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異民族に悩む中国の歴史ー1。

2013年11月17日 | 歴史メモ
 中国は共産党一党独裁、他党の存在は許されていない。国会にあたる全人代(全国人民代表大会)の代表も国民選挙で選ばれていない。国民が代表を直接選挙するのではない。一般国民が直接選挙できるのは県級以下の人民代表のみだ。武力で勝ち取った共産党政権の継続である。中国の長い歴史を見ると、権力者が常に反乱を抑えるのに苦心してきている。今の中国首脳も、反乱をいかに押さえるかで悩んでいる。また、官僚の汚職が今も無くならず続いている。これに対する反乱でもある。そこで、再び中国の歴史を振り返ってみることにした。

 西晋(265~316)、建国者は司馬炎。この人の祖父が「三国志演義」で有名な司馬懿(しばい)。曹操に信頼されて大将軍をやっていた。ちなみに司馬懿は蜀の諸葛亮が魏の国に侵攻してくるのを防衛し名を挙げ、諸葛亮の死後は東方の遼東半島の公孫氏の独立政権を滅ぼしている。この結果、朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入る。そこにやってくるのが倭の邪馬台国の使者。有名な「魏志倭人伝」はこの魏の国の歴史書の一部分。歴史に「もし」は禁物といわれるが、もし、諸葛亮が早死にせず司馬懿が蜀との国境戦線に張り付けになったままだったら、朝鮮半島は魏の勢力範囲には入らず、魏の歴史書に邪馬台国の記録は残されなかったかもしれない。司馬懿は魏の国で実力者になっていった。彼の子も、孫の司馬炎も魏の大将軍の地位を続けていった。魏は曹操、曹丕までは力があったが、それ以後の皇帝がダメで、司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋という国を建てた。司馬炎は祖父の遺産で皇帝になったようなもので、人物としては大したことはない。即位すると贅沢三昧にふける。それでも280年には呉を滅ぼし、天下が統一された。彼が死ぬと帝位をめぐって王族どうしの内紛が起きた。八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱、八王の乱(291~306)といわれている。

 この王たち、ライバルを倒すために自分の軍事力を強化する手段として周辺の異民族の力を導入した。遊牧系の民族は中国兵よりも強い。各部族の酋長たちと話をつけて呼び寄せ、配下として戦わせた。遊牧部族の者たちは、はじめは晋の王族のもとで戦うが、中国人は弱い。部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てる、晋の王族に呼ばれていない部族まで移住してきて晋国内は大混乱におちいる。晋は滅ぶ。この時に中国内に入ってきた異民族が五胡と呼ばれている。匈奴、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、テイ、羌(きょう)。テイと羌はチベット系の民族だ。鮮卑はモンゴル系。匈奴は不明、羯は匈奴の別種といわれる。遊牧系民族が国を建てるので当然ながら華北では農村荒廃が進む。五胡どうしの戦争も続く。華北の豪族たちは配下の農民を引き連れてどんどん南に逃れた。華南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)が逃れて東晋を建てる。都は建康。華南にはまだ開発されていない土地が多い。東晋政府は、逃れてきた豪族たちに土地を割り当て、そこに地盤をつくった。華南には華南土着の豪族もいる。かつては呉政権を支えた人々だが、土着豪族と新来の豪族はあまり仲が良くない。東晋の皇帝はこういう豪族たちの微妙なバランスの上に立って政権を維持した。北には五胡の圧迫がある。五胡の政権はしばしば南方に侵略してくる。東晋の政権はこれを防がなければならない、チャンスがあれば華北を奪還したい。軍事力を強化しなければならない。この軍人たちが政治的な発言権を持つようになり、権力は不安定になる。東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を奪って建国したものだ。

 華北で五胡の短命地方政権が興亡を繰り返している中で力をつけてきたのが北魏という国。鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が建国者。拓跋氏という部族のリーダー。この北魏が五胡十六国の分裂状態を終わらせて華北を統一した(439年)。太武帝(たいぶてい)という皇帝の頃、北魏は華北経営の基礎を固めていく。当然漢人の豪族の協力も得ていく。鮮卑人の数は少数なので漢民族の豪族の協力がなければ中国の支配はできない。華南に逃げずに北部にとどまっていた豪族勢力もいた。北魏の皇帝家も漢人との結びつきを強めるために漢人豪族と婚姻関係を結ぶ。そういう中で登場するのが北魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(位471~499)。孝文帝は鮮卑族だが母親は漢民族、祖母も漢民族だった。人種的に何民族かということは実質的には意味がなくなってきた。北魏の国家を鮮卑族の国家から民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ中国全土を支配することはできない。孝文帝は積極的に漢化政策を行った。具体的には首都を平城(へいじょう)(山西省大同)という辺境から、洛陽に移す。宮廷で鮮卑語を禁ずる。鮮卑族の軍人や役人はすべて中国語を話さなければならない。名前も中国風に改名させた。皇帝自身も拓跋という姓を元という一字姓に変更している。鮮卑族有力者たちの反対もあったが、孝文帝はこれをやりきった。鮮卑族の拓跋氏にはちょっと変わった風習があった。皇帝の生母を殺すという風習、これは外戚が権力を持つのを避けるためにずっと前からおこなわれていた。孝文帝は幼くして即位するが母は殺されている。中国の儒学の発想からすると考えられない野蛮な行為だ。親には「孝」というのが中国的な道徳。孝文帝は鮮卑族の血よりも漢族の血の方が濃い。鮮卑族の風習と同じように中国の儒学的な発想も身につけていた。価値観のバイリンガルだ。自分の母親が殺されて悲しくないわけがない。孝文帝の場合は母の死は自分の即位が原因なので鮮卑族の風習を忌み嫌ったに違いない。その漢化政策にも納得がいく。

