murota 雑記ブログ

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紫式部日記、和泉式部日記から見えてきたこと。

2022年02月06日 | 通常メモ
 紫式部が中宮彰子に仕えた期間、その中の約一年半にわたる日記と消息文には、藤原道長邸の生活,彰子の出産,正月の節会など大小の見聞が,式部独特の鋭敏な感覚を通して記録されている。自他の人間を見すえてたじろぐことのなかった『源氏物語』の作者の複雑な内面生活をうかがい知る上で貴重な文献でもある。そのように松岡正剛氏は述べている。

 更に続けて、『紫式部日記』には、女房の批評や自分の心境などを消息体の文章で記録した「消息文」と呼ばれる部分がある。「はべり」を多用しているので、手紙のように人に語りかける形式になっている。その中で、紫式部が当代の三才女を批評する段がある。 和泉式部とは興をそそる手紙をやり取りし、ちょっとした言葉にも色艶がみえる人だと書きながらも、古歌の知識や歌の理論などは本当の歌人というほどではないとしている。 「口にいと歌のよまるるなめりとぞ見えたるすぢに侍るかし」とあるように、感情を素直に歌う歌風の和泉式部とは相容れない様子の紫式部がみえる。 彼女は伝統的な歌風を重んじていたのだろう。

 また、赤染衛門のことは一転して絶賛している。 歌人だからといって和歌を読みちらしたりはしないのだが、世に知られているものはみな、ちょっとした時の歌でもそれこそこちらが引け目を感じてしまうほどの詠みぶりだ、とある。 続いて赤染衛門とは対照的な人物の態度を批判する一般論に移る。当代随一の女流歌人であるがそれをひけらかさない赤染衛門のことは非常に高く評価していたようだ。そして清少納言については、前出の二人と比べてかなり辛辣な内容だ。「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人」と始まり、利口ぶって漢字を書きちらしているが、よく見るとその学力は不十分だとか、彼女のように人より優れているように振る舞いたがる人は将来は悪くなっていくばかりだとか、厳しい意見を述べている。 このくだりが書かれたのは、清少納言が宮廷を去ってから十年ほど後のこと、それなのに、このような勢いで清少納言を批判するのだから、紫式部は清少納言をとても意識していたと思われる。紫式部は「艶がりよしめく」のを好まない。だから漢学の才をひけらかす清少納言にも好意が持てない。

 また、他人のことを書いた後はその目を自分に向ける。夫の死後、残された漢籍を熱心に読んでいたら女房達に批判されたことが書いてある。女房達の「なでふ女が真名書は読む」という言葉からも、当時は女が漢籍を読むなど不似合いだという風潮だったことが伺える。紫式部自身も女房達の批判について「ことはたさもあり」と述べているので、やはりそのように考えていたと思われる。

 彼女は『源氏物語』の作者ということもあって、気位の高い風流ぶる人間だと周囲に思われていたようだが、女房達には「実際に会ってみると不思議なくらいおっとりしていて、別人のようだ」とも言われている。これには彼女の強かさを感じる。「はぢられたてまつる人にも、そばめたてられではべらまし」ともあるように、周囲からどのように思われるかをよく考えている。他人のことをよく観察して批評する彼女だからこそ、自分は気取った人間だと見られることを拒み、人々にはそのような印象を与えないように振舞ったのだろう。

 そんな紫式部を快く思わない者もいたようで、左衛門の内侍についての記述が出てくる。漢学の才を持ちながらも人前でそれをさらけ出すことはなかった紫式部だが、『源氏物語』を読んだ一条天皇に「紫式部は日本紀を読んだことがあるに違いない、まことに漢学の常識がある人だ」と賞賛される。それを左衛門の内侍には「ひどく利口ぶった人だ」と殿上人に言いふらされ、「日本紀の御局」とあだ名されてしまう。これについて紫式部は、「実におかしいことだ。私は実家の侍女の前でも学をひけらかしたりなどしないのに、宮中でそんなそぶりを見せるわけがない」と腹を立てた様子を見せる。和泉式部、赤染衛門、清少納言の三才女を批評した箇所もあったが、紫式部は当時これらの才媛と並ぶ才女であったことは明らかだ。

