唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代、五代十国時代。華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代、後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。それ以外の地域に合計10ほどの独立政権が成立、この時代のほとんどの政権は節度使の自立したものだ。各政権の皇帝や王はみな軍人出身。均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期だった。新しい時代の担い手は新興地主層、形勢戸(けいせいこ)といわれる。後漢以来の豪族は南北朝から隋唐まで続き、貴族階級になってゆくが、形勢戸は同じ家がずっと地主として続かなかった。自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。故に形勢戸は貴族階級にはならない。形勢戸とは「成り上がり」という意味だ。また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは一つの地域を丸ごと持っていることをいう。豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属する。豪族は貴族化していったが、形勢戸はたくさんの土地を持っていても各地に分散していた。各土地は小さい。小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りていた。一人の形勢戸に隷属する関係にはならない。形勢戸は身分的にも貴族化しなかった。黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場していない。人民は全て同じ身分だった。日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事だった。中国では10世紀には貴族が消滅している。
五代最後の後周が宋に替わるのが960年。宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(位960~976)。都は開封。宋が成立した時にはすでに統一に向けた機運は生まれつつあった。宋の前の後周の時代に世宗(せいそう)という皇帝がいた。非常に有能で南北に領土を拡げていて、やがては戦乱を終わらせてくれるだろうと期待されていたが三十代の若さで病死、即位したのが幼い息子、そんな中で趙匡胤は後周の軍人だった。節度使の経験もあり、幼い皇帝のもとで親衛隊長だった。北部国境に敵の侵入があったという報告で、趙匡胤は親衛隊をひきいて出陣した。都の北方で宿営していた時、部下の将校が、幼い現皇帝では混乱が起きる、皇帝になってくださいと強引に迫る、断わったら自分は殺されるかもしれず、やむなく皇帝になると約束。部下たちは喜んで黄色の服を趙匡胤に着せる。黄色は皇帝の象徴。趙匡胤は皇帝にされ、親衛隊をひきいて都に戻り、幼い後周の皇帝から位を奪い、宋が建国された。宋は後周の皇帝一族を殺さずに丁重に保護していく。従って宋の時代には後周の皇帝家はずっと続いていった。
「水滸伝」には豪傑の一人として後周の皇帝の末裔が出ている。後周以外にも、宋が全国統一する時、自ら降伏してきた十国の君主達も同じように丁重な扱いを受けている。戦乱を終わらせ余分な血を流さないという民衆の願いを宋の支配者は理解していた。趙匡胤は宋の太祖ともいわれている。彼の時に、ほぼ中国を統一したが完全に統一したのは二代目皇帝の時(979)。二代目は趙匡胤の弟、趙義(ちょうぎょうぎ)(位976~997)、宋の太宗と呼ばれている。この兄弟が宋の基礎を固める。宋の政治方針は「文治主義」。地方の軍を弱体化させてゆくが、兵士を急に減らすと失業兵士が賊になってしまうので急には減らさない。新しい兵士を採用しない。兵士はどんどん年をとる。戦力としては役に立たないが、政府は彼等に地方都市の城壁の修理とか橋や堤防工事などをさせる。こうして地方軍を骨抜きにしていった。皇帝直属の軍(「禁軍」という)を強化する。軍人の力を削って、文人官僚による行政機構を整備する。多くの文人官僚を採用するため、科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験を行う。「選挙」という名前で隋の時代から始まり、唐の則天武后時代に充実されていたが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からだ。
この時代には貴族階級がいなくなっているので、全ての官僚が科挙によって選ばれた。科挙は誰でも受験することができた。年齢や出身地は関係ない、女性はダメ、試験は三年に一回。三段階の試験で、最初が郷試(地方試験)、合格すると都で二次試験(会試)、会試を通った受験者が最後に受けるのが殿試、皇帝自身による面接試験、これは宋代からはじまった。宮殿でおこなうから殿試という。官僚になれば一族みんなが潤う財産と権力が手に入る。一番で合格すれば将来の大臣は約束されたようなもの。一旗揚げようという血気盛んな者達は机に向かって勉強する。政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚を目指す。
当時の、科挙を受けるように勧める歌「金持ちになるに良田を買う要はない。本のなかから自然に千石の米がでてくる。安楽な住居に高殿をたてる要はない。本のなかから自然に黄金の家がとび出す。外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。男児たるものひとかどの人物になりたくば、経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」 窓口に向かってというのは、昔だから、照明は暗い。日が暮れかけても窓からは光が射し込むから暗くなっても勉強しろということ。この歌は太宗趙義がつくって意図的に流行させたといわれる。人民を取り込むのに必死だった。太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもある。子供に勉強させるだけの余裕のある家は必死に受験勉強させる。少し利発な子供だったら親戚みんなでお金を出し合って良い先生のところに入門させ、科挙の準備をさせる。子供は一族の期待を一心に担って勉強するのでプレッシャーも大きい。
