「中臣鎌足(なかとみのかまたり・藤原氏の祖)」以降の数百年間、謀略によって次々と敵を倒し、家系の権力を強大なものにしてゆく最後の謀略が「安和の変」であった。それ以降は他氏の排斥は行わず、藤原氏内部の抗争が中心となっていった。そこに至る経過をたどってみたい。「承平・天慶の乱」も終結し、世の中の乱れが何となく収まってきた946年、「朱雀天皇(すざくてんのう)」は満22歳の誕生日を目前にして突然、3歳年下の実の弟「成明親王(なりあきらしんのう)」に皇位を譲り、「村上天皇(むらかみてんのう)」として即位。「朱雀天皇」の時代は「富士山の噴火」「大地震」「洪水」などの天変地異が全国で頻繁に起こり、とどめとして「承平・天慶の乱」が起こっている。
村上天皇の時代の最初の3年ほどは「関白」である藤原忠平(ふじわらのただひら)が実権を握っていたが、藤原忠平の死後は村上天皇は関白を置かず自ら政治を行い、父である醍醐天皇と同じく「天皇親政」を行った。醍醐天皇と村上天皇の時代は「天皇政治の理想」、その時の年号を取って「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」といわれる。村上天皇は皇后「藤原安子(ふじわらのあんし)」が産んだ皇子「憲平親王(のりひらしんのう)」を生後2ヶ月で皇太子に任命(950年)している。村上天皇は「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」の編纂を命じたり、超豪華な歌会、「天徳内裏歌合わせ(てんとくだいりうたあわせ)」を開催させたりなど、文化事業に重点を置く政治を行った。有名な清少納言の「枕草子」では「村上天皇の様な政治が理想の政治」と絶賛している。
「天徳内裏歌合わせ」とは960年3月30日に行われた「歌会」の名前で、その内容は村上天皇が宮廷の女官を2チームに分け、両チームがそれぞれ20首の短歌を用意し、その歌に合った服飾・美術品・お香などを約1ヶ月かけて入念に下準備させて合計40首の短歌を丸1日詠み合うという豪華絢爛、そして気合いの入った歌会だった。村上天皇は人並み優れた政治能力を持った上に音楽や文芸の方面にも造詣が深い。967年、村上天皇は満42歳の誕生日を迎える前に死んでしまい、次の天皇には当然、皇太子である「憲平親王」が選ばれ、「冷泉天皇(れいぜいてんのう)」が即位(967年)し、歴史の歯車は「安和の変」へ向けて回り始める。冷泉天皇は生まれつき病弱で少し精神的な病気の症状も見られ、また年齢も17歳と若かったので父親の「村上天皇」の時代の約18年間途絶えていた「関白」の位を復活させ、「藤原実頼(ふじわらのさねより)」を任命する(967年)。 「藤原実頼」は藤原北家の当主で「関白」ではあるが、天皇家の人間とは親戚関係が薄く、弟の「藤原師輔(ふじわらのもろすけ)」の方が天皇家との親戚関係が濃くなり、実権は関白の「藤原実頼」ではなく「藤原師輔」やその子供達にあった。「藤原実頼」は自分の日記の中で「師輔の長男『藤原伊尹(ふじわらのこれただ)』を中心とする外戚不善の輩が冷泉天皇の精神病をいいことに自分たちの昇進を勝手に決めていて、それを止める事が出来ない私のような名前だけの関白はさっさと辞めてしまった方がいい」と言う内容の事を書いているので、当時の「藤原実頼」は実権の無い「名前だけの関白」だったようだ。