 次に和泉式部日記、この作品こそが日本文芸の反文学上の原点ともいえる。この日記が日記でありながら「記録」のためではなく、「歌」のためにのみ綴られたものであり、日記でありながら、「私は」というべきところを「女は」というように三人称で綴っている。歌が先にあり、あとから147首を偲んで並べ替え、それを編集した。反文学だというのは、歌から出て歌に出て、文から出て文に出て、歌でも文でもあるような偲びの世界をつくっている。「伊勢物語」は平安時代に成立した日本の歌物語、平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公としているが、主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つことでも知られる。これは男の歌を偲ぶのに対し、『和泉式部日記』は女の歌を偲ぶとはどういうものかということを知る実験のようでもある。たとえていうと、与謝野晶子が和泉式部であり、晶子でもある。晶子ばかりではない、樋口一葉も山川登美子も和泉式部のように見える。そうなると岡本かの子も瀬戸内寂聴も俵万智、そしてユーミンも中島みゆきも椎名林檎も、“その後の和泉式部”になるかもしれない。歌としてすでに与謝野鉄幹や吉井勇や萩原朔太郎、谷崎潤一郎や唐木順三も傾倒していった。それほど和泉式部の歌には才能がほとばしっている。鴨長明が『無名抄』で和泉式部と赤染衛門をくらべ、人柄はいささか劣るものの歌では、やはり和泉式部だと書いている。

 日本の歌というものは、いたずらに文学作品として鑑賞するものではない。そこを偲ぶものであり、その歌が「ひとつの世」にひそむ「夢うつつ」のあいだを通して贈答されているからだ。「ゆめ」(夢)から「うつつ」(現)へ、「うつつ」から「ゆめ」へ。そのあいだに歌が交わされる。贈り、返される。その贈答のどこかの一端に佇めるかどうかが、歌の読み方になる。そのような歌の読み方があることを、歌を下敷きして綴った和泉式部が擬似日記をもって教唆した、そういう文芸実験であり、歌を偲んで歌をめぐる物語を綴っている。かつての『伊勢物語』がそうであるように。

 なにしろ嫉妬深い紫式部が言う。「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉式部はけしからぬ方こそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない詞(ことば)の匂ひも見え侍るめり云々」。和泉式部は手紙などは趣き深く、走り書きなどには天性の才能を感じるが、品行がふしだら。歌もなかなかうまいけれど、古歌の知識や理論があるわけではなく、他人の歌の批評をさせるとたいしたことはない。口にまかせて即興するのが上手だということだけ、そう言っている。この紫式部の言を引っ張り、いまだに式部に難癖をつけようとする者もいる。世間が和泉式部の生き方に呆れるのは、その男遍歴にもよる。大半は誤解だが、世間というものはそのように型破りの女を批評する。当時すでに身持ちが悪い女という噂もたっていた。御伽草子には「浮かれ女」(遊女)ともしるされた。品行がふしだらというよりも、おそらくは男好きのする女であったという、まことしやかな見方も出回った。

