キリスト教の教祖イエスは、自分のことをユダヤ教徒と認識していた。しかし、厳格な律法を掲げ、律法を守る人間だけが救済されるというユダヤ教の教えに対して、イエスは異を唱え始めた。さらにイエスは、罪人も神に救済されるとも言い出した。ユダヤ教からすれば、イエスは明らかに異端となる。そのため、彼は謀反の罪でユダヤ教の幹部にとらえられ、その地を支配していたローマの総督によって十字架刑に処されたのだ。キリスト教の誕生は、ローマの歴史と重なっている。キリスト教が成立するのはローマ史の折り返し地点だった。また、イエスが名前で、キリストが名字と思われているようだが、それは違う。イエスというのは太郎とか一郎というように、当時のパレスチナにいた普通の男の名前であり、キリストは「油を注がれた者」という意味だ。ユダヤでは王が戴冠する時に油を注ぐ習慣があった。王は救世主というのがユダヤ教の伝統的な考え方だった。
ヘブライ人は、唯一神ヤハヴェへの信仰を固く守っていた。そこから選民思想や救世主の出現を待望するユダヤ教が確立していった。ヘブライ人の王国が紀元前千年頃に建国され、ダビデ王、ソロモン王のもとで栄えた後、イスラエル王国とユダ王国に分裂し、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国も新バビロニアに征服され住民はバビロンに連れ去られた(有名なバビロン捕囚事件)。バビロンは現在のイラク中央部。バビロンに連れ去られたヘブライ人たちは、西アジアを統一したペルシア(アケメネス朝)によって解放され、パレスチナへ戻る。そこでヤハヴェの神殿を再建する。これがローマ共和政の始まる時と同じ頃で、ユダヤ教が確立した時とされている。やがて、ユダヤ教は厳格に律法を守る派(パリサイ派)が権力を握る。彼等はローマ支配のもとで、重税を課してユダヤの民衆を苦しめる。そこに民衆の間から救世主待望の気運が高まり、そこにイエスが出現した。イエス・キリストとは、イエスという男がキリストつまり「油を注がれた者」すなわち救い主であると信ずる信仰告白でもあった。
イエスの処刑後にイエスが復活したという信仰が広がり、キリスト教が成立していく。初期のキリスト教の伝播にとって、決定的な役割を果たしたのはパウロであった。改名前はサウロと名乗っていたが、ローマの市民権を持ち、ユダヤ教のパリサイ派に属していた。もともとサウロは、キリスト教徒を迫害する立場にいて、イエスの教えを神への冒涜と思っていた。ところが、キリスト教徒を捕縛し、エルサレムへ連行するため、ダマスコ(現在のシリアのダマスカス)に近くなった時、天からの光が彼の周りを照らし、サウロは地に倒れ、「私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、あなたのなすべきことが知らされる」と天からの声を聞く。生きている時のイエスには会ったことがない。イエスの直弟子ではない。そこでサウロは、イエスの教えのあり方を変える。ユダヤ人共同体の内部では限界を感じ、外部にキリスト教を広めようと決心する。パウロと名を改めて、小アジア(現在のトルコ、アナトリア一帯)、ギリシア、ローマへと伝道の旅を続け、各地に教会をつくる。ローマ帝政下でキリスト教は拡大を続け、313年のミラノ勅令によって公認された頃には300万人にまで増える。キリスト教という宗教をつくったのはパウロであり、イエスは教祖とはいえるが、開祖はパウロということになる。
さて、イスラムの開祖ムハンマドがアラビア半島西部のメッカで生まれたのは、570年頃。当時、東ローマのビザンツ帝国とササン朝ペルシアが戦争を繰り返していたため、メソポタミア付近の東西交通路は往来が困難だった。紅海に近いメッカは、商品経由地として繁栄していた。ムハンマドはここの商人の一族だった。40歳の頃、山の洞窟で瞑想していたが、光り輝く天使ガブリエルが現れ啓示を受ける。唯一神アッラーへの信仰、偶像崇拝の禁止、神の前の万人の平等を説き、大商人による富の独占を批判する。当時のメッカは格差社会だった。メッカの支配層であった大商人たちはムハンマドを迫害し、彼は信徒たちと共に、北のメディナに移住する。これを聖遷(ヒジュラ)といい、移住した622年をイスラム暦元年としている。630年にはメッカを無血で占領し、それまで多神教だった神殿をイスラムの聖殿に改めた。それ以後、ムハンマドは周囲のアラブ諸部族を次々と支配下に治め、632年にはアラビア半島を制圧することになる。