 魏晋南北朝時代を通じていろいろな事件があるが、何がこの時代の政治のテーマになっていたか。皇帝は国家権力を強化したいと考える。邪魔者は豪族勢力だ。豪族の勢力を押さえて、皇帝権力を強化するにはどうすればよいか。ひとつは土地だ。豪族よりも広い農地を直接皇帝の支配下におけば、単純に豪族よりも強くなれる。そこで自作農民を育成して租税を徴収する。さらに自作農民を徴発して兵士にする。そうすれば豪族に頼らない軍事力と経済基盤を持つことができる。そのための政策が、三国の魏の屯田制、西晋の占田・課田法。占田・課田法は豪族の土地所有を制限して自作農を作り出すための政策だった。この政策の決定版が北魏の均田制である。これは孝文帝の時代に始まった。自作農民を育成する仕組みだ。国家が人民に土地を支給する。人民は土地を支給されて自作農になる。国家に対して租庸調(そようちょう)という租税を納め、兵役の義務も果たす。これによって北魏は強力になった。この均田制は北魏につづく王朝にも引き継がれた。

 北周を継いで中国を再統一した隋、隋に代わった唐でも均田制はおこなわれた。唐の時代に日本から遣唐使がいく。遣唐使がこの均田制を日本に伝えた。これが班田収授法という名前で日本でも実施されている。皇帝権力強化のもうひとつの課題は官僚の登用だった。皇帝の手足となって働く官僚は中央集権を目指す王朝にとっては絶対必要だが、どうやって採用するか。豪族として私利私欲を追求するのではなく、王朝に忠誠を尽くす人物を採用したい。魏がおこなった九品中正法がそのための方法だった。この方法によっても採用されたのは豪族の子弟だった。しかも、九品中正法は豪族の家柄をランク付けしたから、有力な豪族は代々高級官僚を出すようになった。このような豪族は事実上貴族といってよいものになる。西晋の時代には貴族の家柄がだいたい決まってきた。まだ皇帝に忠実な官僚の採用にはほど遠い。ただし、豪族=貴族たちが九品官人法によって国家の序列の中に位置づけられたという意味はあった。国家の存在と無関係に貴族が存在できたのではなく、国家や皇帝権力によって高い家格にランクされることを彼等は望んだ。そういう点では九品中正法は豪族を国家権力に取り込んだといえる。九品中正法は魏晋南北朝時代の各王朝で採用された。どの王朝もなんとか豪族=貴族勢力を国家権力に取り込もうとした。国家権力が豪族とは無縁の官僚を登用できるようになるのは、後の隋、唐の時代になる。

 魏晋南北朝時代の時代の文化の担い手は貴族だった。代々つづく豪族を貴族といってよい。華北の戦乱を逃れて南方に逃れてきた貴族によって成熟した貴族文化が発達する。中国南部の王朝で発展したので六朝(りくちょう)文化と呼ばれる。後漢の末から豪族=貴族達の間で逸民的な雰囲気がはやった。どろどろした政治の世界から身を引いて、儒学的な道徳にとらわれず精神的な自由を守ろうという風潮だ。例の諸葛亮も劉備に引っぱり出されるまでは田舎にこもって逸民的な生き方をしていた。儒学のかわりに人気が出てきたのが老荘思想、道家の系統の思想だった。西晋の頃から貴族たちの間で老荘思想にもとずく弁論合戦が流行した。貴族のサロンで奇をてらった面白い議論を展開できれば人物の評判が高まった。こういう議論を「清談」といった。暇があったら「清談しようぜ」となる。とくに清談で有名になった貴族が七人いて「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」といわれた。竹林が茂る別荘に集まって清談して遊ぶ。阮籍(げんせき)という人が有名だ。竹林の七賢は政府の高官でもあった。現代風にいえば国家の発展や人民の生活の安定のために一所懸命働かなければならない立場だが、浮き世離れした清談にうつつを抜かしていた。悪い言い方をすれば「清談」は貴族たちの現実逃避の手段だった。そういう意味で「清談」は国家から半分そっぽを向いている当時の貴族=豪族の生き方でもあった。貴族階級に麻薬も流行した。五石散(ごせきさん)という麻薬を利用した。やりすぎて死人も出た。貴族のサロンは麻薬で陶酔しながら、浮き世離れした哲学論を戦わせる場だった。

 代表的なのが、陶潜(とうせん)、詩人で陶淵明(とうえんめい)ともいわれたが、東晋の人で「帰去来辞(ききょらいのじ)」という詩は有名だ。「帰りなん、いざ」という一文からはじまる詩で、役人を辞めて田舎に帰るときに作った。この詩の一節に「五斗米のために腰を折らず」という言葉がある。五斗米とは役人として陶潜がもらう給料をさす。腰を折るというのは、お辞儀をすること。つまり、わずかばかりの給料をもらうために上司にペコペコお辞儀してへつらうような役人仕事はもうごめんだぜ、俺は仕事を辞めて田舎へ帰って、のんびり好きなように暮らすぜ、という詩だ。また、謝霊運(しゃれいうん)、南朝宋の人で詩人、超一流の名門貴族、官僚だが傲慢な性格だったので左遷されて田舎に飛ばされ、美しい自然に心を癒されて山水詩を書いた。他にも、昭明太子、南朝梁の王子、即位せずに死んでしまうが、編集した本が「文選(もんぜん)」、古今の名文を集めたもので、貴族たちが文章を書くときに参考にしている。日本にも輸入されて奈良・平安の貴族たちが漢文を書くときの手本にしており、日本でも有名になっている。

 王羲之(おうぎし)、東晋の人、この人も名門貴族、書聖と呼ばれる書道の名人、筆と墨を使って書くという行為を芸術にした。代表作が「蘭亭序(らんていじょ)」。名門貴族たち40数人が蘭亭という風光明媚な場所に集まって宴会をした。いかにも「清談」的な雰囲気の集まり。みんなで作った詩を集めたものに王羲之が序文を書いた。これが「蘭亭序」。傑作だったらしいが、のちの時代、唐の太宗という皇帝が自分の墓に一緒に埋めてしまったので実物はない。その他の作品も王羲之本人が書いた真筆は伝わっていない。現在、我々が見ているのは臨書(りんしょ)といって、後の時代の名人が書き写したもの。