 和泉式部は「御許丸」(おもとまる)とよばれた少女時代から、たしかに多感な娘であったようで、父の大江雅致が冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇皇女)に宮仕えをした頃には、父に伴い女房として昌子に仕え、すでにいくつかの浮名を流していた。男遍歴といっても、最初は結婚である。最初の結婚の相手は、その宮仕えのころに出会った橘道貞で、道貞がのちに和泉守となったので、結婚後に和泉式部とよばれた。二人の間には小式部が生まれた(のちに百人一首「大江山生野の道の遠ければ」に採られた歌を詠んでいる)。道貞は出世街道を進んでいた。道長にも気にいられるようになっていくが、その一方で、式部は夫が遠国によく出掛けて留守がちだったこともあって、道貞とはしだいに疎遠となり、別居同然の日々になっていく。昌子内親王が亡くなり、式部の心が乱れていたころ、新たな男、為尊親王が近づく。これが弾正宮。冷泉天皇の皇子。『大鏡』には幼少時より容姿がとりたてて「かがやく」ほど美しかったとある。この式部と弾正宮の仲のことは『栄華物語』にも出ていて、式部の浮気というより、「かろがろ」としていて「御夜歩き」が好きな弾正宮が積極的だった。蛍狩りの帰途に笹の枝に蛍をつけて贈るような公達だ。二人の噂は広まっていく。そのため弾正宮為尊の妻は悲しみのあまり出家した。ところが弾正宮は流行の病で26歳であっけなく死亡する。昌子の死、夫との離別、新たな恋人の死、これらがわずか1、2年のあいだに連打された。

 和泉式部はこうした自分にふりかかる人の世のはかなさと男女の浮き沈みに激しく動揺する。中世、これを「宿世」(すくせ)といった。式部に「はかなさ」をめぐる無常の美学が透徹し、日本文芸史上に最も「はかなさ」の言葉を多用している。それとともに男女のはかなさにも宿世を感じて心を揺らす。式部に男の接近と男との別離を暗示的に詠んだ歌が数多い。式部と親しかった赤染衛門もそういう式部の心の浮沈に同情し、いくつかの歌を贈っている。そこへ登場してきたのが敦道親王。弾正宮の弟で、やはり冷泉院の皇子、太宰師宮だったところから師宮(そちのみや)とよばれた。師宮はすでに二人以上の妻をもっていたが、正妻の関白道隆の三の姫は異常なふるまいをする。あどけないのか、どこか白痴的なのか、しばしば奇矯なことをする。来客があると急に御簾をまくって相手の顔を見たり、ふしだらな着付けをすることもあった。師宮はほとほと困っていた。そのころの式部はまさしく落花狼藉の風情だ。師宮はたちまち式部に夢中になった。おそらくは式部が6つくらいの年上だった。式部も師宮がたずねてくるのを待つ身となっていく。『和泉式部日記』は、この師宮との約10カ月におよぶ人を憚る恋愛を語った歌日記になっている。歌が先にあり、それをのちに偲んで綴ったものだ。擬態としての日記にしてみせた。

 なぜ日記にできたかといえば、師宮が突然に死んでしまったからだ。27歳の死であった。弾正宮につぐ師宮との死別。美貌の兄弟の唐突の死。式部はよほど離別や死別に見舞われる宿命の女性であった。式部は師宮のために1年にわたる喪に服し、その思い出を歌日記につくっていく。日記には載ってないが、師宮を慕う挽歌数十首はその構想といい、その複雑な構成といい、和泉式部畢生の最高傑作になっている。このような「人の世のはかなさ」だけが式部の歌や日記をつくった原因ではなかった。そこには、この時代特有の「王朝文化」というものがある。華麗で異様で洗練された「女房文化」というものがある。和泉式部は、赤染衛門・清少納言・紫式部・伊勢大輔についで藤原道長の後宮に出仕したれっきとした女房だ。彼女らと同じ世の「後宮文化」の中にいた女房だった。このことを理解するには、その時代背景を知る必要があり、特に天皇家の血筋と藤原道兼・道長のシナリオを知らなければならない。