イスラムは、一神教のユダヤ教、キリスト教の影響を強く受けている。アッラーとは、唯一神そのものを指す言葉で、英語でいえば「ゴッド」と同じ。神の前の平等を説く点もキリスト教と同じだが、イスラムでは更に徹底していて、専門の神官階級は存在しない。ムハンマドは最初で最後の預言者だ。ムハンマドがアラビア語で信者に語った言葉を集めたのが聖典コーラン。原名の「クルアーン」は「読誦すべきもの」という意味。コーランを声に出して読むことで神と直に接することができるという。キリスト教の聖書と異なる点として、コーランは教義の他に、日常生活の全てを規定する法典としての性格を持っていた。五行といわれるものがある。信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼の5つ。他にも、酒を飲まない、豚肉を食べない、金を貸しても利子をとらないなどの規定もある。イスラムとは絶対帰依という意味だ。
パレスチナの地は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム全てにとっての聖地である。地中海沿岸のパレスチナは、紀元前1000年頃にヘブライ人が王国を建設した地域の名前だ。昔はカナーンとも呼ばれていた。バビロン捕囚から解放された後に、彼等はパレスチナの都市エルサレムに神殿を建設した。その後、ローマ帝国の支配下に置かれたユダヤ人は独立運動を起こすが、弾圧、迫害されて、パレスチナの地から追われて離散する。キリスト教では、イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘がエルサレムにあった。現在のエルサレムにある聖墳墓教会はゴルゴタの丘があった場所とされる。イスラムにとっても、エルサレムが聖地なのは、「ムハンマドの昇天」といわれる伝承に由来する。ムハンマドはある夜、天使ガブリエルに導かれ、エルサレムの巨岩から天馬に跨って昇天し、アッラーに謁見したといわれる。2代目カリフがエルサレムを支配下に置き、7世紀のウマイヤ朝時代には、ムハンマドの昇天の起点の巨岩の上に「岩のドーム」が作られた。ユダヤ、キリスト、イスラムの三つの聖地が併存するエルサレムだが、十字軍の遠征終了後は、ほとんどの時代、三つの宗教は平和的に併存していた。近年になって、紛争が起きたのは1948年のイスラエル建国からである。
パレスチナ問題の発端は第一次世界大戦時、パレスチナはオスマントルコの領土だった。オスマントルコはドイツ、オーストリアの陣営に入って、バルカン戦争で失った領土の奪還を目指す。イギリスは中東でトルコと戦火を交えるが、有利に進めるために三枚舌外交をやる。1、戦後のアラブ人の独立と引き換えに、アラブ人にオスマントルコに対する反乱を起こさせる。トルコの支配に不満を持つアラブ人の意識を利用した。2、フランス、ロシアとの間で、戦後のトルコ領を分割する秘密協定を結ぶ。3、パレスチナへの帰還を望むユダヤ人に民族の郷土の建設を約束する。(バルフォア宣言)、そして、オスマントルコが敗戦した結果どうなったか。パレスチナはイギリスの委任統治領になった。イギリスの委任統治のもとで、ユダヤ人の入植を認めるということだ。1930年代にヒットラーのユダヤ人撲滅運動が起こると、ユダヤ人は続々とパレスチナに入ってきた。これをアラブ人が黙認するわけがない。イギリスに対する激しい抵抗運動となる。
