民主主義政治とは、戦い続けて維持されてゆくものなのであろう。民主主義の原型ともいわれた古代ギリシャのアテネの時代、最も長く民主政体を維持したとされる指導者ペリクレスの時代のことを、歴史家のツキデイデスは、多数決で全てが決定する政体を維持しながらも、「形は民主政体だが、実際はただ一人が支配した時代」ともいっている。事実、ペリクレスの30年間は努力と苦労の連続だった。
塩野七生さんが「ギリシャ人の物語」で書いている。ペリクレスは創業の人ではなく、いわば二代目の人、30代でリーダーになった。後継者としての課題は、アテネの民主政を機能させること、また、ペルシャとの戦争に勝利して得たエーゲ海の制海権を堅持すること、そして、そのための海軍力の維持、これはアテネにとって経済上でも重要な課題だった。また、アテネは主食のコムギの輸入から手工業製品の輸出にいたるまで、他国との交渉で生きてきた都市国家でもあった。また、ギリシャ人は、4年に一度オリンピアで開かれる競技会という「休戦」が必要だった。それくらい都市国家の間で戦争を繰り返してきた民族でもあった。「平和」を表わす言葉は、かつてのロ-マ人の言語でもあったラテン語の「パクス」(PAX)を語源とし、英語でPeace、フランス語でPaix、イタリア語ではPaceとなる。また、「続くからこそ平和」という概念はロ-マ人が創造したもので、ギリシャ人にはなかった。ギリシャ人にとっての戦争をしていない状態は、つかの間の休戦にすぎなかった。
ペリクレスは名門の出身だが、反対派の人々も名門の出身だ。当時は公金横領罪など存在しなかったぐらいに当時の都市国家アテネの政治家たちは裕福な資産家だった。アテネの政治を担当するものは「ストラテゴス」に選ばれる必要があった。「ストラテゴス」とは当時の国家の政治や戦略の担当者のことであり、この言葉は英語のstrategy(戦略)の語源にもなっている。そして、「トリブス」と呼ばれるそれぞれの選挙区で当選する必要があった。行政区でもある「トリブス」は1ヵ所に集中していない。都市国家アテネの領土であるアッティカ地方の3ヵ所それぞれに分散している。選挙は一年に一度行われる。ペリクレスは33歳で初当選して以来、32年間にわたって連続当選している。選挙権は20歳以上の男子全員、全市民に与えられていた。10区に分かれていた各「トリブス」ごとの有権者数は6千人前後だった。現在の日本の小選挙区にも似ている。2500年も前のアテネでは、政治、軍事、外交、経済の全てを担当する行政の最高機関、今ならば内閣は、10個ある「トリブス」から選ばれてくる10人の「ストラテゴス」と呼ばれる人で構成される。現代国家の内閣と違って、総理大臣という地位がないため、各大臣を任命することはできない。反対派の人間もいた。ペリクレスには自分以外の9人のストラテゴスを説得し、同意させる必要があった。しかし、民主政のアテネにとっての最高機関は、あくまでも市民集会だった。政治家にとって、これ以上の勝負の場はない。閣内一致に成功しても市民集会で引っくり返される可能性もあった。
ペリクレスが使った唯一の武器は「言語」だった。言葉を駆使しての説得力で30年も勝負してきたのだから、これほどの民主的なやり方もない。また、ペリクレスがアテネの第一人者であり続けた30年間、意識せざるを得なかった強国はスパルタとペルシャ。この時代の東地中海世界の3大強国がアテネとスパルタとペルシャであった。民主政のアテネ、寡頭政のスパルタ、専制君主政のペルシャ、この3国は、この時期、いずれも30代になったばかりの指導者がトップだった。ペリクレスは、市民集会で演説する時は充分な準備をした。彼の政策が都市国家アテネの国策になれるかどうかはアテネ市民が決めるので、市民集会はペリクレスにとっては戦場といってもよかった。歴史家ツキデイデスの説明によれば、ペリクレスには、見事な演説力と、意地悪な反論に対しても即座に切り返す瞬発力があった。ペリクレスも50才になっていた頃、パルテノン神殿の建築工事に莫大な国費が投入されている事実をあげて、反対派がペリクレスの失脚を図ろうとしていた。ペリクレスは、「国費を投入する価値はないというのなら、費用は全額わたしが負担する。その場合は、完成した神殿の前に、これはペリクレスが私費で完成したと刻んだ石碑を立てることを条件にしたい。ゆえに市民諸君に求められているのは、これまでのように国費で工事を続けるか、それとも、これ以後は私の負担で続けるのかのどちらかを決めることである」と演説した。結果として、市民集会は、国費による工事続行を再確認したのだ。ペリクレスは、アテネが主権在民の民主政の国であり、権力者への批判も自由な国でありながらも、アテネの「ただ一人」であり続けたのだ。
