス・カエサルが侵入、43年にはローマ皇帝クラウディウスによってグレートブリテン島の大部分が占領される。ただし、スコットランド、アイルランド地域にはローマの支配は及ばず、この地域のケルト人が度々イングランドに侵入してきたため、ローマ人によって現在のイングランドとスコットランドの境界付近に長城が建設された。ローマはこの地域をブリタニアと呼んだ。これが現在のブリテン島の起源である。またブリタニア支配の拠点としてロンディニウムを建設した。これが現在のロンドンの起源となる。ローマ人は在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。
5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まりローマ帝国に混乱が広まる。ローマはブリタニアでの植民をあきらめてヨーロッパ大陸へと引き返す。449年にアングロ・サクソン人がグレートブリテン島に侵入し、元々住んでいたケルト系住人はアングロ・サクソン人に同化され、一部はコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出されるようになった。
グレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人はノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックスなどの7つの王国を建設し覇権を争う。このイングランドに7つの王国が並立した829年までの380年間は七王国時代と言われる。この中でもっとも有力だったのはウェセックス、829年にはウェセックス王がエグバート統一王となる。同時期にデンマークのヴァイキングであるデーン人の侵入も活発になってきた。このデーン人の侵入に対抗してイングランドの中興を担ったのがアルフレッド大王である。しかしその後もデーン人の侵入は続き、1016年にはデンマークのクヌートによってアングロサクソンの王がイングランドから追い出され、征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成立。その後アングロサクソンによる王朝が復活したものの、デーンやドーバー海峡の対岸にあるノルマンディー公のイングランドに対する干渉も強くなる。エドワード懺悔王が嗣子のないまま死亡すると、その後王位についたエドワードの義弟ハロルド・ゴドウィンソンに対して1066年、ノルマンディー公ギョームが異議を申し立て、イングランドに侵入する。
ハロルドはノルマンディー公軍に対し、ヘイスティングスの戦いに敗れ、戦死する。ロンドンを占領したギヨームはウェストミンスター寺院においてイングランド王に即位し、イングランド王ウィリアム1世を名乗る。これによりアングロサクソンによる王統は途絶え、征服王朝としてのノルマン朝が成立する。ノルマンディー公ギヨームによるイングランド征服がノルマン・コンクエストと言われるものだ。これによってギヨームはイングランド王ウィリアム1世として、フランス王と対等な王になる。しかし、フランスにおけるノルマンディー大公ギヨームとしてはフランス王の臣下という奇妙な立場にあった。これが百年戦争の遠因ともなってゆく。ノルマン朝は征服王朝であり、そのため国王の権限がはじめから強かった。これはイングランドにおいてもっとも早く絶対王政が確立した原因の一つにもなっている。
ノルマン朝はわずか4代で王位を継ぐ者がいなくなり、内乱期と呼ばれるスティーヴン王の治世を経て、1154年フランスのアンジュー伯家から新しい王ヘンリー2世が迎えられ、これがプランタジネット朝の始まりになる。アンジュー伯もまたフランス国内においてはフランス王の臣下だったので、フランス王とイングランド王の関係はますます複雑なものになる。またノルマン公国領にあわせて、アンジュー伯国領もイングランド王の支配する土地となったため、フランスとの関係は悪化の方向をたどる。
プランタジネット朝第3代の王ジョンの代にイングランドはフランス王フィリップ2世との抗争にやぶれ、ヨーロッパ大陸に持つ領土を失う。このためジョン王は欠地王とあだ名され、こうした無能な王が強権(当時フランスとの抗争で、貴族たちにも重税を科していた)を発動するのを抑制されるようになる。1215年貴族の一斉反抗に敗れたジョンは議会による承認なしに新たな課税はできないとするマグナ・カルタを認めさせられる。これは王権を抑制する議会権力伸長の第一歩となった。ジョンの後を継いだヘンリー3世の時代に、フランスから来た貴族シモン・ド・モンフォールが反乱をおこし、それまでの、高位聖職者、貴族からなっていた身分制議会に騎士、都市の代表を加えた。その後エドワード1世によって模範議会が召集される。現在のように上院である貴族院と下院である庶民院に分かれたのは14世紀頃であり、金銭法案に関する先議権が庶民院に与えられたのは15世紀頃になる。