 1001年、長保3年。一条天皇の時代にあたる。すべてはこの「一条の世」の文化がどのように用意されていったかということにかかわっている。このとき、花山天皇を欺いて「一条の世」を政略的に用意した摂政藤原兼家が死に、子の藤原道長が12歳の彰子を強引に入内させていた。和泉式部は27、8だった頃、あるいはもう少し若かったかもしれない。一条の世とは、日本の女流文芸が頂点に達した時期だが、そこには複雑な血筋の蛇行があった。まず劈頭に村上天皇がいた。醍醐天皇の皇子で、摂関をおかずに親政をしいた。これがいわゆる「天暦の治」にあたる。この村上天皇に二人の皇子がいて、その皇子の冷泉と円融が10世紀末に次々に天皇になった。このあと、天皇譜は冷泉系と円融系が代わる代わる立つことになり、冷泉・円融の後は、次が冷泉系の花山天皇、次が代わって円融系の一条天皇、さらに冷泉系に戻って三条天皇が立ち、そのあとは円融系の後一条天皇と後朱雀天皇になっていく。ここで冷泉系は地に堕ちる。藤原兼家と道長は、その円融系のほうの一条天皇の外戚。日本の天皇家には、天智系と天武系をはじめ、桓武・嵯峨時代の二所朝廷といい、この冷泉、円融系の対立といい、さらには日本を真二つに分断した南北朝といい、実は天皇家は千々に乱れてきていた。

 そのため、これをどちらに立って誰が支援するかというのが日本史の起伏をつくってきた。兼家、道長親子にもそのシナリオが強烈に発動した。それが藤原文化というもので、そこに後宮文化の血の本質が躍っていた。抜け目のない藤原一族は、不比等、仲麻呂の時代からルーレットには赤にも黒にもチップを置いてきた。兼家も娘の超子を冷泉天皇に、詮子を円融天皇のほうに入れて、両系の天秤をはかっている。結局、超子からは三条天皇が生まれたが、超子がはやく死んだため、冷泉家は伸び悩む。逆に詮子は一条を生んで、7歳で天皇に就かせた。兼家の摂関家の地位はここで不動のものとなる。このシナリオを完璧に仕上げていくのが藤原道長で、彰子を入内させて一条天皇の中宮とし、「一条の世」を望月のごとくに完成させた。道長政治の確立だ。それこそが日本の女流文芸を熱情させた。一方で、和泉式部は負の札を引いた冷泉天皇一族に仕えた一家に育っている。父も母も式部自身も、冷泉天皇の昌子内親王に仕え、夫の道貞もその太后大進に就いた。式部は冷泉系だった。その道貞が時代のなりゆきとはいえ、道長のほうに引かれていった。式部は夫に惹かれつつも、道長に従って自分のところから遠のいていくその運命のいたずらを儚んだ。

 和泉式部は冷泉系と円融系(一条)の交点にさしかかって、前半は冷泉に、後半は道長に呼ばれて、清少納言や紫式部にまじって女房となっていった女性だ。これは清少納言や紫式部の女房生活とはまったくちがう立場だった。心の血がゆらめいている。中心がない。しかし、式部は後宮文化を生き抜かなければならない。式部は師宮の喪に服したあと(寛弘5年10月)、召されて一条中宮彰子の女房となる。娘の小式部も一緒に出仕した。すでに中宮のもとには紫式部や伊勢大輔が古参のごとく待っていた。式部があれこれ揶揄されたのは当然だった。式部が“擬態としての歌日記”をつくれたのは、師宮が死んで後宮に入るまでの、ごくわずかなあいだだけだった。そのわずかな時間だけが式部の“文芸実験”にゆるされた時間だった。しかし、その実験こそ日本の文芸の反文学上の原点になった。反文学上という意味は、今日にいう文学の意義とはまったくちがってというほどの意味になる。省略も効かせ、主語を三人称にもした。それなら歌そのものだけでもよかったのに、そうもしなかった。すべてを削いだわけではなく、すべてを活かしたわけでもない。そこが和泉式部の実験だった。言葉が心であるような贈答の場面だけを浮上させた。『和泉式部日記』は歌を偲ぶことを本懐としていた。日記はそこで終わったが、式部はその後も波乱の人生を送る。ここからが、謡曲や和泉式部伝説にうたわれた“伝承の和泉式部”となっていく。

 (参照メモ) 世阿弥の『花伝書』(風姿花伝)

