島崎藤村の『夜明け前』は長編小説で、第1部と第2部に分かれ、幕末維新の約30年の時代の流れを細部にわたって描く。「中央公論」に『夜明け前』の連載が始まったのが昭和4年、藤村が最晩年の56歳の時だ。昭和4年は前の年の金融恐慌に続いて満州事変が起こり、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年でもあり、ニューヨークでは世界大恐慌が始まった時だ。そんな時に島崎藤村は、王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかを問うている、そのように松岡正剛氏は述べている。
その王政復古は維新後には、ただの西欧主義となっていった。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあったが、それを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていた。それが、どう歪んで大政奉還から文明開化になっていったのか。
小説『夜明け前』の主人公は青山半蔵。父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうける。この半蔵が藤村の実父にあたる。『夜明け前』は明治の青年にとっての“父の時代”の物語だ。物語は「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭に象徴されるように、木曽路の街道の僅かずつの変貌から、木の葉がそよぐように静かに始まっていく。その街道の一隅に馬籠の宿がある。馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入ると最初の入口になる。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの村をつくる家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社とが脈々と生きている。
ある時、芭蕉の句碑が立った。「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」。江戸の文化の風がさっと吹いてきたようなもので、青山半蔵にも心地よい。半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思った青年だ。隣の中津川にいる医者の宮川寛斎に師事して平田派の国学を学ぶ。すでに平田篤胤は死んでいたが、せめて国学の素養やその空気くらいは身につけたかった。残念ながら宣長を継承する者は馬籠の近くにはいない。そこへ「江戸が大変だ」という知らせ、嘉永6年のペリー来航のニュース。さすがに馬籠にも飛脚が走り、西から江戸に向かう者たちの姿が目立つ。ニュースは噂以上のものではなく、粉飾されている。この“黒船の噂”が少しずつ正体をあらわし、すばらしい変化を見せていく。半蔵は32歳で父の跡を継ぐ。村民の痛ましい日々を目のあたりにし、盗木で追われる下民の姿などにふれ、ひそかな改革の志を抱いていた半蔵は「世直し」の理想を持ちはじめる。時代は江戸を震源地として激変していく。安政の大獄、文久の変、桜田門外の変などを馬籠にいる者が伝え聞く不安のままに、憶測をまじえて国難を案ずる半蔵の心境のまま描写されていく。
山深い街道に時代の変化がのしかかると、半蔵はふと古代への回帰を思い、王政の古(いにしえ)の再現を追慕する。京都にも江戸にも大騒動がもちあがる。皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂だ。半蔵も落ち着かなくなる。和宮は当初の東海道下りではなく、木曽路を下る模様替えとなったため、馬籠はてんやわんやの用意に追われる。村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立つ。三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒然と伝わってくる。
島崎藤村は、この第1部の「下」の第9章くらいから日本の夜明けを担おうとした人々を、長州征伐、岩倉具視の動き、西郷隆盛の噂、池田屋の事件などでたどる。半蔵が真木和泉の死や水戸浪士の動きを見ている目が深くなっていく。半蔵が“思いがけない声”を京都の同門の士から聞いたことを次のように伝える。「王政の古に復することは建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」。そして藤村は書き加える。「その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居宣長が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた」と。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心する。しかし、世の中に広まっていった「御一新」の現実はそういうものではなかった。半蔵が得心した方向とは全く異なる方向へと歩みはじめる。それは単なる西洋化に見えた。半蔵は呆然とする。ここから『夜明け前』のほんとうの思索が深まる。
木曽福島の関所が廃止され、尾州藩が版籍奉還をする。封建的なものは雪崩を打つように崩れていく。本陣もなくなる。大前・小前による家筋の区別もなくなる。村役人すら廃止された。享保このかた庄屋には玄米5石があてがわれていたが、それも明治5年には打ち切られる。それらの変化はまさに半蔵が改革したかったことと同じであるはずだが、事態はそのようには見えない。そんな頃に父が死ぬ。半蔵がこたえたのは、村人たちが「御一新」による改革を喜んでいないことだ。なぜ、日本が王政復古の方向に変わったのに、村が変わっていくことは受け入れられないのか。古の日本の姿は、この村人たちが愛してきた暮らしや定めの中にあったのか。半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であり、藤村の友でもあった柳田国男の疑問でもあった。