第二次世界大戦後は、疲弊したイギリスにパレスチナを統治する力は残っていない。1947年に国連でパレスチナ分割案が決議された。ユダヤ人国家とアラブ人国家に分け、エルサレムは国際管理地区にするというものだ。アラブ人は拒否するが、ユダヤ人は受け入れた。1948年イスラエルの建国となる。建国と同時に、イスラエルとアラブ諸国の間で第一次中東戦争が始まり、イスラエルが勝利する。4回に及ぶ戦争や交渉を経て、地中海に面したガザ地区と内陸部のユルダン川西岸地区にパレスチナ自治区ができた。現在、ガザ地区を実効支配するスンニ派原理主義過激派のハマス、その思想はイスラム国やタリバンと同様だ。世界はアッラーの神によって支配される一つの帝国でなければいけないという。そのためにイスラム革命が必要だという。最初にイスラエルをパレスチナから抹消しなければならないという。目下のハマスの戦略は、ヨルダン国王を打倒すること。ヨルダンにはアラブ人のパレスチナ難民が大勢いるので、彼等を動員して、ヨルダンで紛争を起こそうとしている。ヨルダン王室はイスラエルと良好な関係を持つ。ヨルダンの王政が転覆すれば、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)などの王政も動揺する。そこに、ハマスはイスラム国と提携して、中東に世界イスラム革命を輸出する拠点国家を建設しようとしていると見られる。
現在イスラム教には二つの宗派がある。スンニ派とシーア派だ。ムハンマドの滅後、イスラム教徒は、最高指導者として、カリフを選挙で選出。カリフとは、神の使徒の代理人という意味。4代目のカリフとなったアリーは、ムハンマドの従弟であり、ムハンマドの娘の夫でもある。4人のカリフの中でも血統的に最もムハンマドに近い。そこでアリーとその子孫が真の後継者と主張する党派が現れ、これがシーア派となる。シーアとは分派という意味で、アリーのシーアと呼ばれていたのが、シーアとだけ呼ばれるようになった。これに対して、スンニ派は代々のカリフを正統と認めるイスラムの多数派であり、ムハンマドの伝えた慣行「スンナ」に従う者を意味する。シーア派では最高指導者をイマームという。アリーが初代イマームで、アリーの子孫が2代目、3代目のイマームとなる。シーア派内部にもいくつかの党派があって、その主流派がイランで権力をもっている「12イマーム派」。11人目のイマームが9世紀末に亡くなった時、12人目のイマームも間もなく亡くなり、お隠れ(ガイバ)になってしまい、この隠れイマームが救世主として現れて救うという教義を持つ。それが現在のイランの核兵器問題と関係している。イランが核兵器を持ったとしても、イスラエルは、それを上回る多くの核兵器を所持している。イスラエルが核で攻撃しても、お隠れのイマームが現れてイランを守ってくれるとイランの支配層が信じているとすれば、イランには暴走する危険性がある。
イスラムの過激派というのは、ほとんどスンニ派のハンバリー学派に属する。スンニ派は主に4つの法学派に分かれている。ハンバリー学派以外の3つは政治的に問題はない。イスラム原理主義やテロ運動のほとんどは、ハンバリー学派から出ている。この学派の一つにワッハーブ派がある。18世紀の中ごろ、改革者ワッハーブによって創始された。サウジアラビアの王様と協力して、ワッハーブ王国をつくり、これが後のサウジアラビア王国の素地となった。現在でもサウジアラビアの国教はワッハーブ派であり、コーランとハディース(ムハンマド伝承集)しか認めていない。聖人崇拝も墓参りもしない。ムハンマド時代の原始イスラム教への回帰を唱え、極端な禁欲主義を主張する。アルカイダというのは、このワッハーブ派の武装グループで、イスラム国も同じ。北アフリカのイスラム、マグレブ諸国のアルカイダ、チェチェンのテログループ、アフガニスタンのタリバン、これらの過激派は全てワッハーブ派の系統であり、世俗世界では禁欲主義だ。