当時の経済人にとっては、ペリクレス時代のアテネはビジネス的にも魅力ある都市だった。首都とその外港ピレウスとの一体化で一大経済センターになってもいた。アテネには売れる物産を生産する能力があり、他国の物産を購入する資金にも不足しない。ピレウスの近辺には造船専門の港が二つもあり、他国から来た船の修理もできる。エーゲ海全域も、圧倒的な力を誇るアテネ海軍の制海権内に入るので、商船を襲ってくる海賊の被害も激減した。アテネ主導のデロス同盟には、エーゲ海の島のほぼすべてが参加しており、嵐に会って避難するときも、これらの島々から拒絶される心配もない。アテネのドラクマ銀貨は国際通貨にもなっていた。
当時は、アテネに住みたいという他国の人も多かった。ペリクレス時代のアテネでは、哲学者、歴史家、劇作家、詩人、画家、彫刻家、建築家など、自らの頭脳と手を武器にしての創造を生涯の仕事と決めた人達もいた。ギリシャ人は何よりも先に神殿を建てる民族だが、神殿の建築は総合芸術、建築家から彫刻家、石工まであらゆる職人も集まり、完成までは数年かかる。また、オリンピアで開かれる競技会を始めとし、大規模なものだけでも4つの競技会が4年か2年に一度開かれる。優勝した者は所属する都市国家の名誉とされたので、彼等の姿を模した立像の制作も数多くあった。競い合うのはスポーツだけではない、毎年、演劇祭も開かれ、悲劇作家も喜劇作家も年に数作は書きあげる必要があった。アテネでは富裕者にカネを出させる手段として、演劇を上演する全費用の負担を義務づけていた。ペリクレスも悲劇作家アイスキュロスの「ペルシャ人」上演のスポンサーをやっている。アテネはギリシャ中の人々にとっての学校でもあった。プラトンによる「アカデミア」、アリストテレスによる「リュケイオン」が創設されるのは後の事になるが、この種の学校ができる以前に、すでに都市国家アテネは学校であったのだ。この種の現象は、その後の歴史でも、ローマでも、カエサルからアウグスッスへと続く時期に起きている。さらに時代が下って、ルネッサンス時代のイタリア、フィレンツエでも同様の現象が起きていることも面白い。
塩野七生さんが「ギリシャ人の物語」で書いている。ペリクレスは創業の人ではなく、いわば二代目の人、30代でリーダーになった。後継者としての課題は、アテネの民主政を機能させること、また、ペルシャとの戦争に勝利して得たエーゲ海の制海権を堅持すること、そして、そのための海軍力の維持、これはアテネにとって経済上でも重要な課題だった。また、アテネは主食のコムギの輸入から手工業製品の輸出にいたるまで、他国との交渉で生きてきた都市国家でもあった。また、ギリシャ人は、4年に一度オリンピアで開かれる競技会という「休戦」が必要だった。それくらい都市国家の間で戦争を繰り返してきた民族でもあった。「平和」を表わす言葉は、かつてのロ-マ人の言語でもあったラテン語の「パクス」(PAX)を語源とし、英語でPeace、フランス語でPaix、イタリア語ではPaceとなる。また、「続くからこそ平和」という概念はロ-マ人が創造したもので、ギリシャ人にはなかった。ギリシャ人にとっての戦争をしていない状態は、つかの間の休戦にすぎなかった。
ペリクレスは名門の出身だが、反対派の人々も名門の出身だ。当時は公金横領罪など存在しなかったぐらいに当時の都市国家アテネの政治家たちは裕福な資産家だった。アテネの政治を担当するものは「ストラテゴス」に選ばれる必要があった。「ストラテゴス」とは当時の国家の政治や戦略の担当者のことであり、この言葉は英語のstrategy(戦略)の語源にもなっている。そして、「トリブス」と呼ばれるそれぞれの選挙区で当選する必要があった。行政区でもある「トリブス」は1ヵ所に集中していない。都市国家アテネの領土であるアッティカ地方の3ヵ所それぞれに分散している。選挙は一年に一度行われる。ペリクレスは33歳で初当選して以来、32年間にわたって連続当選している。選挙権は20歳以上の男子全員、全市民に与えられていた。10区に分かれていた各「トリブス」ごとの有権者数は6千人前後だった。現在の日本の小選挙区にも似ている。2500年も前のアテネでは、政治、軍事、外交、経済の全てを担当する行政の最高機関、今ならば内閣は、10個ある「トリブス」から選ばれてくる10人の「ストラテゴス」と呼ばれる人で構成される。現代国家の内閣と違って、総理大臣という地位がないため、各大臣を任命することはできない。反対派の人間もいた。ペリクレスには自分以外の9人のストラテゴスを説得し、同意させる必要があった。しかし、民主政のアテネにとっての最高機関は、あくまでも市民集会だった。政治家にとって、これ以上の勝負の場はない。閣内一致に成功しても市民集会で引っくり返される可能性もあった。