エドワード1世は1277年ウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズ率いるウェールズの征服に取り掛かりグリフィズを戦死させた。ウェールズはその後も抵抗を続けるが、グリフィズの戦死後はエドワードもウェールズとの親和策をとる方向に転化し、臨月の王妃をウェールズに呼び寄せ、1301年ウェールズで生まれた王太子エドワード2世にプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)の称号を与える。これ以降イングランド王室次期王位継承者に対して「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を用いるようになった。
フランスでカペー朝が断絶し、ヴァロワ家からフィリップ8世が即位すると、1339年イングランド王エドワード3世がこれに異議を申し立て、フランスの王位継承権を主張し、フランスに侵入を開始、これが百年戦争の始まりとなる。開戦当初はエドワード黒太子の活躍もあって、フランスの半分以上を占領し、イングランドが優位に立つ。ヘンリー6世の時代には一時期イングランドとフランスの統一王朝が成立する。その後フランス王シャルル7世とジャンヌ・ダルクによる巻き返しによってイングランドは敗退をはじめ、1453年にはイングランドが占領していたボルドーが陥落、イングランドはカレーを除く全ての大陸の領土を喪失する。
フランスに対して王位継承権を主張したプランタジネット家であったがエドワード3世の孫 リチャード2世が廃位させられると断絶し、王位はランカスター家に渡る。この後1455年からイングランドはランカスター家とヨーク家が争う内戦状態となり、これがバラ戦争と呼ばれる。バラ戦争は最終的にランカスター家の支流にあたるヘンリー・デューターがエドワード4世の娘でヨーク家のエリザベスと結婚して即位し、テューダー朝を起こす1485年まで継続する。百年戦争からバラ戦争を通してまでのこの期間に、イングランドではペストが流行し、農奴反乱であるワット・タイラーの乱が起こるなど社会は混乱を極めた。その間にも農奴制は崩壊の方向に向かい、封建制は完全に崩れ去った。封建制の崩壊は騎士と貴族の社会の破壊を意味し、この後のテューダー朝による絶対王政の基礎が形作られてゆく。この時期に良質の羊毛生産に支えられた毛織物工業が発達し、ハンザ同盟との競合の少ない低地地方との交易を通じて典型的な農業国からの脱出が進んでゆく。
イングランド王に即位したヘンリー・テューダーはヘンリー7世を名乗る。百年戦争とバラ戦争によってイングランド国内の貴族、騎士層は疲弊しており、王権は強まる。従って以降のテューダー朝の歴史はイングランドにおける絶対王政の時代となる。貴族、騎士の代わりにイングランドの国政に影響力を持つようになったのは、王の側に官僚として仕える廷臣、そして大商人たちであった。イングランドにおける絶対王政の最大の成果はイングランド国教会を成立させたことだ。16世紀に入るとヨーロッパでは宗教改革の動きが活発になり、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンの場合は純粋に宗教的な理由から出発していたが、イングランドにおける宗教改革はヘンリー7世の次の王であるヘンリー8世の離婚問題という非宗教的な理由から出発している。ヘンリー8世の后はアラゴン王国国王フェルナンド2世とカスティーリャ王国女王のイサベル1世の娘キャサリンであったが、キャサリンは男子の後継者を望むヘンリーに対して女子1人のみを生んだだけ、ヘンリーは子の産めないキャサリンと離婚し、事実婚の関係にあったアン・ブーリンとの結婚を望む。カトリック教会においては離婚は認められないがローマ教皇に認めてもらうという抜け道があり、王族に関しては少なからずその名目で離婚がおこなわれていた。
ヘンリーもこの手法を用いたが、キャサリンの甥にあたる、神聖ローマ帝国のカール5世が教皇クレメンス7世を圧迫したため、教皇はこれを認めない。怒ったヘンリーはイングランドにおける教会の首位権はローマ教皇ではなくイングランド王にあるとする国王至上法を発布し、これに反対するものを次々に処刑する。この時処刑された者の中には有名なトマス・モアもいる。こうしてキャサリンとの離婚を成立させたヘンリーはアン・ブーリンと再婚する。その後も次々と后との離婚(時には処刑)と再婚を繰り返す。ヘンリーには6人の后がいた。ヘンリーとしては王妃との離婚が成立すればよかっただけで、典礼の様式などはカトリックそのままだった。その後ヘンリーの子となるエドワード6世の時代に祈祷書の制定が行われ、カルヴァン派の様式が取り入れられ始めた。ただしイングランドではこの後も国教会とカトリックの間で揺れ動き、エドワードの後に女王となったキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリー1世はイングランドにおけるカトリックの復権を企てる。これに対する反発はかなり根強いものがあり、彼女はカトリックの復権に反対するものを悉く処刑したため「ブラッディー・メアリー」とあだ名された。イングランドにおいて最終的に国教会の優位が確定されるのはメアリーの後を継いだ妹でアン・ブーリンの娘であるエリザベス1世の時になる。