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日本国憲法、何が問題なのか。

2018年04月06日 | 通常メモ
 1947年5月3日に日本国憲法が施行されてより70年を過ぎた。日本国憲法は人類の歴史の中でたどった一つの到達点でもあった。1945年8月の敗戦の後、米軍が日本を占領し、そこから憲法制定が始まったと考えがちだが、実際には、アメリカはすでに42年43年44年という段階において、戦争に勝利した後、日本を占領統治することを想定し日本という国の骨格を考えていた。憲法とは英語でコンスティチューションというが、法学でいうコンスティチューションとは、国家を統治する際に基準となる基本原理であり、骨組みのことだ。アメリカは終戦の3年前から、国務省内の地域政策局や軍部とのやりとりの中で、日本を統治する際の基本原理について討議してきていた。それが終戦の1年前の44年に、戦後計画委員会(PWC)による、PWC108文書「アメリカの対日戦後目標」に集約されていった。

 一方でアメリカは、日本を占領統治することを想定して多くの日本研究家も養成していた。彼等の多くは32年に就任したルーズベルト大統領のニューディール政策と思想に影響を受けた俊英たちだった。ニューディーラーの彼等は、自由放任主義的な資本主義ではなく、また共産主義的な社会主義路線でもない、資本主義に計画性を加えた修正資本主義による国の形を作ろうとしていた。そして終戦後の45年10月から、GHQ(連合国軍総司令部)はポツダム宣言に基づく形で、日本民主化のために改憲への動きを始めていた。

 1945年10月当時、東久邇宮内閣の国務大臣だった近衛文麿に対して、連合国軍最高司令官マッカーサーは憲法改正の必要性について言及した。近衛は、佐々木惣一(憲法学者)等の力を借りて憲法改正に向けての独自の動きを始める。一方、45年12月26日、民間の憲法研究会が「憲法草案要綱」を発表、これは鈴木安蔵(憲法学者)を中心に、高野岩三郎(社会思想家)、森戸辰男(経済学者)、杉森孝次郎(政治学者)、室伏高信(評論家)等の知識人たちで構成されていた。全58条からなる「要綱」は明治期の土佐立志社の「日本憲法見込案」などの自由民権運動の潮流から生まれた私擬憲法を土台としつつ、フランス共和国憲法、アメリカ合衆国憲法、ドイツ・ワイマール憲法など諸外国の憲法を参考にして作られていた。基本的人権、議会主義、主権在民といった現在の憲法と共通するものも盛り込まれていた。GHQは「要綱」を詳細に検討し、その先見性には驚愕し、GHQのラウエル法務課長は、この憲法草案に盛られている諸条項は民主主義的で賛成できると高く評価していた。46年になると、共産党案、日本自由党案、日本進歩党案、社会党案も発表され、各政党が関与していった。GHQは日本国内の動向をみながら、それらを憲法制定に組み込もうとしていた。

 実は当時の幣原喜重郎内閣の中には二つの流れがあった。松本烝治(国務相)を筆頭とする守旧派と、安部能成(文部相)や芦田均(厚生相)らの改革派の二つの流れだ。すでに守旧派の松本を委員長を中心とする憲法問題調査委員会は1月4日には「憲法改正要綱」(松本試案)を作成していた。改革派の芦田や安倍は「松本案は内閣案ではない」と主張し、新しい時代に即した改正の必要性を強調していた。マッカーサーも「松本試案」については承認しがたいとの立場で、GHQが憲法草案を起草する必要があると判断していた。46年2月にできた「マッカーサー草案」は憲法研究会の「憲法草案要綱」に大きな影響を受けたものだった。それは日本に内在していた自由民権運動の土壌から生み出されたものといってもよい。幣原喜重郎内閣はマッカーサー草案をベースにした憲法改正要綱を3月6日に採択し、議会は戦後最初の総選挙となる第22回選挙が4月に実施され、改憲勢力が国民多数の支持を得た。憲法改正は第90回帝国議会に上程され、百日間審議が開始される。憲法改正案を検討し修正する目的で立ち上げられたのが帝国憲法改正小委員会である。委員長は、改革派の芦田均が就任した。