 顧鬥之(こがいし)、この人も貴族だが謝霊運や王羲之ほど一流ではなく、役人としてもぱっとしないが画家として有名で、肖像画が得意。代表作「女史箴図(じょししんず)」。貴族女性の日常生活を描いている。当時の貴族たちの暮らしがわかって面白い。たとえば、貴族の婦人が召使いに髪をとかせている、彼女の前に円盤が掛けてある。銅鏡。日本列島では古墳から出土する。宗教的な呪力を持つものとして埋めてしまうものだが、中国では鏡としてちゃんと使っている。彼女が座っているのは畳。部屋の全面に畳を敷き詰めるのではなく、自分が座るところにだけポンと畳を置いている。これがそのまま日本に伝わった。百人一首の絵にある、天皇や貴族の座り方とまったく同じだ。日本では畳はどんどん普及して部屋全体に敷くようになっているが、本家の中国では唐の時代くらいから椅子とテーブルの暮らしが一般的になってきて、現在では畳は使っていない。「古い時代の文化は辺境地域に残る」という文化伝達の原則の実例ともいえる。ここでの辺境とは日本を指している。

 さて、長い分裂時代を終わらせて中国を再び統一したのが隋。隋という国の登場は、北魏時代になるが北魏の孝文帝が漢化政策をおこなった。この漢化政策に不満を持った辺境地域の軍人たち、彼等の反乱によって北魏は東西に分裂。この軍人たちは辺境防衛で苦労をともにし強い団結力を持っていた。人種的には鮮卑系などの北方民族と、北方民族化した漢族が渾然一体となっていた。この軍人たちが北魏分裂後の西魏、北周の支配者集団になる。彼等は質実剛健。それに対して東魏や北斉の政権は南朝の貴族文化に影響されて軟弱。北周は地理的な関係もあって南朝の洗練された貴族文化にあまり影響されていない。隋の建国者は楊堅(ようけん)、隋の文帝ともいうが、北周の皇帝の外戚、北周の皇帝から帝位を譲り受けて隋を建国。もともと楊堅も北周の皇帝家も北魏時代の軍人仲間だ。だから王朝が隋に代わっても基本的な政策の変更はない。その後、楊堅の隋は北斉、陳を滅ぼして統一を成し遂げる。楊堅は漢民族といわれるが、生活文化はかなり北方民族化していた。夫人は独孤(どっこ)氏という鮮卑族の有力貴族出身。隋という統一王朝は北方民族のエネルギーを吸収消化して生まれた。中国文化というのは常に周辺の民族の文化を取り入れて発展してきた。漢民族も周辺民族を取り込んでその範囲がどんどん広がってきた。漢帝国が崩壊してから隋の統一までの長い分裂時代、中国文化は五胡の文化をその中に消化しながら一回り大きくなった。隋が滅んだあとを継いだ唐は広い範囲を包み込んで大唐文化圏をつくりあげた。日本からも遣唐使がどんどんいった。阿倍仲麻呂も遣唐使で唐に行き、唐の皇帝に気に入られて向こうで官僚として出世する。唐というのは、その人間が何民族かということは気にしない国だ。北魏、西魏、北周という流れの中で、中国人と北方民族が融合し、その流れが隋、唐にもあった。

 隋の都は大興城、長安のこと。土地制度は北魏より引き続いて均田制を採用。税制は租庸調制。均田制によって国家から土地を支給されている農民は均田農民といわれる。均田農民が土地を支給されるかわりに、国家に対して租庸調(そようちょう)を納める。租は穀物で納める税。庸は労働力で納める税。一年のうち一定期間政府に労働奉仕する。調は各地の特産物などで支払う税。さらに均田農民には兵役がある。均田農民によって編成される兵制が府兵制。均田制と租庸調制、府兵制はセットで実施される。これによって、王朝は豪族に頼らずに直接に農民を把握し、軍事力を手に入れた。北魏時代から徐々に整備されてきた国家制度が隋の時代に実を結ぶ。官僚登用制度としては「選挙」。今の選挙とは全然意味が違う。これは試験による官僚登用制度のこと。この制度の発展したのが、後の宋の時代に科挙(かきょ)と呼ばれるものだ。隋の時代は「選挙」で採用される官僚の数はまだ少ないが、家柄によらず人物を選ぶ試験を始めたことがすごい。貴族も官僚として活躍しているが、隋の時代からは貴族出身官僚を地方官に任命しなくなっている。地方に地盤を持たせないようにした。貴族は豪族的な面をなくし、王朝に寄生する存在になってゆく。

 後漢滅亡後の課題であった皇帝権力の強化はこういう形で実現していく。4世紀におよぶ分裂の間に江南地方、長江南方の地域、ここは南朝によって開発されて農業生産が伸びていた。隋はここを中国北部に結びつけるために大運河を建設。南は長江南方の杭州から現在の北京近くまで全長1500キロメートル。大運河は南北中国の経済の大動脈として以後の社会に欠かせないものとなる。唐の繁栄はこの運河のおかげだ。文帝楊堅を継いで隋の二代目の皇帝になったのが煬帝(ようだい)。日本では読み癖として「ようてい」とせずに「ようだい」と読んでいる。煬帝は暴虐な皇帝であるという評価が一般的で、帝という字を「てい」と呼ばずに、おとしめる意味で「だい」と読むようになっている。煬という文字も、非常に縁起の良くない悪い意味の字だ。隋に代わった唐にとって煬帝を非難して自らの王朝を正当化する必要があった。実際の煬帝はそれほど悪い皇帝だったかというと、贅沢三昧をするのが悪いとすれば普通に悪いが、南朝ではとんでもない皇帝はいくらもいたから悪さ加減もそこそこだったと思われる。煬帝が人民を徹底的に徴発したことについては恨みを買っている。大運河の開削工事で農民を人夫として徴発、土木工事に駆り出されるのは男と決まっているが、大運河開削には女性も動員された。これは前代未聞だ。それから対外戦争、高句麗遠征を三回もやって負けた。この戦争とその準備で多くの人民が死んだ。高句麗は隋の東北方面、現在の朝鮮半島北部から中国東北部にかけて領土を持っていた。煬帝は遠征のための物資をタク郡(現在の北京付近)に集めるが、南方から物資を輸送するため黄河からタク郡までの運河を掘らせた。土木工事と対外戦争はセットになっており、このような民衆の負担の激増で、各地で農民反乱や有力者の反乱が起き、隋は滅びた。

