古朝鮮を建国した檀君(タングン)に関する記録は「三国遺事」に書かれている。壇君の神話の内容を簡略にいえば、天の国に住んでいた桓因(ファニン)の息子の桓雄(ファヌン)は天の下の人間の世を気にしていた、父が息子の気持ちを察して下界をながめて見ると、人間の世を作っても良さそうな気がしたので、桓雄(ファヌン)に天の息子の証”天賦印”を与えて下におりて治めることを許した。父の許可を得た桓雄は3000人の配下を連れて太白山(テベク山)の神壇樹に降りてきた、そこが神市。しかし、古朝鮮の第一代の王は桓雄ではなく壇君である。桓雄が世を治めているとき、毎日人間になりたいと心からお祈りをしている虎と熊が同じ洞窟に住んでいた。毎日、お祈りをする虎と熊を見て、二匹の動物にひとにぎりのヨモギとにんにく20個を渡し、桓雄は「それを食べて100日間太陽の光を避ければ人間になれる」と告げた。虎は我慢できずに飛び出してしまう。熊は言いつけを守りきれいな女性に変わる。女になった熊は、毎日、神壇樹の下で、子どもを生めるようにして下さいと祈り続ける。そこで、桓雄は男に変身してその熊女(ウンニョ)と結婚し、子どもが生まれる、その子が檀君だという話になる。
檀君(タングン)は紀元前2333年に平壌(ピョンヤン)を都にして、国名を朝鮮と呼んだ。日が昇るところという意味の古代の朝鮮語であり、アサダルの漢字表現だ。古朝鮮という名称は、後に李氏朝鮮(1392年-1910年)の始祖となる李成桂(イ・ソンゲ)が朝鮮という名の王朝を建てたため、檀君の朝鮮を古朝鮮と呼ぶようになった。古朝鮮の開国は紀元前2333年、それは韓国年号の檀紀が始まる年度で、例えば2016年は檀紀4348年記となり、韓国の歴史が始まって今年で4348年目ということになる。
檀君(タングン)は単に人の名前でもない。個人を指す固有名詞ではなく、普通名詞だ。祭政一致社会、シャーマンの王として政治権力と宗教の権力とを同時に持っていた意味をもつ一般名詞だ。古朝鮮は政治と宗教が一致していた社会であった。檀君は1500年間、朝鮮を治めて、アサダルの山に入り、山の神になったという。そのとき1908歳、ここまでが「三国遺事」の記録だ。神話が存在する理由は、その民族の象徴であり、『檀君神話』は、天の神の息子がこの地に降臨してきて、宇宙の木である神壇樹の前でこの世を創り、人々と共に生活するという話だ。韓国では、ハイライトは結婚式で、天があり、地があり、植物を代表する宇宙の木があり、動物を代表する熊がいる。その間に人がいる。全ての宇宙が集まって宴会をするのが結婚式だ。この結婚から檀君が生まれる。そのような全宇宙の美しい祝福を受けて生まれてきたということを伝えている。檀紀(檀君紀元)とは「三国遺事」で伝えられる檀君(タングン)の朝鮮建国を称える年号だ。「三国遺事」以下、各種史料では建国年次が一定していなかったが、1485撰述の「東国通鑑」が「唐堯の即位25年・戊辰」と特定して以来、紀元前2333年建国という認識が定着した。檀紀は、日本からの独立を果たした大韓民国で公用紀元として採用された年号で、檀君(タングン)の朝鮮建国と伝えられる紀元前2333年を元年とし、陰暦10月3日を開天節と定めている。1961年まで用いられたが、1962年の憲法改正(第三共和制)の時、西暦に改められた。
紀元前108年に古朝鮮が滅びた後、朝鮮半島の北部から旧満州にわたって鉄器文化を持ついろいろな部族国家が登場する。今の長春に扶餘(ぶよ)という国もあった。高句麗の歴史は扶餘(ぶよ)から始まる。高句麗を建国した東明聖王の名は朱夢(チュモン)、彼は後で、自ら高という苗字を名のり、高朱夢とよばれるようになる。東扶餘にはヘブルという王がいた。ヘブルの父は天の神の息子であるヘモス、へブルはカエルのような金蛙(クムワ)という子どもを授けられて育てる。また河の神であるハベクの娘、ユファは卵を産み落とし、そこから高句麗を建国する東明聖王すなわち朱夢(チュモン)が生まれる。これも神話だ。韓国の神話では、高句麗、新羅、加羅の建国者は、みんな卵から生まれている。卵から生まれたというのは、父がいなくて、捨てられたという意味になる。王子であれば、国を受け継げばいい。しかし捨てられたから新たに建国することができる。韓国の神話の特徴は、捨てられたという設定、それが卵として表現される。朱夢(チュモン)という名前の意味は何か。弓の実力が優れた人の代名詞だ。それは遊牧民としての特徴や闊達さ、気概、征服性を強調する意味の名前だ。朱夢は幼いときから優れた才能を持ち、それに焼きもちを感じたクムワ王の長男のデソは、父に朱夢を殺してしまうように提案する。扶餘から逃げ出した朱夢は、ゾルボンに行って、都を開く。ゾルボンとは、今の中国の黒竜省の一帯。彼は鉄器文化を持つ強力な軍事力を持って、周辺地域を征服し、高句麗を建国(紀元前37年)、その時、彼は22才。扶餘の生まれ育ちだが、そこには、扶餘人ではなく、天と水の脈を引き継ぐ神の子孫という夢がある。そうした神話の背景には、天を恐れ、水の神聖さを崇拝する人々を集め、その強力な新しい勢力のリーダーがいる。そして、乗馬や弓に長けていた戦争英雄の征服によって勇敢な国、高句麗を開くのである。
紀元前37年、今のロシアのウラジオストク、中国の吉林省、北朝鮮の北東部にわたる広い範囲に朱夢(チュモン)が建国した高句麗。その南には百済と新羅があった。その三国は、王制が定着した後、7世紀半ばにいたるまで、激しい戦争を繰りかえしながら存在した。「三国史記」によると、百済の始まりは高句麗からだ。ある日、高句麗の王、朱夢(チュモン)の所に、男の子が訪ねてきた。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリであると言い、その証として半分に折れた短刀を見せる。朱夢はユリを自分の息子と認める。そして王位継承権者である太子の地位を与える。朱夢には他にも高句麗で作った2人の息子・兄のビリュ、弟のオンゾがいた。ユリが太子になるのを、素直に受け入れた弟、ビリュとオンゾは、自分たちに従う臣下を連れて南の方に行く。兄のビリュは今の仁川であるミツホルに行く。しかし、ミツホルの土地は湿気と塩分が多く生活しにくい所で大変に苦労する。そのことを恥と思ったビリュは、それが原因で病に倒れる。弟のオンゾは、今のソウルと推定される威礼城に行った。ビリュ亡き後、ミツホルの人たちも威礼城にやってくる。オンゾは漢江の周りから京畿や忠清の地域に存在していた部族国家を統合し一つの国家を作り上げていた。外部からの侵略もなく、しかも高句麗の先進文物を用いて相当安定した国づくりができた。やがてオンゾは国名を百済に変える。百済は西暦660年に、そして高句麗は668年に滅びる。その二つの国を滅ぼしたのが三国の中で一番遅く国家体制を作った新羅だ。新羅を建国したのは朴ヒョコセ。彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位につくが、その王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が代わる代わる王位につくことになる。
新羅の建国者・朴ヒョコとはどんな人物だったのか。その昔、今の慶尚道にあった辰韓には6つの村があった。6つの村の村長たちは、自分たちを導いて、村民らが従うことができる王のような存在が現れることを願った。ある日、森の中から神秘な光が発せられ、まぶしいくらい真っ白な馬がおじぎを続けている。6人の村長らが近づいて見ると、そこには青い光が漂う一個の卵があった。白馬は人を見ると天に上り、卵が二つに割れ、そこから可愛い男の子が生まれた。村長らは、その青い神秘な光は天の啓示であり、白馬は天の使者、その子は天が送ってくれた人物だと受けとめ、誠意をもって育て、その子が13歳になった時、王として即位させた。それが朴ヒョコセだった。これは自らつけた名前。この話にも卵から生まれてきた男の子がいる。ヒョコセの活躍の話は神話の世界と呪術の範囲に留まっている部分が多い。その分、高句麗や百済よりは古代王国になるのが遅かったともいえる。新羅という国名を定めるのも、ずっと後の22代目の王の時代になる。しかし、新羅は、優秀な鉄器文化を持つ高句麗、百済との交流を通じて、時には牽制をうけながら、ゆっくりと将来の三国統一の基盤づくりに励む。
高句麗、百済、新羅、それら三国時代、その期間は長く、700年間にも及ぶ。韓国の歴史の中で一番広い領土を持ち、東北アジアの主役として強い国家を建設した高句麗の2代目のユリ王は、西暦3年に国内城に都を移す。それは今の中国の集安(チーアン)。高い山に囲まれた天然の要塞と農耕に適した土地と豊富な鉄。国内城のすぐそばには鴨緑江が流れている。その川を下って黄海に出て、国際的な秩序の中に進入できたことが都を移転した一番重要な目的だった。ユリ王は、朱夢(チュモン)が扶余にいたときに産ませた息子のユリであるが、そのころ高句麗と対立関係にあった扶余のデソ王が高句麗に服従を要求し、拒んだ高句麗を攻撃してきた。ユリ王の三男であるムヒュルが扶余軍を奇襲攻撃し勝利を収める。彼が高句麗の3代目のデムシン王となる。デムシン王は弓と狩に優れた才能を持っていた。彼は若いときから、周辺の国々を征服し、高句麗の膨張の基礎を築く。扶余を征伐し、ほかの遊牧民族も次々に征服していった高句麗は目を南のほうへと向けてゆく。
そしてデムシン王の息子ホドン王子の話に続く。ある夏の日ホドン王子は南の地域を旅していた。美男子であるホドン王子を見た、楽浪の王、チェリは、ホドンが高句麗の王子であることを見抜いて、楽浪の宮中につれて行った。楽浪の宮殿で、チェリの娘である楽浪姫に会って、恋に落ちたホドン王子はデムシン王の許しを得て、正式に結婚するために帰国することにした。楽浪には敵が侵略してくると、自ら鳴って危険を知らせる「自鳴鼓(じめいこ)」という太鼓があった。しかし、ホドン王子は楽浪姫に、その楽浪の宝物である太鼓を壊してくれと頼んでいた。それで高句麗軍が攻撃してきても、自鳴鼓が鳴らなくて何の備えもできていなかった。チェリ王は、自鳴鼓を壊したのが楽浪姫だったのを知り、楽浪姫を殺してしまう。高句麗軍をつれて楽浪に着いたホドン。しかし、楽浪姫はすでに冷たい遺体になっていた。その悲しみを克服できなかったホドン王子は、結局、死を選ぶ。その時に降伏した楽浪は、5年後には完全に滅びてしまう。ホドン王子と楽浪姫の話は、現代まで悲しい恋の話として言い伝えられている。悲恋の裏には、高句麗の領土拡張の野心が潜んでいた。楽浪はどこにあったのか、いろいろと説があるが、平壌を中心とした地域と推定される。国内城からはかなり距離もあるが、高句麗の南のほうへの征服を意味している。ユリ王は吉林省付近の国内城に都を移し、東北アジアに羽ばたく基盤を作った。デムシン王は扶余と楽浪を征服し、本格的な領土拡張を始める。高句麗の建国後、百年の西暦1世紀ごろ、高句麗が征服した国が10カ国にも及んでいたと「三国史記」には記されている。領土拡張の過程で起きた楽浪滅亡の際のホドン王子と楽浪姫の悲しい恋の物語は今でも韓国の子どもたちに伝えられている。