エリザベスはイングランドにおける絶対王政の頂点を極めることになる。エリザベスは当時、無敵艦隊を率いて世界各国に植民地を持ちヨーロッパの強国となっていたスペイン・ハプスブルグ家に挑戦をはじめる。エリザベスはスペインからの独立を目指して戦っていたオランダの独立戦争を支持し援助する。時のスペイン国王フェリペ2世はこれに対してイングランド攻略を目指して無敵艦隊を送るが1588年のアルマダの海戦において私掠船を中心としたイングランド海軍に大敗する。スペインの海軍力は大幅に低下し、イングランドの海軍力はイギリス帝国を維持するイギリス海軍に発展するまで上昇する。当時ヨーロッパの最強国の一つであったスペインを軍事的に打ち負かしたことで、イングランドの国際的地位は高まる。エリザベスはイングランド王位を持つ自分の立場を利用される事(つまり外国に干渉される事)を嫌い生涯独身を通した。そのためエリザベスには子はおらずテューダー朝はエリザベスで終わる。その後継にはスコットランド王であったステュアート家のジェームズ6世が指名される。
1603年スコットランド王ジェームス6世がイングランド王として即位しイングランド王ジェームズ1世となる。イングランドとスコットランドは同じ人物を王に頂く同君連合となる。スコットランド王としてのジェームズはスコットランドにおいてカルヴァン派の影響を強く受けていた長老派への対応に手を焼いており、イングランドの国王至上法にならって暗黒法を発布していた。イングランド王になると、国王を教会のトップに置く国教会の制度を気に入り、イングランドの宗教を国教会に統一する事に腐心し、ピューリタンやカトリック教徒を弾圧。この時国王の弾圧をのがれ新天地を目指してメイフラワー号でアメリカ大陸に渡ったのがピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人たちだ。彼らは北米植民地においてニューイングランド植民地の建設に邁進する。ジェームズの跡を継いだ、息子チャールズ1世は、さらに一歩進んで国教会をスコットランドにも導入しようと試みる。この試みは長老派の勢力が強かったスコットランドにおいて大反発を受けて大反乱となる。チャールズはこれを軍事力によって屈服させようとし、その財源を大増税によって賄おうとした。この増税にはイングランド議会の承認を得ていなかったので、チャールズの施政方針はイングランドにおいても大反発を招き、これが清教徒革命の火種となる。
スコットランドのへの派兵のために大増税を行ったチャールズ1世に対して1628年議会は権利の請願を王に提出し、議会の承認に基づかない金銭法の施行を行わないこと、法に拠らない不当な逮捕を行わないことを求める。一旦はチャールズもこれを認めたものの直後に議会を解散し、以降1640年まで議会が召集されない状態が続く。スコットランドの反乱は一旦は収まったものの1640年再び、大反乱が起こると、チャールズは議会を招集し増税に関する金銭法案の可決を求めた。チャールズに反発する議会はこれに応じなかったため、わずか3週間で解散された(短期議会と呼ばれる)。その後再び召集された議会は、戦術を代え、王に対して金銭法案の可決をちらつかせながら、王に反省を促し、議会に対しての尊重や法の遵守と言った妥協を引き出す方向性に転じる。この議会はクロムウェルによって1653年に解散されるまで13年間開催されつづけたため長期議会と呼ばれる。王の反省を期待した議会であったが、王の態度は変わらないどころか、反国王派の議員を法を無視して逮捕しようと試みたため、議会と国王の対立は決定的となる。国王チャールズはロンドンを離れて王党派の勢力が根強いヨークによって軍備を整え、一方の議会はロンドンにあって軍備を整え始める。1642年ついに両軍は激突し、イングランドにおいて内戦が勃発。当初は王党派が優位にたったものの、議会派はスコットランドの反乱勢力と結び、さらに鉄騎兵を率いるクロムウェルが登場すると、王党派は劣勢になる。1646年チャールズはスコットランド軍に対し降伏する。一旦は脱出して再び反旗を翻すものの1648年再び捕らえられ、その翌年チャールズは処刑される。これによりイングランドにおける王統は一旦断絶し、国王を頂かない共和制となる。
1649年から1660年までイングランドは共和国となる。しかし、その実態はクロムウェルによる軍事独裁政権であり、鉄騎兵をはじめとする強大な軍事力に裏打ちされた政権だった。清教徒であったクロムウェルは王党派はもとより、王党派と妥協的であった長老派や清教徒よりも過激な革命論を主張した水平派、真性水平派を弾圧する。さらにカトリックを弾圧し、カトリックの居城となり、亡命した王党派の拠点ともなっていたアイルランドにも侵攻する。イングランドと海外植民地について争い、海の覇権を争っていたオランダにも戦争を仕掛け英蘭戦争を引き起こす。1653年には、王党派のリバイバルを抑え、軍事政権を維持するために議会を解散し、護国卿に就任し、クロムウェルの独裁性は一層の高まりを見せるが、1658年にクロムウェルが亡くなり、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿の地位を継承するが、リチャードは父親程の能力を発揮できなかったため、王党派にリバイバルのチャンスが巡ってくる。