 南北朝時代、中国の北方で大きな勢力を持っていた遊牧民族が突厥(とっけつ)だ。トルコ系の民族で突厥という名はトルコを音訳したもの。この突厥は隋が成立するのと同じ時期に東西に分裂し、東突厥は隋に臣従した。ところが高句麗は隋に臣従しない。隋に隠れて突厥に密使を送ったのがバレたりする。そこで煬帝は高句麗遠征を企てた。第一回高句麗遠征が612年。110万をこえる隋軍が出動した。攻め込まれる高句麗は必死だった。隋軍は無理な作戦で敗北、撤退した。「薩水の戦い」の絵、領内に深入りした隋軍を高句麗軍が破った戦いを描いたもの、韓国の歴史教科書に載っている。韓国や北朝鮮では、隋の侵略を三度も撃退したことを民族の栄光の戦いとしている。第二回目の高句麗遠征は613年、この時は後方で物資輸送に当たっていた担当大臣が反乱を起こして撤兵した。隋の政権内部の乱れで、各地で民衆反乱が起きている。第三回は614年。この時には、民衆反乱が大規模になって高句麗遠征どころではなくなっていたので、高句麗側はそれを見越して形だけの降伏をし、煬帝はそれを機会に撤兵した。

 煬帝は大混乱の中で親衛隊長に殺され、618年に隋は滅びた。隋の煬帝は倭国との関係で有名なエピソードがある。607年、小野妹子が遣隋使として中国に渡り、、国書を煬帝に渡すが、その冒頭の文句が有名な「日出(い)づるところの天子、書を日没するところの天子に致(いた)す。つつがなきや・・・」。煬帝は激怒した。もう二度と倭国の使いを俺の前に連れてくるなと。この文面は中国の皇帝と倭国の王が同格であつかわれている。中華的発想では、周辺民族は中国よりもランクが下、中華文明を慕ってやってくるものでなければならない。倭国の手紙はそのような外交的常識から外れ、はなはだ無礼なもの。怒ったはずの煬帝が、翌年には裴世清(はいせいせい)という使者を倭国に派遣して友好関係を続けた。ちょうどこの時期は、高句麗遠征の準備を進めているときだった。高句麗、新羅、百済そして、倭国と東アジア諸国の緊張感が高まっている。隋としては高句麗を孤立させたい。もし倭国との外交関係を切ってしまったら高句麗が倭国と同盟を結ぶかもしれない。外交上も軍事上もややこしい。だから、個人的な怒りとは別に外交上は倭国と交渉を続行した。

 問題の国書を出したのは聖徳太子。聖徳太子の時代、多くの仏僧が朝鮮半島から倭国にきていた。大和朝廷からみれば朝鮮半島は先進地帯。積極的に仏僧を受け入れていた。そのなかに聖徳太子が師と仰いだ慧慈(えじ)という仏僧がいた。高句麗からきている。この慧慈が例の国書を書いたといわれる。国書は「日の出づるところ」と倭国のことを書いている。日本列島に住んでいる我々にとって、ここは「日の出づるところ」ではない。倭国を「日の出づるところ」と考えるのは、西方から見た視点だ。中国を「日没するところ」とするのは同じように中国よりも東方からの視点だ。国書を書いた人物の視点は倭国と隋の間にある高句麗。高句麗僧の慧慈にとって、倭国と高句麗とが軍事同盟を結ぶことが望ましかった。そのためには倭国と隋のあいだにトラブルが起きると都合がよい。聖徳太子の信任を受けた慧慈はそういう下心を持って国書を書いたと思われる。煬帝も倭国の無礼に対して怒りつつも、倭国を高句麗側に追い込まないように注意している。わずか数行の国書の文面から倭国をも巻き込んだ国際関係が読みとれる。『隋書』という隋の歴史書には608年に倭国におもむいた使節の記録がある。この時に使節は倭国王と、その妃、王子にも会ったと記録されている。聖徳太子は王ではない。推古天皇は女性だ。一体誰に会ったのか。正式な隋の外交使節を倭国政府はあざむいて聖徳太子を王と紹介したのか。この時に帰国した小野妹子は隋の国書を途中で紛失したということになっている。このあたりの倭国の記録には腑に落ちないことが多い。高句麗は紀元前1世紀後半に鴨緑江という川の流域で成立した国だ。ツングース系扶余族の国家。この国が飛躍的に領土を拡大したのが広開土王(位391~412)の時代。この王の業績を記念して立てられた石碑が「広開土王碑」。この碑文には倭の記事も出てくるが、読み方に関していろいろな説があるのと、碑文そのものの改竄(かいざん)説があって問題の多い石碑でもある。5世紀初頭の東アジア諸民族の貴重な資料だ。中華人民共和国吉林省集安に建っている。

 高句麗は隋の攻撃には耐え抜いたが、次の唐によって滅ぼされた(668年)。このとき唐とともに高句麗を攻撃したのが新羅(しらぎ、しんら)。4世紀後半に朝鮮半島の東南に成立した国。高句麗と百済に圧迫されていた新羅は7世紀半ばに積極的に唐の文物を取り入れて国政改革をおこない唐との結びつきを強める。最終的には唐と軍事同盟を結び、660年には百済、668年には高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一した。唐は朝鮮半島の直接支配を目指したので、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い払うために676年まで戦い続けた。百済は朝鮮半島西南。4世紀前半の成立。この国は高句麗、新羅と比べて大和朝廷との関係が非常に深い。唐、新羅連合軍によって滅ぼされた後、倭国の援助を受けて復活を目指す。663年の白村江の戦いだった。倭軍は負けて百済再興はできなかった。3世紀に魏が耶馬大国に使節を派遣し、その後、倭国は5世紀に南朝宋に使節を送っている。中国の王朝に官職を授けてもらうことによって朝鮮半島や日本列島の対立勢力の中で有利な立場を確保しようとした。宋の歴史書には五人の倭王の名が記録されている。「倭の五王」という。それ以後は隋の時代まで倭の記録は出ていない。