冷泉天皇が病弱で若い、つまり冷泉天皇が即位してスグ病気で死んでしまうかもしれず、また冷泉天皇には967年の時点で子供は生まれておらず、皇太子となるべき皇子もいなかった。「冷泉天皇」の跡継ぎは「皇太子」でなく「皇太弟(こうたいてい・天皇の弟で天皇の跡継ぎ)」ということになり、冷泉天皇の同母弟の「為平親王(ためひらしんのう)」と「守平親王(もりひらしんのう)」が候補者だが、候補者を議論するまでもなく、「為平親王」は「守平親王」より7歳年上の兄で、しかも母親は2人とも同じ「藤原安子」、順番で行けば「為平親王」が「皇太弟」に選ばれるのは確実で、臣下の者達も「為平親王」と思っていた。しかし皇太弟に選ばれたのは、弟の「守平親王」だった。これこそが藤原氏最後の陰謀つまり「安和の変」の始まりだった。
年長者であるはずの「為平親王」が皇太弟から外された理由、それは「為平親王の結婚相手」にあった。「為平親王」には奥さんが1人いて、その女性は当時「左大臣」だった「源高明(みなもとのたかあきら)」の娘だった。「源高明」は「藤原安子」の妹を奥さんにしていることから「カリスマ的天皇」の「村上天皇」との関係はかなり緊密だった。つまり「為平親王」を「皇太弟」にしてしまうと近い将来彼が「天皇」になった時、義理の父親である「源高明」が実権を握る事が確実で、藤原氏にとってはかなり都合の悪い事になり、これを未然に防ぐために当時「右大臣」だった「藤原師尹(ふじわらのもろただ)」は「為平親王」でなく「守平親王」を皇太弟に選ばせた。「村上天皇」や「藤原安子」は既に死んでしまっており、有力な後ろ盾を無くした源高明は言うなれば「はみご」の状態となってしまい、結局「藤原氏」のいいようにされてしまった。しかし、「源高明」は左大臣だ。ここから藤原氏の追撃が始まる。皇太弟の騒動から2年ほど経った969年3月25日、左馬助(さまのすけ)「源満仲(みなもとのみつなか・『源経基』の息子)」が「密告状」を持って右大臣「藤原師尹」を訪れる。その密告状にはなんと「『橘繁延(たちばなのしげのぶ)』らが皇太弟『守平親王』の皇太弟の地位を奪い、『為平親王』を新たに皇太弟にしようとしている。」との内容が書かれていた。この密告に朝廷は「承平・天慶の乱」以来の大混乱となり、大慌てした右大臣「藤原師尹」は宮廷の守りを固める一方、「橘繁延」を捕らえて厳しく取り調べを行う。橘繁延は仲間として「藤原千晴(ふじわらのちはる)」らの名を白状し、藤原師尹は即座に彼らも捕らえた。
しかし、そんな簡単に収まるものではなかった。この事件の黒幕が左大臣「源高明」だと言うことになってしまう。「源高明」が自分の娘の旦那である「為平親王」を新たに「皇太弟」にしてしまおうと計画しているということになる。これを知った当の本人の源高明は大変驚き、密告翌日の26日、「出家して坊さんになるから都に居させて」と朝廷にお願いするが許されず、源高明は左大臣から「大宰権帥(だざいごんのそち)」に降格されて北九州の「大宰府(だざいふ)」へ左遷され、「藤原千晴」らも島流しにされる。「大宰権帥」とは北九州の警備を担当する役所の「大宰府」の長官だが、本当の長官は「帥(そち)」と言う。「権帥(ごんのそち)」は左遷のために設けられた役職で、仕事はなく、いわば窓際族。その昔、菅原道真も大宰権帥に降格されて大宰府に左遷されている。空席となった「左大臣」の位には右大臣「藤原師尹」が昇格して就任、謀反を密告した「源満仲」は藤原氏に急速に接近する。
969年8月、「冷泉天皇」は即位わずか2年で病気を理由に天皇の位を当時10歳の皇太弟「守平親王」に譲り、「円融天皇(えんゆうてんのう)」が即位、「摂政(せっしょう)」には「藤原実頼」が就任し、以後「摂政」「関白」を常に設置する。この「安和の変」以後、藤原氏が警戒するような有力貴族は登場しなかったので、藤原氏は他氏の排斥を行っておらず、逆に藤原氏同士の権力争いが中心となっていく。
