朱子学は別名「宋学」といわれるように、漢民族の王朝であった「宋」が、野蛮な「金」や「元」に滅ぼされる過程で発生している。世界の中心たる「中華」という自負を持った中国、当時の「宋」にとっては、野蛮な「金」や「元」に滅ぼされることなど、漢民族のプライドが許さないが、現実に起こってしまった。その「宋」で誕生した朱子学は、現実を無視し、空理空論に走るものとなっていった。
朱子学思想には、政治への悪影響が三つある。一つは新しい事態への柔軟な対応ができない、その理由は、先祖の決めたルールを「祖法」として絶対化する。儒教では「孝」つまり「親に対する忠義」が何よりも優先する。子孫が新しい法を作るのは「孝」に反すると説く。二つ目は、日本人も意識していない朱子学の最大の欠点であるが、歴史を捏造してしまうことだ。過去の真実、実際に起こったことよりも理想を重視する朱子学においては、事実は無視され、「あるべき姿」が歴史として記録されてゆく。つまりウソの歴史が記述されてしまう。三つ目には、外国人を「夷」(えびす)、野蛮人と決めつけ、その文化を劣悪なものとして無視する。
日本においては、徳川幕府の鎖国政策は3代将軍家光がとったもので、創始者の徳川家康の決めたことではなかった。家康は外国との通商貿易を奨励し、ウイリアム・アダムズ(日本名・三浦あんじん)を顧問にして覇業を助けてきたというのが歴史の真実だ。ところが朱子学は「家康公ともあろう御方が、野蛮人の外国人を顧問にするはずがない」という「あるべき姿」に変えてしまう。すなわち外国との交易は廃止するという政策をとる。幕末においては、この朱子学思想が尊皇攘夷の精神的支柱となっていく。
幕末史とは「政権交代」史であり、最大の問題は「歴史認識」にある。2009年の流行語大賞は「政権交代」であったが、これは歴史的には新しい言葉だ。民主主義では、武力抗争ではなく、選挙という平和的な手段で政権を交代させることが可能となった。
ちなみに、中国や北朝鮮を見ると、政治は未だに共産党の一党独裁であり、政権交代という言葉を口にすることもできない。政権交代を叫ぶとそれは中国共産党打倒宣言になり、北朝鮮でも同じだが、それは犯罪であり、国家反逆罪で死刑に値する罪になる。現代ですら、そういう国がまだある。
幕末は江戸幕府の「一党独裁」の世の中だ。その中で「政権交代」を叫ぶことは「幕府を倒せ」ということになる。当時はもう一つの選択肢があった。すなわち幕府という党の他に、政権を担えるもう一つの党を復活させて、そこに政権を渡す、すなわち幕府が天皇に統治権を返還するという発想であり、それが大政奉還だった。幕末史とは、まさに「政権交代」史だった。
ところで当時の歴史認識は、どうか。維新の先覚者であり、吉田松陰の師でもあった佐久間象山や、勝海舟が幕末第一の見識を持つ人物と認めた横井小楠も暗殺され、犯人達は攘夷浪人だった。彼等自身は犯罪者だとは夢にも思っていない。それこそ彼等は正義の士であり、国賊を退治したと思っている。日本は建国以来ずっと、夷(野蛮人である外国人)を許さず、夷と貿易するなどありえないという認識だった。
彼等の歴史認識が誤っているのは当然だ。遣唐使の時代はさておいても、室町時代以降、日本は世界の多くの国と交易してきた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康もそうであった。家康はキリスト教こそ禁じたが、熱心な貿易推進論者であった。しかし、幕末期において、家康公が貿易推進論者であったと発言する武士や公家は出なかった。正確な歴史認識を持つ幕府閣僚がいなかった。
平安貴族は「日本書紀」や「大鏡」を通じて国の歴史を知っていた。鎌倉時代の知識階級は「吾妻鏡」を、室町時代は「愚管抄」や「神皇正統記」「太平記」を通じて知ることができた。起こった事実はきちんと書いている。足利尊氏が後醍醐天皇の政権を奪ったことも正確に書いている。ところが、江戸時代には、正確な歴史記録がなされていない。朱子学思想が歴史を捏造、改竄している。「家康公が開国論者だった」という正確な歴史を主張できなかった。