さて鴨緑江沿いの中国吉林省集安(チーアン)、山合いのこの地は400年間、高句麗の首都だった。ここに有名な広開土大王の石碑(好太王の石碑)が残っている。その石碑には、広開土大王の時代に高句麗の人々が直接経験したこと、広開土大王の領土拡張のための戦争の記録が1705個の文字で詳しく記されている。高さ6メートル40センチの石碑。広開土大王(カンゲト大王)は、鴨緑江以北の大陸は放射線状に征服し、同時に南の狭い地域は、水軍を使って、海から攻撃する方法で成功を収めた。大王が最初に攻め入ったのは百済だった。大王の祖父の故国原王が百済との戦いで戦死したので大王の百済征伐は、その復讐でもあった。百済の都への入り口のカンミ城を攻略する計画を立てた。カンミ城は今の漢江の河口にあった。高句麗の水軍の奇襲攻撃を受けた百済、カンミ城はあっけなく陥落した。カンミ城の陥落は、西海岸の支配権が高句麗の手に入ったことを意味し、漢江沿いにあった百済の都、漢城(今のソウル)が無防備の状態となり危険にさらされることを意味する。西暦396年に、大王は百済の都である漢城を攻撃する。百済のアサン王は、大王に降伏せざるを得なかった。これを契機に、高句麗は西海岸を含む漢江以北の地域をほとんど治めることになる。
百済との戦いは、一応決着がつき、百済は高句麗に朝貢をするようになる。新羅との関係はどうだったのか。百済と加羅、倭(日本)の軍が新羅を攻撃したので、新羅は高句麗に救援を要請する。大王はその要請に応じて10万の大軍を派遣する。それ以来、新羅も高句麗に朝貢をするようになる。 高句麗の勢力は、百済と新羅を圧倒し、強い影響力を行使していた。しかし、高句麗は百済や新羅について直接統治をしようとはしなかった。高句麗をはじめ、ほとんどの北方の遊牧民族は直接支配するのではなく、いわゆる間接支配をする。広開土大王も自分の秩序の中に編入させることで満足したのであろう。広開土大王は戦争だけではなく、文化や政治にも力を注いだ。記録によると、平壌に九つの寺を建て仏教を振興させ、官僚制も整備して、国の支配体制を整えた。
高句麗が漢江流域を手に入れたのも、食糧供給のための平野を占領するためだった。また漢江は中国との交易の通路でもあった。大王は単純な領土拡張主義者ではなく、偉大な戦略家だった。広い満州の平野と遼東半島の隅々まで駆け巡った広開土大王、彼の時代に、強大国、高句麗は全盛期を迎えている。また、韓国古代史の中で百済は中国と活発な交流をして、百済文化を日本に伝えた古代史上最大の文化輸出国家だった。全体を通すと、高句麗、新羅、百済の3国の中で一番印象が薄いのが百済ともいえる。百済は高句麗の領土拡張政策で都が漢江(ハンガン)の南へ移らざるを得なかった。最後は新羅と唐の連合軍によって滅ぼされてしまう。百済の語源は、扶余の東明王の後裔である扶余王尉仇台が高句麗に国を滅ぼされ、百の家族を伴って済海(海を渡る)し、帯方郡の地に国を建てた。それが「百済(伯済)」の語源と言われている。今のソウル市東南部に都を置いていた百済。その時期に百済の最初の全盛期が訪れる。風納土城(フンナットジョウ)と夢村土城(モンチョンドジョウ)石村洞(ソクチョンドン)の古墳群などが、その時代の遺跡であるが、実際の様子はどうだったのか、風納土城を例にして、1997年の発掘に関わった歴史学者は当時の百済社会を説明する。風納土城の城壁は周囲4キロ、高さ9m、下の幅が40m。その城壁は小さな砂利や石も使わないで、微細な土だけで巨大な土城を完成させている。大規模な動員ができた専制王制の存在を物語っている。そのような技術は今も日本の九州や近畿地方に残っている朝鮮式山城でも発見することができる。百済が滅亡した後、日本に渡った人々の技術によって築かれたものだ。
文化と共に百済人もたくさん日本に住むようになり、多くの文化が日本に伝えられた。初期百済の都の跡地からは、3世紀半ば頃の中国の場子江の南部で作られた土器や日本で作られた土器や5世紀頃の慶尚南道、すなわち加羅の土器も発見された。当時の風納土城は、中国の南朝や倭(やまと)、加羅との活発な交流が行われた東アジアの交流の舞台だった。4世紀後半に30年間在位した近肖古(クンチョゴ)王の時、百済は全盛期を迎える。その領土は南は南海岸まで、北は平壌城ピョンヤンジョウの手前まで、そして韓半島の中部一帯を掌握したとみられる。近肖古王は韓半島の南にあった加羅にまで手を伸ばして影響力を行使し、その後は高句麗に矢先を向け、371年には大同江テドンガン流域にある平壌城を攻撃した。その戦争で、 近肖古王は高句麗の故国原王コグゥオンオウを戦死させる戦果を挙げ、百済は史上最大の領域を掌握した。
近肖古(クンチョゴ)王は王位の継承を父子相続に変え、王妃となる家柄も決めて、王室の支持基盤を固定化させ、強力な王制を中心とした国家形態を確立した。そして国の歴史書も編さんした。しかし近肖古王が死んだ後、百済は衰退し始め、高句麗の広開土大王、続いて長寿王の南下政策によって最大の危機に直面する。百済は 、ソウルの漢城ハンソンまでも失ってしまう。仕方なく当時、熊津と言った今の公州コンジュに移るしかなかった。歴史的に韓半島では漢江を掌握した民族や国家が一番強力な国家になることができた。ハンガン流域を奪われてから、王の力も衰退、二度も王が貴族に殺されるという事件が続くが、そのような百済の危機状況を立て直したのが第25代王の武寧(ムリョン)王だ。百済を立て直したことが最大の功績だが、その他にも彼の功績は死してなお続いた。すなわち高句麗を牽制するために中国の南朝と緊密な関係を築き、先進文物も受け入れ、国力の向上を図っている。また、隣国・新羅を牽制するために、日本に先進文物を伝えて、日本からは軍事力の支援を受けている。
1971年に武寧王の墓が発掘された。武寧王の墓からの出土品の90%は中国や日本からのものだ。墓の様式も中国式、「三国史記」でも武寧王は国民生活の安定をはかり、506年の飢饉の時の救済政策や、堤防の建設、農業の奨励など、国民の支持と信頼を得ることができたと記されている。1971年の発掘は韓国考古学史上最大の発掘といわれている。この発掘に関わった韓国の考古学者がいったという、「この墓は本当に盗掘されていないようだ、きっと何か見つかるぞ おっ中が見えた あれは何だ 入り口でこちらを睨んでいる動物のような物がいる、置物だ、豚のお化けだ。もっと奥の方を照らして、あれは王様とお后様の遺体だ、きらびやかな飾り物に覆われている」と。武寧王についての記録を刻んだ石の碑文が発見され、そこには「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と書かれており、墓の主人公が武寧王であることが明らかになり、墓の主人公が誰だか分かった唯一の王陵となった。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、武寧王陵の木棺の材質が日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙(コウヤマキ)と判明したことも大きな話題となった。副葬品が部屋一杯にあった。金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。武寧王の墓からは百済文化の研究のための決定的な資料が得られた。そこに古代の韓日関係の鍵が隠されていた。日韓関係の歴史の鍵とは何か。東アジアの物流の中心地的な役割をしていたという事実だ。
「寧東大将軍百済斯麻王」斯麻王のネーミングについては、海中の主嶋で生まれたので「斯麻」と名づけられたと言われている。この「主嶋」だが、佐賀県玄海海中公園の加唐島(かからのしま)というのが、わが国では有力な説だ。つまり武寧王は当時の倭(日本)で生まれたことになる。お墓を発掘した博士の言葉「入り口でこちらを睨んでいる動物のような物がいる、置物だ、豚のお化けだ」この墓の入り口に置いてあった獣の石像とは何か。「石獣」と言われているが、ガイドブックによっては「石熊」と書いてあるものもある。熊と豚と猪を掛け合わせたような姿をしているが、想像上の動物だ。しかし、建国神話が熊を取り上げている所を見ると「熊が主体のもの」と思いたい。2001年の誕生日を前に、W杯共催国である韓国への思いを聞かれた天皇は、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と話された。日本の皇室と古代朝鮮との結びつきを論じる学説は以前からあったが、天皇自らが、その血縁関係に言及されたのは初めてである。
母親が武寧王を身ごもったまま大和に来る途中、現在の佐賀県玄海海中公園の加唐島(かからのしま)で生まれたので、嶋王(しまおう)と呼ばれたという話が「日本書紀」に記されている。当時の大和と百済がどれほど密接な関係を持っていたかを物語る証拠である。武寧王の墓からも日本との親密な関係がうかがえる。王と王妃の棺桶に使われた木材は世界的にもまれな金松と呼ばれているもので、日本列島の南部だけに生えている。その金松は、昔から日本でも支配層だけが使うことができた貴重な木材・高野槙(コウヤマキ)。武寧王の墓からは、中国の梁(りょう)王朝の貨幣や陶磁器などが沢山出土しており、墓の様式も中国の梁王朝のそれと似ている。中国の南朝と百済、そして百済と日本との緊密な交流は、武寧王の時代がその頂点だったと考えられる。当時の中国や日本の文物が残っている武寧王の墓がそれを雄弁に物語っている。武寧王の初期の百済は、まだ高句麗の南進政策に押されて滅亡寸前の危機的な状況に置かれていた。こうした状況で、中国との交流は先進文物を受け取るほかにも高句麗の勢力を牽制することにその目的があった。その目的のために、百済と大和との間にも外交的な接触が活発に行われたが、その内容は百済から先進文物を伝える代わりに、大和からは軍事的な支援を得るということだった。