16世紀、イスラムの歴史に重要な転機が訪れる。1501年、イランにサファヴィー朝が成立し、12イマーム派を国教に定める。それ以前は、モロッコから新彊ウイグルまでがイスラムベルトとしてつながっていたのに、イランがシーア派になり、このベルトが切れた。サファヴィー朝の西はオスマン帝国、東はムガール帝国、どちらもスンニ派だ。シーア派のサファヴィー朝は、この2大国に挟まれサンドイッチ状態になった。かくして、16世紀にイスラム世界は大きく二分された。なぜサファヴィー朝はシーア派を国教にしたのか、イラン人には、はるか昔のペルシャ帝国の輝かしい記憶がある。その民族主義的なアイデンティティとシーア派が結びついたのだ。戦後のイランでは、親米派のバーレビ国王が強権的に近代化政策をとり、世俗化を進めた(白色革命といわれる)。ところが、格差拡大と支配層の腐敗で国民の不満が高まり、シーア派指導者ホメイニによるイラン革命が起こり、国王は国外へ亡命。1979年にはイスラム教を国家原理とするイラン・イスラム共和国が成立する。日本の政治家の多数はイランはペルシャ人の国という認識がない、アラブ諸国の一つという認識しかない。イランが近年、ホルムズ海峡の封鎖をほのめかしたり、バーレーンにイラン革命の思想を輸出しようとするのは、ペルシャ帝国の文脈で解釈しなければ理解できない。また、イランが、スンニ派原理主義であるパレスチナのハマスと良い関係にある理由は宗教ではなく、ペルシャ帝国主義的な発想による。対イスラエル、対キリスト教となれば、シーア派とスンニ派は団結するのだ。だからイランは、同じ12イマーム派であるレバノンのテロ組織ヒズボラも支援し、ハマスも全面支援している。
さて、現在のIS(イスラム・ステート)いわゆるイスラム国のことをいえば、2014年6月以降、イスラムのスンニ派武装集団ISIS(「イラク・シリア・イスラム国」その後「イスラム国(IS)」に改称)が国際情勢を大きく揺るがしている。これはシリア情勢と深く関係する。シリアのアサド政権はイスラムのアラウイ派によって成り立つ。アラウイ派はシーア派の一派と日本で新聞報道されているが、全く違うことに注意すべきだ。アラウイ派は、キリスト教や土着の山岳宗教などの要素が混じる特殊な土着宗教だ。一神教にはあり得ない輪廻転生を認め、クリスマスのお祝いもする。シリアでも国民の7割はスンニ派で、アラウイ派は1割程度しかいないのに、何故そうなったか。第一次世界大戦後にシリアはフランスの委任統治領となり、その時にフランスはアラウイ派を重要し、行政、警察、秘密警察にアラウイ派を登用した。植民地の支配では少数派を優遇するのが常套手段だった。多数派の民族や宗教集団を優遇すれば独立運動につながってしまう。宗主国への依存を強化するためだ。ジェノサイドが起きたルワンダでも宗主国のベルギーは少数派のツチ族を多数派のフッ族よりも優遇している。
「アラブの春」が起きたどの国でも反体制勢力としてのスンニ派の「ムスリム同胞団」がいる。だが、今のシリアにはいない。前大統領だった現アサド大統領の父が、ムスリム同胞団を皆殺したのだ。そのため、シリアは反体制運動もまとまらず、内戦状態になっていた。さらに混乱を加速させたのは、レバノンからアサド支援に入ってきたシーア派の過激派組織ヒズボラ(神の党)。アサド側が盛り返すと、今度は、シーア派に対抗するためにアルカイダ系の人々が入ってきて大混乱となった。そこに便乗したのがイスラム国だ。イスラム国は反体制派を装って資金や武器を獲得し、シリア北部を制圧し、イラクへと拡大していく。なぜ、イラクなのか。シリアで2014年の大統領選挙でアサドが勝ったため、アサドは簡単には倒れないと判断する。シリアにはないが、イラクには油田がある。オマル油田(シリア最大の油田)を抑えたが、ここは日量7万5千バレル程度、これに対しイラクの油田はキルクーク油田(クルド人が押さえている)だけでも日量数十万バレルだ。フセイン政権時代のイラクはイランとの対立があったため、独裁下といってもイラク人という国民意識があった。スンニ派かシーア派かは大きな問題ではなかった。ところが、新生イラクは多数派のシーア派が権力を握る、これにつけこんだのがイスラム国だ。これにイラクのスンニ派もなびき、イラクで急速に勢力を拡大している。