 なぜ南朝の宋にだけ記録されているかといえば、宋だけは山東半島まで領土を拡大しており、日本列島から百済を経由して比較的簡単にたどりつくことができた。隋のときに倭国は遣隋使を送る。隋・唐の高句麗遠征、高句麗・百済・新羅の三国をめぐる国際関係の中で新羅と同じように内政改革をおこなわざるをえなくなる。645年の大化改新といわれる改革、そして日本という国号を使うようになるのは7世紀後半からだ。それまでは倭国と呼んでいた。隋末には各地に反乱勢力が割拠する。農民出身者や隋の高官など反乱勢力のリーダーはいろいろ、そのなかで混乱を収拾して唐帝国を建てたのが李淵(りえん)(位618~626)だ。もとは隋の将軍だった。実は隋の楊家と李淵の家は北魏末に反乱をおこした軍人仲間。隋を建てた楊堅は北周の軍人。北周時代は楊家と李家は同僚だった。しかも李淵の家の方が格が上。しかし楊堅が隋を建て皇帝になってしまったので李淵はその将軍をやっていた。しかも李淵と煬帝はいとこ同士。お互いの母親が鮮卑族の名門貴族独孤氏の姉妹という関係。だから、隋末に李淵が旗揚げをした時も隋の官僚や軍人たちには違和感がない。北周から唐にかけては同じ仲間内で皇帝の地位をまわしているようなものだった。李淵は旗揚げ後すぐに長安に入城する。隋の統治組織をそっくり手に入れライバルの諸勢力を倒した。唐の建国に大活躍したのが李淵の次男李世民(りせいみん)。李淵はどちらかというとボウッとした人、李世民が親父をたきつけて旗揚げしたようなもの。建国の第一の功労者だが次男だから皇太子になれない。ついには皇太子である兄を実力で倒して二代目の皇帝になる。それが唐の太宗(位626~649)だ。中国史上三本の指に入る名君といわれる。その治世は「貞観の治(じょうがんのち)」といわれた。太宗の時代の年号が貞観、その貞観時代が平和でよく治まったという意味で讃えられる言葉だ。

 唐の政策は隋をそのまま引き継いでいる。大運河の建設が隋時代に終わっていた分、唐はその成果をそっくり手に入れることができた。土地制度は均田制。税制は租庸調制。軍制は府兵制。律令格式(りつりょうきゃくしき)といわれる法律も整備された。唐はこの律令制度が完成して頂点に達した。中央官制は三省六部(さんしょうりくぶ)制。三省とは、中書省(ちゅうしょしょう)、門下省(もんかしょう)、尚書省(しょうしょしょう)。中書省は皇帝の意思を受けて法令を文章化する役所。門下省は中書省から下りてきた法令を審査。もし門下省の役人が問題ありとした場合、法案は中書省に差し戻しとなる。中書省はもう一度皇帝と相談して法案を練り直さないといけない。だから、門下省は大きな力を持っている。この門下省の役人になったのが南北朝以来の名門貴族の者たちだ。大きな権力を持ってはいるが政府の官僚としての権力に過ぎなくなっている。門下省の審査を経た法案は尚書省によって実行に移される。尚書省に属しているのが六部。吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六つの役所が実行部隊。吏部は官僚の人事を司る。戸部は現在でいうなら大蔵省にあたる。礼部は文部省。兵部は軍事を担当。刑部は法務省と国家公安委員会を併せたようなもの。工部は建設省。以上のような唐の諸制度は遣唐使によって日本に取り入れられた。日本でも大宝律令をつくった。役所の名前など大蔵省、文部省など、省という呼び方をしているのはここからきている。

 対外的には突厥の内部分裂を利用して服属させ、北方西方の諸部族の族長に唐の地方官の官職をあたえ都護府という役所にかれらを監督させた。唐政府は部族内のことに口出しはしないから、緩やかな支配といっていい。このような唐の周辺諸民族に対する政策を「羈縻(きび)政策」といった。羈縻というのは馬や牛をつないでおく紐のことで、紐の伸びる範囲なら自由に活動が許されるという意味だ。高句麗に対して遠征もするが、成功するのは次の皇帝の時になる。太宗の李世民は政治的には成功をおさめるが、跡取り問題で悩む。長男が皇太子になるが、少し変わっていて、突厥、トルコ人の遊牧文化にあこがれている。宮殿の庭にテントを張って家来とそこに住み込む。食事のときは羊の肉を剣にさしたまま、火であぶって食べる。バーベキュー。家来には弁髪という北方民族の髪型をさせ、彼等とトルコ語で会話をする。皇太子が遊牧文化にあこがれた理由は不明だが、もともと唐の皇室李家も鮮卑族など北方民族の血が入っている。李世民の皇后も長孫氏という北魏以来の鮮卑族の名門だ。風俗として遊牧民に近い。皇太子の振る舞いは先祖返りかもしれない。だが皇帝としては困る。言動も乱暴なところがあった。李世民は長男を皇太子からはずし、長孫皇后が産んだ子のなかで一番おとなしい三男を皇太子にする。これが第三代皇帝高宗(位649~683)だ。高宗は優柔不断なところのある頼りない皇帝だが、太宗李世民の基礎づくりがしっかりしていたので唐の支配領域は拡大した。高句麗を滅ぼすのも彼の時だ。

 高宗よりも皇后が更に有名で、則天武后(そくてんぶこう)といわれる。もともと彼女は李世民の後宮に入っていたが、息子の高宗がみそめた。親父が死んだあと彼女を自分の後宮に入れた。これは遊牧民的な行動だ。息子が父親の妻を自分のものにするなんて儒教文化ではありえない。遊牧民では普通にあることだ。女性を自分の妻とすることで扶養する。産みの母親を妻にはしない。則天武后は高宗の愛を独占して皇后の地位に登りつめる。彼女は頭がきれる。高宗は決断力のない人で政治向きの相談を彼女にする。則天武后は的確な指示をする。高宗は彼女なしでは政務ができないほどになる。朝廷で役人に会うときに自分の後ろに簾をたらしておいて、その裏側に則天武后を座らせておく。高宗が判断に迷うと則天武后が簾の後ろからどうしたらよいかそっと耳打ちしてくれる。高宗が死ぬと則天武后が実権を握る。彼女と高宗とのあいだに二人の息子がいる。まず中宗が即位するが、かれの政治は則天武后の気に入らない。中宗を退位させ、もう一人の息子、睿(えい)宗を即位させる。則天武后はこの睿宗も気に入らない。かれも退位させ、自分で即位してしまった(位695~705)。63歳位の時だ。中国史上唯一の女性皇帝が誕生。武照(ぶしょう)というのが彼女の本名。皇帝家が李家から武家へ変わったので国号も周と変更した。若い男を寝室に引っ張り込んだりといったスキャンダルがあって、昔から彼女の歴史的な評価はあまり良くないが、女だからという理由で必要以上に貶められているところもある。