1660年オランダに亡命していたチャールズ2世が即位し、イングランドにおける王政復古となる。チャールズは亡命に際してフランスのルイ14世から多大な庇護を受けており、后はカトリック教国ポルトガルの王女カタリナであったため、自身は国教徒であったが親カトリック的であった。イングランドでは清教徒革命の結果、議会以下国民の間では絶対王政は廃れたものとの認識があったが、国王は時代錯誤的な強権を発動しようとしたため、議会は人身保護法を制定し、法によらない不当逮捕の禁止を明文化させた。これがイングランドにおけるデュー・プロセスの確定である。さらにカトリックの者が公職に就く事を禁止した審査法を制定し、王を牽制した。チャールズには嫡子がおらず、王位の継承を巡っては、王弟であるヨーク公ジェームズしか継承者がいなかったが、ジェームズはカトリックであり、議会はジェームズの即位に妥協する勢力とこれに反発する勢力に2分された。前者が後の保守党の前身となるトーリーであり、後者が後の自由党の前身となるホイッグである。結局この論争はトーリーに軍配があがり、プロテスタントの国イングランドはカトリックの王を国王に迎える事になる。
チャールズ2世の死に際して、弟ジェームズは国王に即位し、イングランド王ジェームズ2世となる。イングランドにとってはメアリ1世以来のカトリックの王となるが、カトリックの王を頂くと言う妥協が成立した背景には、ジェームズにも嫡子がおらず、カトリックの王は彼一代限りという目論見があったためだ。その後、ジェームズと王妃であるモデナ公国皇女であるメアリーの間に男子が誕生すると話は全く変わったものになる。ジェームズ以降もカトリックの王が即位し続ける可能性が生じたことにより、ジェームズの即位をめぐって対立していたトーリーとホイッグはここに団結し、ジェームズの排除に動く。議会はジェームズの娘メアリーの夫でプロテスタントの国オランダの統領であったオラニエ公ウィレム率いる軍団を招き寄せ、ジェームズとの対決姿勢を明らかにした。これに対してジェームズはあっさりと亡命してしまい、ロンドンを中心とした地域で流血の事態には至らなかった。これが名誉革命と言われる。議会は次期国王としてメアリーとウィレム夫妻を指名し、両王は王権に対して議会の優位性を明文化した「権利の章典」に署名した上でイングランド王に即位する。そして、1707年の女王アンの治世の時に、それまでイングランドとスコットランドの同君連合という関係を改め、両国の議会を統一した連合国家となった。これがグレートブリテン王国の誕生となる。
ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。彼らは南欧の文明社会としきりに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリシャ・ローマの文献に記録が残っている。紀元前400年頃にはマケドニアの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。やがてゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は西のフランスやスペインに移動し、紀元前1世紀には古代ローマのカエサルによって征服される。カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)のケルト社会に関する貴重な文献でもある。やがて500年にわたってローマ帝国の支配を受けたガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化を受け入れ、中世にはゲルマン系のフランク人と融合してフランス人に変質していった。
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、通説では鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされるが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつケルト部族社会があった。西暦1世紀にイングランドとウェールズはローマの支配を受け、この地方のケルト人はローマ化するが、5世紀にゲルマン人がガリアに侵入すると、ローマ帝国はブリタンニア(イングランド)の支配権を放棄し、ローマ軍団をヨーロッパ大陸に引き上げた。この間隙を突いてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングランドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。しかし、同じブリテン島でも西部のウェールズはアングロサクソンの征服が及ばず、ケルトの言語が残った。スコットランドやアイルランドはもともとローマの支配すら受けなかった地域。現代におけるいわゆる「ケルト人」とは、残存するケルト語派の言語が話される国のアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュの人々だ。