平田派の門人たちは「御一新」に大した活動をしなかったばかりか、維新後の社会においても全く国づくりにも寄与できなかった。半蔵がはぐくんできた国学思想は、結局、日本の新たな改変に関わっていない。半蔵は村民のために“新しい村”をつくろうと努力するが、その成果は空しいものに終わる。山林を村民のために使いやすいようにしようとした試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職にまで追いこまれ、半蔵は自信を失ってゆく。また、挙式を前に娘のお粂が自殺騒ぎをおこす。日本の村における近代ならではの悲劇が始まる。青山半蔵だけの悲劇ではなく、青山家全体の瀬戸際の悲劇だ。その悲劇を「家」の単位でくいとめないかぎり、馬籠という共同体が、木曽路というインフラストラクチャーそのものが瓦解する。民心は半蔵から離れてゆく。誰も近代化の驀進に逆らうことなど不可能だった。半蔵はしだいに自分が犠牲になればすむかもしれないと最後の幻想を抱く。かくして43歳の時、半蔵は全ての本拠地たる東京に行くことを決意する。
縁あって教部省に奉職するが、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視されていた。半蔵は「これでも復古といえるのか」と呟く。この教部省奉職において半蔵が無残にも押し付けられた価値観は、『夜明け前』が全編の体重をかけて王政復古の「歴史の本質」を問うものになっていくのだが、半蔵自身は、この問いに堪えられない。半蔵は和歌一首を扇子にしたためて、明治大帝の行幸の列に投げ入れる。悶々として詠んだ歌は、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。このときの半蔵の心を藤村は綴る。「その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいともまなく群衆の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した。急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。」「訴人だ、訴人だ」その声は混雑する多勢の中から起こる。半蔵は駆け寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれる。大衆は争って殆ど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。結局、青山半蔵が半生をかけて築き上げた思想は、たった1分程度の、この惨めな行動に結実しただけだった。
「日本の歴史」を問おうとした者は、藤村が鋭く予告したように、こうして散っていった。木曽路に戻った半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司として「斎の道」(いつきのみち)に鎮んでいくことを選ぶ。その4年後、やっと馬籠に戻った半蔵は、なんとか気をとりなおし、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の息子も東京に遊学させることにする。この東京に遊学させられた息子こそ、島崎藤村その人だ。このとき以来、藤村は父の世界からも、馬籠からも離れていき、そして『夜明け前』を書くことになる。いっときも馬篭の父の悲劇を忘れていない。馬籠の現実に生きる人々はこのような半蔵を喜ばない。半蔵は酒を制限され、隠居を迫られる。そうしたある日、半蔵がついに狂う。明治19年の春の彼岸がすぎたころの夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつける。「御一新」の体たらくが我慢できなかった。半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々、そのまま56歳で半蔵は死ぬ。藤村がこの作品を書いた歳だ。こうして物語は閉じられる。時代は「夜明け前」にすぎなかった。青山半蔵は、藤村の父・島崎正樹がモデルだ。藤村は父の生涯を描きながら、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視した。父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折、藤村自身の魂の挫折をそこに塗りこめた。
藤村は「親ゆづりの憂鬱」という言葉を使っている。自分の父親が「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」といって死んでいく。それでも『若菜集』や『千曲川のスケッチ』を書く頃までは、父が抱えた巨大な挫折を抱えてはいなかった。父が死んだのは藤村が15歳の時だ。藤村が父の勧めで長兄に連れられ、次兄とともに9歳で上京したのは明治14年。泰明小学校に入り、三田英学校から共立学校(いまの開成中学)に移って木村熊二に学ぶ。明治学院に進んで、木村から洗礼をうける。19歳、巌本善治の「女学雑誌」に翻訳などを載せ、20歳のときに植村正久の麹町一番町教会に移る。明治女学校で教鞭をとった時、教え子の佐藤輔子と恋愛したことに自責の念を感じている。この時期の日本のキリスト教は内村鑑三がそうであったように、多分に日本的な色彩の濃いもので、のちに新渡戸稲造がキリスト教と武士道を結びつけたように、どこか神道の精神性と近かった。このことは、青山半蔵が水無神社の宮司になって、それまでの日本の神仏混交にインド的なるものや密教的なるものが入りこんでいることに不満を洩らすことと関連する。藤村自身が青年キリスト者であった体験を、その後少しずつ転換させ、父が傾倒した平田国学の無力さを語っていくときの背景にもなっている。
透谷の自殺に出会ってから、藤村は少しずつ変わる。キリスト者であることに小さな責任も感じはじめる。まだ藤村は情熱に満ちていた。仙台の東北学院に単身赴任し、上田敏・田山花袋・柳田国男らを知り、『若菜集』を発表、27歳のときに木村熊二の小諸義塾に赴任したときも『千曲川のスケッチ』を綴り、その抒情に自信をもっていた。30歳をすぎて『破戒』を構想し、自費出版した後、二人の娘を続けて失ってから、しだいに漂泊と韜晦の二つに惹かれていく。こうして、藤村は自分の生きざまを通して、しだいに父親の対照的な人生や思想を考えるようになる。