 こんな芸術論は世界でもめずらしく、ヨーロッパ人なら詩学とか詩法と名付けよう。なにしろ六百年前の書であり、アルベルティの『絵画論』ですら『花伝書』の二十五年あとになる。建築論や絵画論ならまだしも『花伝書』(風姿花伝)は人の動きと心の動きをしるした芸能論だ。証拠が残らないパフォーマンスの理論であり、しかもそこには楽譜のようなノーテーションやコレオグラフは入っていない。ただひたすら言葉を尽くして芸能の真髄と教えをのべている。ただの芸能論でもなく、観阿弥が到達した至芸の極致から人間を述べていて、人間の「格」や「位」の学習理論にもなっている。ここでも、そんなふうに松岡正剛氏は述べている。

 そして、この観阿弥の芸術論を世阿弥が記録して、省き、言葉を加えて、さらに磨きをかけている。世界史的にもめったにない達人の世界観でもあり、極上の人間観にもなっている。「達人」という言葉は『花伝書』の序にすでに用いられている言葉で、名人の上に達人がいた。観阿弥・世阿弥の父子は達人を意識した。本座に一忠がいた。これが名人で、観阿弥は一忠を追って達人になる。そして五十二歳で駿府で亡くなった。世阿弥には名人と達人のモデルがあったということになる。一忠が観阿弥の名人モデルで、観阿弥が世阿弥の達人モデルだ。生きた「型」だった。そのモデルを身体の記憶が失わないうちにまとめたものが『花伝書』だ。観阿弥が口述をし、世阿弥が編集したことになっている。きっと観阿弥が子の世阿弥に英才教育を施し、死期が近づく頃に、何度目かの口述をした、その後、世阿弥が何度も書き直した。
 
 実は『花伝書』は長らく知られていなかった。明治四十二年に安田善之助の所蔵の古伝書群が吉田東伍に預けられ、それが『世阿弥十六部集』の校刊となって耳目を驚かせた。それまでは数百年にわたってあまり知られていなかった。『花伝書』はそれぞれの能楽の家に口伝として記憶されたまま、半ばは【文字のない文化】の遺伝子として能楽史を生々流転していた。『花伝書』は現在では各伝本とも七章立てに構成されているが、その各章の末尾に秘密を守るべき【大事】のことが強調されている。「ただ子孫の庭訓を残すのみ」(問答)、「その風を受けて、道のため家のため、これを作する」(奥義)、あるいは「この条々こころざしの芸人よりほかは一見もを許すべからず」(花修)、「これを秘して伝ふ」(別紙口伝)といった念押しの言葉が見える。

 こうした秘密重視の思想の頂点にたつのが、別紙口伝の「秘すれば花、秘せねば花なるべからずとなり」。やたらに有名になってしまった言葉だが意味するところは深い。このあとにすぐ続いて「この分目を知ること、肝要の花なり」とあって、この分目{わけめ}をこそ観阿弥・世阿弥は重視した。このこと、すなわち「秘する花の分目」ということが、結局は『花伝書』全巻の思想の根本である。

 もともと『花伝書』は正式には『風姿花伝』といった。世阿弥の捩率{れいりつ}の効いた直筆「風姿華傳」の文字も残っている。『風姿花伝』とは、おそらく日本書籍史の名だたる書名のなかでも最も美しく、最も本来的な標題かもしれない。風姿はいわゆる#風体{ふうてい}のことであり、『花伝書』には風姿という言葉は見えないが、その本文にない言葉をあえて標題にした。「風姿の花伝」、あるいは「風姿が花伝」なのだ。風姿が花で、その花を伝えているのか、風姿そのものが花伝そのものなのか、そこは判然としない。世阿弥はよほどの才能をもっていたのだろう。観阿弥の言葉そのままではない。『花伝書』は現代語で読まないほうがいい。もともと古典はそうしたものだが、とくに『花伝書』にはろくな現代語訳がない。『花伝書』の言葉は当時そのままで受容したほうがいい。キーワードやキーコンセプトは、実にはっきりしている。第一に「花」、何をもって「花」となすか。この「花」を「時分」が分ける。分けて見えるのが「風体」だ。その風体は年齢によって気分や気色を変える。少年ならばすぐに「時分の花」が咲くものの、これは「真の花」ではない。そもそも能には「初心の花」というものがあり、この原型の体験ともいうべきものが最後まで動く。それを稽古(古{いにし}えを稽{かんが}えること)によって確認していくことが、『花伝書』の「伝」になる。