 さて、「マッカーサー草案」に基づいて憲法改正案を作成・議論していた多くの閣僚たちは、九条については「軍備を一切持てなければ日本は丸裸になる」とか「アメリカの押し付け憲法は日本にとって国辱ではないか」といって反対した。改革派の委員長である芦田均は、憲法九条は自衛権を否定するものではなく、押し付けでもないと反論した。芦田均は日記に「国際紛争は武力によらずして仲裁と調停により解決せらるべしという思想は、既にケロッグ・ブリアン協定において我が政府が受諾した政策であり、目新しいものではない」と書いている。芦田の論拠となったのは、第一次世界大戦後の28年、欧米を中心として日本も含む15か国が締結した「ケロッグ・ブリアン不戦条約」だ。この精神は45年に国連憲章に反映されている。第2条3項で「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和と安全と正義を危うくしないよう解決しなければならない」と謳い、さらに4項には「すべての加盟国は、その国際関係において武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」とある。この国連憲章の条項が、日本国憲法第9条に継受され、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」と1項で謳い、2項では、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国に交戦権はこれを認めない」とある。この「前項の目的を達するため」という一句は、憲法改正小委員会で芦田が書き加えたものだ。この「芦田修正」をめぐっては今日まで様々な議論がある。

 外交官出身で外交史と国際法の専門家だった芦田均は、歴史への深い洞察力があった。戦後、日本が独立国家となった時に、自衛力を持たざるを得ない事態が来ることを想定していた。それが国際社会の常識であり、自衛権は国際法上の当然の権利であり、自衛権と自衛力なくして主権国家は成り立たないのが国際社会の現実だ。芦田は外交官時代にベルギーのブリュッセルやトルコのイスタンブールに駐在した経験があった。これらの国は大国同士が戦争を起こすたびに踏み石とされた地域だ。自衛権を持たないと悲惨なことになる、芦田はそれを熟知していたが故に、個別的自衛権を正当化させる論理を日本国憲法の中に盛り込んだのだ。憲法改正案は9月に貴族院議会に上程され、「軍備を持たないと国は守れない」と南原繁(後の東大総長)等が繰り返し主張した。芦田は「前項の目的を達するため」という一句に込めた意味を再確認する。そのことを、46年11月3日の憲法公布と同時に出版した自著「新憲法解釈」の中で明らかにしている。つまり、「前項の目的を達するため」を加えたことにより、個別的自衛権、自衛力の保持を憲法上正当化させていたのだ。日本が持つ自衛力は「将来、国連との関係で必要とされ」、あくまで自国防衛のために限定されるものとし、軍備の規模も戦争放棄の条項の文脈に位置づけられるべきと捉えていたのだ。つまり、日本が保持する軍事力は、あくまで国連の集団安全保障体制下に位置づけられるもの。交戦権も侵略戦争も否定され、最小限の自衛力は手にできる。それは日本国憲法を生み出した脱軍事化という人類の悲願に沿うものでもあった。

 今後の憲法論議は、これらの歴史的土台の上に積み上げていくものでなければならない。だが、昨今の憲法論議で残念なのは、これらの歴史的土台を認識していないことにある。「憲法9条は非武装中立を謳っているから、自衛隊は違憲である」とか、「マッカーサーは沖縄の基地要塞化によって9条を制定させた」といった誤認識の見解もある。そんな憲法解釈が間違っていることを知るべきであろう。日本国憲法は日本の内側から発して、フランス革命以来の人権思想に連なる20世紀の人類の到達点であり、21世紀の出発点ともいうべき先見性を備えていたともいえるものだった。

 自衛隊が憲法違反といい続けている日本共産党も時代遅れだ。憲法については、民主党(現在は立憲民主党と国民民主党に分裂)においても考え方が分かれている。過去において、当時の社会党(民主党の前身)鈴木茂三郎氏が昭和25年8月に創設された警察予備隊(自衛隊の前身)が憲法第9条に反するので違憲であると最高裁に訴えた。だが最高裁大法廷は全員一致で却下した。その時の判決が示した基本原理は「自国の存立のために必要な自衛措置は認められる」というものだった。違憲かどうかの裁定は最高裁判所に権限があり、憲法学者にはない。学者というのは自由な見解で何を論じても勝手で、政治家と違い国民に対して責任を持たない存在だ。憲法の条文に照らして自衛隊が違憲だといっているに過ぎないともいえる。憲法を改正して自衛隊を合憲にしてほしいと考えている学者も少なくない。また、戦争法案反対の旗をかかげて、デモに参加する大半の人たちも良く分かっていない。共産党の最終目的は共産主義革命を目指すものだが、大衆運動もその手段として利用されている。デモ参加の人達が可哀想に見えてもくる。一方で、阪神大震災、東日本大震災、近くは熊本大地震等、自衛隊のおかげで災害救助が迅速に進み、国民の自衛隊への支持は高いというのも現実だ。