「安和の変」は藤原氏が他氏を排斥する最後の陰謀だが、そこには一人の人物が一枚噛んでいる。その人物とは「源満仲(みなもとのみつなか)」、謀反を密告した人だが、彼はどうして「橘繁延(たちばなのしげのぶ)達が為平親王を皇太弟にさせようと計画している」などと言ったのか。藤原氏がターゲットにしたのは「源高明(みなもとのたかあきら)」だったはず。「橘繁延」の名前を出さずにいきなり「源高明が」と言わせた方が簡単で良かったはず。「橘繁延」の位は「従五位下」、藤原氏にとっては取るに足らない下の貴族、島流しにしたところで藤原氏には何のメリットも無く、同じく島流しにされた「藤原千晴(ふじわらのちはる)」の位は「従六位上」だった。藤原氏のライバルと言えば左大臣の「源高明」くらいしかいない。裏事情になるが、「源満仲」は「承平・天慶の乱」で活躍した「源経基(みなもとのつねもと)」の息子、当時は「従六位下」の下級貴族。一方、「橘繁延」は「従五位下」、「藤原千晴」は「従六位上」で下級貴族と言う点では「源満仲」と同じ。「橘繁延」は名門「橘氏」の出身で昔から藤原氏とはライバル。橘繁延の先祖たちも藤原氏の謀略で罠にかけられ続けてきた。下級貴族であっても名門「橘氏」であり、藤原氏にとっては徹底的に叩き潰したい一族だ。一方の「藤原千晴」は「平将門(たいらのまさかど)」が起こした「承平の乱(じょうへいのらん)」を鎮圧した立て役者「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」の息子で、「承平・天慶の乱」で活躍した「源経基」の息子「源満仲」とは似たような立場にあり、いわばライバルの関係。しかも「藤原千晴」の主人は「源高明」で彼の力をバックに着々と勢力を伸ばしつつあった。利害関係が一致する「藤原師尹」&「源満仲」が手を結び、「橘繁延」と「藤原千晴」を謀反の実行者として叩き潰すことで「源満仲」のライバルを消し、謀反の黒幕を左大臣「源高明」として彼を左遷させることで「藤原師尹」が右大臣から昇格できるという、藤原氏最後の陰謀であった。これが、後には、武士団「清和源氏」の基礎を作っていくことになる。
村上天皇の時代の最初の3年ほどは「関白」である藤原忠平(ふじわらのただひら)が実権を握っていたが、藤原忠平の死後は村上天皇は関白を置かず自ら政治を行い、父である醍醐天皇と同じく「天皇親政」を行った。醍醐天皇と村上天皇の時代は「天皇政治の理想」、その時の年号を取って「延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)」といわれる。村上天皇は皇后「藤原安子(ふじわらのあんし)」が産んだ皇子「憲平親王(のりひらしんのう)」を生後2ヶ月で皇太子に任命(950年)している。村上天皇は「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」の編纂を命じたり、超豪華な歌会、「天徳内裏歌合わせ(てんとくだいりうたあわせ)」を開催させたりなど、文化事業に重点を置く政治を行った。有名な清少納言の「枕草子」では「村上天皇の様な政治が理想の政治」と絶賛している。