ブルターニュは、フランス北西部の大西洋に大きく突き出した半島。北は英国海峡、南はビスケー湾に面する。同地域の4県を管轄するフランスの地域圏の名称でもある。ケルト系ブルトン人の言語、風俗が強く残った地域だ。もともとはケルト系アルモリカ人の住地だったが、紀元前58年古代ローマのカエサルによって征服され、ローマ領ガリアのアルモリカ地方となった。4,5世紀になってブリテン島やガリアにおけるローマ帝国の支配が大きく後退すると、ゲルマン系アングロ・サクソン人に襲われたブリテン島西南部からケルト人が海峡を越えて大量にこの半島に来住した。ブリテン島から来たケルト人をフランスではブルトン人と呼び、彼らが住む地域をブルターニュと呼んだ。中世初期には3王国が分立したが、やがてブルターニュ公国に統一される。ブルターニュ公国はフランク王国に形式上臣従したが、実質的には独立的な地域。ローマの遺産の上にゲルマン系フランク人の支配が形成されたフランス主要部とは異なり、ブルターニュではケルト系の風俗・風習が強く残る。地理的にイングランドに近い(実際にイングランド王室であるアンジュー家が領有していた時期がある)ため、しばしばイングランド王の介入を招き、英仏百年戦争ではブルターニュ公国の支配権をめぐってブルターニュ継承戦争(1341年 - 1364年)が起こる。
近世になるとフランス王国の力が強大化し、最後のブルターニュ女公アンヌ(在位1488年 - 1514年)が即位すると、フランス王シャルル8世がブルターニュに侵攻、ハプスブルク家のマクシミリアンとアンヌの婚姻を無効とし自身との結婚を強制する。シャルル死後もアンヌはルイ12世との再婚を余儀なくされ、アンヌが死去するとその娘クロードは皇太子時代のフランソワ1世と結婚、1532年ブルターニュはフランスに併合された。これ以後はパリから派遣された知事が地方行政に当る。フランス皇太子は代々ブルターニュ公を名乗るようになる。これはイギリス皇太子がプリンス・オブ・ウェールズを名乗るのと似ている。
ケルト人がイングランドに流入してきたのは紀元前5世紀頃と見られる。ケルト人は鉄器と共にヨーロッパにやって来ており、この遺物を調査する事によって彼らがいつ頃グレートブリテン島にやって来たかが判る。しかしそれ以前にイングランドにも石器時代の存在は確認されており、ストーンヘンジなどの巨石による遺跡も残されている。紀元前55年ローマのユリウス・カエサルが侵入、43年にはローマ皇帝クラウディウスによってグレートブリテン島の大部分が占領される。ただし、スコットランド、アイルランド地域にはローマの支配は及ばず、この地域のケルト人が度々イングランドに侵入してきたため、ローマ人によって現在のイングランドとスコットランドの境界付近に長城が建設された。ローマはこの地域をブリタニアと呼んだ。これが現在のブリテン島の起源である。またブリタニア支配の拠点としてロンディニウムを建設した。これが現在のロンドンの起源となる。ローマ人は在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。
5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まりローマ帝国に混乱が広まる。ローマはブリタニアでの植民をあきらめてヨーロッパ大陸へと引き返す。449年にアングロ・サクソン人がグレートブリテン島に侵入し、元々住んでいたケルト系住人はアングロ・サクソン人に同化され、一部はコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出されるようになった。
グレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人はノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックスなどの7つの王国を建設し覇権を争う。このイングランドに7つの王国が並立した829年までの380年間は七王国時代と言われる。この中でもっとも有力だったのはウェセックス、829年にはウェセックス王がエグバート統一王となる。同時期にデンマークのヴァイキングであるデーン人の侵入も活発になってきた。このデーン人の侵入に対抗してイングランドの中興を担ったのがアルフレッド大王である。しかしその後もデーン人の侵入は続き、1016年にはデンマークのクヌートによってアングロサクソンの王がイングランドから追い出され、征服王朝であるデーン朝(北海帝国)が成立。その後アングロサクソンによる王朝が復活したものの、デーンやドーバー海峡の対岸にあるノルマンディー公のイングランドに対する干渉も強くなる。エドワード懺悔王が嗣子のないまま死亡すると、その後王位についたエドワードの義弟ハロルド・ゴドウィンソンに対して1066年、ノルマンディー公ギョームが異議を申し立て、イングランドに侵入する。
