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戊辰戦争から明治維新、そして会津藩の真実。

2016年04月19日 | 歴史メモ
 明治維新を勝ち取る戦いとなった戊辰(ぼしん)戦争は、1868年(明治元年・戊辰の年)の鳥羽・伏見の戦いから、翌年の1869年(明治2年)の五稜郭(現在の函館市に)の戦いまで、旧幕府側と新政府側との一連の戦いである。終わりの時期には長岡藩や会津藩でも藩内が戦場となり、多くの死傷者を出し、防府の諸隊も出兵、最後は東北や北海道にまで向かう戦いだった。

 ざっと振り返ってみる。慶応3年(1867年)10月、幕府最後の将軍・徳川慶喜は統治権を明治天皇に返上(大政奉還)する。慶喜は征夷大将軍の辞任も朝廷に申し出る。慶喜の狙いは公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあった。しかし、正式な諸侯会議の開催は難航、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は12月9日にクーデターを起こして朝廷を掌握、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言する。新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対して、内大臣辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定(辞官納地)、京都を追われていた長州藩の復権も認められた。慶喜は辞官納地を拒否したものの、配下の暴発を抑えるため二条城から大坂城に移った。また、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難し、条約の履行や各国との交際は自分の任であると宣言、新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平慶永(越前藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側の一方的な領地返上は撤回され、諸侯一般に経費を課す名目に改めさせた。年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定、辞官納地は事実上骨抜きにされつつあった。

 しかし、新政府内で孤立を深めた薩摩藩は、旧幕府勢力と戦端を開こうと各地で工作を行い、江戸市中においても薩摩藩士及び彼らと通じた浪士により放火・強盗などを繰り返し、江戸の町は混乱する。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失、これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったと大坂城にいた幕府首脳に知らされる。勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することはできない。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢を京都へ向ける。翌年の慶応4年1月2日、幕府の軍艦二隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、戦争開始。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、大坂の薩摩藩邸を襲撃。

 同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態に入る(鳥羽・伏見の戦い)。両軍の兵力は、新政府軍が約5000人、旧幕府軍が約1万5000人。新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦。翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍とし、錦旗・節刀を与える朝命が下った。薩長軍は官軍とされ、土佐藩なども新政府軍に参加、旧幕府軍は賊軍とされた。淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火、八幡方向へ後退。旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍を迎え撃つが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始める。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から撤退、大坂に戻る。総兵力では旧幕府軍が上回っていたが、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れて海路で江戸へ退却、慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失する。以上が初期の経過である。

 ところで、会津藩にも栄華の時代があった。藩主松平容保は京都守護職として京の都に君臨し、孝明天皇の厚い信頼も受けた。会津藩は歴史をひもとけば、幕府とは強い結びつきがある。藩祖の保科正之は徳川二代将軍秀忠の子であるが、秀忠の妻だったお江与の方つまり、お江(ごう)の方は、織田信長の妹、お市の方の三女(長女は豊臣秀吉の側室となった淀殿)にあたり、徳川家にとっては恐れ多い存在だった。秀忠は側室など置ける状況ではなかったが、お江与の方の監視の目を逃れて浮気をして誕生したのが保科正之である。生まれて間もなく、信州高遠藩・保科家の養子に出されたが、三代将軍家光の異母弟であり、長じては将軍家光を支える重要な働きをすることになる。保科正之は、その後、出羽山形藩20万石に転じ、32歳の時には会津23万石の藩主となり、幕府の親藩大名の地位を固めている。時を経て、9代藩主となる松平容保は養子であった。父は美濃国高須藩主、尾張徳川の分家である。会津藩の8代藩主もまた高須藩から養子に入っている。

 会津藩がなぜ京都守護職に選ばれたか。テロに荒れる京都の治安を治めるためには武力が必要だった。会津藩には何よりも幕府への強い忠誠心があった。会津藩の家訓15か条、その第一条は、将軍家に対する絶対忠節、武備を怠らず、兄を敬い、弟を愛し、家中の風儀を大事にし、口先だけの人間は用いてはならない等の記述がある。京都の騒乱を解決するには、この鉄の軍団に託すしかないと、政事総裁職の松平春嶽と、当時の将軍後見職の一橋慶喜(この時は14代将軍・家茂だが間もなく死亡し慶喜が15代将軍に)は考えた。時の帝である孝明天皇は本来ならば皇位継承者ではなかったが、生まれた時、兄たちは皆死んでいた。10歳で皇太子になり15歳で天皇に即位した。江戸時代の天皇の中で、孝明天皇ほど大動乱に遭遇した方はいない。そのきっかけは日米修好条約、米国とロシアに開国を迫られた幕府は、それまでの鎖国政策を開国に転換する。孝明天皇は神州を汚してはならぬと開国に反対する。それでは世界に通用しないので、幕府は独断で調印し、反対派の検挙を行う、安政の大獄である。孝明天皇は怒り、水戸や薩摩の過激派が、井伊大老を桜田門外で暗殺した。