 かつての違憲訴訟においては、「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」とし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」という最高裁判所の判決でもあった。憲法9条には、戦争のための戦力は持たないという規定があり、一方では、現在のように常に戦争の危機にさらされる国際環境の中で国民の生命および財産を守るのは政府の責任であるとする憲法の考え方も存在する。この二つの矛盾を内包する現行憲法は改正すべきであるという憲法学者も少なくない。

 時代の進展とともに現在の憲法に不足しているものもある。環境権の問題とか、地方自治権の拡大とか、現在の憲法に不足している条項もあり、条文の追加(加憲)をしてゆく必要もある。憲法改正というと9条の改正という人も多いが、9条に関していえば加憲方式で自衛隊の存在を認める条項を加えてもよいともいえる。しかし、自民党の一部改憲勢力がいうように憲法を全面的につくり変えようという発想も危険だ。先ずは加憲方式による改正を進めるほうが国民に理解されやすいのかもしれない。

 参照メモ [ 憲法論議は歴史的土台の上に積み上げていくもの ]

 1939年9月に第二次世界大戦が開戦し、米英中心の連合国は、ドイツ、イタリア、日本という枢軸国側のファシズムと戦った。それまでの戦争では、戦勝国が敗戦国から領土を奪って自国領土とし、賠償金を奪ったりしていた。しかし、第二次世界大戦においては、米国も英国も領土や賠償金を奪おうとはしなかった。1941年8月、米国フランクリン・ルーズベルト大統領と英国チャーチル首相は大西洋憲章を結び、「恐怖と欠乏からの自由」、つまり、人々が恐怖を感じたり、欠乏によって苦しまない社会を作るという宣言をした。これが1945年6月の国連憲章へと結びつき、その1か月後の1945年7月のポツダム宣言へとつながる。当時日本の軍部政府は敗戦を受け入れず、日本への最終降伏勧告ともいうべきポツダム宣言の受諾を8月14日まで遅らせたため、原爆投下の悲劇が起きてしまった。そして敗戦後の日本政府は、当初「大日本帝国憲法(明治憲法)の内容を大きく変えなくても構わないだろう」と甘く考えて、1946年2月に憲法改正案をGHQ(連合国軍総司令部)に提出したところ、それが却下されて、GHQが新しい憲法草案を日本に示し、日本国憲法が成立したという経緯がある。米国1776年の独立宣言、フランス1789年の人権宣言という源流が大西洋憲章や国連憲章、ポツダム宣言へとつながり、それが日本国憲法へと継承されている。

 憲法に宿る戦後日本の民主主義思想の核心とは個人主義であり、それは自分勝手な利己主義とは違うものだ。憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」、つまり、一人一人の人生の営みが、暴力や不当な支配、国家による恣意的な支配のもとに置かれない。これこそ憲法が国民に約束する基本理念ともいえる。そして、個人主義を核心とする基本的人権の尊重、国民主権、平和主義が、戦後憲法の根底に据えられた。

 1939年から1945年まで第二次世界大戦が続く中、日本は狂信的国家となっていった。国民の人権を弾圧し、アジア近隣諸国に対しては人間性を欠く蛮行を働いた。従って、人権思想中心の国家再建のために、人権思想という世界的潮流の中で育まれた個人主義に立脚する民主主義思想、そして日本国憲法は必要不可欠だったのである。1945年6月に出された国連憲章と日本国憲法はシンクロナイズしており、国際社会における安全を保つことを目指して憲法9条2項では戦力不保持規定が明記された。そこには日本がアジア諸国を侵略したことへの反省がある。国連を中心とする集団安全保障体制により、潜在的な敵国とも相互に信頼関係を醸成し、その上で戦力を放棄する。それは、日本が侵略国家へ逆戻りしないために国連の集団安全保障体制とワンセットで作られたものだ。憲法98条2項では、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」という国際協調主義も定められている。かつて日本は、日清戦争に勝ち、日露戦争にも勝ち、敗戦国から領土を奪って自国領土を大きくしていった。そこから戦争で自国領土を広げることへの抵抗感も失われ、国のために命を落とすことが最高の価値であるとの誤った価値観が国内に蔓延していったことも事実だ。戦後憲法はGHQによる押し付け憲法という側面もあるが、このおかげで日本は植民地支配と侵略戦争の体制から脱却できたともいえる。