ハロルドはノルマンディー公軍に対し、ヘイスティングスの戦いに敗れ、戦死する。ロンドンを占領したギヨームはウェストミンスター寺院においてイングランド王に即位し、イングランド王ウィリアム1世を名乗る。これによりアングロサクソンによる王統は途絶え、征服王朝としてのノルマン朝が成立する。ノルマンディー公ギヨームによるイングランド征服がノルマン・コンクエストと言われるものだ。これによってギヨームはイングランド王ウィリアム1世として、フランス王と対等な王になる。しかし、フランスにおけるノルマンディー大公ギヨームとしてはフランス王の臣下という奇妙な立場にあった。これが百年戦争の遠因ともなってゆく。ノルマン朝は征服王朝であり、そのため国王の権限がはじめから強かった。これはイングランドにおいてもっとも早く絶対王政が確立した原因の一つにもなっている。
ノルマン朝はわずか4代で王位を継ぐ者がいなくなり、内乱期と呼ばれるスティーヴン王の治世を経て、1154年フランスのアンジュー伯家から新しい王ヘンリー2世が迎えられ、これがプランタジネット朝の始まりになる。アンジュー伯もまたフランス国内においてはフランス王の臣下だったので、フランス王とイングランド王の関係はますます複雑なものになる。またノルマン公国領にあわせて、アンジュー伯国領もイングランド王の支配する土地となったため、フランスとの関係は悪化の方向をたどる。
プランタジネット朝第3代の王ジョンの代にイングランドはフランス王フィリップ2世との抗争にやぶれ、ヨーロッパ大陸に持つ領土を失う。このためジョン王は欠地王とあだ名され、こうした無能な王が強権(当時フランスとの抗争で、貴族たちにも重税を科していた)を発動するのを抑制されるようになる。1215年貴族の一斉反抗に敗れたジョンは議会による承認なしに新たな課税はできないとするマグナ・カルタを認めさせられる。これは王権を抑制する議会権力伸長の第一歩となった。ジョンの後を継いだヘンリー3世の時代に、フランスから来た貴族シモン・ド・モンフォールが反乱をおこし、それまでの、高位聖職者、貴族からなっていた身分制議会に騎士、都市の代表を加えた。その後エドワード1世によって模範議会が召集される。現在のように上院である貴族院と下院である庶民院に分かれたのは14世紀頃であり、金銭法案に関する先議権が庶民院に与えられたのは15世紀頃になる。
エドワード1世は1277年ウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズ率いるウェールズの征服に取り掛かりグリフィズを戦死させた。ウェールズはその後も抵抗を続けるが、グリフィズの戦死後はエドワードもウェールズとの親和策をとる方向に転化し、臨月の王妃をウェールズに呼び寄せ、1301年ウェールズで生まれた王太子エドワード2世にプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ大公)の称号を与える。これ以降イングランド王室次期王位継承者に対して「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を用いるようになった。
フランスでカペー朝が断絶し、ヴァロワ家からフィリップ8世が即位すると、1339年イングランド王エドワード3世がこれに異議を申し立て、フランスの王位継承権を主張し、フランスに侵入を開始、これが百年戦争の始まりとなる。開戦当初はエドワード黒太子の活躍もあって、フランスの半分以上を占領し、イングランドが優位に立つ。ヘンリー6世の時代には一時期イングランドとフランスの統一王朝が成立する。その後フランス王シャルル7世とジャンヌ・ダルクによる巻き返しによってイングランドは敗退をはじめ、1453年にはイングランドが占領していたボルドーが陥落、イングランドはカレーを除く全ての大陸の領土を喪失する。
フランスに対して王位継承権を主張したプランタジネット家であったがエドワード3世の孫 リチャード2世が廃位させられると断絶し、王位はランカスター家に渡る。この後1455年からイングランドはランカスター家とヨーク家が争う内戦状態となり、これがバラ戦争と呼ばれる。バラ戦争は最終的にランカスター家の支流にあたるヘンリー・デューターがエドワード4世の娘でヨーク家のエリザベスと結婚して即位し、テューダー朝を起こす1485年まで継続する。百年戦争からバラ戦争を通してまでのこの期間に、イングランドではペストが流行し、農奴反乱であるワット・タイラーの乱が起こるなど社会は混乱を極めた。その間にも農奴制は崩壊の方向に向かい、封建制は完全に崩れ去った。封建制の崩壊は騎士と貴族の社会の破壊を意味し、この後のテューダー朝による絶対王政の基礎が形作られてゆく。この時期に良質の羊毛生産に支えられた毛織物工業が発達し、ハンザ同盟との競合の少ない低地地方との交易を通じて典型的な農業国からの脱出が進んでゆく。