 幕府は政策転換に追い込まれる。それが、皇女和宮の14代将軍・家茂への降嫁となる。公武合体である。しかし、攘夷論は更に高まっていく。皇室は過激派の公卿に占拠され、天皇は棚上げされ、勝手に勅書を乱発、長州藩に攘夷を迫っていた。京都守護職の松平容保は会津藩巡察隊を編成し、京都市内を昼夜に巡回させていた。京都のテロ対策として浪士隊が組まれ、これが新選組となってゆく。新選組の名称は会津藩が決めた。かくて、薩摩や長州の尊皇攘夷の剣士たちと、京都守護職配下の新選組が死闘を繰り広げてゆく。

 会津藩の前に立ちはだかる西国の諸藩、その代表が薩摩と長州。江戸から最も遠い南国の薩摩は、琉球を経由した明国との密貿易もあり、石高77万石でも、貿易による隠し財産があった。だが、鹿児島と江戸の距離は440里、約1700キロもある。参勤交代の費用は膨大だった。しかし、日本一、侍のいる藩だった。幕末の日本の人口は約3300万、その内、士族は188万。その内、薩摩藩には20万もいた。薩摩の人口は当時87万だったから、4人に1人が侍だった。日本最大のサムライ大国である。

 さて、京都は騙しあい、脅しあいの権力闘争に明け暮れていた。頼りは公武合体派の中川宮朝彦親王、「天皇は過激な攘夷を望まれてはいない」と、長州藩過激派の追放に向けて動いていた。孝明天皇が詔を発すれば、長州藩と過激派の公卿を京都から追放できる。薩摩兵に守られた中川宮が参内し、公武合体に賛成する土佐、因幡、備前、米沢、阿波などの諸侯も参内した。御所の九門は会津、薩摩の兵で固めた。「長州は都を去るべし」と孝明天皇の詔が発せられた。過激派の公家も都からの退去と決まる。長州勢は武装していたが、結局、あきらめて退去した。三条実美以下7人の追放、七卿の都落ちである。しかし、都を追われた長州は黙ってはいない。京都への武力侵攻を画策していた。長州藩はこの時期、薩摩と会津を「薩賊会奸」と呼び、下駄の裏に書いて、踏みつけるように歩いた。

 時は過ぎる。長州に追い込まれた将軍後見職の一橋慶喜は、勝海舟を使って、大政奉還を持ち出し、長州と和解する。これは本気ではない、長州をおとなしくさせるための方便だった。慶喜が期待していたのはフランスである。フランス公使ロッシュが赴任するや、幕府の再建を頼む。ロッシュの提案は幕府を近代国家へと脱皮させること。官僚機構(外務、内務、陸海軍、農商務、司法、教育、製鉄所、造船所建設など)の整備、常備軍の設置、財政の確立、貿易の推進等である。推進役に当たったのは、勘定奉行の小栗上野介だった。幕府とフランスとの提携は薩摩、長州にとっては脅威である。薩摩の西郷隆盛は、当時、薩摩、長州と交易していたイギリスと相談した。イギリスの外交官アーネスト・サトーは、積極的に薩摩を支持した。そんな時、大事件が起きる。孝明天皇の崩御である。公武合体は頓挫する。孝明天皇は尊皇攘夷派の公家と激しく対立していた。岩倉具視等の討幕運動は苛烈をきわめていた。孝明天皇は公武合体を変える気などない。岩倉の行為には不快感をあらわにし、烈火のごとく怒り、「徒党を組む、その罪を問う」とまでいわれていたので、天皇の死には毒殺説がささやかれた。