島崎藤村の父・島崎正樹すなわち青山半蔵は、藤村と違って断固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視し傷ついていった人だ。父には歴史との真剣な格闘があった。自分を見つめることから始まった作家である藤村は、この父の姿の奥に自分が見るべき歴史を重ねた。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」だったのかもしれない。
その王政復古は維新後には、ただの西欧主義となっていった。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあったが、それを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていた。それが、どう歪んで大政奉還から文明開化になっていったのか。
小説『夜明け前』の主人公は青山半蔵。父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうける。この半蔵が藤村の実父にあたる。『夜明け前』は明治の青年にとっての“父の時代”の物語だ。物語は「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭に象徴されるように、木曽路の街道の僅かずつの変貌から、木の葉がそよぐように静かに始まっていく。その街道の一隅に馬籠の宿がある。馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入ると最初の入口になる。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの村をつくる家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社とが脈々と生きている。
ある時、芭蕉の句碑が立った。「送られつ送りつ果ては木曽の龝(あき)」。江戸の文化の風がさっと吹いてきたようなもので、青山半蔵にも心地よい。半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思った青年だ。隣の中津川にいる医者の宮川寛斎に師事して平田派の国学を学ぶ。すでに平田篤胤は死んでいたが、せめて国学の素養やその空気くらいは身につけたかった。残念ながら宣長を継承する者は馬籠の近くにはいない。そこへ「江戸が大変だ」という知らせ、嘉永6年のペリー来航のニュース。さすがに馬籠にも飛脚が走り、西から江戸に向かう者たちの姿が目立つ。ニュースは噂以上のものではなく、粉飾されている。この“黒船の噂”が少しずつ正体をあらわし、すばらしい変化を見せていく。半蔵は32歳で父の跡を継ぐ。村民の痛ましい日々を目のあたりにし、盗木で追われる下民の姿などにふれ、ひそかな改革の志を抱いていた半蔵は「世直し」の理想を持ちはじめる。時代は江戸を震源地として激変していく。安政の大獄、文久の変、桜田門外の変などを馬籠にいる者が伝え聞く不安のままに、憶測をまじえて国難を案ずる半蔵の心境のまま描写されていく。
山深い街道に時代の変化がのしかかると、半蔵はふと古代への回帰を思い、王政の古(いにしえ)の再現を追慕する。京都にも江戸にも大騒動がもちあがる。皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂だ。半蔵も落ち着かなくなる。和宮は当初の東海道下りではなく、木曽路を下る模様替えとなったため、馬籠はてんやわんやの用意に追われる。村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立つ。三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒然と伝わってくる。
島崎藤村は、この第1部の「下」の第9章くらいから日本の夜明けを担おうとした人々を、長州征伐、岩倉具視の動き、西郷隆盛の噂、池田屋の事件などでたどる。半蔵が真木和泉の死や水戸浪士の動きを見ている目が深くなっていく。半蔵が“思いがけない声”を京都の同門の士から聞いたことを次のように伝える。「王政の古に復することは建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」。そして藤村は書き加える。「その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居宣長が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた」と。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心する。しかし、世の中に広まっていった「御一新」の現実はそういうものではなかった。半蔵が得心した方向とは全く異なる方向へと歩みはじめる。それは単なる西洋化に見えた。半蔵は呆然とする。ここから『夜明け前』のほんとうの思索が深まる。
木曽福島の関所が廃止され、尾州藩が版籍奉還をする。封建的なものは雪崩を打つように崩れていく。本陣もなくなる。大前・小前による家筋の区別もなくなる。村役人すら廃止された。享保このかた庄屋には玄米5石があてがわれていたが、それも明治5年には打ち切られる。それらの変化はまさに半蔵が改革したかったことと同じであるはずだが、事態はそのようには見えない。そんな頃に父が死ぬ。半蔵がこたえたのは、村人たちが「御一新」による改革を喜んでいないことだ。なぜ、日本が王政復古の方向に変わったのに、村が変わっていくことは受け入れられないのか。古の日本の姿は、この村人たちが愛してきた暮らしや定めの中にあったのか。半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であり、藤村の友でもあった柳田国男の疑問でもあった。
平田派の門人たちは「御一新」に大した活動をしなかったばかりか、維新後の社会においても全く国づくりにも寄与できなかった。半蔵がはぐくんできた国学思想は、結局、日本の新たな改変に関わっていない。半蔵は村民のために“新しい村”をつくろうと努力するが、その成果は空しいものに終わる。山林を村民のために使いやすいようにしようとした試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職にまで追いこまれ、半蔵は自信を失ってゆく。また、挙式を前に娘のお粂が自殺騒ぎをおこす。日本の村における近代ならではの悲劇が始まる。青山半蔵だけの悲劇ではなく、青山家全体の瀬戸際の悲劇だ。その悲劇を「家」の単位でくいとめないかぎり、馬籠という共同体が、木曽路というインフラストラクチャーそのものが瓦解する。民心は半蔵から離れてゆく。誰も近代化の驀進に逆らうことなど不可能だった。半蔵はしだいに自分が犠牲になればすむかもしれないと最後の幻想を抱く。かくして43歳の時、半蔵は全ての本拠地たる東京に行くことを決意する。