イスラム国の侵攻を受けた時点で、イラクを統治していたマリキ政権は、イスラムの12イマーム派に属している。マリキ政権は米国の傀儡政権だが、イラン国教のシーア派と同じ、そのため、イランから見れば現在のイラクは支援する対象になる。米国もイスラム国を排除したい。そこで、イランのロウハニ大統領は「必要であれば米国と協力する」というコメントを発した。イランはこれまで反米政権として知られてきたが、穏健派のロウハニ大統領が誕生してからは、米国に歩み寄ったようだが、米国トランプ大統領誕生以後は未知数だ。
ヘブライ人は、唯一神ヤハヴェへの信仰を固く守っていた。そこから選民思想や救世主の出現を待望するユダヤ教が確立していった。ヘブライ人の王国が紀元前千年頃に建国され、ダビデ王、ソロモン王のもとで栄えた後、イスラエル王国とユダ王国に分裂し、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、ユダ王国も新バビロニアに征服され住民はバビロンに連れ去られた(有名なバビロン捕囚事件)。バビロンは現在のイラク中央部。バビロンに連れ去られたヘブライ人たちは、西アジアを統一したペルシア(アケメネス朝)によって解放され、パレスチナへ戻る。そこでヤハヴェの神殿を再建する。これがローマ共和政の始まる時と同じ頃で、ユダヤ教が確立した時とされている。やがて、ユダヤ教は厳格に律法を守る派(パリサイ派)が権力を握る。彼等はローマ支配のもとで、重税を課してユダヤの民衆を苦しめる。そこに民衆の間から救世主待望の気運が高まり、そこにイエスが出現した。イエス・キリストとは、イエスという男がキリストつまり「油を注がれた者」すなわち救い主であると信ずる信仰告白でもあった。
イエスの処刑後にイエスが復活したという信仰が広がり、キリスト教が成立していく。初期のキリスト教の伝播にとって、決定的な役割を果たしたのはパウロであった。改名前はサウロと名乗っていたが、ローマの市民権を持ち、ユダヤ教のパリサイ派に属していた。もともとサウロは、キリスト教徒を迫害する立場にいて、イエスの教えを神への冒涜と思っていた。ところが、キリスト教徒を捕縛し、エルサレムへ連行するため、ダマスコ(現在のシリアのダマスカス)に近くなった時、天からの光が彼の周りを照らし、サウロは地に倒れ、「私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、あなたのなすべきことが知らされる」と天からの声を聞く。生きている時のイエスには会ったことがない。イエスの直弟子ではない。そこでサウロは、イエスの教えのあり方を変える。ユダヤ人共同体の内部では限界を感じ、外部にキリスト教を広めようと決心する。パウロと名を改めて、小アジア(現在のトルコ、アナトリア一帯)、ギリシア、ローマへと伝道の旅を続け、各地に教会をつくる。ローマ帝政下でキリスト教は拡大を続け、313年のミラノ勅令によって公認された頃には300万人にまで増える。キリスト教という宗教をつくったのはパウロであり、イエスは教祖とはいえるが、開祖はパウロということになる。
さて、イスラムの開祖ムハンマドがアラビア半島西部のメッカで生まれたのは、570年頃。当時、東ローマのビザンツ帝国とササン朝ペルシアが戦争を繰り返していたため、メソポタミア付近の東西交通路は往来が困難だった。紅海に近いメッカは、商品経由地として繁栄していた。ムハンマドはここの商人の一族だった。40歳の頃、山の洞窟で瞑想していたが、光り輝く天使ガブリエルが現れ啓示を受ける。唯一神アッラーへの信仰、偶像崇拝の禁止、神の前の万人の平等を説き、大商人による富の独占を批判する。当時のメッカは格差社会だった。メッカの支配層であった大商人たちはムハンマドを迫害し、彼は信徒たちと共に、北のメディナに移住する。これを聖遷(ヒジュラ)といい、移住した622年をイスラム暦元年としている。630年にはメッカを無血で占領し、それまで多神教だった神殿をイスラムの聖殿に改めた。それ以後、ムハンマドは周囲のアラブ諸部族を次々と支配下に治め、632年にはアラビア半島を制圧することになる。