日本の古代国家の形成に大きな影響を与えた百済の先進文物とは何だったのか。奈良の広隆寺にある日本の国宝1号である弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)、この美しい宝物は、百済から仏教を受け入れて日本の古代文化を発展させた飛鳥時代のもので、百済の仏像の美しさをそのまま伝えている。聖徳太子が活躍していた推古朝の時代に当たる。蘇我氏が政権を掌握していた聖徳太子の時代に、日本は仏教の受け入れに積極的だった。仏教は古代日本が中央集権的な律令国家に発展するための理念的な装置の役割を担った。この時代に歴史的な古い木造建築物として有名な法隆寺も創建された。百済から大和に先進文物が伝わったのは、かなり前の時期からだ。代表的な人物として、4世紀末に大和に漢文を伝えたといわれる王仁(わに)博士もいる。高句麗に屈服し、また新羅にも押されて、いまの夫餘に移ってからは、百済と大和との関係はより深くなった。いろんな分野の百済の知識や技術などの文化が日本列島に伝わっており、また知識や技術の持ち主である多くの百済の人々が海を渡って日本にやってきた。三国時代の三国の中であまり知られていない百済だが、百済の文化は千年の年月が過ぎた今でも、日本の文化の中で輝いている。百済は韓国古代の最大の文化輸出国だった。
( 参考メモ ) 新羅の女王、そして‘花郎’のこと等。
西暦632年に即位した新羅の善徳女王は、韓国の歴史上最初の女王だった。韓国の歴史の中で女王は3人いる。この善徳女王、そして真徳女王と真聖女王の3人はすべて新羅の王だった。高句麗や百済には女王はなく、その後の歴史でも女王はいない。善徳女王が王になる頃、新羅は王朝国家の体系が確立していた。慶州平野を中心にサロ国から発展した新羅は、500年に王位についた第22代の智証王の時から国家としての体系が整う。智証王の時に新羅と言う国名を決め、法興王の時に貴族国家体系が完成した。律令が公布され、貴族の血縁を中心とする「骨品制」にもとづく国の体制を作り、官僚制の整備や国の発展を図った。善徳女王の父・新羅第26代の真平王には息子がなく、3人の娘がいた。当時の新羅の王室では、父と母の両方の家系に王系の血縁を持っている貴族を「聖骨」といい、彼らが王になれる最優先権を持っていた。それが骨品制だ。聖骨を王になれる最優先条件にしたのは、新羅が征服した周辺の部族国家の支配層を新羅の支配体制に編入し、身分と序列を作るための装置だった。骨品には聖骨と親の片方だけが王族の血縁である「真骨」、そしてその下は、六頭品から一頭品までの六つの貴族階級がいた。聖骨は後で消滅するが、階級によって一定の官位や官職につくことができた。しかし善徳女王が単に聖骨だったので王になれたのではなく、王にふさわしい実力の持ち主だったことが「三国遺事」や「三国史記」などに記されている。唐の太宗が牡丹の絵や種を送ってきた時、その花を見たこともないはずの女王は優れた判断力で、牡丹の花には香りがないだろうと言った。百済や高句麗にも優れた才能を持つ王族の女性がいたと思われる。しかし女性が王位についたのは三国の中で新羅だけだった。新羅の女性は相続権も持っていた。自分の財産についてしっかりした権利を持っていた。寺に寄付する社会的な活動も活発だった。女性が王になれたということは当時としても破格の決定だった。
善徳女王の父、真平王はいろいろな制度の整備や王の権力の強化、反乱勢力を徹底的に除きながら、娘への王位の継承を行った。善徳女王は即位した後、うまく政治を行った。善徳女王の時、新羅は百済や高句麗との戦いでも勝利を収めている。仏教を重んじて、宗教の力で国民の心を一つにし、また農業の生産力を増大させることに努力した。善徳女王は結婚しなかったため、当然子どもがなく、従妹に王位を譲ろうとしたが、貴族の一部が女王の末期に反乱を起こしてしまう。当時反乱を鎮圧したのは金?信将軍。彼は滅ぼされた加羅の王族の子孫で、新羅の保守的な貴族からは無視されていた存在。善徳女王はそのような金?信を抜擢して軍事権を与え、また真骨の貴族から無視されていた王族の金春秋に政治を任せた。実力を中心に人材を抜てきした。それも善徳女王の能力だった。善徳女王の死後、従妹の真徳女王が即位。金?信など反乱を鎮圧した新興貴族は新しい女王の絶対的な信任を背景に三国統一の道を開いていった。新羅が三国を統一した後に、もう一人の女王、真聖女王が登場した。新羅に3人もの女王がいたのは、女性という社会的に不利な立場を乗り越えて、自ら新しい智恵を持って、時代の流れに積極的に対応することができた賢い王だったからだと考えられる。
新羅の青少年たちはグループを作り、有名な山や川など、自然の中で共同生活をしながら、智、徳、体の全人的な教育を受けるようになる。新羅の真興王はその青少年たちを花郎党として国家的に体系化し、国家のための人材を養成した。新羅の花郎(ファラン)たちは自然の中で、体や心を鍛え、歌や舞い、弓や剣術を習う。彼らは新羅の三国統一の決定的な担い手になる。花郎党が組織的で体系的になるのは西暦576年、新羅の真興王の時だ。高句麗には大学という教育機関があり、百済にも似たような制度があった。しかし国の制度の整備に遅れていた新羅には、このような教育機関がなく、この花郎党を利用して、必要な官僚や軍人を選抜するため、部族を超えた国のエリート養成システムにしたのであろう。‘花郎’というのは‘花のような美少年’という意味。貴族出身の美少年を選び、集団の頭にし、‘花郎’としてグループのリーダーにした。花郎党は身分が高い貴族出身の花郎がその下の貴族や平民出身の郎党を率いた。大体15歳から18歳までの3年間活動をした。花郎党のリーダーである花郎は、記録によれば、「真骨」出身が多かったようだ。大きいグループでは数百人から一千人ほどの郎党がいた。有名な僧侶らが花郎たちを指導する顧問の役割を担当していた。
7世紀前半期の新羅は高句麗や百済の反撃によって危機的状況に直面していた。新羅は国王を中心に団結して国家的な危機状況をうまく乗り越えたが、特に青少年たちは花郎党を中心に国のために尽くそうとする決意に燃えていた。3年間の修練の過程で、花郎党に属した青少年たちは友情と誇り、そして正義感を感じるようになった。こうした花郎党精神の根幹になったのが、かの有名な円光法師の‘世俗五戒’。円光は中国南朝の陳に留学した深い学識を持つ僧侶で、新羅の花郎の思想的な師匠。世俗五戒は‘世の中で守るべき五つの戒律’という意味。王様には忠誠を尽くす、親には孝行し、友には信頼をもって交わる、戦いに臨んでは決して退かない、殺す時には慎重を期するという五つの教えだった。花郎党は三国抗争が激しかった時に大きな役割をした。新羅の花郎の一人一人は、自分こそ三国統一の立役者だ。自分が頑張らないとわが新羅が三国統一を完成することはできないだろうという一貫した精神を持っていた。こうした花郎たちの護国精神が新羅による三国統一を早めたとも言える。
新羅の有名な花郎には名の知れた青年が約30人ほどいた。真興王の時の花郎であるサダハムは562年、新羅が加羅を征伐する時に、まだ幼い15歳の花郎として敵を奇襲し大きな戦功をあげた。三国統一の英雄である金叟(广だれだが変換出来ない))信も花郎の出身。また西暦660年、百済軍は新羅と唐の連合軍を迎えて、今の忠清南道の論山の黄山の原で戦いに臨んだ。百済の桂伯将軍が率いる5千人の決死隊は数的な不利にもかかわらず、新羅の金?信の5万の兵を圧倒していた。新羅軍は落ちた士気を上げるために、15歳の花郎のクァンチャンが百済の陣営に一騎打ちに挑んだ。百済軍に捕らえられたクァンチャンの幼い顔を見た桂伯将軍は驚く。クァンチャンは戦いに臨んで退くのは花郎の恥だと言い、恥をかいて生きるよりは死を選びたいと言い百済軍はクァンチャンの首を馬に載せて新羅の陣営に返した。幼いクァンチャンの死をみて士気をあげた新羅軍は、結局百済を征伐する。このように新羅軍が勝利を収めることができたのは、国のために命をすてたクァンチャンの花郎精神があったからだ。花郎党は三国抗争が激しかった時に大きな役割をした。新羅の花郎の一人一人は、自分こそ三国統一の立役者だ、自分が頑張らないとわが新羅が三国統一を完成することはできないという一貫した精神を持っていた。こうした花郎たちの護国精神が新羅による三国統一を早めたもと言える。しかし三国統一後、平和な時代になってからは、戦争も少なくなり、花郎党は一種の社交の集まりに変わる。戦闘能力は弱くなり、風流を楽しみ、歌を作るのを好む集団に変わっていった。花郎党は時代の流れと共に変わり、歴史上からもその姿が消えてしまう。しかし国のために尽くそうとした忠誠と信義、未知の世界を知ろうと努力したその気性。こうした花郎精神がついに三国統一を可能にして、新羅千年の歴史を支える一つの根幹となった。
( 参考メモー2 ) 朝鮮半島、日本への仏教伝来はどうだったのか。
韓国はもちろん、日本にも大きな影響を与えた仏教は何時頃、韓国に伝わったのか。「三国史記」によると、高句麗は375年に仏教を公認したとある。中国の東晋の影響が大きかったといわれているが、その以前から仏教は入っていたとみられる。百済は384年に東晋の僧侶である魔羅難陀(マラナンタ)が仏教を伝えたといわれる。新羅は仏教公認に至るまでいろいろな余曲折を経て、かなり後の時期である6世紀の前半に公認されたと記されている。しかし実際は高句麗にはもっと早い時期に伝わったと見られる、4世紀半ばに作られた高句麗の墓からはハスの花の模様も発見されている。高句麗の領土になった今の中国の遼東地域には既に1世紀ごろには仏教が伝わっていた。高句麗の人々はかなり早い時期から仏教を知っていたと思われる。高句麗の小獣林王が仏教を公認したのは政治的な必要性によるものと考えられる。社会体制の再整備のための精神的な統合の重心的な役割を仏教に求めたのであろう。その後、中国から留学僧が帰国したり、あちこちに寺を建てる。今の平壌にあった都の中に寺が9つも建てられたといわれている。高句麗の仏教の繁栄を物語っている。
百済では、西暦526年にインドに留学した謙益という僧侶が持ち帰った仏教の経典を翻訳したり、聖王の時には日本の大和に経典と仏像を伝えている。中でも日本に仏教が伝わったのは重要な意味を持つ。仏教が各地に散っていた皇族集団を中央集権的な律令国家に改革する理念的な装置になったからだ。日本からこの仏教伝来を見たとき、伝来説には私伝説と公伝説とがある。522年(継体天皇)説などの私伝説と552年(欽明天皇)説および538年(宣化天皇)説の二公伝説。公伝二説中,552年説は『日本書紀』を原拠としている。また欽明7(戊午)年は宣化3(戊午)年に他ならず,史実上から見て538年仏教公伝説が有力だ。皇室・大臣蘇我・大連物部勢力による三極分立が深まった時代にあたり蘇我氏は渡来系氏族と関係を早くからもち海外事情に通じた氏族。物部氏は軍事・刑獄を主業に祭祀にも通じ,祭祀専業の中臣氏と並ぶ守旧的傾向の強い氏族。大臣・大連をそれぞれ蘇我氏・物部氏が勤める欽明朝に伝来した仏教の受否をめぐる抗争は『日本書紀』によると,蘇我氏が〈西蕃の諸国もっぱら皆これを礼す。豊秋日本あに独り背かんや〉と奏したのに対し,物部氏は中臣氏とともに〈蕃神を拝さば恐らく国神の怒を致さん〉と同奏したのを端緒とする。この対立は587年の物部氏の滅亡時まで半世紀に及ぶが,554年(欽明天皇の百済渡来僧交替,577年(敏達天皇の百済の律師・禅師・比丘尼・呪禁師・仏工・造寺工の渡来,584年(同13)の仏殿営作と法会の設斎,588年(崇峻)の百済僧9人・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工の渡来など,この間仏教文化の受容はしだいに進み、推古朝には飛鳥文化の中心である仏教文化の隆盛を見た。