 討幕派の面々は調停を掌握するためのクーデター計画を進めた。12月9日突如、薩摩藩兵が御所に駆けつけ、中に入り、唐御門を閉じた。ついに討幕派が機先を制した。夜半には、唐御門に大砲を並べ、会津藩を御所から追放した。慶喜や松平容保欠席のなか、朝議が開かれ、慶喜の辞官納地と松平容保の京都守護職解任が決まった。慶喜は、辞官納地で800万石の領地の返上。徳川家康公が戦って勝ち得た徳川家の領地である。

 だが、慶喜は既に逃げ出していた。敵前逃亡であった。薩摩の西郷隆盛は、慶喜の優柔不断の性格に助けられた。この時、西郷は勝利を確信した。江戸に逃げ帰った慶喜は、ふるえていた。死にたくない。後始末は勝海舟に一任された。江戸城の無血開城後は、会津に責任をとらされることになる。会津藩は、慶喜や勝の冷たさに悔しい思いをする。会津藩では1ヶ月に及ぶ籠城戦となる。薩摩の国元は必ずしも倒幕ではなかった。天皇の命令ということで島津久光も了承したという。このように倒幕には絶妙なからくりがあった。

( 参考メモ ) 徳川将軍家と天皇家の関わり

  家康は水戸家を将来の保険として考えていたようだ。将来、徳川将軍家と天皇家が敵対した場合は、水戸家は単独で天皇家に味方する。どちらが歴史の勝利者となっても、徳川一族の「血」は守られるというものだ。実際には、徳川将軍家では将軍が「京」とつながらないように、徹底的にその「血」を排除していた。三代将軍家光の愛妾である「お万の方」は公家の出身だが、子を産むことは許されなかった。反対に水戸家では、「京の最高の血」を入れようとしていた。これは将軍家の暗黙の了解あってのこと、光圀が晩年よく口にしていた言葉は「将軍家は親戚頭に過ぎぬ、我々の主君は天皇家である」。

 歴代の水戸家の藩主の正室は、ほとんど五摂家から正室を迎えている。子沢山であった11代将軍徳川家斉の治世に、水戸藩の当主が33歳の若さで死んだ時、将軍家では家斉の子を新藩主に押し付けようとしたが、水戸藩は抵抗し、新藩主として選んだのは関白一条家の血を引く先代藩主治紀の三男の斉昭だった。この人こそ、幕末に攘夷派の大親玉として活躍し、大老井伊直弼と争った水戸斉昭その人である。そして、その子が最後の将軍となった徳川慶喜だった。

 徳川慶喜は、勝てるはずの鳥羽伏見の戦いで、薩長側が「錦の御旗」を立てて進軍してきた時、腰砕けとなり軍艦で大阪から江戸まで逃げ帰った最後の将軍。彼の父すなわち水戸藩の9代藩主の水戸斉昭、そしてその妻、つまり彼の母、それは有栖川宮家の吉子女王であった。つまり、徳川慶喜には天皇家の血が入っていた。先に将軍となった14代徳川家茂は天皇家の皇女和宮と結婚して「公武合体」しようとしたが、水戸家ではそれ以前から実行していた。また、皇女和宮の婚約者でありながら「公武合体」のために婚約解消させられた有栖川宮親王は、後に幕府討伐の官軍の東征大総督になった。徳川慶喜とは「母方の従兄弟の子」という関係だ。

 家康の計画でゆくと、「将軍家に逆らって官軍側に味方する」はずだった水戸家の人間が、こともあろうに最後の将軍になってしまった。つまり、幕府は一番「大将」にふさわしくない人間を「大将」に選んでしまった。なぜそんなことになったのか、八代将軍吉宗が徳川御三家の他に、自身のエゴから「御三卿」を新設し、その御三卿の一つ、一橋家に徳川慶喜が養子に入ったことにある。家康のプランは台無しとなってしまったことになる。

1 コメント

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会津藩、すごいね。 (K.H)
2016-04-19 08:14:55
慶喜は既に逃げ出していた。敵前逃亡であった。薩摩の西郷隆盛は、慶喜の優柔不断の性格に助けられた。この時、西郷は勝利を確信した。江戸に逃げ帰った慶喜は、ふるえていた。死にたくない。後始末は勝海舟に一任された。江戸城の無血開城後は、会津に責任をとらされることになる。会津藩は、慶喜や勝の冷たさに悔しい思いをする。会津藩では1ヶ月に及ぶ籠城戦となる。薩摩の国元は必ずしも倒幕ではなかった。天皇の命令ということで島津久光も了承したという、そうだったのか。
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