現在の受験勉強とは比較にならない。優秀な人だと十代で合格する場合もあり、五十、六十になってもチャレンジしつづける人もいた。合格率は、17世紀はじめくらい明朝末期の数字だが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万、殿試合格定員が300人程度。大変な高倍率だ。どんな試験か、論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、詩を書かせる。すべて論述だ。政策論は官僚に必要だが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことなのか、儒学の理解度をみるということは、その人の徳を測ることと同じなのだ。詩を書かせるのは文化人としての教養をみる、つまり、科挙の試験というのは、官僚として実務に有能な者なら誰でもいいわけではなくて、貴族的な人間を試験でさがすという意味合いが強い。今の大学入試のような単なる能力テストではない。人格を測るようなところがあった。字がきれいなことも当然要求される。今みたいに鉛筆、消しゴムではない。墨をすって筆で書く。清書用紙を墨で汚したりしたら不合格。しかも、試験は三日間ぶっ通しでおこなわれる。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生ひとりひとりに独房が割り当てられる。そこで缶詰状態で受験。鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書く。合格するためにカンニングをする者もでる。ただ、論述試験だからカンニングペーパーはあまり役には立たない。論語とか詩経とか暗記しているのが大前提で、答案を書く時にそれらをいかに上手に引用して文章を格調あるものにするかというところが勝負所だ。合格するために不正行為をするのに一番手っ取り早いのが採点する担当者を買収することだ。政府としてはそんなことが横行しては、科挙の権威が台無しになるので、懸命に不正防止策をする。まず、答案の受験生の名前を糊付けして隠してしまう。賄賂を受け取っている採点官がだれの答案かわからないようにした。受験者の名前を隠すだけでは足りない。受験者の筆跡でわかる。筆跡をわからなくするために受験者の提出した答案を別の役人たちが書き写す。書き写して筆跡がわからなくなったものを採点官がみる。ここまでやると、不正はできないと思うが、受験者が採点官に事前に答案の特徴を教えておく。どんな問題が出るかわからないので、「私の答案は二枚目の五行目の三文字目に「仁」という字を書きます。」というふうに教える。あらかじめ決めた場所に特定の文字をいれて、しかも筋の通った論文にしなければならないわけで、これをやるには相当の実力がいる。科挙はおおむね公正に行われていく。モンゴルが中国を支配した一時期をのぞいて王朝が変わってもずっと続けられ、20世紀1904年まで科挙は行われた。宋の時代には科挙官僚を出した家は「」とよばれ、特権を得た。徭役を免除された。この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまう。家系そのものが高貴とされる貴族とは全く違うものだ。宋はこの科挙に象徴されるように文治主義の政治体制を作った。
唐の滅亡という大変化は当然、周辺の諸民族にも影響を与える。朝鮮半島では新羅が滅んで918年、高麗が成立した(918~1392)。建国者は王建。この王朝は文化面で高い成果を残している。まず金属活字を世界で初めて発明した。印刷にもコンピュータが普及している現在では活字というのは死語になりつつあるが、一つひとつの字のハンコを組み合わせてページを印刷する手法。のちにドイツでも発明されてこれが現在の印刷術につながる。一方、高麗で発明された金属活字はやがて消滅。漢字はヨーロッパの言語と違って字数が多く活字を揃えるのに莫大な費用がかかるため、高麗政府の援助がなくなると消えてしまった。高麗政府は高麗版大蔵経の出版にも力を入れた。大蔵経というのは中国に伝わっていたお経の全集と思ってもよい。すべてのお経を集めたものだ。非常に質が高くて日本の室町時代の守護大名たちが争って買い求めたりしている。この大蔵経の版木が今も残っていて、韓国では国宝である。高麗青磁という磁器も有名な文物だ。高麗は中国にならって科挙をおこなった。文官の試験と武官の試験のふたつがあったのでこれに合格した官僚を「両班(やんぱん)」といった。この両班は中国とは異なり特権階級化していく貴族になった。
現在の中国東北部にはいろいろな少数民族がいるが、かつて遼河という川の流域で半農半牧の生活を送っていた契丹族という部族がいた。唐の支配がゆるむにしたがって、政治的に自立、916年、契丹諸部族は統一し、遼(りょう)という国名で国を建てた。建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)。耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名。遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げた。しばしば中国北辺に侵入。五代十国時代には中国の燕雲十六州という土地を獲得。燕雲十六州というのは現在の北京を中心とする地域だ。燕とか雲とかいうのは州の名前、十六の州があったのでまとめて燕雲十六州という。ここを遼が獲得した事情は、五代の二番目に後唐という王朝があり、これを倒したのが後晋、後晋の建国者が石敬塘(せきけいとう、注:「唐」のヘンは王が正しい。文字がでないので土ヘンで代用)。かれは後唐の節度使だったが、反乱をおこして後唐を滅ぼした。この時、石敬塘は軍事力が足りなかったので遼に援助を求めた。遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州だ。結局、石敬塘は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲った。