高句麗と百済は仏教の受け入れに積極的だったが、新羅はやや異なっていた。まずは外来の宗教に対して非常に否定的だった。高句麗や百済は陸や海の道を通じて中国との交流が盛んに行われ、世界文化との接点があったが、新羅の場合、地理的にも中国との直接交流ができないため、高句麗や百済を通じて間接的に仏教を受け入れた。さらに自己の文化への執着が強く、外来宗教の受容に慎重な立場を取っていた。新羅には数々の仏教遺跡がある。キョンジュ一帯では今も地面を掘ると仏教関連の出土品がある。たくさんの仏教遺跡がまだ土の下に眠っている。このように三国での仏教の発展は、それぞれ中央集権国家としての改革の過程と重なるという共通点を持つ。仏教を通じて国民の思想の統一を図り、国王を中心にした中央集権化のために大きな役割を果たした。
三国の仏教受容関連年表
372年 高句麗に中国の前秦から仏教伝来
384年 百済に晋より仏教伝来(摩羅難陀の到来)
527年 新羅、仏教を公認(異次頓の殉教)
6世紀末~7世紀前半 渡来人系僧侶(行基、慧慈)、仏師(鞍作鳥)らが大和で活躍
新羅は各部族長の発言力が強く、独特な身分制度のために、国王が貴族を抑え切れなかった。6世紀前半の法興王(ポップンオウ)の時代に新羅は、加羅の征服に成功し、高句麗や百済と争う重要な時期だった。法興王には国の貴族や百姓などを一つに統合する契機が必要だった。このとき、法興王の側近の一人異次頓(イチャドン)は仏教を広めるために、自ら殉教者の役割を買って出ることを王に申し出た。王、「国をまとめるには仏教が一番良いと考えるが、あのように貴族の反対が強いので手も足も出ないのじゃ」、異次頓(イチャドン)、「王様いかがでございましょうか。私の死によって仏教をわが国新羅に広めることが出来るならこの上ない幸せでございます。」、 王、「罪も無い命をムダに奪うわけにはいかんのじゃ。」、異次頓(イチャドン)、「王様、私の命を国の未来のために喜んで差し上げましょう。」と。そしてイッチャドンは王の命令だと偽って大規模な寺の造営を始めた。偽った王の命令を出したイッチャドンを死刑にしろと王は命令した。王、「すぐイッチャドンの首を斬れ」、イッチャドンは死の間際に自分が死んだ後 奇跡がおこるだろうと予言する。異次頓(イチャドン)、「おれが死ぬとき、奇跡が起こる。それはお釈迦様が存在することの証となる筈だ。」、イチャドンの首を斬ると牛乳のような白い血が流れ、周囲が暗くなり 地震が起こり、空からは花びらが降ってきたと。自分の命を犠牲にした姿を目の前にして感動した貴族たちは、国王の仏教公認の決心を認めざるを得なかった。ひとりの死が歴史を変えたという逸話になっている。
法興王(ポップンオウ)は仏教によって王の権威に挑戦する貴族や有力部族をけん制することが出来た。そして仏教を通じて体制の整備、中央集権的な政治力量を発揮した。そして新羅には建築や工芸などの分野で仏教文化が広がっているが、中でも慶州(キョンジュ)駅東側のたんぼ地帯にその後が残っているファンギョンジが有名。法興王(ポップンオウ)の後の王の時代に建て始めたファンギョンジが一番大きくて有名。もともと寺を建てた場所は龍がすむと噂されていた沼があった所、それで龍を納めることの出来るお釈迦様の寺を建てたという説話が残っている。ファンギョンジはとても大きなお寺。ここに王がやってきて法要を執り行っていた。木造の八角の九重の塔はその美しさや華麗さが中国に伝わるほどのもの。高さは80mあまりあり、新羅に敵対する九つの敵による災いを避けるために九重にされていたといわれている。しかし、高麗時代にモンゴルの来襲で焼かれてしまい、今はその美しい姿を見ることは出来ない。
538年 日本の仏教公伝説。北韓の黄海道安岳(ハンエドアガク)にある安岳3号古墳は、今から1500年前のもので、タテ、ヨコ30メートル以上あり、高さは7メートルある。その壁画にある行列の図は規模が一番大きなもので、高さ2メートル、長さ6メートルの板状の石に描いてある。登場人物だけでも250人あまり。王の楽隊が先頭に立ち、その後を武装した兵士らがついて来る、一種のパレードのようだ。その兵士たちも馬に乗った騎兵から槍を持った兵士、腰に弓をつけた弓の兵士といった具合に次々に出てくる。これが当時の大陸を駆け巡り領土を拡大していった高句麗の部隊の姿。壁画に描かれている馬や弓などの武器から当時は騎馬戦が盛んだったことが分かる。そして国王の行列図からは王を中心に臣下や近衛兵などかなり体系化した行列になっていたことから、4世紀頃には国王の権力が確立されていたことが分かる。 実際に4世紀の領土拡張から5世紀にかけて高句麗の国力はその全盛期を迎える。壁画に描いてあるように騎馬戦を行いながら今の中国の東北地方から韓半島中部までの領土を手に入れ百済や新羅にも影響力を行使した。
( 参考メモー3 ) 高句麗一帯の古墳群、影響の強い日本の高松塚古墳・キトラ古墳
2004年7月、ユネスコの世界遺産委員会は中国と他にある高句麗一帯の古墳群を世界文化遺産に指定した。このように高句麗の古墳が世界の注目を引くのはその古墳の壁画の規模やレベルが世界的な価値を持っているからだ。高句麗の古墳は東洋の古墳美術史の中で独特の地位を占めている。まず3世紀から7世紀までの高句麗民族の文化や社会生活像を生々しく表現しているのがその特徴。高句麗は紀元前37年から西暦668年まで存在し、数多くの古墳を残した。現在までに発掘された古墳は約2万基で、その中で壁画が描いてあったのが95基。高句麗の古墳壁画は大きく2つの時期に分けられる。主に3,4世紀の前期の壁画には生活の図が多く描かれている。仏教関係のものも出ている。後期の6世紀のものには東西南北に青竜、白虎(びゃっこ)、朱雀、玄武を描く四神図が現われ、王の権力や貴族などの支配階級を中心にする社会の成立を物語っている。非常に多様であり当時の社会や生活状態、精神世界や世界観まで描いていることが注目に値する。高句麗の生々しい歴史が現れている。壁画によく出ている「引き車」の意味は何か。牛などの力で前から引っ張る「引き車」。高句麗は生産力が発達して、農耕も発展していた。対外交易のためには船や引き車は欠かせないもの。中国の史料には‘高句麗では人々の家ごとに蔵があり、引き車があった’と記されているほど、高句麗の経済が繁栄していた。引き車はそれを象徴する。壁画に出ている高句麗の引き車を見ると車輪が薄いのが特徴。車輪に鉄を巻いている。鉄が豊富に生産され丈夫な車輪を作り、また活発な国際交易を行い莫大な富を蓄積していった。
豊かだったのは経済だけではない、日常生活にも余裕が現れている。中国吉林省集安(チーアン)にある舞踊塚。歌に合わせて男女が集団で踊っているので舞踊塚と名づけられた。この壁画には14人の踊り手と楽師が登場する。その中では韓国民族の独特な肩で踊る舞が出てくる。みんなで一緒に踊る群舞。楽師と踊り手二人だけの二人踊りもあり、天井の壁画には天女や神仙が登場するが、天を飛ぶ天女である飛天は中央アジアの仏教洞窟でみることができる長い笛や琴、琵琶などのいろいろな楽器を演奏している。また相撲を見学する老人とか馬に乗ったまま弓を放す競り合いの絵などもある。そしてサーカスを見物する貴族の絵や棒踊りやボール遊びをするピエロみたいな人もいる。サーカスを見るほど当時は生活に余裕があったことがうかがえる。古墳壁画は韓国古代の三国の中で高句麗だけに集中している。発見された古墳壁画は、百済は2基、新羅は1基に過ぎないが、それも高句麗の影響を受けたものと考えられる。東北アジアの強国だった高句麗はほかの民族を包み込み中国と対決するためには彼らのアイデンティティが必要だった。壁画にはそれが現れている。高句麗の人々には「天の孫」つまり天孫意識が強かった。国の始祖朱蒙ジュモンが天の精気を受けているとされ、そのような意識が壁画では太陽や月の絵でそして末期には太陽と月の神様がよく出ていることで表現されている。天孫の国という意識が中心的な理念の一つだった。
高句麗壁画は後期になると四神図を通じて高句麗の人たちの世界観をより具体的に表現する。東西南北に想像の動物である玄武、白虎、朱雀、青竜を描いている。北の玄武は雄と雌が一緒になり向かい合う亀と蛇が火を吐き出している。西の神は白虎、南の神である朱雀は鳳凰の形をして羽ばたく翼と長い尻尾を見せている。東の青竜は鬼のような顔と大きな目で何かを見張っている。天井には王を象徴する「こう(どういう字を当てるのか不明)竜」が描かれており、その周りにもいろいろな動物や神仙が飛び回っている。これが高句麗の人々が想像した天の世界。四神が死んだ人の魂を導いていくと死んだ人が神仙になれるということを表現している。ここに高句麗の人々の天孫に対する意識が表れている。高句麗の人々は単にほかの国を征服する好戦的な国ではなく文化国家でもあった。壁画には三つ足のからすが出てくるが、足が三つで頭に角が出ている、このからすは、正と反のかっとうや対立を3と象徴される合意の状態を実現しようとするいわば弁証法の一種で、東洋思想での調和を求めていた文化を示している。その意味で高句麗の古墳壁画は当時の世界観を表現し、それを子孫に伝えるメッセージであると言える。高句麗の古墳は単に死んだ人を埋める場所ではなく柱を作ったり壁画を描いたりした所、即ち魂が住む場所だった。そこには永遠に死なない高句麗の人が1500年後の我々に伝えるメッセージが入っている。これが今日、世界が高句麗の古墳壁画を注目する理由だ。