また、江戸幕府という政府は経済的にも大きな過ちを犯している。その一つが農業からの税収に頼り過ぎ、商工業や貿易からの税収を悪とみなし、それを拡大発展させようとしなかった。また、通貨(小判、一部銀、銅銭等)の発行権を持つのに、米本位制をとり、銭本位制に転換しなかった。武士の給料(俸禄)は銭でなく米で支払っている。米は通貨ではない。実体経済は銭本位制で動いており、商品として米を売り、銭に換える必要があった。米は商品だから不足すると価格が上り、物価全体を押し上げる。米価を下げれば良いのだが、米で給料を受け取っている武士にとっては、賃金がカットされると同じことになる。凶作の時は米の流通量が減り米価が上るはずだから、その時を待って売ればよいが、「武士が商売するなどとんでもない」という教えだ。こんな時は国民が飢えないように幕府が米を供出する。経済的には米価を下げることになり、武士の賃金カットになる。更に、幕府は不足財源の補填のために貨幣改鋳もする。これは通貨の発行量を増やすので、インフレとなり、給料が固定されている武士階級は更に困窮する。明らかに幕府の経済政策の失敗だった。
朱子学では、お上のやることに間違いはなく、商行為は悪だという。武士が苦しむのは、商人どもが徒党を組んで経済を支配しているからだと責任転嫁する。そして、流通を仕切っている株仲間を解散させ、武士の俸禄である米を銭に換えてくれる札差も解散させられた。「株仲間解散令」によって、札差の株仲間も解散させられ、誰もが札差業に参加できるようになったが、札差たちも、旗本、御家人に対して、これ以上金を貸すのを避けようと、やんわりと断るようになる。現代でいう「貸し渋り」だ。更に多額の借金を抱えた武家からは「貸しはがし」もする。武家たちは米の現金化に窮する。ついには水野忠邦の天保の改革も破綻し、その10年後にはこの解散令を撤回、これを発令したのが「株仲間再興令」であり、発令者は、水野忠邦の失脚後に南町奉行になっていた遠山金四郎景元(遠山の金さん)だった。
天保の改革というのは、実はほとんど失敗に終わったものであり、人返し令も株仲間の解散も、江戸や大阪の周囲に散在する大名領、旗本領を幕府の直轄地にしようとした上知令(あげちれい)も失敗していた。天保の改革という歴史記録は、江戸時代の御用歴史学者が三大改革の一つとして書いたもので、後世の歴史家もこれに習ったとしかいいようがない。江戸時代の歴史を書いた人は、松平定信のような名門に育った朱子学原理主義者だった。故に商売に走る田沼意次は極悪人となり、松平定信は名宰相ということになる。商業や貿易を盛んにしようとした田沼意次の政策を堕落ととらえた松平定信のとった寛政の改革は実は政策的に大失敗だったのだ。改革と呼ぶべき田村政治を改革と呼ばず、結果において幕府を滅亡へと向けていった反動政治を寛政の改革と呼んだのは歴史の錯覚という以外にない。一方で、江戸から遠く離れた薩摩や長州で、行政改革と商業の発展、海外貿易等を進め、幕府側の改革とは別に西洋からの先進技術を取り入れて発展していったのは歴史の皮肉だろうか。
朱子学思想には、政治への悪影響が三つある。一つは新しい事態への柔軟な対応ができない、その理由は、先祖の決めたルールを「祖法」として絶対化する。儒教では「孝」つまり「親に対する忠義」が何よりも優先する。子孫が新しい法を作るのは「孝」に反すると説く。二つ目は、日本人も意識していない朱子学の最大の欠点であるが、歴史を捏造してしまうことだ。過去の真実、実際に起こったことよりも理想を重視する朱子学においては、事実は無視され、「あるべき姿」が歴史として記録されてゆく。つまりウソの歴史が記述されてしまう。三つ目には、外国人を「夷」(えびす)、野蛮人と決めつけ、その文化を劣悪なものとして無視する。
日本においては、徳川幕府の鎖国政策は3代将軍家光がとったもので、創始者の徳川家康の決めたことではなかった。家康は外国との通商貿易を奨励し、ウイリアム・アダムズ(日本名・三浦あんじん)を顧問にして覇業を助けてきたというのが歴史の真実だ。ところが朱子学は「家康公ともあろう御方が、野蛮人の外国人を顧問にするはずがない」という「あるべき姿」に変えてしまう。すなわち外国との交易は廃止するという政策をとる。幕末においては、この朱子学思想が尊皇攘夷の精神的支柱となっていく。
幕末史とは「政権交代」史であり、最大の問題は「歴史認識」にある。2009年の流行語大賞は「政権交代」であったが、これは歴史的には新しい言葉だ。民主主義では、武力抗争ではなく、選挙という平和的な手段で政権を交代させることが可能となった。
ちなみに、中国や北朝鮮を見ると、政治は未だに共産党の一党独裁であり、政権交代という言葉を口にすることもできない。政権交代を叫ぶとそれは中国共産党打倒宣言になり、北朝鮮でも同じだが、それは犯罪であり、国家反逆罪で死刑に値する罪になる。現代ですら、そういう国がまだある。
幕末は江戸幕府の「一党独裁」の世の中だ。その中で「政権交代」を叫ぶことは「幕府を倒せ」ということになる。当時はもう一つの選択肢があった。すなわち幕府という党の他に、政権を担えるもう一つの党を復活させて、そこに政権を渡す、すなわち幕府が天皇に統治権を返還するという発想であり、それが大政奉還だった。幕末史とは、まさに「政権交代」史だった。