イスラムは、一神教のユダヤ教、キリスト教の影響を強く受けている。アッラーとは、唯一神そのものを指す言葉で、英語でいえば「ゴッド」と同じ。神の前の平等を説く点もキリスト教と同じだが、イスラムでは更に徹底していて、専門の神官階級は存在しない。ムハンマドは最初で最後の預言者だ。ムハンマドがアラビア語で信者に語った言葉を集めたのが聖典コーラン。原名の「クルアーン」は「読誦すべきもの」という意味。コーランを声に出して読むことで神と直に接することができるという。キリスト教の聖書と異なる点として、コーランは教義の他に、日常生活の全てを規定する法典としての性格を持っていた。五行といわれるものがある。信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼の5つ。他にも、酒を飲まない、豚肉を食べない、金を貸しても利子をとらないなどの規定もある。イスラムとは絶対帰依という意味だ。
パレスチナの地は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム全てにとっての聖地である。地中海沿岸のパレスチナは、紀元前1000年頃にヘブライ人が王国を建設した地域の名前だ。昔はカナーンとも呼ばれていた。バビロン捕囚から解放された後に、彼等はパレスチナの都市エルサレムに神殿を建設した。その後、ローマ帝国の支配下に置かれたユダヤ人は独立運動を起こすが、弾圧、迫害されて、パレスチナの地から追われて離散する。キリスト教では、イエスが十字架にかけられたゴルゴタの丘がエルサレムにあった。現在のエルサレムにある聖墳墓教会はゴルゴタの丘があった場所とされる。イスラムにとっても、エルサレムが聖地なのは、「ムハンマドの昇天」といわれる伝承に由来する。ムハンマドはある夜、天使ガブリエルに導かれ、エルサレムの巨岩から天馬に跨って昇天し、アッラーに謁見したといわれる。2代目カリフがエルサレムを支配下に置き、7世紀のウマイヤ朝時代には、ムハンマドの昇天の起点の巨岩の上に「岩のドーム」が作られた。ユダヤ、キリスト、イスラムの三つの聖地が併存するエルサレムだが、十字軍の遠征終了後は、ほとんどの時代、三つの宗教は平和的に併存していた。近年になって、紛争が起きたのは1948年のイスラエル建国からである。
パレスチナ問題の発端は第一次世界大戦時、パレスチナはオスマントルコの領土だった。オスマントルコはドイツ、オーストリアの陣営に入って、バルカン戦争で失った領土の奪還を目指す。イギリスは中東でトルコと戦火を交えるが、有利に進めるために三枚舌外交をやる。1、戦後のアラブ人の独立と引き換えに、アラブ人にオスマントルコに対する反乱を起こさせる。トルコの支配に不満を持つアラブ人の意識を利用した。2、フランス、ロシアとの間で、戦後のトルコ領を分割する秘密協定を結ぶ。3、パレスチナへの帰還を望むユダヤ人に民族の郷土の建設を約束する。(バルフォア宣言)、そして、オスマントルコが敗戦した結果どうなったか。パレスチナはイギリスの委任統治領になった。イギリスの委任統治のもとで、ユダヤ人の入植を認めるということだ。1930年代にヒットラーのユダヤ人撲滅運動が起こると、ユダヤ人は続々とパレスチナに入ってきた。これをアラブ人が黙認するわけがない。イギリスに対する激しい抵抗運動となる。
第二次世界大戦後は、疲弊したイギリスにパレスチナを統治する力は残っていない。1947年に国連でパレスチナ分割案が決議された。ユダヤ人国家とアラブ人国家に分け、エルサレムは国際管理地区にするというものだ。アラブ人は拒否するが、ユダヤ人は受け入れた。1948年イスラエルの建国となる。建国と同時に、イスラエルとアラブ諸国の間で第一次中東戦争が始まり、イスラエルが勝利する。4回に及ぶ戦争や交渉を経て、地中海に面したガザ地区と内陸部のユルダン川西岸地区にパレスチナ自治区ができた。現在、ガザ地区を実効支配するスンニ派原理主義過激派のハマス、その思想はイスラム国やタリバンと同様だ。