燕雲十六州は万里の長城の内側、つまり、中国の伝統的な領土で、住んでいるのも漢民族の農耕民だ。これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下となる。北方の民族が中国を支配することは五胡十六国時代以来あったが、それまでの北方民族はすべて中国の文化に同化していた。北魏がよい例で、孝文帝は漢化政策を実施した。五代の後唐の支配者も突厥系つまりトルコ人が中国文化に同化した人たちだ。後晋の石敬塘もやはりトルコ系だが、彼等自身がそのことを意識して行動していることはない。完全に中国化しているように見える。しかし遼の契丹族はそうではない。中国文化に同化することを極力避けようとする。民族の独自性を保とうとする。そのためには燕雲十六州の統治は慎重におこなう必要があった。下手をすると中国文化に感化されてしまい、同化してしまう。遼は「二重統治体制」という方法を採用した。燕雲十六州の支配制度を北方の自分たちの本拠地とは完全に切り離し、両者が混じり合わないようにした。遊牧民の世界には北面官という役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治。漢民族などの農耕民族には南面官という役所を置いて州県制によって支配した。このように民族文化の独自性を守る姿勢は文字制定という形でもあらわれる。契丹族は漢字を使うのを避け、わざわざ民族独自の文字を作った。これが契丹文字である。漢字の影響を強く受けている。日本でも同じ時期に「かな」が発明される。唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えたが、唐の衰退後は周辺諸民族は民族意識に目覚めていったともいえる。
燕雲十六州は中国から見れば本来は自分たちの土地。宋は中国の統一をしたのち、燕雲十六州を取り返そうと、遼軍と対決するが勝てない。1004年には遼は宋の都開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結ぶ。この和平条約が「セン淵(せんえん)の盟」といわれる。この条約で宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈ること、宋を兄,遼を弟とすること、両国国境は現状維持と決められた。宋が兄で遼が弟なのだから、名目的には宋の方が偉いという形だが、兄の宋は弟の遼に毎年莫大なお小遣いをあげなければならない、国境現状維持ということは燕雲十六州を宋はあきらめるということだから、実質的には遼の勝利だ。これ以後宋と遼は基本的には平和が保たれた。
さて、もうひとつ10世紀末から力を伸ばしてきた民族にタングート族がいる。ティベット系の民族。かれらは牧畜農耕を中心の生活をしていたが、唐末から東西交易路を押さえ、勢力を増大する。中国から中央アジアに至るルート上に建国。かれらの建てた国が西夏(せいか)。建国者は李元昊(りげんこう)。中国風の名前だが、タングート族。別の民族名も持っていたと思われる。西夏は宋と長年に渡って戦争を続けた。貿易上の利害関係で争うが、最終的には1044年、両国の間に和義が成立。決められた西夏と宋の関係は、宋が君主で西夏が臣下の「宋君西夏臣」関係。遼との「宋兄遼弟」関係に比べれば宋が偉い。宋が西夏に対して年毎に金品を送ることは遼との場合と同じ。実質的には西夏に軍事力で勝つことをあきらめた宋がお金を払って国境地帯の平和を買った。この西夏のタングート族も独自の文化を発展させようと考えて西夏文字を制定。この文字も、やはり漢字をモデルにしている。非常に複雑な字形。現在すべて読めるわけではないが徐々に解読が進んでいる。こうして、宋は契丹族の遼にもタングート族の西夏にも軍事的には勝つことができず、金品を払って平和を維持するという外交政策をとった。もともと宋は文治主義を基本政策として、軍隊を強大化させないという方針だったから、当然の結果だ。宋は軍事的には弱体でも経済的には非常に繁栄していた。平和を金で買うということが出来た。
遼、西夏という隣国に対して宋はお金で平和を買うという政策をとった。長く続くと経済大国の宋でも苦しくなる。遼と西夏に支払う歳貢が宋政府の財政を圧迫する。政治改革をおこなって財政再建をすることが宋政府の課題となる。そこに登場したのが王安石、第六代皇帝神宗が抜擢して政治改革をゆだねた大臣だ。王安石は父も科挙官僚だったが、彼が19歳の時に死んでしまう。王安石は22歳で科挙に合格。4番の成績で合格したので中央政界でエリートコース出世街道を驀進することもできたが、一家の生活を支えるために実入りの大きい地方官の道を選ぶ。地方の実状を知る中で、政治の矛盾や不合理について考える。地方で実績をあげ評判になる。45歳で神宗に抜擢されて宰相になる。宰相というのは皇帝に全面的に政治を任される、今風にいえば総理大臣だ。王安石は新法という呼び名で有名になる政策を断行して、財政再建を図る。財政再建のために一番簡単な方法は増税だが、増税するだけでは一時的に財政難をしのげても長い目で見れば人民の生活は疲弊する。
王安石は貧しい人々の生活を豊かにすることを考える。景気がよくなり、貧困層が豊かになれば自然に税収は増えるという発想をする。王安石の新法は大きく分けて六つある。青苗法(せいびょうほう)、均輸法(きんゆほう)、市易法(しえきほう)、募役法(ぼえきほう)、保甲法(ほこうほう)、保馬法(ほばほう)。青苗法は政府が農民に低金利で金を貸す法律。大きな土地を持っていない限り自作農は、ぎりぎりの生活をしているものが多かった。自分の土地を持っていてもそれだけでは足りないものは地主・形勢戸から農地を借りている場合も多い。農民というのはサラリーマンと違って、決まった収入が毎月あるわけではない。米を作っているのなら、収穫は秋だけ。収穫をしたら早速政府に税を納め、土地を借りていたら小作料を地主に支払う。米を売ったお金で必要最小限の生活道具や農具を買わなければならない。最後に残った収穫物を翌年の秋まで食べつなぐ。これが翌年の収穫までもてばいいが、そうはいかない。不作の年であれば、食料用の米もすぐになくなってしまう。そうなると借金をして生計を立てなければいけない。農民が借金をする先は地主。この地主からの借金の利子が高い。借金生活にはまってしまうと抜けられない。秋の収穫のあと、税、小作料、それに借金と利子を払うと、もう自分の取り分がなくなる、また借金する。最後には借金が払えきれなくなって、わずかばかりの土地も売り払って隷農か浮浪者に転落する。自作農が没落すると課税対象者が減る。自作農を没落させず、働いて収穫あげて、しっかり納税してもらわないと困る。そこで、自作農救済策として政府が地主よりも低金利で農民に金を貸すことにした。低金利といっても20%から30%の利子だったというから、現在の目で見ればかなり高い。それだけ地主の利子が高かったということだ。