 則天武后という呼び名にしても、これは高宗の皇后としての呼び方であって皇帝としての名前ではない。女だから皇帝名で呼んでやらないという伝統的な女性蔑視を引きずっている。一応教科書にしたがって説明しているが武則天(ぶそくてん)といった方が良い。則天武后が政治をおこなうときに北周、隋、唐とつづいてきた支配者集団は非協力的だ。則天武后は鮮卑系の武人集団でも南朝以来の伝統的貴族階級出身でもない。個人的な美貌と才覚だけでのしあがった。皇帝としては自分の手足となって動いてくれる忠実な官僚がたくさん欲しい。そこで彼女は中央だけで実施していた官僚登用試験を全国に広げる。試験で採用された官僚たちは門閥がないので則天武后に忠節を尽くすことで出世するしかない。則天武后の時代に新官僚層が政界に進出して南北朝以来の旧勢力と対抗する力をつけてくる。貴族ではない官僚層が政権中枢部に登場してきた。則天武后は皇帝だから実力行使もする。この時代に殺された貴族とその家族は千人は下らない。新しい人材を登用していったことが彼女の政治上の功績だ。則天武后は最晩年には、息子の中宗が再び即位して国号も唐に戻される。則天武后は死ぬが、中宗の皇后がまた問題だった。韋后(いこう)というが、彼女はずっと則天武后のやり方をみてきた。則天武后は夫の高宗が死んでから皇帝になったが、韋后は中宗が死ぬのを待ちきれず、娘と共謀して毒殺してしまう。中宗の甥で睿宗の息子の李隆基(りりゅうき)が兵士をひきいて宮中に乗り込んで韋后らの一派を排除した。則天武后から韋后までのゴタゴタを「武韋の禍(ぶいのか)」という。これは唐の宮廷内での事件で一般民衆の生活とはあまり関係なく、唐の宮廷を正常化した李隆基はやがて第六代皇帝となる。これが唐の中期の繁栄をもたらした玄宗皇帝だ(位712~756)。即位したのが28歳。能力もやる気もあって働く。かれを補佐した有能な大臣たちは則天武后の時代に頭角をあらわしてきた人たちなので、玄宗の成功はある意味では彼女のおかげかもしれない。玄宗時代の繁栄を「開元の治(かいげんのち)」と呼ぶ。太宗の「貞観の治」とセットでいわれる。

 皇帝の仕事というのはまじめにやれば非常にきつい。宮廷での政務というのは早朝、夜明け前に始まる。皇帝は午前三時頃にはもう起きて、威儀を正して宮廷に出る。次から次へと官僚たちが持ってくる書類を決裁し、正午になる頃にようやく仕事に一段落をつけ、それから以降がプライベートタイム。こういう日常の仕事をきちんとこなしていくのは大変で、皇帝は一番偉いから手を抜こうと思えば抜ける。そうすると宦官や外戚などの実力者が勝手な振る舞いをするようになる。玄宗はまじめに仕事をするが長生きをした。皇帝に定年制度はないから死ぬまで働きつづけなければならない。即位30年を越え、年齢が60近くになってくると、さすがの玄宗も仕事に飽きてきた。政治に熱意を失ってきた。こういうときに、かれが出会ったのが楊貴妃だ。楊貴妃はもともと彼の息子の妃の一人だったが、何かのきっかけで玄宗は彼女をみそめる。息子の後宮からもらい受けて自分の後宮に入れてしまう。彼女はこのチャンスをしっかりつかんで玄宗の愛を独占する。出会った時の玄宗の年齢が61、楊貴妃は27歳。玄宗は夜が明けても宮廷に出てこない。玄宗は音楽が趣味で笛の演奏が得意だった。かれの兄弟も音楽好きでよく三兄弟でアンザンブルを楽しんだ。それに合わせて楊貴妃は舞ったり歌ったりした。華清池(かせいち)という長安近郊の温泉地。二人はよくここに遊びに来た。現在も有名な観光地。玄宗の政治は公正さを失った。出世したければ楊貴妃に取り入ればよい。政府の中核が腐敗した。755年、安史の乱(あんしのらん)が勃発。反乱軍のリーダー安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)の二人、安史の乱とよぶ。安禄山は現在の北京の北方を守備する節度使(せつどし)の長官。節度使についていえば、唐の兵制は府兵制だったが、玄宗の時代からうまく機能しなくなってきて、均田制そのものが形骸化してきた。兵士も集められなくなる。羈縻政策もうまくいかなくなった。そこで辺境防衛のために新たにつくられたのが節度使という軍団だった。

 兵士は府兵制のような徴兵ではなくて募兵。お金で雇った傭兵である。軍団の司令官は管轄地域の民政もおこなう。自衛隊の地方駐屯隊の司令官が県知事を兼ねるようなもの。国境を守るためにはこの方が機敏に対応できる。ちなみに節度使の長官のことも節度使という。玄宗の時代には北方の国境地域を中心に十の節度使が設けられていた。安禄山という男は父親がソグド人、母親は突厥人。ソグド人というのは中央アジアを中心に活動していたイラン系の商業民族。そういう育ちもあってか安禄山は六カ国語が自由に操れた。若い時から現在の北京方面にあった節度使の部下になって通訳として勤務。辺境地域だから、いろいろな民族と接触する機会が多かった。この安禄山、すごく機転がきいて人の心をつかむのが上手だった。それで軍団の中でどんどん出世していく。唐は人種、民族関係なし。出世するために何をしたか、楊貴妃に取り入った。最初は贈り物を届けたりしたが、やがて楊貴妃の部屋に入り込んだりする。すっかり気に入られて養子気取り。楊貴妃に気に入られれば当然玄宗皇帝に取り立ててもらえる。ついには玄宗にも気に入られる。安禄山はものすごく太っていたが運動神経は抜群で玄宗の前で軽快なステップを踏んでクルクル回って踊る。その体型と踊りのアンバランスがいかにもおかしかった。玄宗に大うけ。ご機嫌の玄宗が「お前のそのでっかい腹の中には何が入っているのか」ときくと、安禄山は「この腹の中は陛下への真心でいっぱいでございます」なんて答える。最終的には、北方の三つの節度使の長官を兼ねる。同じように楊貴妃の縁で玄宗に気に入られて出世した人物がいた。楊国忠。これは楊貴妃の「またいとこ」、幼なじみ。こちらもスピード出世して宰相になる。安禄山は楊国忠と仲が悪い。玄宗と楊貴妃の愛を奪い合う関係だからライバルになる。楊国忠は宰相として常に皇帝のそばにいる。安禄山はいつも玄宗や楊貴妃のそばにいてご機嫌伺いをしているわけにはいかない、勤務地は辺境だ。自分がいないあいだに楊国忠が讒言をして自分を失脚させるのではないかと心配しているうちに安禄山は気がつく。自分は三節度使を兼任して唐帝国全兵力の三分の一を握っている。玄宗に嫌われるのをビクビク恐れる必要なんかない。この兵力をもってすれば自分自身が皇帝になることだってできると挙兵する。玄宗皇帝の情実に流された人材登用のつけが一気に爆発する。そもそも節度使は辺境防衛のためにおかれた軍団。その軍から国を守る軍はない。反乱軍は無人の野を行くように進撃を続ける。