ペリクレスが使った唯一の武器は「言語」だった。言葉を駆使しての説得力で30年も勝負してきたのだから、これほどの民主的なやり方もない。また、ペリクレスがアテネの第一人者であり続けた30年間、意識せざるを得なかった強国はスパルタとペルシャ。この時代の東地中海世界の3大強国がアテネとスパルタとペルシャであった。民主政のアテネ、寡頭政のスパルタ、専制君主政のペルシャ、この3国は、この時期、いずれも30代になったばかりの指導者がトップだった。ペリクレスは、市民集会で演説する時は充分な準備をした。彼の政策が都市国家アテネの国策になれるかどうかはアテネ市民が決めるので、市民集会はペリクレスにとっては戦場といってもよかった。歴史家ツキデイデスの説明によれば、ペリクレスには、見事な演説力と、意地悪な反論に対しても即座に切り返す瞬発力があった。ペリクレスも50才になっていた頃、パルテノン神殿の建築工事に莫大な国費が投入されている事実をあげて、反対派がペリクレスの失脚を図ろうとしていた。ペリクレスは、「国費を投入する価値はないというのなら、費用は全額わたしが負担する。その場合は、完成した神殿の前に、これはペリクレスが私費で完成したと刻んだ石碑を立てることを条件にしたい。ゆえに市民諸君に求められているのは、これまでのように国費で工事を続けるか、それとも、これ以後は私の負担で続けるのかのどちらかを決めることである」と演説した。結果として、市民集会は、国費による工事続行を再確認したのだ。ペリクレスは、アテネが主権在民の民主政の国であり、権力者への批判も自由な国でありながらも、アテネの「ただ一人」であり続けたのだ。
当時の経済人にとっては、ペリクレス時代のアテネはビジネス的にも魅力ある都市だった。首都とその外港ピレウスとの一体化で一大経済センターになってもいた。アテネには売れる物産を生産する能力があり、他国の物産を購入する資金にも不足しない。ピレウスの近辺には造船専門の港が二つもあり、他国から来た船の修理もできる。エーゲ海全域も、圧倒的な力を誇るアテネ海軍の制海権内に入るので、商船を襲ってくる海賊の被害も激減した。アテネ主導のデロス同盟には、エーゲ海の島のほぼすべてが参加しており、嵐に会って避難するときも、これらの島々から拒絶される心配もない。アテネのドラクマ銀貨は国際通貨にもなっていた。
当時は、アテネに住みたいという他国の人も多かった。ペリクレス時代のアテネでは、哲学者、歴史家、劇作家、詩人、画家、彫刻家、建築家など、自らの頭脳と手を武器にしての創造を生涯の仕事と決めた人達もいた。ギリシャ人は何よりも先に神殿を建てる民族だが、神殿の建築は総合芸術、建築家から彫刻家、石工まであらゆる職人も集まり、完成までは数年かかる。また、オリンピアで開かれる競技会を始めとし、大規模なものだけでも4つの競技会が4年か2年に一度開かれる。優勝した者は所属する都市国家の名誉とされたので、彼等の姿を模した立像の制作も数多くあった。競い合うのはスポーツだけではない、毎年、演劇祭も開かれ、悲劇作家も喜劇作家も年に数作は書きあげる必要があった。アテネでは富裕者にカネを出させる手段として、演劇を上演する全費用の負担を義務づけていた。ペリクレスも悲劇作家アイスキュロスの「ペルシャ人」上演のスポンサーをやっている。アテネはギリシャ中の人々にとっての学校でもあった。プラトンによる「アカデミア」、アリストテレスによる「リュケイオン」が創設されるのは後の事になるが、この種の学校ができる以前に、すでに都市国家アテネは学校であったのだ。この種の現象は、その後の歴史でも、ローマでも、カエサルからアウグスッスへと続く時期に起きている。さらに時代が下って、ルネッサンス時代のイタリア、フィレンツエでも同様の現象が起きていることも面白い。