青苗法は新法の中でも成果を挙げたものの一つだ。均輸法は漢の武帝の時代におこなわれているが、それと同じと考えてよい。物価の安定と流通の円滑化のために政府が市場価格の安いときに物資を買い上げ、高い時期や他の地方に転売して、商人の中間利潤をできるだけ押さえようとしたものだ。物価が安く安定してくれれば貧しい民衆にはありがたいわけで、生活も楽になる。市易法は青苗法の都市版のようなもの。都市には零細商人が多数いる。彼等は豪商たちの買い占めや価格操作のために圧迫されていた。市易法とは政府が中小零細商人に低利で営業資金を貸し出すもの。募役法の税の納め方については、現在ならサラリーマンは給料を受け取るときに自動的に税金は引かれる。自営業の人なら確定申告とか自分で税務署へいって手続きをしなければならないが、農業社会ではどうか、中国のように広大な国ではどうなるか。一軒の農家に村全体の税を徴収して、しかもそれを県の役場まで運ぶ仕事が割り当てられる。これを職役といって、大変な仕事だ。職役が当たったら家がつぶれるといわれていた。とにかく金がかかる。租税を役場に運ぶといっても、田舎だったら役場まで何日もかかる場合もある。しかも米、小麦やその他の現物を村の分全部まとめて輸送するので、量は莫大だ。この輸送費用を職役に当たった農家が自己負担で運ばなければならない。おまけに輸送途中にいたんだり、目減りした分も、輸送担当の農民の負担になる。職役が当たったために、自分の土地を売って費用を捻出するということもしばしばあった。これでは自作農が没落してしまう。政府は決められた税額が納入されればそれでよい、そのために農民が没落してもそれは政府のあずかり知らぬことというのが基本的な態度。ただし、、官僚をだした家、これには職役が当たらない特権があった。王安石はこの職役の重さを解消するために、農家全体から免役銭を徴収して、その金で職役を担当する者を雇わせた。毎年、一軒の農家に重い負担をさせるのではなくて、広く薄く負担させた。これが募役法だ。保甲法と保馬法は、上の四つとは違って直接農民や商人を救済する政策ではない。軍事に関するもの。保甲法は農家を組織して自警団を作らせたもの。遼や西夏と接する地方では軍事訓練もおこなって軍事費の削減をめざした。保馬法はこういう農家に軍馬を飼育させたものだ。
王安石は宰相として新法をおこなっていくが、反対派の官僚も多くいた。もともと中国では王朝の創始者の定めた政治体制を改革することを良しとしない伝統的な考え方がある。大胆な改革は内容に関係なく嫌われる。王安石の新法に反対する官僚たちは旧法党と呼ばれる。旧法党の中心人物は司馬光(しばこう)。王安石は新法を実施するときに司馬光にも協力を要請するが断られる。司馬光は最後まで新法に反対しつづけた。新法を支持するグループを新法党という。やがて、王安石の後ろ盾だった神宗が死ぬと、宋の政界は新法党と旧法党の争いに明け暮れる。王安石の新法が継続して実施されつづけたら大きな成果を挙げたかもしれないが、王安石が宰相を退いたあとは旧法党と新法党が交互に政権を担当するようになり、そのたびに報復人事が繰り返される。よかれと思って始めた新法が、政策の動揺と国家体制の弱体化を招く。
旧法党はなぜ、王安石の新法に反対したのか。改革を伝統的に嫌うという理由以外に大きな原因があった。新法の政策を考えてみると、高利貸しでもうけている地主や、大商人の利益を押さえて、自作農や中小商人を保護するというところが要点で、これは、地主や大商人にはありがたくない政策だった。旧法党の人は大地主、大商人の利益を守る立場に立っていた。科挙に合格するような人たちは、家が大地主だったり、縁者が大きな商売をしていた。自分たちの不利益になるような政策に賛成するわけがない。王安石は個人的な利害よりも国家の利益を優先させて考えることができた政治家だった。宋が新法党、旧法党の争いで混乱しているとき、現在の中国東北地方で新たな民族の活動が活発化していた。遼の支配下にある沿海州から中国朝鮮国境あたりにかけて女真族という民族がいた。半猟半農生活の人たちだ。毛皮や砂金を遼に納めていたのだが、やがて完顏阿骨打(わんやんあくだ)が諸部族を統一して金という国号で建国(1115)。完顏は氏族名、阿骨打がファーストネーム。遼の国の東端でいきなり独立国ができた。
遼は軍隊を送って、金を潰しにかかるが、金の女真族が遼軍に勝って独立を確保する。遼は建国時の勢いをなくして軍隊は弱体化していた。宋から莫大な歳貢を贈られて軟弱になっていた。宋は北方で金という新興国が遼と戦っているのを知って考えた。金と同盟を結んで遼を南北から攻めて滅ぼすことができないかと、宋と金の軍事同盟が結ばれた。遼が滅亡したあとは、万里の長城以北は金、以南は宋の領土とするという条件だ。ようやく燕雲十六州が取り戻せる。金と宋による作戦が始まると遼は滅んでしまう(1125)。このときに金軍は瞬く間に長城以北を制圧するが、南を分担していた宋軍は弱かった。燕雲十六州に攻め込むが、遼の守る都市を攻め落とすことができない。長城以北はすっかり制圧されているのに燕雲十六州の遼軍だけが抵抗を続ける状態になる。金軍は長城までやってきて、様子を見守っている。長城以南は宋軍の担当だから。「宋よ、とっとと遼軍をやっつけよ」という感じ。とうとうたまりかねた金軍が燕雲十六州に進軍し遼の残存勢力を撃破して遼は滅んだ。