イングランド王に即位したヘンリー・テューダーはヘンリー7世を名乗る。百年戦争とバラ戦争によってイングランド国内の貴族、騎士層は疲弊しており、王権は強まる。従って以降のテューダー朝の歴史はイングランドにおける絶対王政の時代となる。貴族、騎士の代わりにイングランドの国政に影響力を持つようになったのは、王の側に官僚として仕える廷臣、そして大商人たちであった。イングランドにおける絶対王政の最大の成果はイングランド国教会を成立させたことだ。16世紀に入るとヨーロッパでは宗教改革の動きが活発になり、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンの場合は純粋に宗教的な理由から出発していたが、イングランドにおける宗教改革はヘンリー7世の次の王であるヘンリー8世の離婚問題という非宗教的な理由から出発している。ヘンリー8世の后はアラゴン王国国王フェルナンド2世とカスティーリャ王国女王のイサベル1世の娘キャサリンであったが、キャサリンは男子の後継者を望むヘンリーに対して女子1人のみを生んだだけ、ヘンリーは子の産めないキャサリンと離婚し、事実婚の関係にあったアン・ブーリンとの結婚を望む。カトリック教会においては離婚は認められないがローマ教皇に認めてもらうという抜け道があり、王族に関しては少なからずその名目で離婚がおこなわれていた。
ヘンリーもこの手法を用いたが、キャサリンの甥にあたる、神聖ローマ帝国のカール5世が教皇クレメンス7世を圧迫したため、教皇はこれを認めない。怒ったヘンリーはイングランドにおける教会の首位権はローマ教皇ではなくイングランド王にあるとする国王至上法を発布し、これに反対するものを次々に処刑する。この時処刑された者の中には有名なトマス・モアもいる。こうしてキャサリンとの離婚を成立させたヘンリーはアン・ブーリンと再婚する。その後も次々と后との離婚(時には処刑)と再婚を繰り返す。ヘンリーには6人の后がいた。ヘンリーとしては王妃との離婚が成立すればよかっただけで、典礼の様式などはカトリックそのままだった。その後ヘンリーの子となるエドワード6世の時代に祈祷書の制定が行われ、カルヴァン派の様式が取り入れられ始めた。ただしイングランドではこの後も国教会とカトリックの間で揺れ動き、エドワードの後に女王となったキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリー1世はイングランドにおけるカトリックの復権を企てる。これに対する反発はかなり根強いものがあり、彼女はカトリックの復権に反対するものを悉く処刑したため「ブラッディー・メアリー」とあだ名された。イングランドにおいて最終的に国教会の優位が確定されるのはメアリーの後を継いだ妹でアン・ブーリンの娘であるエリザベス1世の時になる。エリザベスはイングランドにおける絶対王政の頂点を極めることになる。エリザベスは当時、無敵艦隊を率いて世界各国に植民地を持ちヨーロッパの強国となっていたスペイン・ハプスブルグ家に挑戦をはじめる。エリザベスはスペインからの独立を目指して戦っていたオランダの独立戦争を支持し援助する。時のスペイン国王フェリペ2世はこれに対してイングランド攻略を目指して無敵艦隊を送るが1588年のアルマダの海戦において私掠船を中心としたイングランド海軍に大敗する。スペインの海軍力は大幅に低下し、イングランドの海軍力はイギリス帝国を維持するイギリス海軍に発展するまで上昇する。当時ヨーロッパの最強国の一つであったスペインを軍事的に打ち負かしたことで、イングランドの国際的地位は高まる。エリザベスはイングランド王位を持つ自分の立場を利用される事(つまり外国に干渉される事)を嫌い生涯独身を通した。そのためエリザベスには子はおらずテューダー朝はエリザベスで終わる。その後継にはスコットランド王であったステュアート家のジェームズ6世が指名される。
1603年スコットランド王ジェームス6世がイングランド王として即位しイングランド王ジェームズ1世となる。イングランドとスコットランドは同じ人物を王に頂く同君連合となる。スコットランド王としてのジェームズはスコットランドにおいてカルヴァン派の影響を強く受けていた長老派への対応に手を焼いており、イングランドの国王至上法にならって暗黒法を発布していた。イングランド王になると、国王を教会のトップに置く国教会の制度を気に入り、イングランドの宗教を国教会に統一する事に腐心し、ピューリタンやカトリック教徒を弾圧。この時国王の弾圧をのがれ新天地を目指してメイフラワー号でアメリカ大陸に渡ったのがピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人たちだ。彼らは北米植民地においてニューイングランド植民地の建設に邁進する。ジェームズの跡を継いだ、息子チャールズ1世は、さらに一歩進んで国教会をスコットランドにも導入しようと試みる。この試みは長老派の勢力が強かったスコットランドにおいて大反発を受けて大反乱となる。チャールズはこれを軍事力によって屈服させようとし、その財源を大増税によって賄おうとした。この増税にはイングランド議会の承認を得ていなかったので、チャールズの施政方針はイングランドにおいても大反発を招き、これが清教徒革命の火種となる。