世界はアッラーの神によって支配される一つの帝国でなければいけないという。そのためにイスラム革命が必要だという。最初にイスラエルをパレスチナから抹消しなければならないという。目下のハマスの戦略は、ヨルダン国王を打倒すること。ヨルダンにはアラブ人のパレスチナ難民が大勢いるので、彼等を動員して、ヨルダンで紛争を起こそうとしている。ヨルダン王室はイスラエルと良好な関係を持つ。ヨルダンの王政が転覆すれば、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)などの王政も動揺する。そこに、ハマスはイスラム国と提携して、中東に世界イスラム革命を輸出する拠点国家を建設しようとしていると見られる。
現在イスラム教には二つの宗派がある。スンニ派とシーア派だ。ムハンマドの滅後、イスラム教徒は、最高指導者として、カリフを選挙で選出。カリフとは、神の使徒の代理人という意味。4代目のカリフとなったアリーは、ムハンマドの従弟であり、ムハンマドの娘の夫でもある。4人のカリフの中でも血統的に最もムハンマドに近い。そこでアリーとその子孫が真の後継者と主張する党派が現れ、これがシーア派となる。シーアとは分派という意味で、アリーのシーアと呼ばれていたのが、シーアとだけ呼ばれるようになった。これに対して、スンニ派は代々のカリフを正統と認めるイスラムの多数派であり、ムハンマドの伝えた慣行「スンナ」に従う者を意味する。シーア派では最高指導者をイマームという。アリーが初代イマームで、アリーの子孫が2代目、3代目のイマームとなる。シーア派内部にもいくつかの党派があって、その主流派がイランで権力をもっている「12イマーム派」。11人目のイマームが9世紀末に亡くなった時、12人目のイマームも間もなく亡くなり、お隠れ(ガイバ)になってしまい、この隠れイマームが救世主として現れて救うという教義を持つ。それが現在のイランの核兵器問題と関係している。イランが核兵器を持ったとしても、イスラエルは、それを上回る多くの核兵器を所持している。イスラエルが核で攻撃しても、お隠れのイマームが現れてイランを守ってくれるとイランの支配層が信じているとすれば、イランには暴走する危険性がある。
イスラムの過激派というのは、ほとんどスンニ派のハンバリー学派に属する。スンニ派は主に4つの法学派に分かれている。ハンバリー学派以外の3つは政治的に問題はない。イスラム原理主義やテロ運動のほとんどは、ハンバリー学派から出ている。この学派の一つにワッハーブ派がある。18世紀の中ごろ、改革者ワッハーブによって創始された。サウジアラビアの王様と協力して、ワッハーブ王国をつくり、これが後のサウジアラビア王国の素地となった。現在でもサウジアラビアの国教はワッハーブ派であり、コーランとハディース(ムハンマド伝承集)しか認めていない。聖人崇拝も墓参りもしない。ムハンマド時代の原始イスラム教への回帰を唱え、極端な禁欲主義を主張する。アルカイダというのは、このワッハーブ派の武装グループで、イスラム国も同じ。北アフリカのイスラム、マグレブ諸国のアルカイダ、チェチェンのテログループ、アフガニスタンのタリバン、これらの過激派は全てワッハーブ派の系統であり、世俗世界では禁欲主義だ。
16世紀、イスラムの歴史に重要な転機が訪れる。1501年、イランにサファヴィー朝が成立し、12イマーム派を国教に定める。それ以前は、モロッコから新彊ウイグルまでがイスラムベルトとしてつながっていたのに、イランがシーア派になり、このベルトが切れた。サファヴィー朝の西はオスマン帝国、東はムガール帝国、どちらもスンニ派だ。シーア派のサファヴィー朝は、この2大国に挟まれサンドイッチ状態になった。かくして、16世紀にイスラム世界は大きく二分された。なぜサファヴィー朝はシーア派を国教にしたのか、イラン人には、はるか昔のペルシャ帝国の輝かしい記憶がある。その民族主義的なアイデンティティとシーア派が結びついたのだ。戦後のイランでは、親米派のバーレビ国王が強権的に近代化政策をとり、世俗化を進めた(白色革命といわれる)。