ところで当時の歴史認識は、どうか。維新の先覚者であり、吉田松陰の師でもあった佐久間象山や、勝海舟が幕末第一の見識を持つ人物と認めた横井小楠も暗殺され、犯人達は攘夷浪人だった。彼等自身は犯罪者だとは夢にも思っていない。それこそ彼等は正義の士であり、国賊を退治したと思っている。日本は建国以来ずっと、夷(野蛮人である外国人)を許さず、夷と貿易するなどありえないという認識だった。
彼等の歴史認識が誤っているのは当然だ。遣唐使の時代はさておいても、室町時代以降、日本は世界の多くの国と交易してきた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康もそうであった。家康はキリスト教こそ禁じたが、熱心な貿易推進論者であった。しかし、幕末期において、家康公が貿易推進論者であったと発言する武士や公家は出なかった。正確な歴史認識を持つ幕府閣僚がいなかった。
平安貴族は「日本書紀」や「大鏡」を通じて国の歴史を知っていた。鎌倉時代の知識階級は「吾妻鏡」を、室町時代は「愚管抄」や「神皇正統記」「太平記」を通じて知ることができた。起こった事実はきちんと書いている。足利尊氏が後醍醐天皇の政権を奪ったことも正確に書いている。ところが、江戸時代には、正確な歴史記録がなされていない。朱子学思想が歴史を捏造、改竄している。「家康公が開国論者だった」という正確な歴史を主張できなかった。
また、江戸幕府という政府は経済的にも大きな過ちを犯している。その一つが農業からの税収に頼り過ぎ、商工業や貿易からの税収を悪とみなし、それを拡大発展させようとしなかった。また、通貨(小判、一部銀、銅銭等)の発行権を持つのに、米本位制をとり、銭本位制に転換しなかった。武士の給料(俸禄)は銭でなく米で支払っている。米は通貨ではない。実体経済は銭本位制で動いており、商品として米を売り、銭に換える必要があった。米は商品だから不足すると価格が上り、物価全体を押し上げる。米価を下げれば良いのだが、米で給料を受け取っている武士にとっては、賃金がカットされると同じことになる。凶作の時は米の流通量が減り米価が上るはずだから、その時を待って売ればよいが、「武士が商売するなどとんでもない」という教えだ。こんな時は国民が飢えないように幕府が米を供出する。経済的には米価を下げることになり、武士の賃金カットになる。更に、幕府は不足財源の補填のために貨幣改鋳もする。これは通貨の発行量を増やすので、インフレとなり、給料が固定されている武士階級は更に困窮する。明らかに幕府の経済政策の失敗だった。
朱子学では、お上のやることに間違いはなく、商行為は悪だという。武士が苦しむのは、商人どもが徒党を組んで経済を支配しているからだと責任転嫁する。そして、流通を仕切っている株仲間を解散させ、武士の俸禄である米を銭に換えてくれる札差も解散させられた。「株仲間解散令」によって、札差の株仲間も解散させられ、誰もが札差業に参加できるようになったが、札差たちも、旗本、御家人に対して、これ以上金を貸すのを避けようと、やんわりと断るようになる。現代でいう「貸し渋り」だ。更に多額の借金を抱えた武家からは「貸しはがし」もする。武家たちは米の現金化に窮する。ついには水野忠邦の天保の改革も破綻し、その10年後にはこの解散令を撤回、これを発令したのが「株仲間再興令」であり、発令者は、水野忠邦の失脚後に南町奉行になっていた遠山金四郎景元(遠山の金さん)だった。
天保の改革というのは、実はほとんど失敗に終わったものであり、人返し令も株仲間の解散も、江戸や大阪の周囲に散在する大名領、旗本領を幕府の直轄地にしようとした上知令(あげちれい)も失敗していた。天保の改革という歴史記録は、江戸時代の御用歴史学者が三大改革の一つとして書いたもので、後世の歴史家もこれに習ったとしかいいようがない。江戸時代の歴史を書いた人は、松平定信のような名門に育った朱子学原理主義者だった。故に商売に走る田沼意次は極悪人となり、松平定信は名宰相ということになる。商業や貿易を盛んにしようとした田沼意次の政策を堕落ととらえた松平定信のとった寛政の改革は実は政策的に大失敗だったのだ。改革と呼ぶべき田村政治を改革と呼ばず、結果において幕府を滅亡へと向けていった反動政治を寛政の改革と呼んだのは歴史の錯覚という以外にない。一方で、江戸から遠く離れた薩摩や長州で、行政改革と商業の発展、海外貿易等を進め、幕府側の改革とは別に西洋からの先進技術を取り入れて発展していったのは歴史の皮肉だろうか。