「天徳内裏歌合わせ」とは960年3月30日に行われた「歌会」の名前で、その内容は村上天皇が宮廷の女官を2チームに分け、両チームがそれぞれ20首の短歌を用意し、その歌に合った服飾・美術品・お香などを約1ヶ月かけて入念に下準備させて合計40首の短歌を丸1日詠み合うという豪華絢爛、そして気合いの入った歌会だった。村上天皇は人並み優れた政治能力を持った上に音楽や文芸の方面にも造詣が深い。967年、村上天皇は満42歳の誕生日を迎える前に死んでしまい、次の天皇には当然、皇太子である「憲平親王」が選ばれ、「冷泉天皇(れいぜいてんのう)」が即位(967年)し、歴史の歯車は「安和の変」へ向けて回り始める。冷泉天皇は生まれつき病弱で少し精神的な病気の症状も見られ、また年齢も17歳と若かったので父親の「村上天皇」の時代の約18年間途絶えていた「関白」の位を復活させ、「藤原実頼(ふじわらのさねより)」を任命する(967年)。 「藤原実頼」は藤原北家の当主で「関白」ではあるが、天皇家の人間とは親戚関係が薄く、弟の「藤原師輔(ふじわらのもろすけ)」の方が天皇家との親戚関係が濃くなり、実権は関白の「藤原実頼」ではなく「藤原師輔」やその子供達にあった。「藤原実頼」は自分の日記の中で「師輔の長男『藤原伊尹(ふじわらのこれただ)』を中心とする外戚不善の輩が冷泉天皇の精神病をいいことに自分たちの昇進を勝手に決めていて、それを止める事が出来ない私のような名前だけの関白はさっさと辞めてしまった方がいい」と言う内容の事を書いているので、当時の「藤原実頼」は実権の無い「名前だけの関白」だったようだ。
冷泉天皇が病弱で若い、つまり冷泉天皇が即位してスグ病気で死んでしまうかもしれず、また冷泉天皇には967年の時点で子供は生まれておらず、皇太子となるべき皇子もいなかった。「冷泉天皇」の跡継ぎは「皇太子」でなく「皇太弟(こうたいてい・天皇の弟で天皇の跡継ぎ)」ということになり、冷泉天皇の同母弟の「為平親王(ためひらしんのう)」と「守平親王(もりひらしんのう)」が候補者だが、候補者を議論するまでもなく、「為平親王」は「守平親王」より7歳年上の兄で、しかも母親は2人とも同じ「藤原安子」、順番で行けば「為平親王」が「皇太弟」に選ばれるのは確実で、臣下の者達も「為平親王」と思っていた。しかし皇太弟に選ばれたのは、弟の「守平親王」だった。これこそが藤原氏最後の陰謀つまり「安和の変」の始まりだった。
年長者であるはずの「為平親王」が皇太弟から外された理由、それは「為平親王の結婚相手」にあった。「為平親王」には奥さんが1人いて、その女性は当時「左大臣」だった「源高明(みなもとのたかあきら)」の娘だった。「源高明」は「藤原安子」の妹を奥さんにしていることから「カリスマ的天皇」の「村上天皇」との関係はかなり緊密だった。つまり「為平親王」を「皇太弟」にしてしまうと近い将来彼が「天皇」になった時、義理の父親である「源高明」が実権を握る事が確実で、藤原氏にとってはかなり都合の悪い事になり、これを未然に防ぐために当時「右大臣」だった「藤原師尹(ふじわらのもろただ)」は「為平親王」でなく「守平親王」を皇太弟に選ばせた。「村上天皇」や「藤原安子」は既に死んでしまっており、有力な後ろ盾を無くした源高明は言うなれば「はみご」の状態となってしまい、結局「藤原氏」のいいようにされてしまった。しかし、「源高明」は左大臣だ。ここから藤原氏の追撃が始まる。皇太弟の騒動から2年ほど経った969年3月25日、左馬助(さまのすけ)「源満仲(みなもとのみつなか・『源経基』の息子)」が「密告状」を持って右大臣「藤原師尹」を訪れる。その密告状にはなんと「『橘繁延(たちばなのしげのぶ)』らが皇太弟『守平親王』の皇太弟の地位を奪い、『為平親王』を新たに皇太弟にしようとしている。」との内容が書かれていた。この密告に朝廷は「承平・天慶の乱」以来の大混乱となり、大慌てした右大臣「藤原師尹」は宮廷の守りを固める一方、「橘繁延」を捕らえて厳しく取り調べを行う。橘繁延は仲間として「藤原千晴(ふじわらのちはる)」らの名を白状し、藤原師尹は即座に彼らも捕らえた。