スコットランドのへの派兵のために大増税を行ったチャールズ1世に対して1628年議会は権利の請願を王に提出し、議会の承認に基づかない金銭法の施行を行わないこと、法に拠らない不当な逮捕を行わないことを求める。一旦はチャールズもこれを認めたものの直後に議会を解散し、以降1640年まで議会が召集されない状態が続く。スコットランドの反乱は一旦は収まったものの1640年再び、大反乱が起こると、チャールズは議会を招集し増税に関する金銭法案の可決を求めた。チャールズに反発する議会はこれに応じなかったため、わずか3週間で解散された(短期議会と呼ばれる)。その後再び召集された議会は、戦術を代え、王に対して金銭法案の可決をちらつかせながら、王に反省を促し、議会に対しての尊重や法の遵守と言った妥協を引き出す方向性に転じる。この議会はクロムウェルによって1653年に解散されるまで13年間開催されつづけたため長期議会と呼ばれる。王の反省を期待した議会であったが、王の態度は変わらないどころか、反国王派の議員を法を無視して逮捕しようと試みたため、議会と国王の対立は決定的となる。国王チャールズはロンドンを離れて王党派の勢力が根強いヨークによって軍備を整え、一方の議会はロンドンにあって軍備を整え始める。1642年ついに両軍は激突し、イングランドにおいて内戦が勃発。当初は王党派が優位にたったものの、議会派はスコットランドの反乱勢力と結び、さらに鉄騎兵を率いるクロムウェルが登場すると、王党派は劣勢になる。1646年チャールズはスコットランド軍に対し降伏する。一旦は脱出して再び反旗を翻すものの1648年再び捕らえられ、その翌年チャールズは処刑される。これによりイングランドにおける王統は一旦断絶し、国王を頂かない共和制となる。
1649年から1660年までイングランドは共和国となる。しかし、その実態はクロムウェルによる軍事独裁政権であり、鉄騎兵をはじめとする強大な軍事力に裏打ちされた政権だった。清教徒であったクロムウェルは王党派はもとより、王党派と妥協的であった長老派や清教徒よりも過激な革命論を主張した水平派、真性水平派を弾圧する。さらにカトリックを弾圧し、カトリックの居城となり、亡命した王党派の拠点ともなっていたアイルランドにも侵攻する。イングランドと海外植民地について争い、海の覇権を争っていたオランダにも戦争を仕掛け英蘭戦争を引き起こす。1653年には、王党派のリバイバルを抑え、軍事政権を維持するために議会を解散し、護国卿に就任し、クロムウェルの独裁性は一層の高まりを見せるが、1658年にクロムウェルが亡くなり、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿の地位を継承するが、リチャードは父親程の能力を発揮できなかったため、王党派にリバイバルのチャンスが巡ってくる。
1660年オランダに亡命していたチャールズ2世が即位し、イングランドにおける王政復古となる。チャールズは亡命に際してフランスのルイ14世から多大な庇護を受けており、后はカトリック教国ポルトガルの王女カタリナであったため、自身は国教徒であったが親カトリック的であった。イングランドでは清教徒革命の結果、議会以下国民の間では絶対王政は廃れたものとの認識があったが、国王は時代錯誤的な強権を発動しようとしたため、議会は人身保護法を制定し、法によらない不当逮捕の禁止を明文化させた。これがイングランドにおけるデュー・プロセスの確定である。さらにカトリックの者が公職に就く事を禁止した審査法を制定し、王を牽制した。チャールズには嫡子がおらず、王位の継承を巡っては、王弟であるヨーク公ジェームズしか継承者がいなかったが、ジェームズはカトリックであり、議会はジェームズの即位に妥協する勢力とこれに反発する勢力に2分された。前者が後の保守党の前身となるトーリーであり、後者が後の自由党の前身となるホイッグである。結局この論争はトーリーに軍配があがり、プロテスタントの国イングランドはカトリックの王を国王に迎える事になる。
チャールズ2世の死に際して、弟ジェームズは国王に即位し、イングランド王ジェームズ2世となる。イングランドにとってはメアリ1世以来のカトリックの王となるが、カトリックの王を頂くと言う妥協が成立した背景には、ジェームズにも嫡子がおらず、カトリックの王は彼一代限りという目論見があったためだ。その後、ジェームズと王妃であるモデナ公国皇女であるメアリーの間に男子が誕生すると話は全く変わったものになる。ジェームズ以降もカトリックの王が即位し続ける可能性が生じたことにより、ジェームズの即位をめぐって対立していたトーリーとホイッグはここに団結し、ジェームズの排除に動く。議会はジェームズの娘メアリーの夫でプロテスタントの国オランダの統領であったオラニエ公ウィレム率いる軍団を招き寄せ、ジェームズとの対決姿勢を明らかにした。これに対してジェームズはあっさりと亡命してしまい、ロンドンを中心とした地域で流血の事態には至らなかった。これが名誉革命と言われる。議会は次期国王としてメアリーとウィレム夫妻を指名し、両王は王権に対して議会の優位性を明文化した「権利の章典」に署名した上でイングランド王に即位する。そして、1707年の女王アンの治世の時に、それまでイングランドとスコットランドの同君連合という関係を改め、両国の議会を統一した連合国家となった。これがグレートブリテン王国の誕生となる。