高松塚古墳・キトラ古墳 この名前はよく聞く。高松塚古墳は1972年に発掘調査、キトラ古墳は1982年にファイバースコープが入れられて調査が始まった。いずれも7世紀末から8世紀初頭にかけての,今からおよそ1300年前に築かれた円墳で,古墳の時代区分からいえば終末期の古墳。注目を浴びたのは、見事な彩色壁画が描かれていることがわかったからだ。四神と星宿が描かれている。それらが高句麗の古墳壁画と似ていることから注目を浴びている。なお、星宿とは天体図のことで、そこに描かれているのは高句麗の空だという。堀田啓一・高野山大学教授(考古学)は「7世紀代の高句麗壁画は四神図が主体で、技法などにもかなりの違いがある。しかし、高松塚古墳には高句麗の画題がすべて統合されており、それを視野に置いて被葬者を考える必要がある」と話す。日本の横口式石槨を編年した堀田氏は、高松塚古墳の築造年代を680~700年ごろとみる。高句麗の滅亡は668年。「故国を追われた人々が向かうのは日本列島しかない。亡命してきた高句麗の王族クラスを被葬者と考えることもできるのでは」。亡命から数世代後の絵師が日本化された壁画を高松塚古墳に描いた。堀田氏はそう推定しているようだ。
檀君(タングン)は紀元前2333年に平壌(ピョンヤン)を都にして、国名を朝鮮と呼んだ。日が昇るところという意味の古代の朝鮮語であり、アサダルの漢字表現だ。古朝鮮という名称は、後に李氏朝鮮(1392年-1910年)の始祖となる李成桂(イ・ソンゲ)が朝鮮という名の王朝を建てたため、檀君の朝鮮を古朝鮮と呼ぶようになった。古朝鮮の開国は紀元前2333年、それは韓国年号の檀紀が始まる年度で、例えば2016年は檀紀4348年記となり、韓国の歴史が始まって今年で4348年目ということになる。
檀君(タングン)は単に人の名前でもない。個人を指す固有名詞ではなく、普通名詞だ。祭政一致社会、シャーマンの王として政治権力と宗教の権力とを同時に持っていた意味をもつ一般名詞だ。古朝鮮は政治と宗教が一致していた社会であった。檀君は1500年間、朝鮮を治めて、アサダルの山に入り、山の神になったという。そのとき1908歳、ここまでが「三国遺事」の記録だ。神話が存在する理由は、その民族の象徴であり、『檀君神話』は、天の神の息子がこの地に降臨してきて、宇宙の木である神壇樹の前でこの世を創り、人々と共に生活するという話だ。韓国では、ハイライトは結婚式で、天があり、地があり、植物を代表する宇宙の木があり、動物を代表する熊がいる。その間に人がいる。全ての宇宙が集まって宴会をするのが結婚式だ。この結婚から檀君が生まれる。そのような全宇宙の美しい祝福を受けて生まれてきたということを伝えている。檀紀(檀君紀元)とは「三国遺事」で伝えられる檀君(タングン)の朝鮮建国を称える年号だ。「三国遺事」以下、各種史料では建国年次が一定していなかったが、1485撰述の「東国通鑑」が「唐堯の即位25年・戊辰」と特定して以来、紀元前2333年建国という認識が定着した。檀紀は、日本からの独立を果たした大韓民国で公用紀元として採用された年号で、檀君(タングン)の朝鮮建国と伝えられる紀元前2333年を元年とし、陰暦10月3日を開天節と定めている。1961年まで用いられたが、1962年の憲法改正(第三共和制)の時、西暦に改められた。
紀元前108年に古朝鮮が滅びた後、朝鮮半島の北部から旧満州にわたって鉄器文化を持ついろいろな部族国家が登場する。今の長春に扶餘(ぶよ)という国もあった。高句麗の歴史は扶餘(ぶよ)から始まる。高句麗を建国した東明聖王の名は朱夢(チュモン)、彼は後で、自ら高という苗字を名のり、高朱夢とよばれるようになる。東扶餘にはヘブルという王がいた。ヘブルの父は天の神の息子であるヘモス、へブルはカエルのような金蛙(クムワ)という子どもを授けられて育てる。また河の神であるハベクの娘、ユファは卵を産み落とし、そこから高句麗を建国する東明聖王すなわち朱夢(チュモン)が生まれる。これも神話だ。韓国の神話では、高句麗、新羅、加羅の建国者は、みんな卵から生まれている。卵から生まれたというのは、父がいなくて、捨てられたという意味になる。王子であれば、国を受け継げばいい。しかし捨てられたから新たに建国することができる。韓国の神話の特徴は、捨てられたという設定、それが卵として表現される。朱夢(チュモン)という名前の意味は何か。弓の実力が優れた人の代名詞だ。それは遊牧民としての特徴や闊達さ、気概、征服性を強調する意味の名前だ。朱夢は幼いときから優れた才能を持ち、それに焼きもちを感じたクムワ王の長男のデソは、父に朱夢を殺してしまうように提案する。扶餘から逃げ出した朱夢は、ゾルボンに行って、都を開く。ゾルボンとは、今の中国の黒竜省の一帯。彼は鉄器文化を持つ強力な軍事力を持って、周辺地域を征服し、高句麗を建国(紀元前37年)、その時、彼は22才。扶餘の生まれ育ちだが、そこには、扶餘人ではなく、天と水の脈を引き継ぐ神の子孫という夢がある。そうした神話の背景には、天を恐れ、水の神聖さを崇拝する人々を集め、その強力な新しい勢力のリーダーがいる。そして、乗馬や弓に長けていた戦争英雄の征服によって勇敢な国、高句麗を開くのである。
紀元前37年、今のロシアのウラジオストク、中国の吉林省、北朝鮮の北東部にわたる広い範囲に朱夢(チュモン)が建国した高句麗。その南には百済と新羅があった。その三国は、王制が定着した後、7世紀半ばにいたるまで、激しい戦争を繰りかえしながら存在した。「三国史記」によると、百済の始まりは高句麗からだ。ある日、高句麗の王、朱夢(チュモン)の所に、男の子が訪ねてきた。朱夢が扶余にいたときに産ませた息子のユリであると言い、その証として半分に折れた短刀を見せる。朱夢はユリを自分の息子と認める。そして王位継承権者である太子の地位を与える。朱夢には他にも高句麗で作った2人の息子・兄のビリュ、弟のオンゾがいた。ユリが太子になるのを、素直に受け入れた弟、ビリュとオンゾは、自分たちに従う臣下を連れて南の方に行く。兄のビリュは今の仁川であるミツホルに行く。しかし、ミツホルの土地は湿気と塩分が多く生活しにくい所で大変に苦労する。そのことを恥と思ったビリュは、それが原因で病に倒れる。弟のオンゾは、今のソウルと推定される威礼城に行った。ビリュ亡き後、ミツホルの人たちも威礼城にやってくる。オンゾは漢江の周りから京畿や忠清の地域に存在していた部族国家を統合し一つの国家を作り上げていた。外部からの侵略もなく、しかも高句麗の先進文物を用いて相当安定した国づくりができた。やがてオンゾは国名を百済に変える。百済は西暦660年に、そして高句麗は668年に滅びる。その二つの国を滅ぼしたのが三国の中で一番遅く国家体制を作った新羅だ。新羅を建国したのは朴ヒョコセ。彼は慶州にあった6つの部族の首長らに推挙されて王の位につくが、その王位は世襲ではなく、朴、昔、金という三つの氏族が代わる代わる王位につくことになる。
新羅の建国者・朴ヒョコとはどんな人物だったのか。その昔、今の慶尚道にあった辰韓には6つの村があった。6つの村の村長たちは、自分たちを導いて、村民らが従うことができる王のような存在が現れることを願った。ある日、森の中から神秘な光が発せられ、まぶしいくらい真っ白な馬がおじぎを続けている。6人の村長らが近づいて見ると、そこには青い光が漂う一個の卵があった。白馬は人を見ると天に上り、卵が二つに割れ、そこから可愛い男の子が生まれた。村長らは、その青い神秘な光は天の啓示であり、白馬は天の使者、その子は天が送ってくれた人物だと受けとめ、誠意をもって育て、その子が13歳になった時、王として即位させた。それが朴ヒョコセだった。これは自らつけた名前。この話にも卵から生まれてきた男の子がいる。ヒョコセの活躍の話は神話の世界と呪術の範囲に留まっている部分が多い。その分、高句麗や百済よりは古代王国になるのが遅かったともいえる。新羅という国名を定めるのも、ずっと後の22代目の王の時代になる。しかし、新羅は、優秀な鉄器文化を持つ高句麗、百済との交流を通じて、時には牽制をうけながら、ゆっくりと将来の三国統一の基盤づくりに励む。
高句麗、百済、新羅、それら三国時代、その期間は長く、700年間にも及ぶ。韓国の歴史の中で一番広い領土を持ち、東北アジアの主役として強い国家を建設した高句麗の2代目のユリ王は、西暦3年に国内城に都を移す。それは今の中国の集安(チーアン)。高い山に囲まれた天然の要塞と農耕に適した土地と豊富な鉄。国内城のすぐそばには鴨緑江が流れている。その川を下って黄海に出て、国際的な秩序の中に進入できたことが都を移転した一番重要な目的だった。ユリ王は、朱夢(チュモン)が扶余にいたときに産ませた息子のユリであるが、そのころ高句麗と対立関係にあった扶余のデソ王が高句麗に服従を要求し、拒んだ高句麗を攻撃してきた。ユリ王の三男であるムヒュルが扶余軍を奇襲攻撃し勝利を収める。彼が高句麗の3代目のデムシン王となる。デムシン王は弓と狩に優れた才能を持っていた。彼は若いときから、周辺の国々を征服し、高句麗の膨張の基礎を築く。扶余を征伐し、ほかの遊牧民族も次々に征服していった高句麗は目を南のほうへと向けてゆく。
そしてデムシン王の息子ホドン王子の話に続く。ある夏の日ホドン王子は南の地域を旅していた。美男子であるホドン王子を見た、楽浪の王、チェリは、ホドンが高句麗の王子であることを見抜いて、楽浪の宮中につれて行った。楽浪の宮殿で、チェリの娘である楽浪姫に会って、恋に落ちたホドン王子はデムシン王の許しを得て、正式に結婚するために帰国することにした。楽浪には敵が侵略してくると、自ら鳴って危険を知らせる「自鳴鼓(じめいこ)」という太鼓があった。しかし、ホドン王子は楽浪姫に、その楽浪の宝物である太鼓を壊してくれと頼んでいた。それで高句麗軍が攻撃してきても、自鳴鼓が鳴らなくて何の備えもできていなかった。チェリ王は、自鳴鼓を壊したのが楽浪姫だったのを知り、楽浪姫を殺してしまう。高句麗軍をつれて楽浪に着いたホドン。しかし、楽浪姫はすでに冷たい遺体になっていた。その悲しみを克服できなかったホドン王子は、結局、死を選ぶ。その時に降伏した楽浪は、5年後には完全に滅びてしまう。ホドン王子と楽浪姫の話は、現代まで悲しい恋の話として言い伝えられている。悲恋の裏には、高句麗の領土拡張の野心が潜んでいた。楽浪はどこにあったのか、いろいろと説があるが、平壌を中心とした地域と推定される。国内城からはかなり距離もあるが、高句麗の南のほうへの征服を意味している。ユリ王は吉林省付近の国内城に都を移し、東北アジアに羽ばたく基盤を作った。デムシン王は扶余と楽浪を征服し、本格的な領土拡張を始める。高句麗の建国後、百年の西暦1世紀ごろ、高句麗が征服した国が10カ国にも及んでいたと「三国史記」には記されている。領土拡張の過程で起きた楽浪滅亡の際のホドン王子と楽浪姫の悲しい恋の物語は今でも韓国の子どもたちに伝えられている。