 第二のコンセプトは「物学」であろう。「ものまね」と読む。能は一から十まで物学なのだ。ただし、女になる、老人になる、物狂いになる、修羅になる、神になる、鬼になる。そのたびに物学の風情が変わる。それは仕立・振舞・気色・嗜み・出立{いでたち}、いろいろのファクターやフィルターによる。
 第三に、「幽玄」だ。この言葉は『花伝書』の冒頭からつかわれていて、観阿弥や世阿弥が女御や更衣や白拍子のたたずまいや童形を例に、優雅で品のある風姿や風情のことを幽玄とよんでいる。それは芸能の所作にあてはめた幽玄であって、むろんその奥には俊成や定家に発した「無心・有心{うしん}・幽玄」の余情{よせい }の心がはたらいている。その心の幽玄は『花伝書』の奥に見え隠れするもので、明示的には書かれていない。われわれが探し出すしかないもの。もし文章で知りたければ、世阿弥が晩年に綴った『花鏡』のほうが見えやすい。

 第四には、おそらく「嵩{かさ}」と「長{たけ}」がある。これは能楽独得の「位」の言葉であって、「嵩」はどっしりとした重みのある風情のことで、稽古を積んで齢を重ねるうちにその声や体に生まれてくる位{くらい}だ。これに対して「長」は、もともと生得的にそなわっている位の風情というもので、これがしばしば「幽玄の位」などともよばれる。けれども世阿弥は必ずしも生得的な「幽玄の位」ばかりを称揚しない。後天的ではあるが人生の風味とともにあらわれる才能を、あえて「闌{た}けたる位」とよんで、はなはだ重視した。『花鏡』にいわゆる「闌位{らんい}」にあたる。第五にやはり「秘する」や「秘する花」ということがある。すでにのべたように、これは「家」を伝えようとする者にしか分からないものだろう。しかし、何を秘するかということは、観世一族の家のみならず、能楽全体の命題でもあったはずで、その秘する演出の構造をわれわれは堪能する。

 こうして「花」「物学」「幽玄」「嵩」「位」を動かしながら、『花伝書』はしだいに「別紙口伝」のほうへ進んでいく。そして進むたび、「衆人愛嬌」「一座建立」「万曲一心」が掲げられ、その背後から「声の花」や「無上の花」が覗けるようになっている。それらが一挙に集中して撹拌されるのが「別紙口伝」の最終条になる。これが絶妙だ。この口伝は「花を知る」と「花を失ふ」を問題にする。そして「様{よう}」ということを明らかにする。問題は「様」なのだ。様子なのだ。しかしながらこのことがわかるには、「花」とは「おもしろき」「めづらしき」と同義であること、それを「人の望み、時によりて、取り出だす」ということを知らねばならない。そうでなければ、「花は見る人の心にめづらしきが花なり」というふうにはならない。そうであって初めて「花は心、種は態{わざ}」ということになる。

 ここで口伝はいよいよ、能には実は「似せぬ位」というものがあるという秘密事項にとりかかる。物学{ものまね}をしつづけることによって、もはや似せようとしなくともよい境地というものが生まれるという。そこでは「似せんと思ふ心なし」なのだ。かくて、しだいに「花を知る」と「花を失ふ」の境地がふたつながら蒼然と立ち上がってきて、『花伝書』の口伝は閉じられている。

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