この時に遼の王族の一人耶律大石(やりつたいせき)が西方に逃れて、中央アジアで西遼(せいりょう、「カラ=キタイ」ともいう)という国を建国した。契丹族の勢力が中央アジアまで及んでいた。遼が滅んだ後、金と宋の共同作戦と言いながら、実際には宋は何もできなかった。事前の約束通りに長城以南燕雲十六州の領土を要求する。金にしてみれば、汗も流してもいないのに分け前だけは要求する宋の態度は許せない。金と宋のトラブルが始まる。宋は多額の金品と引き替えに北京方面の領有を金に認めさせるが、その約束を守らず、金品を払わない。怒った金が軍隊を出動させると、その場をごまかす、約束を反故にする。度重なる宋の同盟違反に対して、金は大軍を南下させ、都開封を攻め落とし、皇帝徽宗と息子の欽宗を捕虜にして長城の北に連れ去ってしまう。徽宗は金軍が攻めてくると責任逃れのために息子に位を譲る。このときの皇帝は欽宗。この事件を「靖康(せいこう)の変」という。1127年のこと。これで宋は滅亡してしまった。
金は中国の南部まで支配下におさめるだけの力はなかった。華北を支配するだけで精一杯だった。女真族自体はそれほど人口も多いとは思われないので、ここまでの急成長でずいぶんと背伸びをしていたに違いない。中国南部には、宋の皇族の一人が南宋を建国。靖康の変で滅んだ宋を北宋という。金は遼につづく征服王朝。中国統治についても遼の二重統治体制を引き継ぐ。遊牧民に対しては猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)制を適用する。各300戸で1謀克、10謀克で1猛安という軍事編成の組織をそのまま行政組織に利用した。猛安、謀克というのは女真語に漢字をあてたもの。漢民族など農耕民社会には州県制、科挙などを実施して遊牧民に対する統治とは分けてゆく。基本的に女真族は独自の民族文化の維持を心がけていて、女真文字を制定。また、女真族の男たちは前髪をそり落として後頭部の髪を伸ばして編むが、このヘアースタイルを金朝支配下の漢民族にも強制した。中国最後の王朝の清朝も女真族が建てた国であり、同じヘアースタイルを中国人に強制した。
五代最後の後周が宋に替わるのが960年。宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(位960~976)。都は開封。宋が成立した時にはすでに統一に向けた機運は生まれつつあった。宋の前の後周の時代に世宗(せいそう)という皇帝がいた。非常に有能で南北に領土を拡げていて、やがては戦乱を終わらせてくれるだろうと期待されていたが三十代の若さで病死、即位したのが幼い息子、そんな中で趙匡胤は後周の軍人だった。節度使の経験もあり、幼い皇帝のもとで親衛隊長だった。北部国境に敵の侵入があったという報告で、趙匡胤は親衛隊をひきいて出陣した。都の北方で宿営していた時、部下の将校が、幼い現皇帝では混乱が起きる、皇帝になってくださいと強引に迫る、断わったら自分は殺されるかもしれず、やむなく皇帝になると約束。部下たちは喜んで黄色の服を趙匡胤に着せる。黄色は皇帝の象徴。趙匡胤は皇帝にされ、親衛隊をひきいて都に戻り、幼い後周の皇帝から位を奪い、宋が建国された。宋は後周の皇帝一族を殺さずに丁重に保護していく。従って宋の時代には後周の皇帝家はずっと続いていった。
「水滸伝」には豪傑の一人として後周の皇帝の末裔が出ている。後周以外にも、宋が全国統一する時、自ら降伏してきた十国の君主達も同じように丁重な扱いを受けている。戦乱を終わらせ余分な血を流さないという民衆の願いを宋の支配者は理解していた。趙匡胤は宋の太祖ともいわれている。彼の時に、ほぼ中国を統一したが完全に統一したのは二代目皇帝の時(979)。二代目は趙匡胤の弟、趙義(ちょうぎょうぎ)(位976~997)、宋の太宗と呼ばれている。この兄弟が宋の基礎を固める。宋の政治方針は「文治主義」。地方の軍を弱体化させてゆくが、兵士を急に減らすと失業兵士が賊になってしまうので急には減らさない。新しい兵士を採用しない。兵士はどんどん年をとる。戦力としては役に立たないが、政府は彼等に地方都市の城壁の修理とか橋や堤防工事などをさせる。こうして地方軍を骨抜きにしていった。皇帝直属の軍(「禁軍」という)を強化する。軍人の力を削って、文人官僚による行政機構を整備する。多くの文人官僚を採用するため、科挙(かきょ)と呼ばれる採用試験を行う。「選挙」という名前で隋の時代から始まり、唐の則天武后時代に充実されていたが、科挙が一気に重みを増し整備されるのは宋の時代からだ。
この時代には貴族階級がいなくなっているので、全ての官僚が科挙によって選ばれた。科挙は誰でも受験することができた。年齢や出身地は関係ない、女性はダメ、試験は三年に一回。三段階の試験で、最初が郷試(地方試験)、合格すると都で二次試験(会試)、会試を通った受験者が最後に受けるのが殿試、皇帝自身による面接試験、これは宋代からはじまった。宮殿でおこなうから殿試という。官僚になれば一族みんなが潤う財産と権力が手に入る。一番で合格すれば将来の大臣は約束されたようなもの。一旗揚げようという血気盛んな者達は机に向かって勉強する。政府に不満を持つ者も、反政府運動をするよりも受験勉強に精を出して官僚を目指す。
当時の、科挙を受けるように勧める歌「金持ちになるに良田を買う要はない。本のなかから自然に千石の米がでてくる。安楽な住居に高殿をたてる要はない。本のなかから自然に黄金の家がとび出す。外出するにお伴がないと歎(なげ)くな。本のなかから車馬がぞくぞく出てくるぞ。妻を娶(めと)るに良縁がないと歎くな。本のなかから玉のような美人が出てくるぞ。男児たるものひとかどの人物になりたくば、経書をば辛苦して窓口に向かって読め。」 窓口に向かってというのは、昔だから、照明は暗い。日が暮れかけても窓からは光が射し込むから暗くなっても勉強しろということ。この歌は太宗趙義がつくって意図的に流行させたといわれる。人民を取り込むのに必死だった。太宗は科挙の合格者を一挙に増やした皇帝でもある。子供に勉強させるだけの余裕のある家は必死に受験勉強させる。少し利発な子供だったら親戚みんなでお金を出し合って良い先生のところに入門させ、科挙の準備をさせる。子供は一族の期待を一心に担って勉強するのでプレッシャーも大きい。