さて鴨緑江沿いの中国吉林省集安(チーアン)、山合いのこの地は400年間、高句麗の首都だった。ここに有名な広開土大王の石碑(好太王の石碑)が残っている。その石碑には、広開土大王の時代に高句麗の人々が直接経験したこと、広開土大王の領土拡張のための戦争の記録が1705個の文字で詳しく記されている。高さ6メートル40センチの石碑。広開土大王(カンゲト大王)は、鴨緑江以北の大陸は放射線状に征服し、同時に南の狭い地域は、水軍を使って、海から攻撃する方法で成功を収めた。大王が最初に攻め入ったのは百済だった。大王の祖父の故国原王が百済との戦いで戦死したので大王の百済征伐は、その復讐でもあった。百済の都への入り口のカンミ城を攻略する計画を立てた。カンミ城は今の漢江の河口にあった。高句麗の水軍の奇襲攻撃を受けた百済、カンミ城はあっけなく陥落した。カンミ城の陥落は、西海岸の支配権が高句麗の手に入ったことを意味し、漢江沿いにあった百済の都、漢城(今のソウル)が無防備の状態となり危険にさらされることを意味する。西暦396年に、大王は百済の都である漢城を攻撃する。百済のアサン王は、大王に降伏せざるを得なかった。これを契機に、高句麗は西海岸を含む漢江以北の地域をほとんど治めることになる。
百済との戦いは、一応決着がつき、百済は高句麗に朝貢をするようになる。新羅との関係はどうだったのか。百済と加羅、倭(日本)の軍が新羅を攻撃したので、新羅は高句麗に救援を要請する。大王はその要請に応じて10万の大軍を派遣する。それ以来、新羅も高句麗に朝貢をするようになる。 高句麗の勢力は、百済と新羅を圧倒し、強い影響力を行使していた。しかし、高句麗は百済や新羅について直接統治をしようとはしなかった。高句麗をはじめ、ほとんどの北方の遊牧民族は直接支配するのではなく、いわゆる間接支配をする。広開土大王も自分の秩序の中に編入させることで満足したのであろう。広開土大王は戦争だけではなく、文化や政治にも力を注いだ。記録によると、平壌に九つの寺を建て仏教を振興させ、官僚制も整備して、国の支配体制を整えた。
高句麗が漢江流域を手に入れたのも、食糧供給のための平野を占領するためだった。また漢江は中国との交易の通路でもあった。大王は単純な領土拡張主義者ではなく、偉大な戦略家だった。広い満州の平野と遼東半島の隅々まで駆け巡った広開土大王、彼の時代に、強大国、高句麗は全盛期を迎えている。また、韓国古代史の中で百済は中国と活発な交流をして、百済文化を日本に伝えた古代史上最大の文化輸出国家だった。全体を通すと、高句麗、新羅、百済の3国の中で一番印象が薄いのが百済ともいえる。百済は高句麗の領土拡張政策で都が漢江(ハンガン)の南へ移らざるを得なかった。最後は新羅と唐の連合軍によって滅ぼされてしまう。百済の語源は、扶余の東明王の後裔である扶余王尉仇台が高句麗に国を滅ぼされ、百の家族を伴って済海(海を渡る)し、帯方郡の地に国を建てた。それが「百済(伯済)」の語源と言われている。今のソウル市東南部に都を置いていた百済。その時期に百済の最初の全盛期が訪れる。風納土城(フンナットジョウ)と夢村土城(モンチョンドジョウ)石村洞(ソクチョンドン)の古墳群などが、その時代の遺跡であるが、実際の様子はどうだったのか、風納土城を例にして、1997年の発掘に関わった歴史学者は当時の百済社会を説明する。風納土城の城壁は周囲4キロ、高さ9m、下の幅が40m。その城壁は小さな砂利や石も使わないで、微細な土だけで巨大な土城を完成させている。大規模な動員ができた専制王制の存在を物語っている。そのような技術は今も日本の九州や近畿地方に残っている朝鮮式山城でも発見することができる。百済が滅亡した後、日本に渡った人々の技術によって築かれたものだ。
文化と共に百済人もたくさん日本に住むようになり、多くの文化が日本に伝えられた。初期百済の都の跡地からは、3世紀半ば頃の中国の場子江の南部で作られた土器や日本で作られた土器や5世紀頃の慶尚南道、すなわち加羅の土器も発見された。当時の風納土城は、中国の南朝や倭(やまと)、加羅との活発な交流が行われた東アジアの交流の舞台だった。4世紀後半に30年間在位した近肖古(クンチョゴ)王の時、百済は全盛期を迎える。その領土は南は南海岸まで、北は平壌城ピョンヤンジョウの手前まで、そして韓半島の中部一帯を掌握したとみられる。近肖古王は韓半島の南にあった加羅にまで手を伸ばして影響力を行使し、その後は高句麗に矢先を向け、371年には大同江テドンガン流域にある平壌城を攻撃した。その戦争で、 近肖古王は高句麗の故国原王コグゥオンオウを戦死させる戦果を挙げ、百済は史上最大の領域を掌握した。
近肖古(クンチョゴ)王は王位の継承を父子相続に変え、王妃となる家柄も決めて、王室の支持基盤を固定化させ、強力な王制を中心とした国家形態を確立した。そして国の歴史書も編さんした。しかし近肖古王が死んだ後、百済は衰退し始め、高句麗の広開土大王、続いて長寿王の南下政策によって最大の危機に直面する。百済は 、ソウルの漢城ハンソンまでも失ってしまう。仕方なく当時、熊津と言った今の公州コンジュに移るしかなかった。歴史的に韓半島では漢江を掌握した民族や国家が一番強力な国家になることができた。ハンガン流域を奪われてから、王の力も衰退、二度も王が貴族に殺されるという事件が続くが、そのような百済の危機状況を立て直したのが第25代王の武寧(ムリョン)王だ。百済を立て直したことが最大の功績だが、その他にも彼の功績は死してなお続いた。すなわち高句麗を牽制するために中国の南朝と緊密な関係を築き、先進文物も受け入れ、国力の向上を図っている。また、隣国・新羅を牽制するために、日本に先進文物を伝えて、日本からは軍事力の支援を受けている。
1971年に武寧王の墓が発掘された。武寧王の墓からの出土品の90%は中国や日本からのものだ。墓の様式も中国式、「三国史記」でも武寧王は国民生活の安定をはかり、506年の飢饉の時の救済政策や、堤防の建設、農業の奨励など、国民の支持と信頼を得ることができたと記されている。1971年の発掘は韓国考古学史上最大の発掘といわれている。この発掘に関わった韓国の考古学者がいったという、「この墓は本当に盗掘されていないようだ、きっと何か見つかるぞ おっ中が見えた あれは何だ 入り口でこちらを睨んでいる動物のような物がいる、置物だ、豚のお化けだ。もっと奥の方を照らして、あれは王様とお后様の遺体だ、きらびやかな飾り物に覆われている」と。武寧王についての記録を刻んだ石の碑文が発見され、そこには「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と書かれており、墓の主人公が武寧王であることが明らかになり、墓の主人公が誰だか分かった唯一の王陵となった。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、武寧王陵の木棺の材質が日本の近畿地方南部でしか産出しない高野槙(コウヤマキ)と判明したことも大きな話題となった。副葬品が部屋一杯にあった。金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。武寧王の墓からは百済文化の研究のための決定的な資料が得られた。そこに古代の韓日関係の鍵が隠されていた。日韓関係の歴史の鍵とは何か。東アジアの物流の中心地的な役割をしていたという事実だ。
「寧東大将軍百済斯麻王」斯麻王のネーミングについては、海中の主嶋で生まれたので「斯麻」と名づけられたと言われている。この「主嶋」だが、佐賀県玄海海中公園の加唐島(かからのしま)というのが、わが国では有力な説だ。つまり武寧王は当時の倭(日本)で生まれたことになる。お墓を発掘した博士の言葉「入り口でこちらを睨んでいる動物のような物がいる、置物だ、豚のお化けだ」この墓の入り口に置いてあった獣の石像とは何か。「石獣」と言われているが、ガイドブックによっては「石熊」と書いてあるものもある。熊と豚と猪を掛け合わせたような姿をしているが、想像上の動物だ。しかし、建国神話が熊を取り上げている所を見ると「熊が主体のもの」と思いたい。2001年の誕生日を前に、W杯共催国である韓国への思いを聞かれた天皇は、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と話された。日本の皇室と古代朝鮮との結びつきを論じる学説は以前からあったが、天皇自らが、その血縁関係に言及されたのは初めてである。
母親が武寧王を身ごもったまま大和に来る途中、現在の佐賀県玄海海中公園の加唐島(かからのしま)で生まれたので、嶋王(しまおう)と呼ばれたという話が「日本書紀」に記されている。当時の大和と百済がどれほど密接な関係を持っていたかを物語る証拠である。武寧王の墓からも日本との親密な関係がうかがえる。王と王妃の棺桶に使われた木材は世界的にもまれな金松と呼ばれているもので、日本列島の南部だけに生えている。その金松は、昔から日本でも支配層だけが使うことができた貴重な木材・高野槙(コウヤマキ)。武寧王の墓からは、中国の梁(りょう)王朝の貨幣や陶磁器などが沢山出土しており、墓の様式も中国の梁王朝のそれと似ている。中国の南朝と百済、そして百済と日本との緊密な交流は、武寧王の時代がその頂点だったと考えられる。当時の中国や日本の文物が残っている武寧王の墓がそれを雄弁に物語っている。武寧王の初期の百済は、まだ高句麗の南進政策に押されて滅亡寸前の危機的な状況に置かれていた。こうした状況で、中国との交流は先進文物を受け取るほかにも高句麗の勢力を牽制することにその目的があった。その目的のために、百済と大和との間にも外交的な接触が活発に行われたが、その内容は百済から先進文物を伝える代わりに、大和からは軍事的な支援を得るということだった。
日本の古代国家の形成に大きな影響を与えた百済の先進文物とは何だったのか。奈良の広隆寺にある日本の国宝1号である弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)、この美しい宝物は、百済から仏教を受け入れて日本の古代文化を発展させた飛鳥時代のもので、百済の仏像の美しさをそのまま伝えている。聖徳太子が活躍していた推古朝の時代に当たる。蘇我氏が政権を掌握していた聖徳太子の時代に、日本は仏教の受け入れに積極的だった。仏教は古代日本が中央集権的な律令国家に発展するための理念的な装置の役割を担った。この時代に歴史的な古い木造建築物として有名な法隆寺も創建された。百済から大和に先進文物が伝わったのは、かなり前の時期からだ。代表的な人物として、4世紀末に大和に漢文を伝えたといわれる王仁(わに)博士もいる。高句麗に屈服し、また新羅にも押されて、いまの夫餘に移ってからは、百済と大和との関係はより深くなった。いろんな分野の百済の知識や技術などの文化が日本列島に伝わっており、また知識や技術の持ち主である多くの百済の人々が海を渡って日本にやってきた。三国時代の三国の中であまり知られていない百済だが、百済の文化は千年の年月が過ぎた今でも、日本の文化の中で輝いている。百済は韓国古代の最大の文化輸出国だった。