 率いる軍勢は15万。すぐに洛陽を占領、翌年には長安も占領。玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れる。四川省に向けて落ちのびるが、逃避行の途中でかれらを護衛する親衛隊が反抗する。安禄山の反乱は楊貴妃のせいだと言う。この女に皇帝が溺れて政務をないがしろにしたからこんなことになった。この女を殺せと兵士たちは玄宗に迫る。兵士の協力がなければ自分も殺されるかもしれない。玄宗は田舎のまちのお寺に楊貴妃を連れ込んで因果を含めて絞め殺させる。泣く泣く殺す。このあと玄宗は反乱勃発の責任をとって退位し、息子の肅宗(しゅくそう)が即位。唐政府は安史の乱を鎮圧するためウイグル族に援助を要請。ウイグル族は突厥が衰退したあと勢力を伸ばしてきた遊牧民族。国内には安史の乱を鎮圧できる軍事力がなかった。一方の安禄山は長安を占領して新政府を建てて皇帝に即位するが、その直後に失明する。全身皮膚病にかかった。もともと理想や理念があってはじめた反乱ではない。皇帝になっても政治運営できない。そこへ失明と皮膚病でやけっぱちになる。暴虐な人間になって息子に殺されてしまう。その息子は武将の一人史思明に殺され、以後は史思明が反乱軍のリーダーになるが、暴れまわるだけが取り柄の男で、これもその息子に殺される。史思明の息子は反乱軍をとりまとめるだけの力量もなく、中心を失った反乱軍はウイグル軍に鎮圧され、ようやく反乱は終わる(763)。

 9年間の戦乱で華北は完全に荒廃した。安史の乱の兵士たちには遊牧民出身の者も多かったようで、農民に対する理解や配慮はない。農民は畑を棄てて逃げ散る。食糧生産も満足におこなわれない。安禄山の反乱軍には石臼部隊というのがあった。直径数メートルもあるようなでっかい石臼を運ぶ部隊。反乱軍とウイグル軍が合戦すると、どちらが勝っても負けても戦闘後の戦場には死体がたくさん転がっている。そこに石臼部隊がゴロゴロと巨大石臼を運ぶ。生き残った兵士たちは敵味方の死体を運んできて、どんどん石臼に放り込んで臼をひく。死体がミンチになってでてくる。これを団子にして食べた。人肉という食糧を確保するために反乱をつづけているような状態になった。農民が農作業なんかしていたら、捕まって食べられてしまう。地獄そのものだ。反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってくるが都はすっかり変わり果てていた。唐の詩人杜甫(とほ)に「春望(しゅんぼう)」という有名な作品がある。
  国破れて 山河あり   城春にして 草木深し    時に感じては 花にも涙をそそぎ
  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす   烽火 三月に連なり   家書 万金に抵(あた)る   白頭 掻(か)けば更に短く
  渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
杜甫は安史の乱で一時長安に幽閉される。戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩だ。「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだといっている。戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。

 安史の乱後、唐王朝の力がすっかり衰えてしまった。均田制を維持することができない。均田農民は政府の援助が得られずに没落して小作農になっていく。小作農のことを佃戸(でんこ)というが、佃戸が働く農地の所有者が新興地主階級、貴族とは何のつながりもない。混乱をチャンスに変えて成長してきた新興層だ。均田制が崩れれば、当然それをもとにしていた租庸調制も崩れる。代わりに実施された税制が両税法だ。夏と秋の二回の収穫期に銭納で税を集める。一年二回の徴税なので両税法という。両税法の献策者が楊炎(ようえん)。これ以外にも塩の専売制を強化して国家財政を補った。府兵制が解体して、募兵制に切り替わる。傭兵部隊、傭兵というのは西洋でも東洋でも質が悪い。中国では良い鉄は釘にはならない、善い人は兵隊にはならないという諺があって、兵士になる奴にろくな奴はいない。まじめに働くことのできないならず者が最後にたどりつく仕事だと考えられていた。府兵制の兵士は違う。これは徴兵で、均田農民が兵士になる。農民というのは元来まじめで黙々といわれたとおりによく働く。これを兵士にした府兵は質がいい。募兵制の傭兵になってから兵士の質がグンと落ちる。略奪・暴行なんかなんとも思っていない。そして、この募兵を率いるのが節度使だ。唐朝は安史の乱後、国内にも節度使を置く。節度使が反乱したら別の節度使に鎮圧させる。国内に多数設置された節度使に任命されたのが、なんと、安史の乱で暴れまわった反乱軍の武将たちだ。反乱鎮圧後、唐朝は反乱軍の将兵の扱いに困る。政府につなぎ止めておかないと、また何をしでかすかわからない。そこで、官職をあたえて各地の節度使やその武将、兵士にした。こんな節度使だから、頭から唐の政府なんてなめている。すぐに各地で自立化していって唐の政府の命令は無視し、税金も送ってこない。ただし、安史の乱で戦乱に巻き込まれなかった江南地方は比較的唐の政府に対して従順できちんと税金を送ってきた。そのルートが大運河であった。唐朝にとって大運河と江南地方が生命線になった。ここが唐朝のコントロールから外れる時が唐の滅亡の時となる。