現在の受験勉強とは比較にならない。優秀な人だと十代で合格する場合もあり、五十、六十になってもチャレンジしつづける人もいた。合格率は、17世紀はじめくらい明朝末期の数字だが、予備試験に合格して受験資格を持つ者が50万、殿試合格定員が300人程度。大変な高倍率だ。どんな試験か、論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、詩を書かせる。すべて論述だ。政策論は官僚に必要だが、儒学の理解や詩は官僚として必要なことなのか、儒学の理解度をみるということは、その人の徳を測ることと同じなのだ。詩を書かせるのは文化人としての教養をみる、つまり、科挙の試験というのは、官僚として実務に有能な者なら誰でもいいわけではなくて、貴族的な人間を試験でさがすという意味合いが強い。今の大学入試のような単なる能力テストではない。人格を測るようなところがあった。字がきれいなことも当然要求される。今みたいに鉛筆、消しゴムではない。墨をすって筆で書く。清書用紙を墨で汚したりしたら不合格。しかも、試験は三日間ぶっ通しでおこなわれる。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生ひとりひとりに独房が割り当てられる。そこで缶詰状態で受験。鍋釜、食材、寝具も持ち込んで、自炊しながら答案を書く。合格するためにカンニングをする者もでる。ただ、論述試験だからカンニングペーパーはあまり役には立たない。論語とか詩経とか暗記しているのが大前提で、答案を書く時にそれらをいかに上手に引用して文章を格調あるものにするかというところが勝負所だ。合格するために不正行為をするのに一番手っ取り早いのが採点する担当者を買収することだ。政府としてはそんなことが横行しては、科挙の権威が台無しになるので、懸命に不正防止策をする。まず、答案の受験生の名前を糊付けして隠してしまう。賄賂を受け取っている採点官がだれの答案かわからないようにした。受験者の名前を隠すだけでは足りない。受験者の筆跡でわかる。筆跡をわからなくするために受験者の提出した答案を別の役人たちが書き写す。書き写して筆跡がわからなくなったものを採点官がみる。ここまでやると、不正はできないと思うが、受験者が採点官に事前に答案の特徴を教えておく。どんな問題が出るかわからないので、「私の答案は二枚目の五行目の三文字目に「仁」という字を書きます。」というふうに教える。あらかじめ決めた場所に特定の文字をいれて、しかも筋の通った論文にしなければならないわけで、これをやるには相当の実力がいる。科挙はおおむね公正に行われていく。モンゴルが中国を支配した一時期をのぞいて王朝が変わってもずっと続けられ、20世紀1904年まで科挙は行われた。宋の時代には科挙官僚を出した家は「」とよばれ、特権を得た。徭役を免除された。この特権はその家から官僚がいなくなれば、なくなってしまう。家系そのものが高貴とされる貴族とは全く違うものだ。宋はこの科挙に象徴されるように文治主義の政治体制を作った。
唐の滅亡という大変化は当然、周辺の諸民族にも影響を与える。朝鮮半島では新羅が滅んで918年、高麗が成立した(918~1392)。建国者は王建。この王朝は文化面で高い成果を残している。まず金属活字を世界で初めて発明した。印刷にもコンピュータが普及している現在では活字というのは死語になりつつあるが、一つひとつの字のハンコを組み合わせてページを印刷する手法。のちにドイツでも発明されてこれが現在の印刷術につながる。一方、高麗で発明された金属活字はやがて消滅。漢字はヨーロッパの言語と違って字数が多く活字を揃えるのに莫大な費用がかかるため、高麗政府の援助がなくなると消えてしまった。高麗政府は高麗版大蔵経の出版にも力を入れた。大蔵経というのは中国に伝わっていたお経の全集と思ってもよい。すべてのお経を集めたものだ。非常に質が高くて日本の室町時代の守護大名たちが争って買い求めたりしている。この大蔵経の版木が今も残っていて、韓国では国宝である。高麗青磁という磁器も有名な文物だ。高麗は中国にならって科挙をおこなった。文官の試験と武官の試験のふたつがあったのでこれに合格した官僚を「両班(やんぱん)」といった。この両班は中国とは異なり特権階級化していく貴族になった。
現在の中国東北部にはいろいろな少数民族がいるが、かつて遼河という川の流域で半農半牧の生活を送っていた契丹族という部族がいた。唐の支配がゆるむにしたがって、政治的に自立、916年、契丹諸部族は統一し、遼(りょう)という国名で国を建てた。建国者は耶律阿保機(やりつあぼき)。耶律が姓にあたる氏族名で阿保機が名。遼は中国東北部から突厥帝国崩壊後のモンゴル高原を平定し、中国北方に大帝国を作り上げた。しばしば中国北辺に侵入。五代十国時代には中国の燕雲十六州という土地を獲得。燕雲十六州というのは現在の北京を中心とする地域だ。燕とか雲とかいうのは州の名前、十六の州があったのでまとめて燕雲十六州という。ここを遼が獲得した事情は、五代の二番目に後唐という王朝があり、これを倒したのが後晋、後晋の建国者が石敬塘(せきけいとう、注:「唐」のヘンは王が正しい。文字がでないので土ヘンで代用)。かれは後唐の節度使だったが、反乱をおこして後唐を滅ぼした。この時、石敬塘は軍事力が足りなかったので遼に援助を求めた。遼が軍事援助の見返りに求めたのが燕雲十六州だ。結局、石敬塘は遼の援助で後晋王朝を建て、燕雲十六州を遼に譲った。燕雲十六州は万里の長城の内側、つまり、中国の伝統的な領土で、住んでいるのも漢民族の農耕民だ。これ以後、宋の時代になっても燕雲十六州は遼の支配下となる。北方の民族が中国を支配することは五胡十六国時代以来あったが、それまでの北方民族はすべて中国の文化に同化していた。北魏がよい例で、孝文帝は漢化政策を実施した。五代の後唐の支配者も突厥系つまりトルコ人が中国文化に同化した人たちだ。後晋の石敬塘もやはりトルコ系だが、彼等自身がそのことを意識して行動していることはない。完全に中国化しているように見える。しかし遼の契丹族はそうではない。中国文化に同化することを極力避けようとする。民族の独自性を保とうとする。そのためには燕雲十六州の統治は慎重におこなう必要があった。下手をすると中国文化に感化されてしまい、同化してしまう。遼は「二重統治体制」という方法を採用した。燕雲十六州の支配制度を北方の自分たちの本拠地とは完全に切り離し、両者が混じり合わないようにした。遊牧民の世界には北面官という役所を置いて、各民族の部族制度を維持したまま統治。漢民族などの農耕民族には南面官という役所を置いて州県制によって支配した。このように民族文化の独自性を守る姿勢は文字制定という形でもあらわれる。契丹族は漢字を使うのを避け、わざわざ民族独自の文字を作った。これが契丹文字である。漢字の影響を強く受けている。日本でも同じ時期に「かな」が発明される。唐は国際色豊かな帝国で、周辺の諸民族に大きな影響を与えたが、唐の衰退後は周辺諸民族は民族意識に目覚めていったともいえる。