( 参考メモ ) 新羅の女王、そして‘花郎’のこと等。
西暦632年に即位した新羅の善徳女王は、韓国の歴史上最初の女王だった。韓国の歴史の中で女王は3人いる。この善徳女王、そして真徳女王と真聖女王の3人はすべて新羅の王だった。高句麗や百済には女王はなく、その後の歴史でも女王はいない。善徳女王が王になる頃、新羅は王朝国家の体系が確立していた。慶州平野を中心にサロ国から発展した新羅は、500年に王位についた第22代の智証王の時から国家としての体系が整う。智証王の時に新羅と言う国名を決め、法興王の時に貴族国家体系が完成した。律令が公布され、貴族の血縁を中心とする「骨品制」にもとづく国の体制を作り、官僚制の整備や国の発展を図った。善徳女王の父・新羅第26代の真平王には息子がなく、3人の娘がいた。当時の新羅の王室では、父と母の両方の家系に王系の血縁を持っている貴族を「聖骨」といい、彼らが王になれる最優先権を持っていた。それが骨品制だ。聖骨を王になれる最優先条件にしたのは、新羅が征服した周辺の部族国家の支配層を新羅の支配体制に編入し、身分と序列を作るための装置だった。骨品には聖骨と親の片方だけが王族の血縁である「真骨」、そしてその下は、六頭品から一頭品までの六つの貴族階級がいた。聖骨は後で消滅するが、階級によって一定の官位や官職につくことができた。しかし善徳女王が単に聖骨だったので王になれたのではなく、王にふさわしい実力の持ち主だったことが「三国遺事」や「三国史記」などに記されている。唐の太宗が牡丹の絵や種を送ってきた時、その花を見たこともないはずの女王は優れた判断力で、牡丹の花には香りがないだろうと言った。百済や高句麗にも優れた才能を持つ王族の女性がいたと思われる。しかし女性が王位についたのは三国の中で新羅だけだった。新羅の女性は相続権も持っていた。自分の財産についてしっかりした権利を持っていた。寺に寄付する社会的な活動も活発だった。女性が王になれたということは当時としても破格の決定だった。
善徳女王の父、真平王はいろいろな制度の整備や王の権力の強化、反乱勢力を徹底的に除きながら、娘への王位の継承を行った。善徳女王は即位した後、うまく政治を行った。善徳女王の時、新羅は百済や高句麗との戦いでも勝利を収めている。仏教を重んじて、宗教の力で国民の心を一つにし、また農業の生産力を増大させることに努力した。善徳女王は結婚しなかったため、当然子どもがなく、従妹に王位を譲ろうとしたが、貴族の一部が女王の末期に反乱を起こしてしまう。当時反乱を鎮圧したのは金?信将軍。彼は滅ぼされた加羅の王族の子孫で、新羅の保守的な貴族からは無視されていた存在。善徳女王はそのような金?信を抜擢して軍事権を与え、また真骨の貴族から無視されていた王族の金春秋に政治を任せた。実力を中心に人材を抜てきした。それも善徳女王の能力だった。善徳女王の死後、従妹の真徳女王が即位。金?信など反乱を鎮圧した新興貴族は新しい女王の絶対的な信任を背景に三国統一の道を開いていった。新羅が三国を統一した後に、もう一人の女王、真聖女王が登場した。新羅に3人もの女王がいたのは、女性という社会的に不利な立場を乗り越えて、自ら新しい智恵を持って、時代の流れに積極的に対応することができた賢い王だったからだと考えられる。
新羅の青少年たちはグループを作り、有名な山や川など、自然の中で共同生活をしながら、智、徳、体の全人的な教育を受けるようになる。新羅の真興王はその青少年たちを花郎党として国家的に体系化し、国家のための人材を養成した。新羅の花郎(ファラン)たちは自然の中で、体や心を鍛え、歌や舞い、弓や剣術を習う。彼らは新羅の三国統一の決定的な担い手になる。花郎党が組織的で体系的になるのは西暦576年、新羅の真興王の時だ。高句麗には大学という教育機関があり、百済にも似たような制度があった。しかし国の制度の整備に遅れていた新羅には、このような教育機関がなく、この花郎党を利用して、必要な官僚や軍人を選抜するため、部族を超えた国のエリート養成システムにしたのであろう。‘花郎’というのは‘花のような美少年’という意味。貴族出身の美少年を選び、集団の頭にし、‘花郎’としてグループのリーダーにした。花郎党は身分が高い貴族出身の花郎がその下の貴族や平民出身の郎党を率いた。大体15歳から18歳までの3年間活動をした。花郎党のリーダーである花郎は、記録によれば、「真骨」出身が多かったようだ。大きいグループでは数百人から一千人ほどの郎党がいた。有名な僧侶らが花郎たちを指導する顧問の役割を担当していた。
7世紀前半期の新羅は高句麗や百済の反撃によって危機的状況に直面していた。新羅は国王を中心に団結して国家的な危機状況をうまく乗り越えたが、特に青少年たちは花郎党を中心に国のために尽くそうとする決意に燃えていた。3年間の修練の過程で、花郎党に属した青少年たちは友情と誇り、そして正義感を感じるようになった。こうした花郎党精神の根幹になったのが、かの有名な円光法師の‘世俗五戒’。円光は中国南朝の陳に留学した深い学識を持つ僧侶で、新羅の花郎の思想的な師匠。世俗五戒は‘世の中で守るべき五つの戒律’という意味。王様には忠誠を尽くす、親には孝行し、友には信頼をもって交わる、戦いに臨んでは決して退かない、殺す時には慎重を期するという五つの教えだった。花郎党は三国抗争が激しかった時に大きな役割をした。新羅の花郎の一人一人は、自分こそ三国統一の立役者だ。自分が頑張らないとわが新羅が三国統一を完成することはできないだろうという一貫した精神を持っていた。こうした花郎たちの護国精神が新羅による三国統一を早めたとも言える。
新羅の有名な花郎には名の知れた青年が約30人ほどいた。真興王の時の花郎であるサダハムは562年、新羅が加羅を征伐する時に、まだ幼い15歳の花郎として敵を奇襲し大きな戦功をあげた。三国統一の英雄である金叟(广だれだが変換出来ない))信も花郎の出身。また西暦660年、百済軍は新羅と唐の連合軍を迎えて、今の忠清南道の論山の黄山の原で戦いに臨んだ。百済の桂伯将軍が率いる5千人の決死隊は数的な不利にもかかわらず、新羅の金?信の5万の兵を圧倒していた。新羅軍は落ちた士気を上げるために、15歳の花郎のクァンチャンが百済の陣営に一騎打ちに挑んだ。百済軍に捕らえられたクァンチャンの幼い顔を見た桂伯将軍は驚く。クァンチャンは戦いに臨んで退くのは花郎の恥だと言い、恥をかいて生きるよりは死を選びたいと言い百済軍はクァンチャンの首を馬に載せて新羅の陣営に返した。幼いクァンチャンの死をみて士気をあげた新羅軍は、結局百済を征伐する。このように新羅軍が勝利を収めることができたのは、国のために命をすてたクァンチャンの花郎精神があったからだ。花郎党は三国抗争が激しかった時に大きな役割をした。新羅の花郎の一人一人は、自分こそ三国統一の立役者だ、自分が頑張らないとわが新羅が三国統一を完成することはできないという一貫した精神を持っていた。こうした花郎たちの護国精神が新羅による三国統一を早めたもと言える。しかし三国統一後、平和な時代になってからは、戦争も少なくなり、花郎党は一種の社交の集まりに変わる。戦闘能力は弱くなり、風流を楽しみ、歌を作るのを好む集団に変わっていった。花郎党は時代の流れと共に変わり、歴史上からもその姿が消えてしまう。しかし国のために尽くそうとした忠誠と信義、未知の世界を知ろうと努力したその気性。こうした花郎精神がついに三国統一を可能にして、新羅千年の歴史を支える一つの根幹となった。
( 参考メモー2 ) 朝鮮半島、日本への仏教伝来はどうだったのか。
韓国はもちろん、日本にも大きな影響を与えた仏教は何時頃、韓国に伝わったのか。「三国史記」によると、高句麗は375年に仏教を公認したとある。中国の東晋の影響が大きかったといわれているが、その以前から仏教は入っていたとみられる。百済は384年に東晋の僧侶である魔羅難陀(マラナンタ)が仏教を伝えたといわれる。新羅は仏教公認に至るまでいろいろな余曲折を経て、かなり後の時期である6世紀の前半に公認されたと記されている。しかし実際は高句麗にはもっと早い時期に伝わったと見られる、4世紀半ばに作られた高句麗の墓からはハスの花の模様も発見されている。高句麗の領土になった今の中国の遼東地域には既に1世紀ごろには仏教が伝わっていた。高句麗の人々はかなり早い時期から仏教を知っていたと思われる。高句麗の小獣林王が仏教を公認したのは政治的な必要性によるものと考えられる。社会体制の再整備のための精神的な統合の重心的な役割を仏教に求めたのであろう。その後、中国から留学僧が帰国したり、あちこちに寺を建てる。今の平壌にあった都の中に寺が9つも建てられたといわれている。高句麗の仏教の繁栄を物語っている。
百済では、西暦526年にインドに留学した謙益という僧侶が持ち帰った仏教の経典を翻訳したり、聖王の時には日本の大和に経典と仏像を伝えている。中でも日本に仏教が伝わったのは重要な意味を持つ。仏教が各地に散っていた皇族集団を中央集権的な律令国家に改革する理念的な装置になったからだ。日本からこの仏教伝来を見たとき、伝来説には私伝説と公伝説とがある。522年(継体天皇)説などの私伝説と552年(欽明天皇)説および538年(宣化天皇)説の二公伝説。公伝二説中,552年説は『日本書紀』を原拠としている。また欽明7(戊午)年は宣化3(戊午)年に他ならず,史実上から見て538年仏教公伝説が有力だ。皇室・大臣蘇我・大連物部勢力による三極分立が深まった時代にあたり蘇我氏は渡来系氏族と関係を早くからもち海外事情に通じた氏族。物部氏は軍事・刑獄を主業に祭祀にも通じ,祭祀専業の中臣氏と並ぶ守旧的傾向の強い氏族。大臣・大連をそれぞれ蘇我氏・物部氏が勤める欽明朝に伝来した仏教の受否をめぐる抗争は『日本書紀』によると,蘇我氏が〈西蕃の諸国もっぱら皆これを礼す。豊秋日本あに独り背かんや〉と奏したのに対し,物部氏は中臣氏とともに〈蕃神を拝さば恐らく国神の怒を致さん〉と同奏したのを端緒とする。この対立は587年の物部氏の滅亡時まで半世紀に及ぶが,554年(欽明天皇の百済渡来僧交替,577年(敏達天皇の百済の律師・禅師・比丘尼・呪禁師・仏工・造寺工の渡来,584年(同13)の仏殿営作と法会の設斎,588年(崇峻)の百済僧9人・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工の渡来など,この間仏教文化の受容はしだいに進み、推古朝には飛鳥文化の中心である仏教文化の隆盛を見た。