 安史の乱後、それまでとはまったく異なった税制・兵制で国家の中身はすっかり以前とは違ったものになるが、100年ほどは何とか存続した。この唐朝に最後の打撃を与えたのが黄巣の乱(こうそうのらん)(875~84)。黄巣は塩の密売人。安史の乱後、塩の専売制は唐の大きな収入源だったので、塩の値段はどんどん上げられた。塩は生活必需品だから誰もが買わざるをえない。庶民の生活を圧迫する。塩の値段が高すぎれば当然密売人が現れて、政府価格より安く売って莫大な利益を得る。政府としては密売をほっておくと収入減になるから、必死に取り締まる。密売人側もそれに対抗して、各地の密売組織が連絡をとりあって政府の裏をかく。最後に唐政府は軍を投入して取り締まりを強化してきた。追いつめられた密売人がおこした反乱が黄巣の乱である。黄巣の反乱軍は次から次へと都市を占領して略奪する。一つの都市を食い散らかすと次の都市に向かう。これを流賊というが、神出鬼没でどこにあらわれるかわからない。安史の乱では無傷だった中国南部も大きな被害を受けた。全国を荒らしまわって最後は数十万の勢力に成長して長安を占領した。このときに黄巣軍は長安にいた南北朝以来の貴族たちをことごとく黄河に放り込んで殺している。貴族階級に対する庶民の恨みは強かった。これで貴族は全滅した。黄巣は長安で皇帝に即位する。そのあとすぐに反乱軍自体が内部分裂で解体していく。唐朝は軍事的にはこれを押さえられないので、黄巣の武将たちに寝返って唐側につくように誘う。寝返ったら節度使にしてやるよ、黄巣の部下をやっていても将来はないよと、「帰順」をうながす。有力武将たちが寝返ってくる。黄巣は即位後には何をしたらいいかわからなくなり、部下は寝返る上、敗戦がつづき最後は故郷に逃げ帰って自殺して反乱は終わる。

 乱後、唐の政府はまったく形だけのものになる。中国全土に節度使が自立して軍閥化。大運河と黄河の合流点、開封という都市、ここの節度使に任命されたのが黄巣の反乱軍から寝返った朱全忠(しゅぜんちゅう)という男。907年、朱全忠は唐を滅ぼして皇帝に即位する。都は開封。国名は後梁(こうり ょう)。後梁は中国全土を支配するだけの力はない。黄河流域をかろうじて勢力範囲にしただけ。それ以外の地域にはそれぞれの節度使が自立・建国して中国は再び分裂時代に突入。唐は国際性の豊かな時代。唐の前半は羈縻政策がうまくいって、非常に広い地域が唐の勢力下に入る。地図を見るとその広大さがわかる。領域内だけでも多くの民族が住んでいる、貿易、留学いろいろな目的で世界中から雑多な民族が集まってきたから、都長安は国際色豊かな都市となる。人口も100万人を超えていて、多分バグダードと並んで当時世界最大規模の都市。李白の詩に、  「少年行」  五陵の年少、金市の東   銀鞍白馬、春風を渡(わた)る  落花(らっか)踏み尽くして、何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ  笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中
 盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけていて、見るからに金持ちの貴公子。花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていったと。酒肆というのは酒場のこと。この詩のポイントは胡姫という言葉。胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたが、唐の時代にはイラン人をさす。胡姫というのはイラン人の女の子。だから胡姫酒肆とくれば、エキゾチックな可愛いイラン娘がお酌をしてくれるキャバレー。イラン娘は踊り子かもしれない。李白はこのような長安の華やかな雰囲気をつたえる詩をたくさんつくっている。

 商人以外にもいろいろな仕事で唐に出稼ぎに来ていた西方出身の人がたくさんいた。外交使節も長安にやってきた。日本からは遣唐使。留学生、留学僧もたくさん連れてくる。日本は新興国家だから唐に学ぼうと必死だ。遣唐使のような使節をおくる国はたくさんあって、これらはみんな朝貢(ちょうこう)といわれる。中国の皇帝に諸国が貢ぎ物を持ってくる。対等な外交関係ではない。そのかわり、朝貢した国は帰りにどっさりおみやげをもらってくる。貿易としては朝貢国は大儲け。アラビア方面からはインド洋経由でムスリム商人達がやってくる。イスラム教徒のことをムスリムという。唐は広州のまちに市舶司という役所を設けて貿易を管理。商業税をとる。イスラム教との関係では重要な戦いがある。タラス河畔の戦い(751)である。 現在のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス三国の境あたりで唐とイスラムのアッバース朝が戦う。東西交易路の奪い合いだ。この戦いで唐は負ける。死者5万、捕虜2万。捕虜の中に紙梳(す)き職人がいた。その結果製紙法がイスラム世界に伝わる。やがてはヨーロッパまで製紙法は伝えられる。

 また、永泰公主(えいたいこうしゅ)墓壁画。永泰公主は則天武后の孫娘にあたる。彼女の侍女たちが描かれているが、この人が持っている孫の手の大きいもの。これはポロのスティック。ポロというのは今でもイギリスなどの貴族たちが楽しむが馬に乗っておこなうホッケーだ。古代ペルシアで生まれた遊牧民たちのスポーツである。この時期には中国でも流行した。今でいえばテニスラケットを持って記念写真を撮っているようなものだ。永泰公主墓壁画とそっくりの構図で高松塚古墳の壁画がある。見て書いたのではないかというくらいふたつは似ている。これは正倉院にある「鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)」、一方のこちらは中央アジアのオアシス都市トルファンから出土した絵。両方とも樹木の下に女性が立っている同じ構図で樹下美人図と呼ばれている。構図が同じだけではなくて女性の顔つきもそっくり。西は中央アジアから東は奈良まで唐を中心として一つの文明圏にすっぽり入っているのが不思議なくらいだ。

1 コメント

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長い中国の歴史ですね。 (E.T)
2013-11-17 11:36:20
現在の中国は共産党一党独裁で、他党の存在は許されない。国会にあたる全人代の代表も選挙では選ばれていない。世界の中で選挙のない中国という大国は不思議な存在です。選挙で選出されない国会議員、そんな民主主義はあり得ないのだが。長い歴史の中でも中国は権力者が常に反乱と戦ってきている。今の中国首脳も同じような権力者集団といえますね。反乱をいかに押さえるかで悩み続けて当然ですね。
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