燕雲十六州は中国から見れば本来は自分たちの土地。宋は中国の統一をしたのち、燕雲十六州を取り返そうと、遼軍と対決するが勝てない。1004年には遼は宋の都開封近くまで攻め込み、宋は遼と和平条約を結ぶ。この和平条約が「セン淵(せんえん)の盟」といわれる。この条約で宋は遼に毎年絹20万匹,銀10万両を贈ること、宋を兄,遼を弟とすること、両国国境は現状維持と決められた。宋が兄で遼が弟なのだから、名目的には宋の方が偉いという形だが、兄の宋は弟の遼に毎年莫大なお小遣いをあげなければならない、国境現状維持ということは燕雲十六州を宋はあきらめるということだから、実質的には遼の勝利だ。これ以後宋と遼は基本的には平和が保たれた。
さて、もうひとつ10世紀末から力を伸ばしてきた民族にタングート族がいる。ティベット系の民族。かれらは牧畜農耕を中心の生活をしていたが、唐末から東西交易路を押さえ、勢力を増大する。中国から中央アジアに至るルート上に建国。かれらの建てた国が西夏(せいか)。建国者は李元昊(りげんこう)。中国風の名前だが、タングート族。別の民族名も持っていたと思われる。西夏は宋と長年に渡って戦争を続けた。貿易上の利害関係で争うが、最終的には1044年、両国の間に和義が成立。決められた西夏と宋の関係は、宋が君主で西夏が臣下の「宋君西夏臣」関係。遼との「宋兄遼弟」関係に比べれば宋が偉い。宋が西夏に対して年毎に金品を送ることは遼との場合と同じ。実質的には西夏に軍事力で勝つことをあきらめた宋がお金を払って国境地帯の平和を買った。この西夏のタングート族も独自の文化を発展させようと考えて西夏文字を制定。この文字も、やはり漢字をモデルにしている。非常に複雑な字形。現在すべて読めるわけではないが徐々に解読が進んでいる。こうして、宋は契丹族の遼にもタングート族の西夏にも軍事的には勝つことができず、金品を払って平和を維持するという外交政策をとった。もともと宋は文治主義を基本政策として、軍隊を強大化させないという方針だったから、当然の結果だ。宋は軍事的には弱体でも経済的には非常に繁栄していた。平和を金で買うということが出来た。
遼、西夏という隣国に対して宋はお金で平和を買うという政策をとった。長く続くと経済大国の宋でも苦しくなる。遼と西夏に支払う歳貢が宋政府の財政を圧迫する。政治改革をおこなって財政再建をすることが宋政府の課題となる。そこに登場したのが王安石、第六代皇帝神宗が抜擢して政治改革をゆだねた大臣だ。王安石は父も科挙官僚だったが、彼が19歳の時に死んでしまう。王安石は22歳で科挙に合格。4番の成績で合格したので中央政界でエリートコース出世街道を驀進することもできたが、一家の生活を支えるために実入りの大きい地方官の道を選ぶ。地方の実状を知る中で、政治の矛盾や不合理について考える。地方で実績をあげ評判になる。45歳で神宗に抜擢されて宰相になる。宰相というのは皇帝に全面的に政治を任される、今風にいえば総理大臣だ。王安石は新法という呼び名で有名になる政策を断行して、財政再建を図る。財政再建のために一番簡単な方法は増税だが、増税するだけでは一時的に財政難をしのげても長い目で見れば人民の生活は疲弊する。
王安石は貧しい人々の生活を豊かにすることを考える。景気がよくなり、貧困層が豊かになれば自然に税収は増えるという発想をする。王安石の新法は大きく分けて六つある。青苗法(せいびょうほう)、均輸法(きんゆほう)、市易法(しえきほう)、募役法(ぼえきほう)、保甲法(ほこうほう)、保馬法(ほばほう)。青苗法は政府が農民に低金利で金を貸す法律。大きな土地を持っていない限り自作農は、ぎりぎりの生活をしているものが多かった。自分の土地を持っていてもそれだけでは足りないものは地主・形勢戸から農地を借りている場合も多い。農民というのはサラリーマンと違って、決まった収入が毎月あるわけではない。米を作っているのなら、収穫は秋だけ。収穫をしたら早速政府に税を納め、土地を借りていたら小作料を地主に支払う。米を売ったお金で必要最小限の生活道具や農具を買わなければならない。最後に残った収穫物を翌年の秋まで食べつなぐ。これが翌年の収穫までもてばいいが、そうはいかない。不作の年であれば、食料用の米もすぐになくなってしまう。そうなると借金をして生計を立てなければいけない。農民が借金をする先は地主。この地主からの借金の利子が高い。借金生活にはまってしまうと抜けられない。秋の収穫のあと、税、小作料、それに借金と利子を払うと、もう自分の取り分がなくなる、また借金する。最後には借金が払えきれなくなって、わずかばかりの土地も売り払って隷農か浮浪者に転落する。自作農が没落すると課税対象者が減る。自作農を没落させず、働いて収穫あげて、しっかり納税してもらわないと困る。そこで、自作農救済策として政府が地主よりも低金利で農民に金を貸すことにした。低金利といっても20%から30%の利子だったというから、現在の目で見ればかなり高い。それだけ地主の利子が高かったということだ。
青苗法は新法の中でも成果を挙げたものの一つだ。均輸法は漢の武帝の時代におこなわれているが、それと同じと考えてよい。物価の安定と流通の円滑化のために政府が市場価格の安いときに物資を買い上げ、高い時期や他の地方に転売して、商人の中間利潤をできるだけ押さえようとしたものだ。物価が安く安定してくれれば貧しい民衆にはありがたいわけで、生活も楽になる。市易法は青苗法の都市版のようなもの。都市には零細商人が多数いる。彼等は豪商たちの買い占めや価格操作のために圧迫されていた。市易法とは政府が中小零細商人に低利で営業資金を貸し出すもの。募役法の税の納め方については、現在ならサラリーマンは給料を受け取るときに自動的に税金は引かれる。自営業の人なら確定申告とか自分で税務署へいって手続きをしなければならないが、農業社会ではどうか、中国のように広大な国ではどうなるか。一軒の農家に村全体の税を徴収して、しかもそれを県の役場まで運ぶ仕事が割り当てられる。これを職役といって、大変な仕事だ。職役が当たったら家がつぶれるといわれていた。とにかく金がかかる。租税を役場に運ぶといっても、田舎だったら役場まで何日もかかる場合もある。