縁あって教部省に奉職するが、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視されていた。半蔵は「これでも復古といえるのか」と呟く。この教部省奉職において半蔵が無残にも押し付けられた価値観は、『夜明け前』が全編の体重をかけて王政復古の「歴史の本質」を問うものになっていくのだが、半蔵自身は、この問いに堪えられない。半蔵は和歌一首を扇子にしたためて、明治大帝の行幸の列に投げ入れる。悶々として詠んだ歌は、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。このときの半蔵の心を藤村は綴る。「その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいともまなく群衆の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した。急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。」「訴人だ、訴人だ」その声は混雑する多勢の中から起こる。半蔵は駆け寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれる。大衆は争って殆ど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。結局、青山半蔵が半生をかけて築き上げた思想は、たった1分程度の、この惨めな行動に結実しただけだった。
「日本の歴史」を問おうとした者は、藤村が鋭く予告したように、こうして散っていった。木曽路に戻った半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司として「斎の道」(いつきのみち)に鎮んでいくことを選ぶ。その4年後、やっと馬籠に戻った半蔵は、なんとか気をとりなおし、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の息子も東京に遊学させることにする。この東京に遊学させられた息子こそ、島崎藤村その人だ。このとき以来、藤村は父の世界からも、馬籠からも離れていき、そして『夜明け前』を書くことになる。いっときも馬篭の父の悲劇を忘れていない。馬籠の現実に生きる人々はこのような半蔵を喜ばない。半蔵は酒を制限され、隠居を迫られる。そうしたある日、半蔵がついに狂う。明治19年の春の彼岸がすぎたころの夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつける。「御一新」の体たらくが我慢できなかった。半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々、そのまま56歳で半蔵は死ぬ。藤村がこの作品を書いた歳だ。こうして物語は閉じられる。時代は「夜明け前」にすぎなかった。青山半蔵は、藤村の父・島崎正樹がモデルだ。藤村は父の生涯を描きながら、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視した。父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折、藤村自身の魂の挫折をそこに塗りこめた。
藤村は「親ゆづりの憂鬱」という言葉を使っている。自分の父親が「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」といって死んでいく。それでも『若菜集』や『千曲川のスケッチ』を書く頃までは、父が抱えた巨大な挫折を抱えてはいなかった。父が死んだのは藤村が15歳の時だ。藤村が父の勧めで長兄に連れられ、次兄とともに9歳で上京したのは明治14年。泰明小学校に入り、三田英学校から共立学校(いまの開成中学)に移って木村熊二に学ぶ。明治学院に進んで、木村から洗礼をうける。19歳、巌本善治の「女学雑誌」に翻訳などを載せ、20歳のときに植村正久の麹町一番町教会に移る。明治女学校で教鞭をとった時、教え子の佐藤輔子と恋愛したことに自責の念を感じている。この時期の日本のキリスト教は内村鑑三がそうであったように、多分に日本的な色彩の濃いもので、のちに新渡戸稲造がキリスト教と武士道を結びつけたように、どこか神道の精神性と近かった。このことは、青山半蔵が水無神社の宮司になって、それまでの日本の神仏混交にインド的なるものや密教的なるものが入りこんでいることに不満を洩らすことと関連する。藤村自身が青年キリスト者であった体験を、その後少しずつ転換させ、父が傾倒した平田国学の無力さを語っていくときの背景にもなっている。
透谷の自殺に出会ってから、藤村は少しずつ変わる。キリスト者であることに小さな責任も感じはじめる。まだ藤村は情熱に満ちていた。仙台の東北学院に単身赴任し、上田敏・田山花袋・柳田国男らを知り、『若菜集』を発表、27歳のときに木村熊二の小諸義塾に赴任したときも『千曲川のスケッチ』を綴り、その抒情に自信をもっていた。30歳をすぎて『破戒』を構想し、自費出版した後、二人の娘を続けて失ってから、しだいに漂泊と韜晦の二つに惹かれていく。こうして、藤村は自分の生きざまを通して、しだいに父親の対照的な人生や思想を考えるようになる。
島崎藤村の父・島崎正樹すなわち青山半蔵は、藤村と違って断固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視し傷ついていった人だ。父には歴史との真剣な格闘があった。自分を見つめることから始まった作家である藤村は、この父の姿の奥に自分が見るべき歴史を重ねた。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」だったのかもしれない。