 集団的自衛権の限定的行使を容認する安保法制法案が国会に出された。集団的自衛権は国際的に、国連憲章でも認められたものだが、日本国憲法9条に対しては、違憲か合憲かは判断できないグレーゾーンにあるともいえる。昭和47年の政府見解では、存立危機事態が集団的自衛権行使の要件とされた。それから43年を経過し、現在国際的に安全保障環境も大きく変化している。集団的自衛権の行使は立憲主義に対する挑戦と否定であるといって頭から否定することにも違和感を覚える。憲法学者にも違憲、合憲の両方の見解がある。日本では、違憲か合憲を判断するのは最高裁だけだ。かつて、米軍基地や自衛隊が違憲だといい、当時は憲法学者も違憲と騒ぎ、デモにも参加していた。最高裁に上告されたが却下されている。最高裁の判断の背景にあったものは、国には国民の生命と財産を守る責任があるという憲法の理念だ。憲法学者には国を守る責任がない。憲法学者が違憲だといっているから違憲だというのは変な話だ。政府や政治家には国の安全保障を確かなものにしていく責任がある。

 ギロチン文化のあったフランスは、1981年ミッテラン大統領の時代に死刑廃止の法律を成立させた。さらに2000年代に入って憲法を改正し、死刑廃止の条文を制定した。フランスはこれ以外にも、改正に次ぐ改正で憲法を書き換えている。日本国憲法は1946年制定以来70年経過している。時代環境の変化に対応して改正する必要もあろう。かたくなに護憲を主張する一部の政党もあるが、これにも違和感を覚える。かといって2012年に出した自民党の憲法改正草案にも問題点が散見される。憲法は完璧に仕上がった「不磨の大典」ではない。時代の変遷に伴って変化していく未完のプロジェクトだ。各分野の専門家が意見を交わし合い、国民が意見を付き合わせながら考えていけばよい。

 韓国の憲法前文には、戦時中に植民地支配を受けてきた歴史が明記されている。日本の憲法前文には歴史に関する記述はない。戦時中の植民地支配についてのお詫びや反省は村山談話や小泉談話で発信され、これが憲法前文を補完する役割を果たしているのかもしれない。安倍総理の談話では、表現の仕方に曖昧さがぬぐえない点もあった。

 憲法論議は歴史的土台の上に積み上げていくものでなければならない。昨今の憲法論議は、これらの歴史的土台を認識していないようだ。「憲法9条は非武装中立を謳っているから、自衛隊は違憲である」とか、「マッカーサーは沖縄の基地要塞化によって9条を制定させた」といった誤認識の見解もある。そんな憲法解釈は明らかに間違っている。自衛隊が憲法違反といい続けている日本共産党も時代遅れであろう。違憲かどうかの裁定は最高裁判所に権限があり、憲法学者にはない。学者というのは自由な見解で何を論じても良く、政治家と違って国民に対して責任も持たない存在だともいえる。憲法の条文に照らして自衛隊が違憲だといっているに過ぎない。憲法を改正して自衛隊を合憲にしてほしいと考えている学者も少なくない。また、戦争法案反対の旗をかかげて、デモに参加する大半の人たちも良く分かっていない。共産党の最終目的は共産主義革命を目指すものだが、大衆運動がその手段として利用されている。それではデモ参加の人達が可哀想だ。阪神大震災、東日本大震災、近くは熊本大地震等、自衛隊のおかげで災害救助が迅速に進み、国民の自衛隊への支持は高い。かつての違憲訴訟においては「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」とし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」という最高裁判所の判決だったことも忘れてはならない。

1 コメント

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矛盾を内包する現行憲法なのか。 (K.K)
2018-04-09 08:53:12
かつての違憲訴訟においては、「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」とし、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」という最高裁判所の判決だった。憲法9条には、戦争のための戦力は持たないという規定があり、一方では、現在のように常に戦争の危機にさらされる国際環境にあって、国民の生命および財産を守るのは政府の責任であるとする憲法の考え方もある。この二つの矛盾を内包する現行憲法は改正すべきであるという憲法学者も少なくない。これが実情なんですね。
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