高句麗と百済は仏教の受け入れに積極的だったが、新羅はやや異なっていた。まずは外来の宗教に対して非常に否定的だった。高句麗や百済は陸や海の道を通じて中国との交流が盛んに行われ、世界文化との接点があったが、新羅の場合、地理的にも中国との直接交流ができないため、高句麗や百済を通じて間接的に仏教を受け入れた。さらに自己の文化への執着が強く、外来宗教の受容に慎重な立場を取っていた。新羅には数々の仏教遺跡がある。キョンジュ一帯では今も地面を掘ると仏教関連の出土品がある。たくさんの仏教遺跡がまだ土の下に眠っている。このように三国での仏教の発展は、それぞれ中央集権国家としての改革の過程と重なるという共通点を持つ。仏教を通じて国民の思想の統一を図り、国王を中心にした中央集権化のために大きな役割を果たした。
三国の仏教受容関連年表
372年 高句麗に中国の前秦から仏教伝来
384年 百済に晋より仏教伝来(摩羅難陀の到来)
527年 新羅、仏教を公認(異次頓の殉教)
6世紀末~7世紀前半 渡来人系僧侶(行基、慧慈)、仏師(鞍作鳥)らが大和で活躍
新羅は各部族長の発言力が強く、独特な身分制度のために、国王が貴族を抑え切れなかった。6世紀前半の法興王(ポップンオウ)の時代に新羅は、加羅の征服に成功し、高句麗や百済と争う重要な時期だった。法興王には国の貴族や百姓などを一つに統合する契機が必要だった。このとき、法興王の側近の一人異次頓(イチャドン)は仏教を広めるために、自ら殉教者の役割を買って出ることを王に申し出た。王、「国をまとめるには仏教が一番良いと考えるが、あのように貴族の反対が強いので手も足も出ないのじゃ」、異次頓(イチャドン)、「王様いかがでございましょうか。私の死によって仏教をわが国新羅に広めることが出来るならこの上ない幸せでございます。」、 王、「罪も無い命をムダに奪うわけにはいかんのじゃ。」、異次頓(イチャドン)、「王様、私の命を国の未来のために喜んで差し上げましょう。」と。そしてイッチャドンは王の命令だと偽って大規模な寺の造営を始めた。偽った王の命令を出したイッチャドンを死刑にしろと王は命令した。王、「すぐイッチャドンの首を斬れ」、イッチャドンは死の間際に自分が死んだ後 奇跡がおこるだろうと予言する。異次頓(イチャドン)、「おれが死ぬとき、奇跡が起こる。それはお釈迦様が存在することの証となる筈だ。」、イチャドンの首を斬ると牛乳のような白い血が流れ、周囲が暗くなり 地震が起こり、空からは花びらが降ってきたと。自分の命を犠牲にした姿を目の前にして感動した貴族たちは、国王の仏教公認の決心を認めざるを得なかった。ひとりの死が歴史を変えたという逸話になっている。
法興王(ポップンオウ)は仏教によって王の権威に挑戦する貴族や有力部族をけん制することが出来た。そして仏教を通じて体制の整備、中央集権的な政治力量を発揮した。そして新羅には建築や工芸などの分野で仏教文化が広がっているが、中でも慶州(キョンジュ)駅東側のたんぼ地帯にその後が残っているファンギョンジが有名。法興王(ポップンオウ)の後の王の時代に建て始めたファンギョンジが一番大きくて有名。もともと寺を建てた場所は龍がすむと噂されていた沼があった所、それで龍を納めることの出来るお釈迦様の寺を建てたという説話が残っている。ファンギョンジはとても大きなお寺。ここに王がやってきて法要を執り行っていた。木造の八角の九重の塔はその美しさや華麗さが中国に伝わるほどのもの。高さは80mあまりあり、新羅に敵対する九つの敵による災いを避けるために九重にされていたといわれている。しかし、高麗時代にモンゴルの来襲で焼かれてしまい、今はその美しい姿を見ることは出来ない。
538年 日本の仏教公伝説。北韓の黄海道安岳(ハンエドアガク)にある安岳3号古墳は、今から1500年前のもので、タテ、ヨコ30メートル以上あり、高さは7メートルある。その壁画にある行列の図は規模が一番大きなもので、高さ2メートル、長さ6メートルの板状の石に描いてある。登場人物だけでも250人あまり。王の楽隊が先頭に立ち、その後を武装した兵士らがついて来る、一種のパレードのようだ。その兵士たちも馬に乗った騎兵から槍を持った兵士、腰に弓をつけた弓の兵士といった具合に次々に出てくる。これが当時の大陸を駆け巡り領土を拡大していった高句麗の部隊の姿。壁画に描かれている馬や弓などの武器から当時は騎馬戦が盛んだったことが分かる。そして国王の行列図からは王を中心に臣下や近衛兵などかなり体系化した行列になっていたことから、4世紀頃には国王の権力が確立されていたことが分かる。 実際に4世紀の領土拡張から5世紀にかけて高句麗の国力はその全盛期を迎える。壁画に描いてあるように騎馬戦を行いながら今の中国の東北地方から韓半島中部までの領土を手に入れ百済や新羅にも影響力を行使した。
( 参考メモー3 ) 高句麗一帯の古墳群、影響の強い日本の高松塚古墳・キトラ古墳
2004年7月、ユネスコの世界遺産委員会は中国と他にある高句麗一帯の古墳群を世界文化遺産に指定した。このように高句麗の古墳が世界の注目を引くのはその古墳の壁画の規模やレベルが世界的な価値を持っているからだ。高句麗の古墳は東洋の古墳美術史の中で独特の地位を占めている。まず3世紀から7世紀までの高句麗民族の文化や社会生活像を生々しく表現しているのがその特徴。高句麗は紀元前37年から西暦668年まで存在し、数多くの古墳を残した。現在までに発掘された古墳は約2万基で、その中で壁画が描いてあったのが95基。高句麗の古墳壁画は大きく2つの時期に分けられる。主に3,4世紀の前期の壁画には生活の図が多く描かれている。仏教関係のものも出ている。後期の6世紀のものには東西南北に青竜、白虎(びゃっこ)、朱雀、玄武を描く四神図が現われ、王の権力や貴族などの支配階級を中心にする社会の成立を物語っている。非常に多様であり当時の社会や生活状態、精神世界や世界観まで描いていることが注目に値する。高句麗の生々しい歴史が現れている。壁画によく出ている「引き車」の意味は何か。牛などの力で前から引っ張る「引き車」。高句麗は生産力が発達して、農耕も発展していた。対外交易のためには船や引き車は欠かせないもの。中国の史料には‘高句麗では人々の家ごとに蔵があり、引き車があった’と記されているほど、高句麗の経済が繁栄していた。引き車はそれを象徴する。壁画に出ている高句麗の引き車を見ると車輪が薄いのが特徴。車輪に鉄を巻いている。鉄が豊富に生産され丈夫な車輪を作り、また活発な国際交易を行い莫大な富を蓄積していった。
豊かだったのは経済だけではない、日常生活にも余裕が現れている。中国吉林省集安(チーアン)にある舞踊塚。歌に合わせて男女が集団で踊っているので舞踊塚と名づけられた。この壁画には14人の踊り手と楽師が登場する。その中では韓国民族の独特な肩で踊る舞が出てくる。みんなで一緒に踊る群舞。楽師と踊り手二人だけの二人踊りもあり、天井の壁画には天女や神仙が登場するが、天を飛ぶ天女である飛天は中央アジアの仏教洞窟でみることができる長い笛や琴、琵琶などのいろいろな楽器を演奏している。また相撲を見学する老人とか馬に乗ったまま弓を放す競り合いの絵などもある。そしてサーカスを見物する貴族の絵や棒踊りやボール遊びをするピエロみたいな人もいる。サーカスを見るほど当時は生活に余裕があったことがうかがえる。古墳壁画は韓国古代の三国の中で高句麗だけに集中している。発見された古墳壁画は、百済は2基、新羅は1基に過ぎないが、それも高句麗の影響を受けたものと考えられる。東北アジアの強国だった高句麗はほかの民族を包み込み中国と対決するためには彼らのアイデンティティが必要だった。壁画にはそれが現れている。高句麗の人々には「天の孫」つまり天孫意識が強かった。国の始祖朱蒙ジュモンが天の精気を受けているとされ、そのような意識が壁画では太陽や月の絵でそして末期には太陽と月の神様がよく出ていることで表現されている。天孫の国という意識が中心的な理念の一つだった。
高句麗壁画は後期になると四神図を通じて高句麗の人たちの世界観をより具体的に表現する。東西南北に想像の動物である玄武、白虎、朱雀、青竜を描いている。北の玄武は雄と雌が一緒になり向かい合う亀と蛇が火を吐き出している。西の神は白虎、南の神である朱雀は鳳凰の形をして羽ばたく翼と長い尻尾を見せている。東の青竜は鬼のような顔と大きな目で何かを見張っている。天井には王を象徴する「こう(どういう字を当てるのか不明)竜」が描かれており、その周りにもいろいろな動物や神仙が飛び回っている。これが高句麗の人々が想像した天の世界。四神が死んだ人の魂を導いていくと死んだ人が神仙になれるということを表現している。ここに高句麗の人々の天孫に対する意識が表れている。高句麗の人々は単にほかの国を征服する好戦的な国ではなく文化国家でもあった。壁画には三つ足のからすが出てくるが、足が三つで頭に角が出ている、このからすは、正と反のかっとうや対立を3と象徴される合意の状態を実現しようとするいわば弁証法の一種で、東洋思想での調和を求めていた文化を示している。その意味で高句麗の古墳壁画は当時の世界観を表現し、それを子孫に伝えるメッセージであると言える。高句麗の古墳は単に死んだ人を埋める場所ではなく柱を作ったり壁画を描いたりした所、即ち魂が住む場所だった。そこには永遠に死なない高句麗の人が1500年後の我々に伝えるメッセージが入っている。これが今日、世界が高句麗の古墳壁画を注目する理由だ。
高松塚古墳・キトラ古墳 この名前はよく聞く。高松塚古墳は1972年に発掘調査、キトラ古墳は1982年にファイバースコープが入れられて調査が始まった。いずれも7世紀末から8世紀初頭にかけての,今からおよそ1300年前に築かれた円墳で,古墳の時代区分からいえば終末期の古墳。注目を浴びたのは、見事な彩色壁画が描かれていることがわかったからだ。四神と星宿が描かれている。それらが高句麗の古墳壁画と似ていることから注目を浴びている。なお、星宿とは天体図のことで、そこに描かれているのは高句麗の空だという。堀田啓一・高野山大学教授(考古学)は「7世紀代の高句麗壁画は四神図が主体で、技法などにもかなりの違いがある。しかし、高松塚古墳には高句麗の画題がすべて統合されており、それを視野に置いて被葬者を考える必要がある」と話す。日本の横口式石槨を編年した堀田氏は、高松塚古墳の築造年代を680~700年ごろとみる。高句麗の滅亡は668年。「故国を追われた人々が向かうのは日本列島しかない。亡命してきた高句麗の王族クラスを被葬者と考えることもできるのでは」。亡命から数世代後の絵師が日本化された壁画を高松塚古墳に描いた。堀田氏はそう推定しているようだ。