しかも米、小麦やその他の現物を村の分全部まとめて輸送するので、量は莫大だ。この輸送費用を職役に当たった農家が自己負担で運ばなければならない。おまけに輸送途中にいたんだり、目減りした分も、輸送担当の農民の負担になる。職役が当たったために、自分の土地を売って費用を捻出するということもしばしばあった。これでは自作農が没落してしまう。政府は決められた税額が納入されればそれでよい、そのために農民が没落してもそれは政府のあずかり知らぬことというのが基本的な態度。ただし、、官僚をだした家、これには職役が当たらない特権があった。王安石はこの職役の重さを解消するために、農家全体から免役銭を徴収して、その金で職役を担当する者を雇わせた。毎年、一軒の農家に重い負担をさせるのではなくて、広く薄く負担させた。これが募役法だ。保甲法と保馬法は、上の四つとは違って直接農民や商人を救済する政策ではない。軍事に関するもの。保甲法は農家を組織して自警団を作らせたもの。遼や西夏と接する地方では軍事訓練もおこなって軍事費の削減をめざした。保馬法はこういう農家に軍馬を飼育させたものだ。
王安石は宰相として新法をおこなっていくが、反対派の官僚も多くいた。もともと中国では王朝の創始者の定めた政治体制を改革することを良しとしない伝統的な考え方がある。大胆な改革は内容に関係なく嫌われる。王安石の新法に反対する官僚たちは旧法党と呼ばれる。旧法党の中心人物は司馬光(しばこう)。王安石は新法を実施するときに司馬光にも協力を要請するが断られる。司馬光は最後まで新法に反対しつづけた。新法を支持するグループを新法党という。やがて、王安石の後ろ盾だった神宗が死ぬと、宋の政界は新法党と旧法党の争いに明け暮れる。王安石の新法が継続して実施されつづけたら大きな成果を挙げたかもしれないが、王安石が宰相を退いたあとは旧法党と新法党が交互に政権を担当するようになり、そのたびに報復人事が繰り返される。よかれと思って始めた新法が、政策の動揺と国家体制の弱体化を招く。
旧法党はなぜ、王安石の新法に反対したのか。改革を伝統的に嫌うという理由以外に大きな原因があった。新法の政策を考えてみると、高利貸しでもうけている地主や、大商人の利益を押さえて、自作農や中小商人を保護するというところが要点で、これは、地主や大商人にはありがたくない政策だった。旧法党の人は大地主、大商人の利益を守る立場に立っていた。科挙に合格するような人たちは、家が大地主だったり、縁者が大きな商売をしていた。自分たちの不利益になるような政策に賛成するわけがない。王安石は個人的な利害よりも国家の利益を優先させて考えることができた政治家だった。宋が新法党、旧法党の争いで混乱しているとき、現在の中国東北地方で新たな民族の活動が活発化していた。遼の支配下にある沿海州から中国朝鮮国境あたりにかけて女真族という民族がいた。半猟半農生活の人たちだ。毛皮や砂金を遼に納めていたのだが、やがて完顏阿骨打(わんやんあくだ)が諸部族を統一して金という国号で建国(1115)。完顏は氏族名、阿骨打がファーストネーム。遼の国の東端でいきなり独立国ができた。
遼は軍隊を送って、金を潰しにかかるが、金の女真族が遼軍に勝って独立を確保する。遼は建国時の勢いをなくして軍隊は弱体化していた。宋から莫大な歳貢を贈られて軟弱になっていた。宋は北方で金という新興国が遼と戦っているのを知って考えた。金と同盟を結んで遼を南北から攻めて滅ぼすことができないかと、宋と金の軍事同盟が結ばれた。遼が滅亡したあとは、万里の長城以北は金、以南は宋の領土とするという条件だ。ようやく燕雲十六州が取り戻せる。金と宋による作戦が始まると遼は滅んでしまう(1125)。このときに金軍は瞬く間に長城以北を制圧するが、南を分担していた宋軍は弱かった。燕雲十六州に攻め込むが、遼の守る都市を攻め落とすことができない。長城以北はすっかり制圧されているのに燕雲十六州の遼軍だけが抵抗を続ける状態になる。金軍は長城までやってきて、様子を見守っている。長城以南は宋軍の担当だから。「宋よ、とっとと遼軍をやっつけよ」という感じ。とうとうたまりかねた金軍が燕雲十六州に進軍し遼の残存勢力を撃破して遼は滅んだ。
この時に遼の王族の一人耶律大石(やりつたいせき)が西方に逃れて、中央アジアで西遼(せいりょう、「カラ=キタイ」ともいう)という国を建国した。契丹族の勢力が中央アジアまで及んでいた。遼が滅んだ後、金と宋の共同作戦と言いながら、実際には宋は何もできなかった。事前の約束通りに長城以南燕雲十六州の領土を要求する。金にしてみれば、汗も流してもいないのに分け前だけは要求する宋の態度は許せない。金と宋のトラブルが始まる。宋は多額の金品と引き替えに北京方面の領有を金に認めさせるが、その約束を守らず、金品を払わない。怒った金が軍隊を出動させると、その場をごまかす、約束を反故にする。度重なる宋の同盟違反に対して、金は大軍を南下させ、都開封を攻め落とし、皇帝徽宗と息子の欽宗を捕虜にして長城の北に連れ去ってしまう。徽宗は金軍が攻めてくると責任逃れのために息子に位を譲る。このときの皇帝は欽宗。この事件を「靖康(せいこう)の変」という。1127年のこと。これで宋は滅亡してしまった。
金は中国の南部まで支配下におさめるだけの力はなかった。華北を支配するだけで精一杯だった。女真族自体はそれほど人口も多いとは思われないので、ここまでの急成長でずいぶんと背伸びをしていたに違いない。中国南部には、宋の皇族の一人が南宋を建国。靖康の変で滅んだ宋を北宋という。金は遼につづく征服王朝。中国統治についても遼の二重統治体制を引き継ぐ。遊牧民に対しては猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)制を適用する。各300戸で1謀克、10謀克で1猛安という軍事編成の組織をそのまま行政組織に利用した。猛安、謀克というのは女真語に漢字をあてたもの。漢民族など農耕民社会には州県制、科挙などを実施して遊牧民に対する統治とは分けてゆく。基本的に女真族は独自の民族文化の維持を心がけていて、女真文字を制定。また、女真族の男たちは前髪をそり落として後頭部の髪を伸ばして編むが、このヘアースタイルを金朝支配下の漢民族にも強制した。中国最後の王朝の清朝も女真族が建てた国であり、同じヘアースタイルを中国人に強制した。