ところが、格差拡大と支配層の腐敗で国民の不満が高まり、シーア派指導者ホメイニによるイラン革命が起こり、国王は国外へ亡命。1979年にはイスラム教を国家原理とするイラン・イスラム共和国が成立する。日本の政治家の多数はイランはペルシャ人の国という認識がない、アラブ諸国の一つという認識しかない。イランが近年、ホルムズ海峡の封鎖をほのめかしたり、バーレーンにイラン革命の思想を輸出しようとするのは、ペルシャ帝国の文脈で解釈しなければ理解できない。また、イランが、スンニ派原理主義であるパレスチナのハマスと良い関係にある理由は宗教ではなく、ペルシャ帝国主義的な発想による。対イスラエル、対キリスト教となれば、シーア派とスンニ派は団結するのだ。だからイランは、同じ12イマーム派であるレバノンのテロ組織ヒズボラも支援し、ハマスも全面支援している。
さて、現在のIS(イスラム・ステート)いわゆるイスラム国のことをいえば、2014年6月以降、イスラムのスンニ派武装集団ISIS(「イラク・シリア・イスラム国」その後「イスラム国(IS)」に改称)が国際情勢を大きく揺るがしている。これはシリア情勢と深く関係する。シリアのアサド政権はイスラムのアラウイ派によって成り立つ。アラウイ派はシーア派の一派と日本で新聞報道されているが、全く違うことに注意すべきだ。アラウイ派は、キリスト教や土着の山岳宗教などの要素が混じる特殊な土着宗教だ。一神教にはあり得ない輪廻転生を認め、クリスマスのお祝いもする。シリアでも国民の7割はスンニ派で、アラウイ派は1割程度しかいないのに、何故そうなったか。第一次世界大戦後にシリアはフランスの委任統治領となり、その時にフランスはアラウイ派を重要し、行政、警察、秘密警察にアラウイ派を登用した。植民地の支配では少数派を優遇するのが常套手段だった。多数派の民族や宗教集団を優遇すれば独立運動につながってしまう。宗主国への依存を強化するためだ。ジェノサイドが起きたルワンダでも宗主国のベルギーは少数派のツチ族を多数派のフッ族よりも優遇している。
「アラブの春」が起きたどの国でも反体制勢力としてのスンニ派の「ムスリム同胞団」がいる。だが、今のシリアにはいない。前大統領だった現アサド大統領の父が、ムスリム同胞団を皆殺したのだ。そのため、シリアは反体制運動もまとまらず、内戦状態になっていた。さらに混乱を加速させたのは、レバノンからアサド支援に入ってきたシーア派の過激派組織ヒズボラ(神の党)。アサド側が盛り返すと、今度は、シーア派に対抗するためにアルカイダ系の人々が入ってきて大混乱となった。そこに便乗したのがイスラム国だ。イスラム国は反体制派を装って資金や武器を獲得し、シリア北部を制圧し、イラクへと拡大していく。なぜ、イラクなのか。シリアで2014年の大統領選挙でアサドが勝ったため、アサドは簡単には倒れないと判断する。シリアにはないが、イラクには油田がある。オマル油田(シリア最大の油田)を抑えたが、ここは日量7万5千バレル程度、これに対しイラクの油田はキルクーク油田(クルド人が押さえている)だけでも日量数十万バレルだ。フセイン政権時代のイラクはイランとの対立があったため、独裁下といってもイラク人という国民意識があった。スンニ派かシーア派かは大きな問題ではなかった。ところが、新生イラクは多数派のシーア派が権力を握る、これにつけこんだのがイスラム国だ。これにイラクのスンニ派もなびき、イラクで急速に勢力を拡大している。
イスラム国の侵攻を受けた時点で、イラクを統治していたマリキ政権は、イスラムの12イマーム派に属している。マリキ政権は米国の傀儡政権だが、イラン国教のシーア派と同じ、そのため、イランから見れば現在のイラクは支援する対象になる。米国もイスラム国を排除したい。そこで、イランのロウハニ大統領は「必要であれば米国と協力する」というコメントを発した。イランはこれまで反米政権として知られてきたが、穏健派のロウハニ大統領が誕生してからは、米国に歩み寄ったようだが、米国トランプ大統領誕生以後は未知数だ。