しかし、そんな簡単に収まるものではなかった。この事件の黒幕が左大臣「源高明」だと言うことになってしまう。「源高明」が自分の娘の旦那である「為平親王」を新たに「皇太弟」にしてしまおうと計画しているということになる。これを知った当の本人の源高明は大変驚き、密告翌日の26日、「出家して坊さんになるから都に居させて」と朝廷にお願いするが許されず、源高明は左大臣から「大宰権帥(だざいごんのそち)」に降格されて北九州の「大宰府(だざいふ)」へ左遷され、「藤原千晴」らも島流しにされる。「大宰権帥」とは北九州の警備を担当する役所の「大宰府」の長官だが、本当の長官は「帥(そち)」と言う。「権帥(ごんのそち)」は左遷のために設けられた役職で、仕事はなく、いわば窓際族。その昔、菅原道真も大宰権帥に降格されて大宰府に左遷されている。空席となった「左大臣」の位には右大臣「藤原師尹」が昇格して就任、謀反を密告した「源満仲」は藤原氏に急速に接近する。
969年8月、「冷泉天皇」は即位わずか2年で病気を理由に天皇の位を当時10歳の皇太弟「守平親王」に譲り、「円融天皇(えんゆうてんのう)」が即位、「摂政(せっしょう)」には「藤原実頼」が就任し、以後「摂政」「関白」を常に設置する。この「安和の変」以後、藤原氏が警戒するような有力貴族は登場しなかったので、藤原氏は他氏の排斥を行っておらず、逆に藤原氏同士の権力争いが中心となっていく。
「安和の変」は藤原氏が他氏を排斥する最後の陰謀だが、そこには一人の人物が一枚噛んでいる。その人物とは「源満仲(みなもとのみつなか)」、謀反を密告した人だが、彼はどうして「橘繁延(たちばなのしげのぶ)達が為平親王を皇太弟にさせようと計画している」などと言ったのか。藤原氏がターゲットにしたのは「源高明(みなもとのたかあきら)」だったはず。「橘繁延」の名前を出さずにいきなり「源高明が」と言わせた方が簡単で良かったはず。「橘繁延」の位は「従五位下」、藤原氏にとっては取るに足らない下の貴族、島流しにしたところで藤原氏には何のメリットも無く、同じく島流しにされた「藤原千晴(ふじわらのちはる)」の位は「従六位上」だった。藤原氏のライバルと言えば左大臣の「源高明」くらいしかいない。裏事情になるが、「源満仲」は「承平・天慶の乱」で活躍した「源経基(みなもとのつねもと)」の息子、当時は「従六位下」の下級貴族。一方、「橘繁延」は「従五位下」、「藤原千晴」は「従六位上」で下級貴族と言う点では「源満仲」と同じ。「橘繁延」は名門「橘氏」の出身で昔から藤原氏とはライバル。橘繁延の先祖たちも藤原氏の謀略で罠にかけられ続けてきた。下級貴族であっても名門「橘氏」であり、藤原氏にとっては徹底的に叩き潰したい一族だ。一方の「藤原千晴」は「平将門(たいらのまさかど)」が起こした「承平の乱(じょうへいのらん)」を鎮圧した立て役者「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」の息子で、「承平・天慶の乱」で活躍した「源経基」の息子「源満仲」とは似たような立場にあり、いわばライバルの関係。しかも「藤原千晴」の主人は「源高明」で彼の力をバックに着々と勢力を伸ばしつつあった。利害関係が一致する「藤原師尹」&「源満仲」が手を結び、「橘繁延」と「藤原千晴」を謀反の実行者として叩き潰すことで「源満仲」のライバルを消し、謀反の黒幕を左大臣「源高明」として彼を左遷させることで「藤原師尹」が右大臣から昇格できるという、藤原氏最後の陰謀であった。これが、後には、武士団「清和源氏」の基礎を作っていくことになる。